[5174-2] 谷川うさ子 2019/05/16(木)20:40 修正時間切れ
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この人は、現実にはなんの「こわいこと」はないにもかかわらず、かってに「こわい」を作り出して相手に面と向かい合うことを避けているのです。
◎では、「こわい」とは、その当事者にとっての本当の意味はどういうことをさしているのでしょうか。
●先日は、日本人が仕事でも学校の勉強でも、言葉を憶えるときには、「丸暗記をおこなう」と説明しました。
●この「丸暗記」とは、時間性の言語領域でおこないます。「時間性の言語領域」は、食欲をおもに表象します。性欲も、食欲と同じように、「摂取する」・・・「自分の身体に触知させて感覚の知覚が快感に感じて、ドーパミンを分泌させること」のかぎりで「欲の対象」です。人間関係を成り立たせる意識はつくりません。
●これが日本人の丸暗記のしかたです。「ドーパミンを分泌させるもの、これを好きという」、丸暗記は好きなものに限る、その丸暗記の仕方は、なんべんも繰り返し、声に出す、手でなんども書く、すると、時間性の言語領域に「クローズアップのイメージ」が思い浮かぶだろう、するとドーパミンだって分泌するだろう、・・これが「好き」の構造なのだ、というのが、記号化の仕方です。
●「嫌いなもの」が丸暗記できないもの、です。「クローズアップのイメージを壊すもの」が嫌いなものです。ドーパミンの分子構造がノルアドレナリン(A6神経から分泌する猛毒のホルモン)に変えて、イメージ無しの行動を命じるのがノルアドレナリンです。「バッドイメージ」を表象します。
ノルアドレナリンは苦痛を伴うから嫌いであるのではなくて、ドーパミン=快感が無くなる=他者・・・他者とは、それが社会でも、組織であっても、自分は隷属しての行動しかおこなえない、だから「嫌い」であるのです。
これが人間の自由であると錯覚したドーパミンの快感での行動の仕方が無い、自分の望む自由とは、痴呆になって人に排泄から風呂、食べることまで世話をさせることだ、病気になっていつ死んでもまったく異存はない、今日死んでもいい・・・これが「好き」の定義です。
時間性の言語領域の意識とは、こういうものの考え方を生み出します。「時間性」とは、すぐに消滅して形が消えること、が定義でした。自分の身体も、時間性しか意識できないので、「すぐに死んでなくなるのが自分だ、それでもいっこうにかまわない」という考え方しかできないのです。
◎「視線恐怖」の「恐怖」とは、「好きなもの」ではないから「丸暗記」はできない、だが、「怒鳴る」とか「怒る」などをともなって自分の前に置かれているのではないから「嫌いでもない」・・・だから「ドーパミンを表象するであろうイメージがバッドイメージに変えられるようでもない」、だからといって「丸暗記」ができないから「好きになれるのでもない」、というときのものごとが「恐怖」の対象です。
●「恐怖」の正しい意味は、「丸暗記」のように、繰り返しの反復はしない、しかし、「嫌い」のようにイメージの壊しがあるのでもない、だから目の前に置かれているものを遠くから手を伸ばしておずおずと触るように表面的に撫で回す、そういう関わり方をしている対象についての性格づけ、というのが定義です。
●ちょうど、停電で部屋のなかが暗闇になったときに、手探りで、これはコップ、これはパン、これは鉛筆、とイメージして認知しようとする、それが「恐怖」の定義です。
だから、視線恐怖を言う人は、まちがいなく「目をつむっている・・・じかに目で見ていないものについてあーだこーだと作話症のことをしゃべる」、「うつむいて下のほうを見ている」、「あらぬ方を見ながらしゃべる」・・・これが、「視線恐怖」の「同一性」の本質です。 |
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