ハンナ・アーレント 解説:榎本 (ローテンブルクにて) |
谷川うさ子・哲学入門 |
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日本人の毎日使う日本語は、主観を言い表す文法になっています。 主観とは、孤立の言い換えです。 孤立とは、鬱病の「うつ」のことです。日本人が自分の幸せと、身近な人と仲良く幸せにやっていくには、日本語の主観を、客観的な表現の仕方に変えなければなりません。もしこれができなければ、鬱という「死に至る病い」の「四行程」の中を直進しつづける日々を送ることになります。 日本語の会話は、 ポルソナーレのカウンセリング・ゼミの「特設ゼミ」の「哲学入門」は、ハンナ・アーレントの『人間の条件』の哲学を、現在のアメリカ、イギリスの哲学のプラグマティズム、確率論に対して、もっとも一人一人の人間にとって必要な哲学であると位置づけます。 『人間の条件』こそが、この混迷の世界と日本の状況に進みゆく道標たりうる哲学のテクストです。 ぜひ、あなたもポルソナーレの「哲学入門」の心の香りを味わってみませんか?
お知らせ 「谷川うさ子・哲学入門」をご一緒に学習することをご希望の方には、次の三つの方法がございます。 |
谷川うさ子・哲学入門 ハンナ・アーレントの 『人間の条件』 - バックナンバー |
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№1
平成22年 7月10日 |
プロローグ |
近現代の世界における問題提起…人間は、「人間の条件(人間がそれを抜きにして存在できるとは考えられない普遍的で基本的な条件)から脱出したい」という望みをもち現にそれを実現しつつあるということ。 ①科学的・技術的知識(地球や生命の拘束から逃れたいという望みの実現)と、「多数者」(複数の人々)の「普通の言葉や思想」との分離。 ②有史以来の労働の労苦と困難から解放されたいという望みの実現と、それにともなう問題点(「労働のない労働者の社会」というパラドックス)。 |
№2 平成22年 7月24日 |
第一章 人間の条件第一節 〈活動的生活〉と人間の条件
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●〈活動的生活〉vita activa(ヴィタ・アクティーヴァ)という用語の意味する三つの基本的な活動力(労働、仕事、活動)についての説明。 |
№3 平成22年 8月14日 |
第一章 人間の条件第一節 〈活動的生活〉と人間の条件
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●「人間の条件」とは単に自然の条件のみを意味するのではない。人間によって作られた人工的世界は物的性格をもっており、これも人間にとっては条件づけの力として働く。つまり人間は自分の住む世界のリアリティと客観性、耐久性と永続性を確信して、日々を生きていくことができる。 |
№4 平成22年 8月28日 |
第一章 人間の条件第二節 〈活動的生活〉という用語・1今、日本人の間で起こっている哲学ブームの |
●〈活動的生活〉vita activaという用語は、本来は「政治的生活」という意味であり、古代ギリシアの哲学者アリストテレスによって使われた言葉である。アリストテレスによればそれは、労働などのように生命の維持の必要に従事するものとは無関係なものであり、人間が自由に選び得る生活のうち、ポリスの問題(人間事象とそこでの活動)に捧げられる生活のことを指していた。 ●古代ギリシア人のポリスにたいする考え方とは、自由に選ばれた政治組織形態だということである。彼らによれば、労働も仕事も、生命の必要や欲望に奉仕するものであり、真に自由のものとは考えられていなかった。真に人間的な生活様式と考えられていたものがポリスだったのである。 |
№5 平成22年 9月11日 |
第一章 人間の条件第二節 〈活動的生活〉という用語・2哲学の基本は概念による思考。 |
●古代の都市国家ポリスの消滅とともに、〈活動的生活〉という言葉は政治的意味を失い単に現世的生活の必要物の一つになり下がった。一方、「神を見る」という意味の〈観照生活〉が人間にとって唯一の真に自由の生活様式となった。 ●「観照」を人間の最高の理想とする考え方の起源は、キリスト教以前に、すでに古代後期の哲学者(プラトン)の脱政治の考え方の中にあった。 ●「観照」すなわち「絶対的静」がかくも優位に置かれたのは、人間の前に真理および「自身で存在する物」(不易の永遠・自然的宇宙)が現われるときは完全な静けさがなければならないと考えられたためである。 |
№6 平成22年 9月25日 |
第一章人間の条件第二節〈活動的生活〉という用語・3哲学とは、『虚像』に表象する像に |
●〈活動的生活〉が〈観照的生活〉に対して第二義的な地位を占めるというヒエラルキーは、観照(テオーリア)という人間的能力が発見された時に決定された。その原因はソクラテスの裁判より深く、それ以降の西洋の形而上学と政治思想を支配してきた。 ●問題は、伝統的ヒエラルキーにおけるこの観照の圧倒的重みのために、〈活動的生活〉の内部の区別(労働、仕事、活動)が曖昧になったことである。 ●近代、マルクスとニーチェによりこのヒエラルキーの順位が転倒されたが、「人間の活動力には同一の第一義的関心が支配している」と仮定している点で本質的には伝統と変化していない。 ●私(アーレント)が〈活動的生活〉という用語を用いるときは、それが〈観照的生活〉より優れたものでも劣ったものでもないということを前提としている。 |
№7 平成22年 10月9日 |
第一章 人間の条件第三節 永遠対不死・1哲学を学ぶ効果は頭頂葉が働くこと1! |
●「思考の人と活動の人が異なった道を辿り始め」てから、ソクラテス以後の哲学者はポリスを支配する原理に代わる高い原理を発見したと考えた。その二つの原理を分かりやすく示すのは「不死」と「永遠」という概念である。 ●古代ギリシアでは、人間とは生から死までの生涯の物語をもつものであり、その「不死」を動物のように生殖によっては保証されない「死すべきもの」であると、そして自然とオリンピアの神々に与えられていたような「不死」と向き合う存在だと考られていた。一方、ヘロドトス(歴史家)によれば、アジア人(ペルシア人)は「永遠」なる「見えない神」を信仰していたが、ギリシア人にはこの「永遠」と「不死」の違いもはっきりと理解されていたということである。 |
№8 平成22年 10月23日 |
第一章 人間の条件第三節 永遠対不死・2秋の夕陽はつるべ落し! |
