[5283-2] 谷川うさ子 2019/08/26(月)08:29 修正時間切れ
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なぜかといえば、「恐怖」とは、会話の相手に近づかない、遠くに自分が去る、ということを自分でおこなっていることを、さながら、相手が自分になにか、危害でも加えているかのような表現であるからです。
その相手とは、会話をしたくない、その相手、あるいは、誰とでも、話はしたくない、というのが「視線恐怖」のもっとも正しい意味です。
これが、「もの」という名詞をつけることで明確になる名詞の実在性です。
「視線恐怖」、という意味は、人と話したくない、どういう相手とも、自分からどんどん会話などはしたくない、という人の対人への「行動」の意識です。
だから、自分ひとりで食べ物とか好きな快楽の娯楽を目的にした「行動」はおこないます。
グルメとか、相手の姿や顔の見えないネットでのラインでの関係などの「行動」は実行します。ひとりだからです。
●これが、「対人恐怖」、となると、「人間の全般」を遠くに見る、近づかない、という行動のためのコトバになることはよくおわかりでしょう。
「視線」、とは、目を向ける線の延長のうえに「個別の相手」がいます。この人は嫌、この人は、食べ物を媒介にできるので、関わりの行動の相手になる、という選別がおこなわれています。
「対人恐怖」というコトバの自分の行動は、どの人も、人間はすべて、全部の人、に近づかない、というときの「行動」のためのコトバです。それが、「対人恐怖」というヤマトコトバの動詞から転位した名詞のコトバです。
「全部の人に近づかない」、を自分の行動のためのコトバにしているので、基本的に誰にも敵意を向けます。自分の人生という「行動」の対象が否定されます。
引きこもり、強迫観念という神経症をつくります。
やがて、確実に痴呆症にまで行き着くでしょう。
●まずは、「もの」「こと」をつけて、名詞の定義を(実在性のことです)はっきりさせることの目的をこういうふうに理解しましょう。 |
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