[5202-2] 谷川うさ子 2019/06/12(水)20:39 修正時間切れ
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●目に見えてはいない、ということの証拠は、こんなふうです。
「人の顔も目も見ないで、下か、別の方向を見ながら話す」
「人の説明は、自分のノートへの聞き書きに目を向けているから、話されていることの道筋だけをなんとか記憶して、論点、内容のポイント、主旨などはぼやけてなんとなくわかったような気にはなる」
「しかし、30分も経過すると、たちまち忘れる」(とくに名詞、抽象名詞の言葉を記憶できない)
●(今、何を話したでしょうか、と問うと、「わかりません」、と答える)
◎なんとか概略だけを答えても、的外れのことが多い、というのが、目で見る、視覚の知覚の「認知」(吉本隆明の説明によります)の見る、は脳の働きのことなので、これが「見えていない」というのが、理論の説明する内容です。
●多くの日本人の目、耳とは、こういう働き方をしている、ということを、「Form」(フォーム)の「同一性」で、実在性としてとらえられています。
◎そこで、多くの日本人は、ここで、「丸暗記」を行うのである、と指摘されています。
●身体の生理的な「目」だけは見えているので、ここで、じっと見て、目に見えたものを丸暗記するのである、ということです。
●漢字・漢語の言葉(音読みの言葉)を読む、読める、というのが、丸暗記の時の見え方(対象)です。「意味」を不問にすれば、肉眼は見ることは見るので、丸暗記が可能になるのです。
●こういう丸暗記を行う人とはどういう人なのかといえば、落語家、歌歌い(歌手)、タクシードライバー、学校の教師、受験勉強の人、資格の勉強の人、職人、パソコンなどの技術者、などです。
身体の触覚を使って憶えています。
クローズ・アップのイメージが思い浮かべば、丸暗記です。
丸暗記とは、もともとは、肉体運動、身体で覚える、という共同作業にルーツがあるのです。
農作業、魚を捕る仕事、林業、建築の時の大勢で関わる作業、ピラミッドをつくる労働に携わった奴隷らの強制労働、などです。
単純な労働の場合には、丸暗記は役にたちます。
しかし、物ではなく、ただ言葉だけを丸暗記しようとすれば、限界があります。
覚える言葉が、憶えれば、後は身体をうごかすだけ、という場合には、丸暗記も芸を憶えるように、磨きがかかるでしょう。
憶える言葉を、意味とともに憶える必要がある、というのが限界点です。ここで、丸暗記は必ず、破綻します。
日本人にとっての限界点とは、定年退職した次の日からが限界点です。現実が見えないから、この日から認知症(痴呆症)が現れます。
在職中でも、身体に病気の疾患ができれば、丸暗記を行う身体の知覚に異常がおきて、繰り返し、繰り返し、反復してクローズ・アップのイメージを思い浮かべる作業が痛みとか疲労で、憶える繰り返しの手作業が不能になるのです。
神経症の場合は、もっと丸暗記など出来ないという深刻な心身の状態になるでしょう。
あるいは、回りの人間から嫌がらせをされたり、イジメられると、その相手の言動がイメージされて、丸暗記のイメージをつくることなど、それどころではない、と思えて、丸暗記が破綻します。
◎言葉(名詞、抽象名詞の言葉のことです)を丸暗記するのは、誰にも、初めから限界と臨界を背負っている、つねに社会(職場、家庭、組織のことです)から追い出される、ということをハンナ・アーレントは、「人間の条件」(ちくま学芸文庫)で説明しています。
◎「視線恐怖」へのコーチングの説明はさらに続きます。 |
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