●ソクラテスが現れる前の古代ギリシアでは、人間は自らを「死すべきもの」と位置付けた。その中でポリスの建設・維持に努めることは、自分たちの住家に値する仕事、偉業、言葉を生み出し、不朽の痕跡を残す能力のことであり、オリンピアの神々のような「不死」の能力をもつことの証明であると見なされていた。このような能力を発揮し「自分を最良の者と証明する者」だけが真の人間であるとみなされていた。 ●ソクラテス以降、衰微したポリスへの不信の中で、このような考え方は消え失せた。そして形而上学的な思考の中心に「永遠」なるものが置かれた。次に現れたのがプラトンの哲学である。プラトンは、ソクラテスのような「他者との対話」もついに断念した。このことが「活動する人々と思考する人々が袂を分かった…西洋の哲学的伝統であると同時に西洋の政治の災いのもととなってきた」ことの決定的な転換点となったのである。 |
№9 平成22年 11月13日 |
第一章 人間の条件第三節 永遠対不死・3迫り来る日本の冬の季節!! |
●古代ギリシア後期の哲学者によって発見された「永遠」という原理は、プラトンの洞窟の比喩に見られるように、人間の多数性(仲間、人々)から離れることであり、一種の死を意味し、人間のいかなる活動力とも両立せず矛盾するものである。 ●「永遠」という価値が哲学者によって発見され、最終的に西洋世界において勝利をおさめたのは、ポリスがいつまで続くのかというもっともな疑念とローマ帝国の没落、そして永遠の生命を説くキリスト教の勃興のためであった。ポリスにおいてなされた「不死」への努力は空虚・不必要なものとなり、虚栄虚飾と見なされるようになった。近代になりキリスト教が力を失い、活動が「観照」に対して再度優位を占めた時代になっても、不死への努力は忘却の彼方からよみがえることはなかった。 |
№10 平成22年 11月27日 |
第二章 公的領域と私的領域第四節 人間―社会的または政治的動物・1パラダイム・シフトの中で新たな未来のための |
●アリストテレスは「人間は政治的動物zoon politikon(ゾーン・ポリティコン)である」と定義した。その定義の背景には、〈活動的生活〉は人間の住む世界を造ること、また、人間の活動力は、他者との共生なしには存在しえず、また人間だけが活動力をもつ(神も野獣も活動の能力をもたない)という古代ギリシアの考え方がある。 ●「政治的動物」は、古代ローマの哲学者セネカらにより「社会的動物」と訳されこれが今日まで定着することになる。「社会的」という言葉自体がローマ起源のものである。これはローマ時代に、「社会」(societas・ソキエタス)の原型が誕生したことを意味する。 ●その後「社会的」socialという用語が基本的な人間の条件を意味するようになった。しかし古代ギリシア哲学の考え方からすれば、「仲間から離れては生きられない」という事実は人間固有のものではなくむしろ人間が動物と共有している条件なのである。 |
№11 平成22年 12月11日 |
第二章 公的領域と私的領域第四節 人間―社会的または政治的動物・2グローバル経済の中で漂流しつづける |
●古代ギリシアでは「公的領域」(ポリス)と「私的領域」(家庭)の間には亀裂と言えるほどの明確な区別があり、前者の優位性が後者を凌駕していた。ポリスを創設したのは人々の「活動」(プラクシス)と「言論」(レクシス)の能力であり、ポリス発生以前に血縁に基づく組織はことごとく解体していた。そのことは炉の神ヘスチアの地位低下にも見てとれる。公的領域は家庭のような血縁に基づく組織とは相容れないものである。 ●古代ギリシアではすでにアキレウスの神話や悲劇『アンティゴネ』などに見られるように、「活動」と「言論」が人間の最高の能力であると確信されていた。この二つの能力は同時かつ同等、同種のものと見なされており(言論のない活動は活動者actorすなわち主語を欠くためもはや活動ではない)、これは私的領域やアジアの帝国に見られる「むきだしの暴力」が言葉を発せずそれゆえに偉大ではないという在り方と対立するものである。 |
№12 平成22年 12月25日 |
第二章 公的領域と私的領域第四節 人間―社会的または政治的動物・3会話はしても対話できなくなった日本人の孤立の |
●古代ギリシアにおいては言論(言語、説得)の能力がますます重要視される。アリストテレスの定義「言葉を発することのできる存在」とは人間一般を定義したのではなく、ポリスの一般的市民の在り方を定式化したにすぎず、それはまたポリスの外部の人(奴隷、野蛮人、女性)は言論と言論による生活を奪われていたということも意味する。 ●この「言葉を発することのできる存在」は中世、ラテン語にて「理性的動物」と別の言葉に訳されたが、これは彼らがポリスの世界を知らなかったという基本的誤解に基づく。 ●古代でも「私的領域」(家庭)の内部では家父、家長の権力は絶対的なものであり、それは言葉と暴力が正反対であるのと同様に「公的領域」とは互いに相容れないものであった。ローマ時代末期より皇帝が自ら「ドミヌス(家長)」と称するようになりこの認識が崩れ、国が「公的領域」ではなくなってゆき中世以降の世界もその在り方を受け継いでいった。 |
№13 平成23年 1月8日 |
第二章 公的領域と私的領域
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● 「公的領域」と「私的領域」の決定的な区別は古代の終わりより全く曖昧なものとなり、そのいずれでもない社会的領域が近代と時を同じくして出現する。その政治形態が18世紀、フランス革命以後、ヨーロッパ各地に誕生する「国民国家」(国民の平等と同質という理念に基づき成立)である。元来私的な家族問題であった「経済」が公的なものとなり、国は一つの巨大な家政(家族)となった。ここでの科学的思考は「社会経済」social economyというものであり、古代の思想にとっては形容矛盾であるに違いない「政治経済」political economyが誕生することとなる。 ● 古代に「公的領域」と「私的領域」が分離されていたのは、人が公的領域に参加するためには境界線によって区切られた私的領域が必要であり、その中では個体の維持と種の生命の生存という、生命の必要(必然)を保持しなければならなかったためである。 |
№14 平成23年 1月22日 |
第二章 公的領域と私的領域第五節 ポリスと家族・4再生、生まれかわり!!夜明け前の日本人の |
