[3876-2] 谷川うさ子 2016/03/04(金)11:07 修正時間切れ
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日本人の認知症(痴呆症)とは、「行動が止まること」が定義です。「行動が完全に止まる」というのが「中核症状」です。「ベッドの上で寝たきりで過す」「トイレにも一人で行けない」「入浴も一人では入れない」「食事も一人では摂れない」というのが行動の止まりです。
事例の男性の「外出が好き」「徘徊する」「自分のいる場所が分からない」「食事を摂ったことを忘れる」というのは「周辺症状」です。 「行動の部分的、限定的な止まり」という症状です。
周辺症状を「行動が部分的、限定的に止まることである」と定義すると、周辺症状は、必ずしも高齢者に限ったものではないことが分かります。 「学校に行かない」「仕事に行かない」「外出したくない」「家の外に出て行きたくない」なども、「行動の部分的、限定的な止まり」です。したがって周辺症状です。
日本人の「行動の止まり」は、なぜ起こるのか?の理由と原因は、脳の働き方から明らかになります。
日本人の使う日本語は、已然(いぜん)と未然(みぜん)が使い方の基本型です。「自分自身にとって」という判断の仕方が「已然」と「未然」です。
山下秀雄の『日本のことばとこころ』(講談社)の中の説明を参考にすると、已然と未然の違いは次のとおりです。
A「もう来るよ。まだ来ないね。すぐ来る」(未然) B「あ、来た。あそこに来たのでは?ほら来た」(已然)
Aは、「自分自身にとって」という判断の基準から見て、「待っている人物が来ていない」ことを言い表しているので「未然」です。 Bは、「自分自身にとって」の判断の基準に照らすと「待っている人物が来た」ことを言い表しているので「已然」です。
「已然」も「未然」も「自分の行動」だけを言い表します。AにもBにも、「5W1H」とか「場所」「時間」「状況」などの「名詞」や「抽象名詞」が無く、否定されていることが分かります。 「名詞」や「抽象名詞」や「形容詞」は「自分自身にとって」ではなく「相手にとって」(複数の人間、大勢の人間にとって)を言い表します。 日本人の「已然」と「未然」は、「自分の行動だけ」を言い表すというものの考え方のことです。「名詞」「抽象名詞」「形容詞」というルール、きまり、約束を「否定」するという脳の働き方のことです。これが日本人の「内扱い」の実体です。
日本人が「仕事に行く」「学校に行く」などの「行動」を可能にするのは「仕事」「学校」という行動の目的、行動して関わる対象の「名詞」や「形容詞」の言葉を憶えている時に可能です。 しかし学校に行っても教科書の言葉が分からない、授業を教える教師の話す言葉が分からないという時、学校に行くのが苦痛、学校での人間関係も嫌でしょうがない、ということが起こります。 これが認知症(痴呆症)です。 「母親」が子どもの乳幼児の頃から小学校の低学年まで、「子どもの顔、目を見ない」「子どもの話をおしまいまで聞かない」ことが原因と理由です。 目や耳の自律神経の交感神経が止まり、副交感神経が優位に働くために「言葉」(名詞、抽象名詞、形容詞)を「憶えない」(憶えられない)という「已然」と「未然」の脳の働き方になります。 「学校に行く」「仕事に行く」という已然と未然の行動が続いていれば、他者の「行動」をマネして、何度かくりかえすと「自分自身にとっての行動」がつくらえます。 しかし、ここで「自分」も「母親」と同じように「相手の顔、目を見ない、目を見ない」ということをおこなうと、勉強のことも、人間関係のことも、この中の「名詞」や「抽象名詞」「形容詞」をいっさいがっさい否定して、そのための敵対的なイメージが思い浮びます。これが周辺症状の「幻覚」です。
事例・ケーススタディの認知症(痴呆症)の男性は、「母親」が「子どもの顔、目を見なかった」「子どもの話をおしまいまで聞かなかった」という生育歴と家庭環境の中で育った人です。 「自分自身にとって」という已然と未然の「行動」は、「食事はまだか?」「外出を止めると怒鳴って怒り出す」というように、「5W1H」に代表的な「行動の秩序」を壊して、壊した結果の快感のドーパミンの分泌を「行動の目的」にしてきました。 「自分も相手の顔、目を見ない」「ソッポを向いて相手の話を聞く」と、血管を流れる血液の中に、血管を拡張する生化学物質が滞留します。ヒスタミン、セロトニン、アセチルコリン、プロスタグランジン、ロイコトリエン、コレチストキニンなど、です。 不快、イバリ、痛み、苦痛、不愉快などの感覚をつくり出します。 目、耳の働きが副交感神経優位になると、セントラルドグマ(生体防御システム)が止まり、自己免疫疾患が起こり、不快と、イバリと痛みの日々になるのです。 |
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