谷川うさ子の「今日の一言」掲示板
この「谷川うさ子の今日の一言」と「掲示板」は、「ポルソナーレのカウンセリング・ゼミ」と、
そして、「現在の日本の社会情勢」についてインフォメーションするコーナーです。
みなさまの「社会性の知性の発達」(脳の発達)の道しるべとしてお役立てください。
読むだけでは、情報の浪費になり、せっかくの情報を無価値にします。そこで、お読みいただいたら
[
ワンマンカウンセラー・コース(人間関係の能力づくり)
]
[
お試しカウンセリング
] [
カウンセラー養成ゼミ
] [
ゼミ・イメージ切り替え法
]
[
脳の働き方から変える新・性格教育法
] [
入会案内
]
のいずれかをクリックして、ごらんください。
なお、ご投稿は、「文章」に社会性があること、社会的責任が表現されていること、を基準にして受け付けます。
うさ子とクマ江の掲示板はこちら
[
トップページ
] [
新規投稿
] [
タイトルリスト
] [
スレッド一覧
] [
内容表示
] [
使い方
]
1
3
5
10
15
20
25
30
件ずつ
1
ページ目
and
or 検索
[5753-2]
谷川うさ子
2020/11/15(日)20:17
修正時間切れ
これが、発表された「もの」「こと」という名詞のそれぞれの定義(概念)です。
●「研究会」では「となる」「とする」のこの2つの言葉は動詞である、と指摘しました。
すると「動詞」では「1」(いち)についてはなにも説明しない、という問題が立ち上がりのはじめから発生しています。
●ポルソナーレは、大野晋の「日本語の文法を考える」(岩波新書)をテクストにして「日本語では、成る、有る、ルを自然成立であるとして価値有るものとみなしている」とレクチュアーしています。
この「ナル」「アル」「ル」は、発声・発音の「音」を無意識の対象になされる時、日本人は、「イバる」「自分をじぶんで尊敬して他者を攻撃する、これが自分に向けられる時、自殺の原因になる、普段は幻聴・幻覚をともなう精神疾患を作り出す」というように「自然成」の構造を教えています。
ちなみに「する」は「作す・つくる」の意味で「作為」のことです。
日本人は「作為」を嫌い、自然成立にたいして価値が低いものとみなしている、という無意識を形成しているというのが大野晋の説明です。
日本人のデフレ不況のなかの「失業」「収入減」の根本の原因は「思考を努力を嫌う」(自然成立にたいして価値が低いのでつまらないから)ということはこいういう障害を誰もが抱えているからです。
会議などで「こうなりました」と言えばおおいに喜んで歓迎されるけれども、「こうしました」と言えば、「そんなことは聞いていない。黙ってはいないぞ」と紛糾すると解説しています。
日本人は「アル」「ナル」「ル」と動詞の言葉で思考していて、そして「うつ病になり、自殺している」のです。
「自殺していない人は、視覚の対象は存在しない」と思い、認知症(痴呆症)になり、毎日、デタラメのことを思い、仕事も自分の生活も、親しい人間関係をぶち壊す日々を送っています。
◎「もの」という名詞の言葉を着ける文では「名詞の言葉」を説明しなければなりません。
それを実行する形式が「フォーム」です。
●「1」(いち)とは何か?とすでに遠山啓が説明しています。
自分で勝手に思考するのではなくて、先人の学的な考察を勉強してみるという謙虚さが日本人には欠落しています。
先人の説明によれば、「1」とは、「自然数」から始まっています。
「自然数」の以前は「多い」「少ない」の観念しかなかったのです。
「自然数」とは、自然現象の中に「個」のかたまりが繰り返し出現するのを認知した、ということです。子供がひとり生まれる、食べ物が一個しかない、花が一輪咲く、などでしょう。
●ここから、「計量」の必要が生まれます。多い、少ない、というのが計量の意識の発声の起源です。
●1(いち)は計量の観念なのです。
だから「遠山啓」は「量としての数」という言い方をしています。
「1」(いち)は、「一対一対応」の基準になる量(かさ。計る)ときの「個」の認知観念です。
●すると「もの」・・・「1」とは「一対一対応」の際に対象を「同じ」か「余り」(対象の方が多い)かを計量する基準になる「数」(すう、と読む)というのが定義です。
「1」(いち)という概念はこのように定義できるのです。
こういうことは遠山啓もおこなっていないので、日本人は自分でこれをおこなわなければ、永遠に「1」(いち)とは何か?を知らないままに死んでいくのです。
●「こと」・・・「1」(いち)ということの「こと」の、「こと」は「事」「言」のことです。
「こと」は「走らないこと」と言うように、「決まり」「約束」「ルール」を意味している名詞です。