●公的領域(ポリス)が自由freedomの領域であるということは、自由が政治の存在理由であったということである。人が肉体的必然に従属する奴隷でなく自由人であるということはギリシア人にとって至福eudaimoniaの条件であり、さらにポリスの成員同士が支配・被支配の関係になく平等であるということがほかならぬ自由の本質であった。 ●他方、古代における私的領域とは、生命の必要〔必然〕への従属のために奴隷や家族への力と暴力が正当化される、自由と平等が存在しない「前政治的」領域であった。全ての人間は必然に従属するからである。家長が家族と奴隷を支配し生命の必要〔必然〕から解放されることが、ポリスの自由の領域に入るための条件であった。 ●近代になり政治とは社会の機能にすぎなくなり、単に生命・財産を守るためのものとなった。現在の支配や統治の秩序は、本来は私的領域の「前政治的」状態のものである。 |
№15 平成23年 2月12日 |
第2章 公的領域と私的領域第5節 ポリスと家族・3主観をなおも内向化させつづける日本人!! |
●近代の社会(経済領域)の勃興のため、公的領域と私的領域の間の重大な深淵が消滅し、マルクスが述べるように活動と言論と思考は単に社会的利害の上部構造となった。 ●中世の時代、かつての公的領域の代理となり、そこに至るまでは攀じ登らなければならないほどの重大な深淵や壮大で輝かしいヒエラルキーという役割を人々に与えていたのはカトリック教会であった。しかしこの教会という共同体において人々の媒介は来世への関心というものであり、やはり古代の公的領域に真に代わるものではなかった。 ●中世の世俗の領域では、古代には家の単位であった私的領域が、領主の荘園や、利害を共にする都市の職業組織として、いずれ国家規模の社会へと拡大する過程にあったのであり、いずれにおいても公的領域は全く欠如していた。荘園の領主は裁判権をもっていたが、これは全ての活動力が私的領域に吸収された「私的領域の成長」という現象である。 |
『全体主義の起原 I 反ユダヤ主義』
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●19世紀後半、世俗的なイデオロギーとしての反ユダヤ主義が世界史上初めて登場する。これは古代より存在した(と言われている)宗教的なユダヤ人憎悪と全くの別物であるばかりか、そこから論拠や感情的な力を得ているかどうかということすら問題である。 ●ローマ帝国時代よりユダヤ人迫害が続いたという観念は、「世界支配の野望を抱くユダヤ人秘密結社」というユダヤ陰謀論ほど害は大きくないにせよ、それに劣らず誤りである。 ●ユダヤ人問題に関しては近代以前に200年に渡り断絶があり、この期間にユダヤ人=非ユダヤ人の関係において「相手こそが敵意の源である」という誤謬の歴史叙述が双方において作られたが、真実はユダヤ人の外部への全くの無関心・孤立というものだった。この時期に「ユダヤ人は“人種”的特性をもつ」という彼らの自己解釈が生まれ、それが非ユダヤ人にも広まったのだが、これこそが後の反ユダヤ主義発生の「必須条件」となったのである。 |
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№16 平成23年 2月26日 |
第二章 公的領域と私的領域第五節 ポリスと家族・4「善いこと」とは何か?「悪いこと」とは何か? |
●中世の政治思想では、古代の時代に公的領域と私的領域に存在していた深淵を誰もが忘れ去っており、公的領域に渡るための「勇気」という徳について知っていたのはイタリアの政治理論家マキャヴェリ一人であった。彼は統一イタリアの創設により永遠の都ローマの「新しい始まり」という経験を繰り返すことができると信じ革命すなわち復古を企てたのである。 ●古代において公的領域に出かけてゆくために「勇気」が不可欠であったのは、特別な危険が待ち伏せしていたからではない。私的領域が生命と生存が第一に保証されたのに対し、政治的領域とは生命への関心が有効性を失っている領域だからであり、そこでは生命を賭ける心構えがなければならなかったためである。即ち、「生命」と「世界」とではどちらを優先して大切にするかが自由人と奴隷を分ける印であり、生命に愛着しすぎることは奴隷の印であった。勇気をもつ者だけが共同体へ迎え入れられた。これがプラトンとアリストテレスの述べる「善き生活」の内容である。 |
№17 平成23年 3月12日 |
第二章 公的領域と私的領域第六節 社会的なるものの勃興・1「社会」とは何か?「社会」の本質とは何か? |
●近代の社会の勃興に従い、私的なものの意味と重要性が変化した。古代では私生活privacyはなにものかを奪われている(deprived)状態を意味し、私的領域のみに生きて公的領域を樹立しない人間は完全ではないと見なされていたが、近代より発生した個人主義により私的領域はもはや剥奪deprivationを意味することはなくなり、その多様な肯定面がとらえられるようになった。 ●近代人はルソーに始まり、その「魂」が社会の押しつける個人の一様化・画一化の要求に反抗し、果てしのない葛藤を続けることとなる。彼は過激な主観主義でその魂が社会に反抗した。また18・19世紀のロマン主義による詩と音楽、小説の驚くほどの勃興も同じことを意味している。 ●近代に勃興した「社会」は、家族が衰退し社会集団へ吸収されたことを意味する。この社会は古代の家族において共通の利害と単一の意見しか存在しえなかった姿と似ているが、唯一違う点は、社会を支配する人間の実際的な力は最終段階では不要(無人支配)となるということである。 |
№18 平成23年 3月26日 |
第二章 公的領域と私的領域第六節 社会的なるものの勃興・2平成23年3月11日。東北・関東を襲った |
●近代の社会では利害・意見はただ一つであると前提され個人はそのように強制されるため、個人の本来持っている「新しい始まり」としての「活動action」は排除され、代わりに予期された規則としての「行動behavior」が要求されるようになる。人は社会の枠組みにふさわしいものでなければならず、社会の一定のパターンに従わない人は「異常」と見なされる。これは社会の公的領域の征服という現象であり、ここに古代のギリシアとは異なる平等をもつ画一主義・大衆社会が現われる。 ●社会の勃興と同時に近代の経済学と統計学が誕生する。マルクスは、スミスら古典経済学の時代にはまだ残っていた多様な矛盾対立(見えざる手)から、資本家と労働者というたった一つの対立のみを残す経済体系を作った。これは人間が一致して一定の行動のパターンに従うという新しい「社会化された人間socialized man」であると仮定され、また事実その通りの姿となったこ と、それゆえ奇跡の様相を帯びた救済の可能性をもつ「活動」の能力を失っていることをも意味した。 |
№19 平成23年 4月9日 |
第二章 公的領域と私的領域第六節 社会的なるものの勃興・3「3・11、東日本巨大地震・震災」がつくった |
