[4419-2] 谷川うさ子 2016/10/09(日)18:18 修正時間切れ
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●なぜ「漢字は読めればいい。意味は分からなくてもいい」と考えるのか?
日本人の多くが「漢字・漢語」はなぜ、「読めればいい」「意味は分からなくてもいい」と考えているのか?の理由は、「漢字」「漢語」を「訓読み」の読み方で使うのが一般的になっているからです。 「上」という漢字は「音読み」は「ジョウ」です。 「高い所にある位置」が音読みの意味です。「上」は、「訓読み」の使い方のために解釈されています。「上」(うえ)「上」(かみ)「上」(あげる、あがる、あがり)などです。 この訓読みは、日本語(和語・ヤマトコトバ)の発音(音韻)のとおりの読み方です。だから上(ジョウ)は本来「名詞」であるのに「動詞」に解釈されています。この「動詞」は、「自分の行動」と一致するので「意味は分かっている」と考えられています。このように「名詞」が「動詞」に変えられることを「品詞の転成」といいます。この「品詞の転成」は、「名詞を無視する」という病理をつくり出しています。人間の行動には、必ず「目的」が必要です。その「目的」は「名詞」(抽象名詞)でなければなりません。 日本語(和語・ヤマトコトバ)は、「名詞」を「動詞」に変えるので、誰もが、「自分の行動には目的が無い」と考えるのです。 これが日本人の「行動の止まり」という病気の起こり方です。
●「見る」「観る」「視る」「診る」を「ミル」と読めば、「相手の顔、目を見ない」
「見る」という漢字は「ミル」が訓読みです。「視る」も「観る」も「診る」も、訓読みです。「ミル」と発音して言いあらわせば、目でものを見るという行動(動詞)に「品詞の転成」をおこします。すると、音読みの「見」(ケン)「視」(シ)「診」(シン)「観」(カン)のもつそれぞれの「名詞」の意味が消えてなくなります。 「注意して目で見る」とか「様子を見る」、「観察する」「ゲシュタルトの形態の対象を見る」という知的な理解は消滅します。 「見る」を「ミル」と「動詞」だけに解釈した意味以外には、ほかに意味は無いと考えて、ここから一歩も思考が動かなくなった人が「強迫神経症」や「強迫観念」という病気の名詞の言葉を勝手につくり、その病気の名詞を目的にして行動しています。
●それでも「漢字」の意味を不問にしているのは、なぜか?
このような説明を目にしても、なかなか自分や自分の周りの人たちの行動や言葉にむすびつくイメージは思い浮ばないかもしれません。たとえば、会話の時に「相手の顔、目を見ない」という行動は、「観察」や「視力」「病人を診る」ということが全く分からなくなっている結果がつくり出しています。 「ソッポを向いたまま人に話す」「聞き書きをしながら人の話を聞く」ということを現に、今もおこなっている人には、ここでの説明は全くの理解不能に感じられるでしょう。 じつは、そのことが日本人のさまざまな病気が解消しないばかりか、もっと広がり、拡大していっている理由になっています。 「見ない」「聞かない」「話さない」という毎日の生活は、人間としての知的葛藤が無いので、気楽でしょう。毎日は、夢遊病者のように時間の観念もなくなって過ぎ去っていくでしょう。野生の動物に近い身体だけが生きていく日々は、今日は喜べても、明日か、あるいは明後日は、絶望に変わると理解しましょう。 |
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