「抽象名詞」です。
●「もの」の「1」(いち)の定義を判断の材料にして考えましょう。
ルール、決まり、約束の「1」(いち)ということは「計量をおこなう基準」のことです。
●「一対一対応をおこなう時に、同じか、余りかを計量する基準となる量としての数(すう、と読む)・・・これが「1(いち)ということ」の「こと」の定義である、と説明しましょう。
>> スレッド[5753]を全て読む
修正投稿
名 前
アイコン
男の子
女の子
男性
女性
おじいさん
おばあさん
猫
犬
兎
鳥
魚
虫
花
苺
杯
管理人用
色
■
■
■
■
■
■
■
■
■
内 容
これが、発表された「もの」「こと」という名詞のそれぞれの定義(概念)です。 ●「研究会」では「となる」「とする」のこの2つの言葉は動詞である、と指摘しました。 すると「動詞」では「1」(いち)についてはなにも説明しない、という問題が立ち上がりのはじめから発生しています。 ●ポルソナーレは、大野晋の「日本語の文法を考える」(岩波新書)をテクストにして「日本語では、成る、有る、ルを自然成立であるとして価値有るものとみなしている」とレクチュアーしています。 この「ナル」「アル」「ル」は、発声・発音の「音」を無意識の対象になされる時、日本人は、「イバる」「自分をじぶんで尊敬して他者を攻撃する、これが自分に向けられる時、自殺の原因になる、普段は幻聴・幻覚をともなう精神疾患を作り出す」というように「自然成」の構造を教えています。 ちなみに「する」は「作す・つくる」の意味で「作為」のことです。 日本人は「作為」を嫌い、自然成立にたいして価値が低いものとみなしている、という無意識を形成しているというのが大野晋の説明です。 日本人のデフレ不況のなかの「失業」「収入減」の根本の原因は「思考を努力を嫌う」(自然成立にたいして価値が低いのでつまらないから)ということはこいういう障害を誰もが抱えているからです。 会議などで「こうなりました」と言えばおおいに喜んで歓迎されるけれども、「こうしました」と言えば、「そんなことは聞いていない。黙ってはいないぞ」と紛糾すると解説しています。 日本人は「アル」「ナル」「ル」と動詞の言葉で思考していて、そして「うつ病になり、自殺している」のです。 「自殺していない人は、視覚の対象は存在しない」と思い、認知症(痴呆症)になり、毎日、デタラメのことを思い、仕事も自分の生活も、親しい人間関係をぶち壊す日々を送っています。 ◎「もの」という名詞の言葉を着ける文では「名詞の言葉」を説明しなければなりません。 それを実行する形式が「フォーム」です。 ●「1」(いち)とは何か?とすでに遠山啓が説明しています。 自分で勝手に思考するのではなくて、先人の学的な考察を勉強してみるという謙虚さが日本人には欠落しています。 先人の説明によれば、「1」とは、「自然数」から始まっています。 「自然数」の以前は「多い」「少ない」の観念しかなかったのです。 「自然数」とは、自然現象の中に「個」のかたまりが繰り返し出現するのを認知した、ということです。子供がひとり生まれる、食べ物が一個しかない、花が一輪咲く、などでしょう。 ●ここから、「計量」の必要が生まれます。多い、少ない、というのが計量の意識の発声の起源です。 ●1(いち)は計量の観念なのです。 だから「遠山啓」は「量としての数」という言い方をしています。 「1」(いち)は、「一対一対応」の基準になる量(かさ。計る)ときの「個」の認知観念です。 ●すると「もの」・・・「1」とは「一対一対応」の際に対象を「同じ」か「余り」(対象の方が多い)かを計量する基準になる「数」(すう、と読む)というのが定義です。 「1」(いち)という概念はこのように定義できるのです。 こういうことは遠山啓もおこなっていないので、日本人は自分でこれをおこなわなければ、永遠に「1」(いち)とは何か?を知らないままに死んでいくのです。 ●「こと」・・・「1」(いち)ということの「こと」の、「こと」は「事」「言」のことです。 「こと」は「走らないこと」と言うように、「決まり」「約束」「ルール」を意味している名詞です。 「抽象名詞」です。 ●「もの」の「1」(いち)の定義を判断の材料にして考えましょう。 ルール、決まり、約束の「1」(いち)ということは「計量をおこなう基準」のことです。 ●「一対一対応をおこなう時に、同じか、余りかを計量する基準となる量としての数(すう、と読む)・・・これが「1(いち)ということ」の「こと」の定義である、と説明しましょう。
削除する
管理者用パスワード
[2024/11/24 17:20] 谷川うさ子の「今日の一言」掲示板
管理人
谷川うさ子