●歴史の意味とは、人間個人の唯一性の物語を表すまれな「活動」の結果に現われるものである。一方、近代の統計学が扱うものとは多数の人間の長期に渡る日常的な行動のみであり、個人の活動・出来事は「逸脱」「偏差」としか扱われず、従ってここに歴史の重要性が失われることとなる。 ●「社会」が成立し、人々が多くなればなるほど画一主義と標準化が進み、人は活動ではなく型にはまった行動しか行えないようになる。これが社会の政治的理想の姿である。活動が行なわれうる「公的領域」が成り立つのは、ポリスのように市民の数が制限されている場合のみである。 ●画一的な行動と人間の社会化を仮定する思想は「共産主義の虚構」を生み出す。共産主義社会の萌芽は実際はマルクスより早く、すでに「見えざる手」を唱えた自由主義の経済学の時代に、国民的家族national householdの中に現われていた。そして当時この完全な発達を妨げていたのはマルクスが唱えたように階級利害などで はなく、すでに時代遅れな君主制的構造の方であった。 |
№20 平成23年 4月23日 |
第二章 公的領域と私的領域第六節 社会的なるものの勃興・4「3・11、東日本巨大地震・震災」が浮上させた |
●社会の完全な勝利の姿とはマルクスの言う「共産主義の虚構」「国家の死滅」が実現されることであるが、官僚制(無人支配)であって「自由の王国」ではない。その最終段階は社会科学全部を包括すると称する「行動科学」の登場である。それは人間が「活動」能力を失い「条件反射的な行動的動物の水準」にあると前提されるようになったことを意味し(厄介なのはそれが正しいものになったということである)、それが国民全ての階層を呑み込んだ(大衆社会の成立)ということである。 ●社会の勃興と絶えず加速される力強い成長は、私的領域の生命過程そのもの(個体の生存と種の継続)が公的領域に流れ込んでくる「労働の解放」という形で3世紀にわたり続いた。 ●その証拠とは、社会的領域が近代の共同体を全て労働者と賃仕事人の社会に変えたということである。それは社会の構成員全てが実際に労働者になったということでなく、自分たちの行なっていることはすべて自分と家族の生命の維持の方法に過ぎないと考えているということである。 |
№21 平成23年 5月14日 |
第二章 公的領域と私的領域第六節 社会的なるものの勃興・5「フクシマ原発」が突きつけている |
●近代以降、家の中という私的領域に閉じ込められていた労働が、工場や会社といった公的な場へ解放され、この時に労働はその成長が異常発育を遂げた(労働生産性の増大)。 ●この労働の革命的変貌の最大要因は産業革命による機械化ではなく、すでに確立していた分業という組織原理であるが、これは公的領域以外では起こりえなかったものである。かくして労働という言葉の本来の「労苦と困難」、不幸と貧困という意味が無意味になるほどの変貌を遂げた。 ●しかし近代において本来の公的領域が消滅したことは、自分と同格の他者との臨席の形式を喪失したこと、即ちリアリティの喪失を意味するのであり、ここにおいて人間が「活動」(その人が〈誰〉であるか、の物語を表すこと)によって卓越を示すことが不可能となった。社会は人間を匿名化し、個人ではなく人類の進歩を強調するようになる。人間は活動ではなく労働の分野において卓越を目指すようになり、一方、活動と言論はその特質を失い私的な領域に閉じ込められるようになる。 |
№22 |
第二章 公的領域と私的領域第七節 公的領域――共通なるもの・1「3・11、大震災」を克服する原点とは何か? |
●「公的」(public)という用語は二つの現象を意味する。一つは「万人によって見られ、聞かれ、最も広く公示される(現われる)」ということである。もう一つは、「共通世界」そのものを意味している。 ●物事は公に現われ、万人によって見られ、聞かれることでリアリティを形成する。個人の物語がリアリティをもつのはそれが公的に語られる形に転形され、複数の他者に聞かれる場合である。そうならない場合は個人の経験や考えはリアリティを持ちえず不確かで影のようなものにとどまる。従って、近代の主観の強化は世界と自分たち自身のリアリティに対する確信を犠牲にしてしまう。 ●個人的感覚のうち最も激しいものである肉体的苦痛や、個人的愛は、公的現れに転形するのは不可能である。人は肉体的苦痛にとらわれている時、リアリティの感覚は失われてしまうため世界参加は不可能である。また、愛はその「無世界」の性格ゆえに公に曝される瞬間に殺され消えてしまうものであるため、それが世界救済などの公の目的に利用されれば堕落し偽りのものとなる。 |
『全体主義の起原 I 反ユダヤ主義』
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●二つの要因がユダヤ人=非ユダヤ人関係の長い誤解の歴史を作った。一つは、ユダヤ人は70年の神殿破壊以後自分たちの国家を持っていないことであり、もう一つは迫害を逃れるためにユダヤ人は洗礼を受けるか否かの二者択一しか残されていなかったということである。ここで歴史家によって抹殺される重要な事実とは、中世までのユダヤ人の受難は、非ユダヤ人による敵意や暴力よりも、ユダヤ人自身による自発的な分離・疎隔の方が原因として大きかったということである。 ●19世紀に突如発生したイデオロギーとしての反ユダヤ主義は、発生当時は学問的根拠の何もない「気のふれた」偏向的人間によるものであった。つまり世界政治上は比較的重要でなかったユダヤ人問題が、西洋史上前例のない大量殺戮犯罪の発生の契機となったということである。 ●このことは人に「理解」することを促す。理解とは前例から演繹したり、アナロジーによって言語道断さを打消すことではない。「現実に成心なく注意深く直面し、抵抗すること」なのである。 |
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№23 平成23年 6月11日 |
第二章 公的領域と私的領域第七節 公的領域――共通なるもの・2日本人が今、学ぶべき「言葉とは何か?」 |
●公的領域が現代に完全に消滅したことは、フランス人の小さな幸福(プティ・ボヌール)に象徴されるように、民族全体が偉大さよりも「魅力」を生活様式として採用していることによって説明される。 ●公的領域の二つめの特徴は、それが世界そのもの(人々の共通世界)を意味することである。ここで言う世界とは地球や自然のことではなく、人間の製作物や人々の共生の事象に結びつくものであり、人間の真中(between)に位置し介在者(in-between)としての役割を果たすものである。 ●大衆社会が耐え難いのは、共通世界が人々を「結集させるとともに分離させる力」を失っているからである。人は相互に関係のない者同士として、むき出しのまま曝され合わざるをえない。 ●アウグスティヌスは、喪失した共通世界の代替物としてキリスト教の同胞愛を唱えた。これは「世界が続く限り」という但書きで保証されているに過ぎず、破滅を予定された世界の中で人々をつなぐ原理としてはうまく機能するが、「無世界性」を本質としており公的領域を創る力は持たない。 |
