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人間がものを「見る」のは 自律神経の働きによる。 イギリスの哲学者 ジョン・ロックの 説明によると、 「見る」ことは「行動」と 「静止」をしくみとする。 スマホ、パソコンの 画面は「静止」が働く。 ここから脳の中は 幻聴と幻覚 だけになる。 ネット依存とは、 聴覚の「静止」が つくる幻聴と 幻覚のとおりにしゃべり、 行動することをいう。
●スマホ、パソコンの画面を見ると痴呆症になる
スマホ、パソコン、デバイス端末の画面を見ると、ほとんどの日本人は、たった1日で、脳の中に病的な異常がつくられる。 その病的な異常とは、高齢者によく見られる痴呆症と同じで、何も変わることはないものだ。
しかし、現実の社会では、どこもかしこも「スマホ見ながら」「スマホを手に持ち、少しの時間も手離さない」という光景があふれかえっている。 このような状況の中で、「スマホ、パソコン、デバイス端末の画面を見ることは、自らを、あるいは自分の子どもを、痴呆に傾斜させる」といっても、誰も受け付けないだろう。 この文章をスマホ、パソコンの画面で「見て」、「読む人」は、おそらく嫌いな毛虫か、ゴキブリか、台所を走り回るネズミでも見ている気分になるのではないか。 もしくは、息苦しさを感じる前に目をそらし、文字や文の説明することが雑音に変わり、散乱しているおもちゃの積み木のようにしか見えなくなる。 それが、スマホ、パソコンの画面を見ることがつくる異常の現象である。
●日本人はもともと動詞文で脳の働きの異常を抱えていた
ポルソナーレのカウンセリング(指示性のカウンセリング)の現場をとおしての考察では、もともと日本人は、日本語が「動詞文」であることが理由で、対人恐怖症や強迫神経症という病理を仏にしていた。いったん社会的な行動が止まると、一個の人間として社会的に自立するということは、あってもきわめて非常に少ない。 脚本家の倉本聰が日刊ゲンダイで碓井広義(ひろよし)との対談の中で、次のような主旨のことをのべている。 (平成30年2月24日)
「母親が躁とうつの状態になった。どちらの状態のときも、脚本を書く仕事が辛くてとてもきつかった。母親のことが気になって集中できない。そこで鉄格子のある精神科病院に入れた。少し落ちついたら家につれて帰った。 病院に入れて母親から逃げた」。
「ある日、車に乗せて病院に連れていく中で、母親が私に言った。 私、ほんとに生きていていいの?
母親のこの言葉がとてもショックだった」。
スマホ、パソコンを、小学生の子どもが持つようになる以前は、倉本聰と母親の関係に見る葛藤が普通だった。 倉本聰は母親を殺して安楽死させようとも考えたと言っている。 碓井広義は、これを聞いて「そんな、逃げただなんて……」と絶句している。 |