[4121-2] 谷川うさ子 2016/08/06(土)15:09 修正時間切れ
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誰もが「妄想」をイメージするというと、これはどなたも否定しないでしょう。 よく知られている「妄想」は、「人が恐い」「人としゃべると緊張する」という妄想です。 このような「妄想」は、自分が勝手に思い浮べるイメージです。 妄想の特徴は、「人が恐ろしい」というイメージが思い浮ぶと、「恐い」のイメージのとおりに行動することにあります。 人を避ける、人と話さない、外出しない、顔がひきつる、身体が震える、といったように「行動」をあらわします。 ここでは、「恐い」ということには、正当な理由があるかどうか?はどうでもいいこととして無視されます。社会的な秩序、倫理的な秩序というものは全く思考されません。これが妄想というものの本質的なしくみです。そして特徴です。
アメリカでの「ポケモンGO」の人気ぶりについての報道があります。 米国務省のカービー報道官が記者会見中に、ある記者に言いました。 カービー報道官「君、今、ポケモンやっているよね?」 記者「見てただけです」
アリゾナ州で、夜、2歳の子どもを放置して、夫婦が ポケモンGO遊びのために家を出ていた。隣人が、2歳の男の子が泣いておむつ姿のはだしで外に出ているのを発見して、警察に通報した。 20代の夫婦は、子どもを危険にさらした容疑で逮捕された。2人は「ガソリンを買いに行った」と虚偽の供述をした。
二つの事例を見ると、「スマホ」の画面(ディスプレー)の表示は、ほとんど「妄想」と同じ性質をもつことが分かります。 「スマホ」も「デバイス」も「パソコン」も、テクノロジーという通信技術による「送受信」の機械です。したがって、誰かに何かを伝える、伝えられてきたことを受け取るという機能は「通信の媒体」です。 しかし、「おもしろいアプリ」「楽しいアプリ」「ハマるアプリ」だけを画面(ディスプレー)で見ると、ここでは「主観」という「欲求」のつくる「言葉」(動詞)だけで「見る」という脳の働き方に変わります。 これは、現実の中の仕事、生活の中の「名詞」を解釈して作り変えるという脳の働き方がおこなわれるようになるのです。
事例に見るように、アメリカの英語圏でも「動詞」中心の思考になるということは、日本語の「動詞文」の「動詞」は、「妄想」の代替えとして「アプリ」を見るようになるのです。 ディスプレー(画面)に見る「画像」(文、文字)は、それ自体は「妄想」ではありませんが、日本語の「和語」(ヤマトコトバ、訓読み)にとっては、「妄想」も「ディスプレー」(画面)に見える「画像」も「文」も「文字」も同じ性質のものです。 ほとんど「妄想」のイメージと同じ「動詞」による「名詞化」したものとして「認知」されるのです。
「妄想」とディスプレー(画面)表示の「画像」「文」「文字」との違いは、「目」(視覚)の「五感覚の知覚」の「知覚」が働いているか、いないか?にあります。「感覚の知覚」と「画像」とが一致しているので実際の「行動の対象」になるという違いがあります。 「妄想」の場合は、「視覚の知覚」は働かないので、現実にたいして葛藤が生じます。 現実の中には「妄想」と同じ行動の対象は無いので、この「妄想」を人に話すと「あなたの言っていることはおかしいですよ」と否定されるでしょう。ここで内省なり反省なりが起こるのが葛藤です。
しかし、「スマホ」(ディスプレー表示)の場合は、ストレートに「画像」(文字、文)を目で見るという「動詞」が成立するので、仕事、生活、人間関係の中の「名詞」「抽象名詞」がすぐにその場で破壊されます。「強迫」と「強迫神経症」がつくられるのです。 「対人恐怖」などの「妄想」を抱えて仕事をしていた時代は、まだ「名詞」や「抽象名詞」を学習する余地がありました。 「スマホ」の時代になった今は、ディスプレー(画面)を「見ること」がすなわち「行動すること」となり、「現実の中の名詞、抽象名詞」を即座に壊すことにつながりやすくなっています。 社会は、「名詞」「抽象名詞」で成り立っています。 そこでポルソナーレのカウンセリングは、ディスプレー(画面)に見る「強迫」「強迫神経症」という学習障害を改善するために正しい日本語の学習の仕方を教えています。 ぜひ、お役立てください。 |
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