№24 平成23年 6月25日 |
第二章 公的領域と私的領域第七節 公的領域――共通なるもの・3世代を超えて永続する普遍性をつくる言葉はなぜ必要か? |
●無世界性(公的領域と共通世界の喪失)が政治の舞台を支配し始めることは、歴史上では人類にとって権威と伝統(過去の領域へ安全に導く糸)を意味するローマ帝国の崩壊後にも起こり、そして現代にははるかに異質で絶望的な形で起こっている。ローマ帝国後に権威を継承したキリスト教が、世界の物を「死すべきもの」と確信し避ける傾向が、かえって世界の物を享楽・消費する方向へ導くためである。この時、世界は「万人に共通するもの」ということが全く理解されていない。 ●共通世界が人々を結びつけかつ分離させる「介在者」としての力をもつためには、世代を超え、死すべき人間の一生を超えて存続するという永続性、すなわち私たちが以前にそこにいた人たちとのみならず、後からやってくる人々とも共有するという確信がぜひとも必要である。 ●現代の共通世界の喪失は、人間の「不死」(自分の存在の痕跡を残すこと)への関心のほぼ完全な喪失を意味し、今日では不死への努力は虚栄という私的な悪徳と同じものとなっている。 |
№25 |
第二章 公的領域と私的領域第七節 公的領域――共通なるもの・4日本語は「主観」を語り、文を書く!! |
●人類の歴史においてポリスや共和政ローマのような「公的領域」が崩壊するとともに、人間が求める「公的称賛」は食欲と同じように単に消費される「虚栄・虚飾」と変化してゆく。この「公的称賛」はより空虚で「客観的」な金銭的報酬と代替可能なものであり、この金銭が唯一の「客観性」の基盤と化すことになる。これら空虚な欲求は、耐久力のある共通世界を樹立することは不可能である。 ●一方、本来の公的領域即ち共通世界とは、複数の他者がそれぞれの立場や場所に存在し、彼らによる無数の側面と遠近法が同一のものを視るということがリアリティを形成するものである。 ●共通世界のリアリティは、無数の人々によって見られる対象がもはや同一ではなくなるとき、不自然な画一主義が現われるとき、及び、全ての人が根本的に孤立しているときに不可避的に解体してゆく。ここでは全ての人が完全に私的に行動し、互いに見聞きする他者を奪われている。すなわち世界が、たった一つの側面で見られ、たった一つの遠近法でしか現われないということである。 |
№26 |
第二章 公的領域と私的領域第八節 私的領域――財産・1「リーマン・ショック」、「3・11、大震災」 |
●私的領域の「私的」“private”という用語は本来何物かが「欠如している」privativeという意味を含むが、それは公的領域の多数性(多数の人が存在すること)を欠如しているということである。 ●私的領域は古代ギリシア・ローマ時代には、公的領域と分離された形で存在した。私的領域は「欠如」だけでなく私的な家庭と、世界を防ぐ避難場所というプラスの意味をももっており、私的領域のみの住民である奴隷には、現代の価値観から見ても望ましい富や教養さえ持っている者もいた(ただしこれは古代において富・教養が公的に大した意味をもたなかったということである)。近代の公的領域および私的領域の消滅は、人間よりこの「現われ場所」(公的領域)および「避難場所」(私的領域)を奪い、反人間的な孤独が極端な形をとって現われる「大衆社会」を創っている。 ●マルクスは公的領域の死滅を予言したが、その時既にそれは国家規模の「家計」に変形し死滅していたのである。その後現代、さらに非人格的な管理の領域へと完全に消滅してゆくことになる。 |
№27 平成23年 8月13日 |
第二章 公的領域と私的領域第八節 私的領域――財産・2放射線物質は「安全だ」「いや、危険だ」で分断している |
●古代ギリシア時代に存在した「私的領域」の本質とは個人の「財産」のことである。財産propertyは富wealth(金銭)とは異なり(財産と富は全く異なる性格のものである。近代は財産と富が同一視されているので両者が元来無関係なものであることが忘れられている)、土地、畑、家屋、家族、奴隷、家畜の総体であり、世界の特定の部分の自分の場所のことである。さらに人の目から隠された生と死の神聖な領域であり、人が公的領域に参加するための条件であった。一方、富は奴隷さえも持つ場合があり、私的財産の代わりの役割(人が市民となる為の条件)を果たすことはなかった。 ●古代ギリシアにおいて、「法」とは近代のように政治の立法行為の結果や人々の公式的な関係のことではなく、現代のように「汝十戒に注意すべし」といった禁止の目録でもない。都市国家ポリスの法とは、私的領域の境界線、即ち家と家との境界線のことであり、文字通り「壁」のことであった。「壁」がなければ一片の財産もありえず、家族の生物学的な生命過程を守ることもありえなかった。 |
№28 平成23年 8月27日 |
第二章 公的領域と私的領域第八節 私的領域――財産・3日本の女性は、奈良時代までは土地、家などの私有財を持っていた。 |
●近代以前においては私的領域即ち私有財産(個人の生と死の居場所)を所有する者のみが公的領域に参加できる市民(自由人)となりえた。彼は自己の生計のために働かなければならない時間から自由であり公務に参加できる時間と肉体力を持っていたからである。しかし中世から近代の発展により、職業や政治的活動力に関わり無く、豊かさそれ自体が市民たる資格となってゆく。 ●近代初め、農業社会となり富と財産(土地)が一致し、それ以降、全ての富が神聖な性格をもつとされ人々に追い求められるようになる。16世紀イギリスに始まる「囲い込み」により農民が土地を追われ、以来、大量の無産の「労働者階級」が発生した。富を追い求める事は古代で言えば自らの自由を犠牲にし必要の奴隷になるのと同様である。近代以降の経済学者は富と財産を区別しないため、私的富を保護すれば個人の自由は守れる、あるいは私的財産を没収すれば悪は矯正されると唱えているが、守らなければならないのは「生命過程の必然」である私有財産であろう。 |
№29 平成23年 9月10日 |
第二章 公的領域と私的領域第九節 社会的なるものと私的なるもの・1 |
