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西野亮廣(にしの あきひろ)は、「歩き スマホ」「電車の中の スマホピコピコいじり」は 「生き物として 進化している人」 「生き物として目の 構造が変わっている」 「そこを受け入れろ」 「周りの人は 合わせろ」と言う。 (平成30年3月1日、 日刊ゲンダイ、 「正直者の つぶやき」より)
●西野亮廣は「スマホ見ながら」をいいことだ!と評価する
西野亮廣(にしのあきひろ)は「歩きスマホ」(電車の中でスマホピコピコいじり)を行う人は「人間として、生き物として目の構造が進化している」と言っている。 「生き物として進化している」という発言の理由は、「歩きながらスマホの画面を見ているのに、前から来る自転車、人を避けているからだ」と言う。 「前が見えていないということはない」。 もし、「見えていないとすると、もっと人が死んでいるはずだ。ホームから転落する、人とぶつかるなどもっと増えているはずだ」。 こういうことが分かっていなくて「怒っている人」は、「気持ち悪い」! 「生き物として進化している」というと、非常に脳の働き方から見た「視覚の機能」も、「見て分かるという知覚や認知のしくみ」も能力が高度になっている、このように進歩している人が増えているし、これからも増えていくのだから、そういう優れている人たちを認めて、「道路」も「歩きスマホレーン」というものを作り、敬意を表すべきだと話している。 どこかの自称脳科学者と同じような黙契や禁制の作為の作り話をしゃべっている。
●脳の働き方から「スマホ見ながら歩き」のしくみを証明する
西野亮廣(あきひろ)の言っていることを喜ぶ人も多いと思われる。それは違うということを証拠と証明にもとづいて説明する。 「生き物として進化している」という理解は誤りだ。 劣化し、退化しつづけている。 「歩きスマホの人」も「電車の中でスマホピコピコいじりの人」も、脳の中(右脳・虚像という)には、聴覚だけがつくる「像」が表象している。 表象とは、思い浮ぶということだ。 人間がものを「見る」というときの脳の働き方のしくみは、遠くを見る(散瞳)……交感神経(Y経路=視覚)、近くを見る(縮瞳)……副交感神経(X経路=聴覚)というのが基本構造なのだ。 こういう脳の働き方の理解は、ポルソナーレの現ゼミ生の皆様以外、誰も思いもよらないものだ。だから、どんなに「スマホ見ながら歩き」「電車の中でスマホピコピコ」が異常でも、病的でも「とても立派なことだ」「人間として進歩している行動だ」とまるで正反対の虚偽の解釈を無責任に言ってのける。 「スマホ見ながら」の「歩き」も、いつでもどこでもスマホを触らずにはいられない、人と話している最中でも画面を見ずにはいられない」というのは、脳の視覚神経の「X経路」をになう「聴覚」(視床の内側膝状体)だけがつくる「像」を「右脳・虚像」に表象させているし、同時に、画面にも表示させてこれを見ているからである。 このときの「聴覚」だけがつくる「像」を「幻聴」といい、「幻覚」という。 「人の声が頭の中に思い浮ぶ」「音楽のメロディがいつも頭の中に鳴り響いている」「人の話し声、言葉がいつでもどこでも聞こえてくる、自分の悪口を言っている」という経験をもつ人は多い。これが「幻聴」だ。 また、「人の目が気になる」「人が自分を見ていると思うと、胸がドキドキする。顔が熱くなって赤面する」といった視覚的なイメージが「幻覚」なのだ。 |