谷川うさ子の「今日の一言」掲示板
この「谷川うさ子の今日の一言」と「掲示板」は、「ポルソナーレのカウンセリング・ゼミ」と、
そして、「現在の日本の社会情勢」についてインフォメーションするコーナーです。
みなさまの「社会性の知性の発達」(脳の発達)の道しるべとしてお役立てください。
読むだけでは、情報の浪費になり、せっかくの情報を無価値にします。そこで、お読みいただいたら
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谷川うさ子
2016/05/31(火)10:47
修正時間切れ
日本語は「動詞文」である。
動詞は三種類ある。「風が吹く」「風が吹いた」「風が吹いている」の三つのパターンだ。
「風が吹く」の「ク」は「ク語法」といって、もともとは名詞だったり形容詞である。
「近くの店で買った本」のような言い方だ。
「風が吹いた」の「タ」は助動詞だ。助動詞は「推量」「可能」「意思」「断定」などをいろいろに言いあらわす。本人がどう感じたのか?が判断を決める。
いずれも、曖昧で不確かであることが共通する。
「5W1H」などの説明の言葉がないと、「何を言っているのか?本当か?ウソか?」も分からない。そういう「動詞文」の動詞である。
ふつう日本人は、「風が吹いている」と言う。「――ている形」の動詞だ。山下秀雄が『日本のことばとこころ』(講談社)で説明している。
「吹いている」の「ている」は、「見る」「聞く」「触る」(五感覚)の「感覚の知覚」のことだ。
「――ている形」の「動詞」の表現は、「犬」を見ても、「猫」を見ても、ただ「見た」としか認知しない。
見れば、たしかに「犬」と「猫」の違いは分かる。
だが、「犬って何?」「猫って、どういうもの?」の質問には答えられない。
言葉の意味、すなわち抽象名詞は分からない。
この「分からない」が「無い」なのである。
「猫ってかわいいじゃない」「犬って、いいじゃない」の「ない」は、説明不能、しかし「目で見て分かる」「犬、猫と言葉で言えればなおいい」「犬ってこういうものですよ、猫って、こういうものですよ、と話せればもっといい」というのが「無い」イコール「有る」なのである。
こういう説明を聞くと、「めんどくさい」「何言ってんのかわかんねえよ」と思う人は多いだろう。
そこで、分かりやすくするために、「15歳娘の母親殺害の事件」をケーススタディにあげる。
15歳娘の母親は「おまえなんかいらない」と言った。
このときは、長女の「顔、目を見て、ニラみつけて言った」はずだ。
母親が見ている娘は、見ているが、「無い」なのである。母親の脳の中には「娘は有る」というイメージが別に思い浮んでいるのだ。
「娘は無い」の「無い」は、形容詞、抽象名詞の説明する言葉が「無い」のだ。高校1年生、女性、成長している、社会性の能力は育っている、などが「形容詞」「抽象名詞」である。「無い」だから否定、打ち壊しの対象なのだ。
母親の脳(ブローカー言語野・3分の1の領域)には、「娘は有る」のイメージが思い浮んでいる。このイメージが「強迫観念」の「強迫」だ。犬、猫、小鳥と同じ生き物である。
どうも、人間、女であるようだ。しかも、しゃべったり、聞いたりする能力をもつ存在だ。
だから、娘が話すことはどんなことも「ニラミつける」「怒鳴りつける」「大声で叱りつける」(「無い」のだから発言の一つ一つを否定する)。
娘が何も言わない、姿が見えないときは「有る」(強迫の観念)だから、「現実の娘」は「おまえなんかいらない」と強迫神経症の言葉の言いあらわし(行動)をあらわす。
日本人の多くは、話をするときに「相手の顔、目を見ない」。
見ないのは「無い」と思っているからだ。そこで脳の中に「有る」のイメージをつくる。これが「強迫」だ。
高1の娘も、「母親の顔、目を見ない」。
母親が「見ない」(有ると思っている)からだ。
「母親が娘を見る」ときは、「怒鳴る」か「否定の言葉」を話すときだ。娘は「無い」から「無いもの」と扱う。
高1の「娘」も、この母親と同じように「ソファで寝ている母親」を見たときに「無いのだから打ち壊しを行なおう」と強迫神経症の行動をあらわした。
母親は、「強迫」のイメージとして脳の中に思い浮んでいる。母親は「有る」。
しかし、「ソファで寝ている母親は『無い』の対象」だから「おまえなんかいらねえよ」の破壊のとおりに「無くす」のが正しい動詞(――ている形の動詞。『見ている』『触っている』)のあらわし方である。