●近代の社会的なるものの勃興は、イギリス17世紀の市民革命に代表されるように、財産所有者たちが公的領域に入り込み(議会政治の発展により市民が議会に参加すること)、自分たちの富の国家による保護を要求したことと時を同じくする(「国家は“共通の富”のために存在した」)。 ●富とは本来は一代限りで消費され消滅するものである。しかし富が「資本」となると(資本capitalという語が「回収されるために投資された富」の意味で使われ始めたのは18世紀である)、資本は共通世界の永続性と似た様相を帯び、世界は「安定」から「過程」へとその姿を変えることとなる。 ●これらの変化は、全ての「代替物」を値段を付けられる消費物に変えた。かつての私的財産は消失し、人間に残された財産はロックの仮定する肉体、マルクスの名付けた言葉では「労働力」のみとなった。このロックの仮定は歴史的には疑問であるが、しかし私たちはこの仮定が本当のものになる(自分の頼れる唯一の財産は自分の能力と労働力である)世界に生きることになるだろう。 |
№30 平成23年 9月24日 |
第二章 公的領域と私的領域第九節 社会的なるものと私的なるもの・2GDP比200倍の財政赤字の日本国の中で、 |
●私的領域には二つの非欠如的特徴があり、それは私的領域は取り除くことが人間にとっていかに危険であるかの理由を為す。一つは、私生活で毎日使用・消費されるものは、生命のために第一義的に切迫して必要とされるということである。もう一つは、私有財産の四つの壁は、共通世界から人が身を隠す、それがなければどの生き物も成長できない暗闇の空間を為すということである。 ●近代以前の政治体は私的領域の境界線そのものを守ってきた。これに対して近代の政治・経済理論は、むしろ財産所有者の富の蓄積のための活動力を守ろうとしている。これこそ私生活の侵害すなわち「人間の社会化」(マルクス)であり、革命的手段を必要とせずにそれは遂行される。 ●私的領域の本質とはそれが「隠されるもの」(肉体的機能と物質的関心)だということであった。それゆえ、そこに従事する女と奴隷は世界から隠されてきた。近代、労働者(古代でいう奴隷)と女性は解放されたが、これは近代人がもはや「隠すべきもの」という考え方を失ったことを意味する。 |
№31 平成23年 10月8日 |
第二章 公的領域と私的領域第十節 人間的活動力の場所・1人間の善とは何か?そして悪とは何か? |
●公的領域と私的領域が存在したことの意味は、人間の活動力の中には、公に示す必要のあるものと隠す必要のあるものがあるということである。人に見られ聞かれることから隠されるべき活動力の例は、西洋史上イエスが初めて説いた善(goodness)の活動力である。 ●善の本質が公的領域と対立するのは、キリスト教の終末論のためだけではない(ローマ帝国が没落しても別に世界は終わらないと経験されて以降、終末論は無意味となる)。イエスが「自分の義を人に見られないように注意しなさい」「右手のしていることを左手に知らせるな」と説くように、善行は、それが公になった途端に善の善のためになされるという特殊な性格を失うからである。従って、イエスが公の場に登場したこと自体が逆説であり、「誰も善ではありえない」ことを示している。 ●善の特質は、自分がそれを行なっていると自覚した途端に善ではなくなるということである。善が存在しうるのはその行為者でさえそれに気づかないときだけである。 |
№32 平成23年 10月22日 |
第二章 公的領域と私的領域第十節 人間的活動力の場所・2日本人は、なぜ善が好きで、悪に無関心か? |
●ナザレのイエスの登場とともに西洋史上に初めて現れた「善」という活動力は、その他の人間のどの活動力とも異なり、他者や自分にさえ目撃されるともはやそれは善ではなくなるという本質をもつ。それゆえ、善行を愛する人は、自分自身にさえ同伴されていないという孤独lonelinessに生きることになる。人は、神以外のものを同伴しないこの善の孤独に長時間は耐えられることはない。このことは、人間の活動力はそれぞれそれにふさわしい場所をもつということを意味する。 ●従って、善を一貫した生活様式として実行しようとすれば、それは公的領域では不可能であるか、公的領域を破壊する。その善の破壊的性格を感じ取っていたのは中世イタリアの政治思想家マキャヴェリである。彼の目には、カトリック教会は腐敗していたが、宗教改革によって改革された教会はなお危険であった。宗教団体は政治に携わればそれ自体頽廃であり、自ら腐敗していなくとも、公的領域を完全に滅ぼす(邪悪な支配者にしたい放題の悪をさせる)方向に進むのである。 |
№33 平成23年 11月12日 |
第三章 労働第十一節 「わが肉体の労働とわが手の仕事」・1人間の条件は「労働」「仕事」「活動」の三つ!!しかし、現代は「労働」だけが人間の条件であるかのようにスポイルされて、至上化されている!! |
●「労働」(labor)と「仕事」(work)の二つの概念は別のものとして区別されなければならない。「労働」は人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力であり、個と種の生命の維持・存続に従事する。「仕事」は個々の生命を超えて永続する「人工的」世界(文化や文明)を作り出すものである。 ●この二つの概念が別物である根拠は、全てのヨーロッパ言語は、「労働」と「仕事」を意味するのに語源的に無関係な二つの言葉を持っていることである。「労働」は苦痛、困難、一種の拷問を表す意味をもち、労働が人間に自然的かつ必然的に課せられたものであることを示す。「仕事」は職人の仕事であり、やがて芸術作品を表す言葉として用いられる。また、労働は「労働すること」という意味の動詞的名詞に留まる(労働行為そのものに意味がある)が、仕事は生産物や作品を表す。 ●このような労働と仕事を混同することの危険性は、人間の行なうことはすべて種の生命維持のための労働であるとすること(個人の生命の放棄、人間的諸価値の無化)に行き着くことにある。 |
№34 平成23年 11月26日 |
第三章 労働第十一節 「わが肉体の労働とわが手の仕事」・2現代の社会ではなぜ仕事が無くなったのか?現代人は、なぜ、収入が無くなるかもしれない将来に怯えているのか?の秘密を明らかにする!! |
●古代ギリシア人の労働に対する軽蔑とは、生命を維持するための必要に奉仕するすべての仕事への軽蔑であり、それゆえに奴隷は必要であり奴隷制は正当化された。奴隷になることは公的性をもつ人間ではなく、家畜に似たものへの変貌、死よりも悪い運命への転落を意味した。 ●古代において「労働」(labor)と「仕事」(work)の概念の区別が無視されたのは、古代人の基準がただ一つ、「その活動が公的領域の公務か否か」にあり、全ての骨折り仕事は、工作も含め労働であると一括りにされたためである。さらに古代末期より哲学とキリスト教が勃興すると、人間の最高の能力は「観照」であるとされ、それ以外の活動力は全て単なる必要の次元にまで貶められた。 ●近代は、観照を最高のものとする伝統的順位を全て転倒し、かつて最も軽蔑されていた〈労働する動物〉を元来の〈理性的動物〉に代わり最高の地位を引き上げた。この近代全体の同意は、マルクスの「(神ではなく)労働が人間を作った」という冒とく的観念に端的に代表されるものである、 |
