谷川うさ子の「今日の一言」掲示板


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[4419] 日本人の「学習障害」の例。「見る」「観る」「視る」の「漢字・漢語」は「読めればいい」「意味は自然に分かってくる」と考えていることです。 谷川うさ子 - 最新投稿 谷川うさ子 2016/10/09(日)18:18
[4419-1] 日本人の「学習障害」の例。「見る」「観る」「視る」の「漢字・漢語」は「読めればいい」「意味は自然に分かってくる」と考えていることです。 谷川うさ子 2016/10/09(日)18:18
          「見る」「観る」
       「視る」はどれも
       「ミル」と読む。
       どれも「訓読み」だ。
       訓読みとは解釈のことだ。
       この解釈の「ミル」が
       「意味だ」と
       思っている人は多い。
       だから、「会話」の
       ときに「相手の顔、
       目を見ない」。これが
       日本人の「学習障害」の病理症状だ。

●「子」は「コ」と読むか「シ」と読むか?

 多くの日本人は、「漢字」「漢語」の言葉は、「読めればいい」「意味は自動的に分かってくる」と考えています。
 意味は分からなくてもいいと考えていても、いっこうに支障のない「漢字」があるからです。「風」「雨」「子」などです。
 「子」は「コ」が「訓読み」です。「音読み」は「シ」です。「訓読み」の「コ」(子)は、幼い子ども、親から産まれた子ども、というのが正しい意味です。
 だから「あの子」と、成人した女性や成人した男性に対して呼び示すと、「自分の子どもでもないのに、自分の子どもを呼ぶときと同じ扱い方」をおこなっていることになります。
 40歳代とか50歳代の男性に対して「あの子」という言い方をする人がいます。たくさんいるということではなくて、日本人は、「漢字」を「解釈」によって意味を作るということの例としています。
 成人した女性や男性に「あの子」という言い方をすれば、それは「内扱い」というものです。社会的な人間関係や知的な人間関係を無意識のうちに壊す、というものの考え方と行動の仕方をあらわしています。
 「子」の「音読み」は「シ」です。「第一子」とか「第二子」という言い方で親の子どもに対する関係を「名詞」として言いあらわします。もともとの中国では、「相手に対する尊称」の代名詞です。
 これが、日本語(和語・ヤマトコトバ)では、「あの子(コ)」という言い方に用いる解釈をおこないます。「内扱い」という「相手の破壊」のために日本語(和語・ヤマトコトバ)の言い方に変えられています。
 「漢字」「漢語」は「訓読み」と「音読み」の二通りの読み方がある、ことを説明しています。

[4419-2] 谷川うさ子 2016/10/09(日)18:18
   ●なぜ「漢字は読めればいい。意味は分からなくてもいい」と考えるのか?

 日本人の多くが「漢字・漢語」はなぜ、「読めればいい」「意味は分からなくてもいい」と考えているのか?の理由は、「漢字」「漢語」を「訓読み」の読み方で使うのが一般的になっているからです。
 「上」という漢字は「音読み」は「ジョウ」です。
 「高い所にある位置」が音読みの意味です。「上」は、「訓読み」の使い方のために解釈されています。「上」(うえ)「上」(かみ)「上」(あげる、あがる、あがり)などです。
 この訓読みは、日本語(和語・ヤマトコトバ)の発音(音韻)のとおりの読み方です。だから上(ジョウ)は本来「名詞」であるのに「動詞」に解釈されています。この「動詞」は、「自分の行動」と一致するので「意味は分かっている」と考えられています。このように「名詞」が「動詞」に変えられることを「品詞の転成」といいます。この「品詞の転成」は、「名詞を無視する」という病理をつくり出しています。人間の行動には、必ず「目的」が必要です。その「目的」は「名詞」(抽象名詞)でなければなりません。
 日本語(和語・ヤマトコトバ)は、「名詞」を「動詞」に変えるので、誰もが、「自分の行動には目的が無い」と考えるのです。
 これが日本人の「行動の止まり」という病気の起こり方です。

●「見る」「観る」「視る」「診る」を「ミル」と読めば、「相手の顔、目を見ない」

 「見る」という漢字は「ミル」が訓読みです。「視る」も「観る」も「診る」も、訓読みです。「ミル」と発音して言いあらわせば、目でものを見るという行動(動詞)に「品詞の転成」をおこします。すると、音読みの「見」(ケン)「視」(シ)「診」(シン)「観」(カン)のもつそれぞれの「名詞」の意味が消えてなくなります。
 「注意して目で見る」とか「様子を見る」、「観察する」「ゲシュタルトの形態の対象を見る」という知的な理解は消滅します。
 「見る」を「ミル」と「動詞」だけに解釈した意味以外には、ほかに意味は無いと考えて、ここから一歩も思考が動かなくなった人が「強迫神経症」や「強迫観念」という病気の名詞の言葉を勝手につくり、その病気の名詞を目的にして行動しています。

●それでも「漢字」の意味を不問にしているのは、なぜか?

 このような説明を目にしても、なかなか自分や自分の周りの人たちの行動や言葉にむすびつくイメージは思い浮ばないかもしれません。たとえば、会話の時に「相手の顔、目を見ない」という行動は、「観察」や「視力」「病人を診る」ということが全く分からなくなっている結果がつくり出しています。
 「ソッポを向いたまま人に話す」「聞き書きをしながら人の話を聞く」ということを現に、今もおこなっている人には、ここでの説明は全くの理解不能に感じられるでしょう。
 じつは、そのことが日本人のさまざまな病気が解消しないばかりか、もっと広がり、拡大していっている理由になっています。
 「見ない」「聞かない」「話さない」という毎日の生活は、人間としての知的葛藤が無いので、気楽でしょう。毎日は、夢遊病者のように時間の観念もなくなって過ぎ去っていくでしょう。野生の動物に近い身体だけが生きていく日々は、今日は喜べても、明日か、あるいは明後日は、絶望に変わると理解しましょう。


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[2025/03/15 21:15] 谷川うさ子の「今日の一言」掲示板 管理人 谷川うさ子