高1娘は、2月27日になって「お母さんがいつまでも寝ていて、起きて来ない。変だなと思って連絡しました」と119番通報しました。
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内 容
日本語は「動詞文」である。 動詞は三種類ある。「風が吹く」「風が吹いた」「風が吹いている」の三つのパターンだ。 「風が吹く」の「ク」は「ク語法」といって、もともとは名詞だったり形容詞である。 「近くの店で買った本」のような言い方だ。 「風が吹いた」の「タ」は助動詞だ。助動詞は「推量」「可能」「意思」「断定」などをいろいろに言いあらわす。本人がどう感じたのか?が判断を決める。 いずれも、曖昧で不確かであることが共通する。 「5W1H」などの説明の言葉がないと、「何を言っているのか?本当か?ウソか?」も分からない。そういう「動詞文」の動詞である。 ふつう日本人は、「風が吹いている」と言う。「――ている形」の動詞だ。山下秀雄が『日本のことばとこころ』(講談社)で説明している。 「吹いている」の「ている」は、「見る」「聞く」「触る」(五感覚)の「感覚の知覚」のことだ。 「――ている形」の「動詞」の表現は、「犬」を見ても、「猫」を見ても、ただ「見た」としか認知しない。 見れば、たしかに「犬」と「猫」の違いは分かる。 だが、「犬って何?」「猫って、どういうもの?」の質問には答えられない。 言葉の意味、すなわち抽象名詞は分からない。 この「分からない」が「無い」なのである。 「猫ってかわいいじゃない」「犬って、いいじゃない」の「ない」は、説明不能、しかし「目で見て分かる」「犬、猫と言葉で言えればなおいい」「犬ってこういうものですよ、猫って、こういうものですよ、と話せればもっといい」というのが「無い」イコール「有る」なのである。 こういう説明を聞くと、「めんどくさい」「何言ってんのかわかんねえよ」と思う人は多いだろう。 そこで、分かりやすくするために、「15歳娘の母親殺害の事件」をケーススタディにあげる。 15歳娘の母親は「おまえなんかいらない」と言った。 このときは、長女の「顔、目を見て、ニラみつけて言った」はずだ。 母親が見ている娘は、見ているが、「無い」なのである。母親の脳の中には「娘は有る」というイメージが別に思い浮んでいるのだ。 「娘は無い」の「無い」は、形容詞、抽象名詞の説明する言葉が「無い」のだ。高校1年生、女性、成長している、社会性の能力は育っている、などが「形容詞」「抽象名詞」である。「無い」だから否定、打ち壊しの対象なのだ。 母親の脳(ブローカー言語野・3分の1の領域)には、「娘は有る」のイメージが思い浮んでいる。このイメージが「強迫観念」の「強迫」だ。犬、猫、小鳥と同じ生き物である。 どうも、人間、女であるようだ。しかも、しゃべったり、聞いたりする能力をもつ存在だ。 だから、娘が話すことはどんなことも「ニラミつける」「怒鳴りつける」「大声で叱りつける」(「無い」のだから発言の一つ一つを否定する)。 娘が何も言わない、姿が見えないときは「有る」(強迫の観念)だから、「現実の娘」は「おまえなんかいらない」と強迫神経症の言葉の言いあらわし(行動)をあらわす。 日本人の多くは、話をするときに「相手の顔、目を見ない」。 見ないのは「無い」と思っているからだ。そこで脳の中に「有る」のイメージをつくる。これが「強迫」だ。 高1の娘も、「母親の顔、目を見ない」。 母親が「見ない」(有ると思っている)からだ。 「母親が娘を見る」ときは、「怒鳴る」か「否定の言葉」を話すときだ。娘は「無い」から「無いもの」と扱う。 高1の「娘」も、この母親と同じように「ソファで寝ている母親」を見たときに「無いのだから打ち壊しを行なおう」と強迫神経症の行動をあらわした。 母親は、「強迫」のイメージとして脳の中に思い浮んでいる。母親は「有る」。 しかし、「ソファで寝ている母親は『無い』の対象」だから「おまえなんかいらねえよ」の破壊のとおりに「無くす」のが正しい動詞(――ている形の動詞。『見ている』『触っている』)のあらわし方である。 高1娘は、2月27日になって「お母さんがいつまでも寝ていて、起きて来ない。変だなと思って連絡しました」と119番通報しました。
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