№35 平成23年 12月10日 |
第三章 労働第十一節 「わが肉体の労働とわが手の仕事」・3現代の社会の格差は労働力のもつ剰余生産力が生み出している!! |
●近代は、かつてなかったほど高い労働の「生産性」に直面し、これを至上の価値とするようになる。人間の全ての仕事は「生産的労働」か「非生産的労働」に二分されるようになり、非生産的労働は「召使いの仕事」として軽蔑される。また〈労働する動物〉は〈工作人〉に近い特徴を帯びるようになり、マルクスは労働を称賛しながらもあと一歩で労働を廃止できると期待をするようになった。 ●近代の経済学者が感じ取りマルクスが定式化した重要な事実がある。それは労働する活動力が場所・時代を選ばずに実際に「生産性」をもつということである。この「生産性」は、労働の生産物の中にではなく人間の「力」の中に存在し、それ自身の生命の手段を再生産し、再生産の後も消耗されず、さらに「剰余」を作り出すことが特徴である。しかし生命以外のものを生産することはない。 ●かくして人間は「労働力」(アルバイツクラフト)となった。全ての労働は「生産的」となり、全ての物は生命過程のみに従属する消費の対象となる。人間の仕事は全て生命維持の「労働」となった。 |
№36 平成23年 12月24日 |
第三章 労働第十一節 「わが肉体の労働とわが手の仕事」・4知識人の本質は、官僚制支配に従属する労働者である!! |
●近代の分業は、活動力を非常に細かい部分に分化し、労働者は最少の技能しか必要としなくなった。すると労働市場において売られるのは個人の技能ではなく、生きている人間なら誰でも等しく持つ「労働力」になる。これは世界における熟練労働の廃止を意味する。 ●知的作業・頭脳労働者についても、彼らの行なっていることは労働過程である。思考が物化されるためには職人と同じ「わが手の仕事」を行なわなければならないためである。 ●近代、知的作業にたいする要求と評価が高まったが、これと同じことがローマ帝国没落前の数世紀でも起こった。古代ローマにおいても近現代においても、「知的人」の地位の上昇は、官僚制の成立と時を同じくする。当時は書記のサーヴィスは奴隷が行なっており、このことは、彼らが世界に新しい物を作り出す「仕事人」ではなく「労働」であることを示唆している。この場合の労働は生命の再生産ではなく官僚的機構の保存であり、サービスという生産物が貪り食われることになる。 |
№37 平成24年 1月14日 |
第三章 労働第十二節 「わが肉体の労働とわが手の仕事」・4実存主義哲学が曝露する資本主義の本質は「主観」がつくる |
●古代人は労働の苦痛・骨折りを軽蔑し、近代は労働の生産性を賛美・称賛した。これらはいずれも「人間に根拠をもつ主観的理論」による考え方である。しかし生産された物(パンとテーブル)の世界的性格(世界における余命や機能、場所)を考えれば、人間の生命を創る「労働」と世界を創る「仕事」の区別は明白となる。これは「世界に根拠をもつ客観的言語」による考え方である。 ●世界がリアリティと信頼性をもつのは、永続性と耐久性をもつためである。仕事の産物がこの世界を形作る。一方、労働とは動詞(的名詞)であり、産物や完成品の名詞を意味しない。このことは、もし仕事がなければ、私たちは物が何であるかさえ分からないこともありうることを意味する。 ●活動と言論と思考の産物は、触知できない人間関係の網の目(無数の人間の意思と意図)である。これらが世界の「物」となるためには、複数の他者に見聞き・記憶され、本や絵、文書や記念碑に変形されるという高い代償を払わねばならない。このことも世界の物的性格を意味している。 |
№38 平成24年 1月28日 |
第三章 労働第十三節 労働と生命・1日本人が誰も知らない「自然とは何か?」の定義! |
●労働の産物の代表である食物の特徴は、人間の生命過程そのものに必要とされ、世界の中では非常に短命であることである。 これは人間の身体と同様に、自然の循環運動に従って生まれ、去り、自然の中に戻るものである。 ●しかし人間の生と死は自然の出来事ではなく、世界の出来事である。世界がなければ人間は他の動物と同じく、ニーチェの言う永劫回帰で無窮の中に放り込まれるのみである。しかし、耐久性・永続性をもつ世界を前提とすれば、個人の人間が現われそこから去ることは、物語となりうる出来事である。それはアリストテレスの言う、単なる生命とは区別された生(ビオス)なのである。 ●自然とは始まりも終りもない永久の循環であり、それが人工の世界に現われた時にのみ成長や衰退という形で現われる。それゆえに、自然に対応する労働が、「仕事」のように完成品を生み出すことはなく、永遠の労苦と困難という様相を帯びるのである。 |
№39 平成24年 2月11日 |
第三章 労働第十三節 労働と生命・2労働の本質とは何か? 有機体としての自己の再生と、 |
●労働とは生命過程そのものに必要とされるものを生み出す活動であり、マルクスは「人間による自然との新陳代謝」であると定義した。人間はまた労働の生産物をただちに消費する。それゆえ労働と消費は、生物学的生命の永久に続く循環の二つの段階にすぎず、両者とも自然の提供するものを破壊し貪り食う過程であると言える。 ●しかし労働と消費は、新陳代謝の結果を自然に返す。自然の立場から見れば、人工世界を作り出す仕事の方が破壊的である。 ●労働の第二の課題とは、自然が人間の工作物に繰り返し侵入し耐久性を脅かすことに対する終わりなき闘いである。これは生産性ははるかに低いが、自然に逆らって存在しようとする世界との関係ははるかに密接である。神話では英雄的行為として表現されるが、実際は英雄的行為に似たところはなく、勇気ではなくただ情容赦ない反復を耐える忍耐が必要とされるのみである。 |
№40 平成24年 2月25日 |
第三章 労働第十四節 労働と繁殖力・1現在の「金」(マネー)の至上主義はいつ、どのようにして |
●労働は何を作っていることになるのか?と言えば、その答えは 「繁殖力」(実りの力)である。 ●労働の生産物の特徴とは、それが消費物であり、世界に現われてはただちに消えることである。 しかし、ロック、スミス、マルクスらの近代の経済学者たちのように、労働をすべての生産性の源泉および世界建設能力であると考えると、まぎれもない矛盾(「労働の永続的証拠は消耗品である」・ヴェブレン)にとらわれる。彼らは、労働と仕事 を同一視することでこの矛盾を乗り切っている。 ●この矛盾へのロックの解決策とは貨幣の導入であり、彼はそれにより労働を永続的な財産の源泉とした。しかし労働は消えていき、反復されるものであるという本質を分かっているわけではない。 ●労働の生産物とは、パンの中に穀物が消滅しないように、自然性が多く残っていることが特徴である。しかし生産物が「価値あるもの」になるためには物の世界に十分と留まらなければならないという矛盾があり、この難問を彼ら経済学者らは解決できなかった。 |
