谷川うさ子の「今日の一言」掲示板
この「谷川うさ子の今日の一言」と「掲示板」は、「ポルソナーレのカウンセリング・ゼミ」と、
そして、「現在の日本の社会情勢」についてインフォメーションするコーナーです。
みなさまの「社会性の知性の発達」(脳の発達)の道しるべとしてお役立てください。
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谷川うさ子
2016/08/05(金)11:31
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日本語は、「二重になっている」と、ポルソナーレのカウンセリング・ゼミは説明します。昔から「タテマエと本音」という言われ方がなされてきています。
「内扱い」と「外扱い」も日本語の「二重性」をよく言いあらわしています。
この「タテマエ」とか「外扱い」の立場に立っている人は、この事件について「障害者の差別だ」「弱者排除の思想だ」「障害者も高齢の老人も、意味もなく生きている、いない方が税金のムダ使いもなくなる、という思想は危険だ」と話します。これは、「外扱い」の発言です。
日本語の「動詞文」は、必ず、「外扱い」と「内扱い」の発言の言葉をつくり出します。
「社会」の中で働いている人は、「外扱い」や「タテマエ」の言葉を話す機会が多くなるので、「障害者の差別だ」という言葉がスムースに口から出てきます。受験勉強と同じ「五感覚の触覚による認知」の効果です。
日本語の動詞文の「動詞」は、「内扱い」の場面では、「相模原障害者襲撃事件」の容疑者と全く同じように、「自分はこう思う」「自分はこう思った」という発言が明確に言われるようになります。
ポルソナーレのカウンセリング・ゼミは、誰もが必ず、あたりまえに話す「自分はこう思った」だから「そのとおりにしゃべってもいい」、「そのとおりに行動してもいい」「行動しなくてもいいんだ」というのが「学習障害」であると定義します。
「言語学」というものがあります。耳にしたことはおありでしょう。「言語」というものと「言葉」というものとは、別の概念です。
欧米人は「自分が話すこと」は、伝統的な哲学をふまえて「言語学」にもとづいていると分かっています。
「言語学」の観点から日本語の動詞文の「動詞」の使い方の一つの「自分はこう思う」という発言を聞くと、この「発言は社会的に流通していて、社会と適合する発言である」と理解します。
「一個の人格をもつ人間の人間としての発言である」と理解します。
しかし「日本語」を「言語学」の観点から見ると、ここには、「言語」の法則の「文法」というものは存在しません。「時制が無い」とか「名詞に単数、複数の区別が無い」などが象徴的です。
もっと本質的なことをいうと、日本語とは「和語」(ヤマトコトバ)のことで、「訓読み」を言い表すので「文法は存在しない」のです。「訓読み」とは「自分はこう思う」の「解釈」のことです。
「相模原障害者襲撃事件」の植松聖(さとし・26歳)容疑者は、この「訓読み」の「自分はこう思う」の「解釈」を「障害者施設」に勤務していた数年間の間におこないました。
「障害」や「障害者」は、「漢字」「漢語」の言葉です。
「ショウガイ」「ショウガイシャ」は「音読み」です。
その「字義・語義」は、精神面、身体面、神経の働き方に「支障」があるために通常の生活や社会生活の行動が困難であること、その支障をもつ人、ということです。これは、ひとりの人間にみるとき、いつでも誰にも起こりうる生活の困難といった「共同体」「共生」の中の現象のひとつなので、社会秩序や倫理の対象という意味です。
「相模原障害者施設」を襲撃して大量の人を殺傷した植松聖(さとし)容疑者は「障害者はかわいい」から「だんだん疲れてきた」「障害者は不幸の存在だ。いなくなった方が不幸がなくなる」というように「自分はこう思う」という「訓読み」による「解釈」をおこなっています。
このことを事件の前に友人に話しています。そして「自分はこう思う」の「思う」の解釈の内容を手紙に書いて日本の政府関係に届けにも行っています。「学習障害」は、だんだんエスカレートしていくと「強迫」という偽(ぎ)の「行動の目的」をつくる性質をもっています。
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内 容
日本語は、「二重になっている」と、ポルソナーレのカウンセリング・ゼミは説明します。昔から「タテマエと本音」という言われ方がなされてきています。 「内扱い」と「外扱い」も日本語の「二重性」をよく言いあらわしています。 この「タテマエ」とか「外扱い」の立場に立っている人は、この事件について「障害者の差別だ」「弱者排除の思想だ」「障害者も高齢の老人も、意味もなく生きている、いない方が税金のムダ使いもなくなる、という思想は危険だ」と話します。これは、「外扱い」の発言です。 日本語の「動詞文」は、必ず、「外扱い」と「内扱い」の発言の言葉をつくり出します。 「社会」の中で働いている人は、「外扱い」や「タテマエ」の言葉を話す機会が多くなるので、「障害者の差別だ」という言葉がスムースに口から出てきます。受験勉強と同じ「五感覚の触覚による認知」の効果です。 日本語の動詞文の「動詞」は、「内扱い」の場面では、「相模原障害者襲撃事件」の容疑者と全く同じように、「自分はこう思う」「自分はこう思った」という発言が明確に言われるようになります。 ポルソナーレのカウンセリング・ゼミは、誰もが必ず、あたりまえに話す「自分はこう思った」だから「そのとおりにしゃべってもいい」、「そのとおりに行動してもいい」「行動しなくてもいいんだ」というのが「学習障害」であると定義します。 「言語学」というものがあります。耳にしたことはおありでしょう。「言語」というものと「言葉」というものとは、別の概念です。 欧米人は「自分が話すこと」は、伝統的な哲学をふまえて「言語学」にもとづいていると分かっています。 「言語学」の観点から日本語の動詞文の「動詞」の使い方の一つの「自分はこう思う」という発言を聞くと、この「発言は社会的に流通していて、社会と適合する発言である」と理解します。 「一個の人格をもつ人間の人間としての発言である」と理解します。 しかし「日本語」を「言語学」の観点から見ると、ここには、「言語」の法則の「文法」というものは存在しません。「時制が無い」とか「名詞に単数、複数の区別が無い」などが象徴的です。 もっと本質的なことをいうと、日本語とは「和語」(ヤマトコトバ)のことで、「訓読み」を言い表すので「文法は存在しない」のです。「訓読み」とは「自分はこう思う」の「解釈」のことです。 「相模原障害者襲撃事件」の植松聖(さとし・26歳)容疑者は、この「訓読み」の「自分はこう思う」の「解釈」を「障害者施設」に勤務していた数年間の間におこないました。 「障害」や「障害者」は、「漢字」「漢語」の言葉です。 「ショウガイ」「ショウガイシャ」は「音読み」です。 その「字義・語義」は、精神面、身体面、神経の働き方に「支障」があるために通常の生活や社会生活の行動が困難であること、その支障をもつ人、ということです。これは、ひとりの人間にみるとき、いつでも誰にも起こりうる生活の困難といった「共同体」「共生」の中の現象のひとつなので、社会秩序や倫理の対象という意味です。 「相模原障害者施設」を襲撃して大量の人を殺傷した植松聖(さとし)容疑者は「障害者はかわいい」から「だんだん疲れてきた」「障害者は不幸の存在だ。いなくなった方が不幸がなくなる」というように「自分はこう思う」という「訓読み」による「解釈」をおこなっています。 このことを事件の前に友人に話しています。そして「自分はこう思う」の「思う」の解釈の内容を手紙に書いて日本の政府関係に届けにも行っています。「学習障害」は、だんだんエスカレートしていくと「強迫」という偽(ぎ)の「行動の目的」をつくる性質をもっています。
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