№41 平成24年 3月10日 |
第三章 労働第十四節 労働と繁殖力・2マルクスが明らかにした逆説的な |
●ロックやスミスも、労働の産物が、それ自体では永続的・持続的な価値を生み出さないという難問に直面した。マルクスの思想にはその全体を貫くさらに甚だしい基本的矛盾がある。労働は人間の活動力の中で最も人間的で生産的な活動である一方で、革命は、労働者階級と人間を労働から解放することを課題としているという点である。この矛盾は、労働と仕事の同一視ならびに、ロック以下近代の経済学者たちが、労働を財産、富、全ての価値の源泉としたことによっている。 ●労働はなぜかくも全ての価値の源泉とされたのか。その理由は、近代の富、財産、利得の未曾有の成長過程と、「過程」という概念が新しい時代の中心用語となったためである。ここでマルクスは経済と生命過程の同一視により、労働に関して、自然過程の繁殖力のメタファーを用いて説明した(労働の本質は生殖と同様に繁殖力(実りの豊かさ)である)。これにより、近代の労働の理論は、「生めよ、ふえよ」という『創世記』に代表される労働に関する古代の見解と適合された。 |
№42 平成24年 3月24日 |
第三章 労働第十四節 労働と繁殖力・3アーレントが明らかにする「労働」の意義と価値。 |
●労働の苦痛と休息、生産と消費という周期は人間に満足と感謝をもたらす。これは人間が他の被造物と共有する生の至福に与るための人間的方法である。また、労働の報いは自然により、繁殖によって自然の一部に留まれるという静かな確信によって得られる。 ●このような生命の祝福は、労働に固有のものであり、仕事によっては得られない。労働による苦痛に満ちた体力の消耗と喜ばしい再生という循環以外に、永続的な幸福はない。近代人はこのような幸福を一般化し卑俗化してしまい、幸福ではなく運に依存する幸運の方を追い求めているために、それを手に入れた途端に不幸になってしまう。 ●人間を一貫して類存在として見ると、生命過程を超えて持続する「外界」についての問いを立てられなくなり、全ての人間の行為は労働として公分母化され、ここにおいて生産の判別は大量か欠乏かしかない。単なる生産の過剰は、決して私有財産の確立へと導くことはありえないのである。 |
№43 平成24年 4月14日 |
第三章 労働第十五節 財産の私的性格と富・1現代社会の「富」の源泉は「労働」と、 |
●近代の市民革命と同時期に、個人の私的財産擁護理論が現れた。当時の経済学者たちは国家・政府に対して決して防御的だったのではなく、むしろ敵対的で対立的な闘争を行なうようになる。しかし当時の国家機構は、市民から財産を没収することは考えていなかった。とすると、彼ら経済学者が擁護したのは財産そのものではなく、富を無制限に追求する権利であったということである。国家は必要悪、社会の寄生虫であると評されるようになった。 ●また、財産の根拠は労働であると説かれるようになる。財産の「専有」は身体の労働という活動から説明されたからである。かくて人間のもつ最も個人的なものである身体は物を専有する手段となり、1690年以降(名誉革命以降)、労働による財産に対する権利は社会の公理となった(それ以前は労働は貧困に伴なう活動であり、労働が財産と結びつくという理論はなかった)。近代は、このように無制限な富の成長を選び、かつての形の私有財産の保護の道を捨てたのである。 |
№44 平成24年 4月28日 |
第三章 労働第十五節 財産の私的性格と富・2苦痛と快楽を哲学から見た意味とは何か? |
●近代が発展、社会が勃興し、労働が公的なものとなったことの結果とは何か。人間の身体と労働が所有の起源であり、ひいては私的財産の根源と見なされたことである。 ●しかし身体および身体における快楽と苦痛とは、他者に伝達もできず他者と共有できない最も個人的なものである。人間は、奴隷状態などの苦痛の極限の状態では、世界から投げ出されており、自分の苦痛以外のことを考えることはできず、ここでは他者と共通した世界を経験することはできない。苦痛や快感という経験はむしろ人間の感覚が正常に機能するのを妨げるものであり、世界について何も教えてくれないという近代人の不信がそのことをよく物語っている。 ●人間の感覚が正常に機能し、世界を経験できるのは、ただ苦痛が欠如した状態のみにおいてである。それゆえ、苦痛を伴なう労働が財産の真の起源であるとすれば、その性格は他者を喪失した「無世界性」(世界喪失)がふさわしいと言える。 |
№45 平成24年 5月12日 |
第三章 労働第十五節 財産の私的性格と富・320世紀になって、「社会」は有機的組織体に変容した!! |
●近代初期は人間の関心がまだ富ではなくかつての意味の私有財産(私的領域・人間の生と死の場所)の方に向いており、労働の無世界性の性格にも関わらず、なお人間を社会から保護する場所としての財産は保たれていた。しかしやがて人間の関心が富の増大と蓄積へと向かうようになると、個人ではなく社会全体が一つの巨大な生命主体となり全速力でその進路を進むようになる。ここにおいて人間はマルクスのいう「類存在」となり、個としての人間は消滅する。 ●19世紀後半にはダーウィン、マルクスを始めとして様々な学問は人間の生命過程をモデルにした「過程」processをキーワードとするようになり、さらに労働の過酷さから免れた人間は、ニーチェ、ベルクソンを代表とする、生命のみを唯一の絶対価値とする「生の哲学」を生み出すことになる。しかしいくら富が豊かになり労働時間が短縮されても、それは「共通世界」の創出とはならず、余暇を生み出した人間は「趣味」(無世界的活動)しか行なえないようになる。 |
№46 平成24年 5月26日 |
第三章 労働第十六節 仕事の道具と労働の分業・1現代の消費社会のルーツと人間にとっての意味を |
●人間は動物と異なり、生命イコール存在ではない。生命の維持すなわち労働と消費は、人間の存在のためには、むしろ重荷である。ゆえに、セネカの言の如く「すべての生命は奴隷である」というのが人間の基本的条件である。しかし言い換えれば、労苦と困難は消費の快楽と結びついているため、苦痛なき安楽な生命は人間には「生なき生活」であることを意味するだろう。 ●古代の都市国家は、消費の中心地であった。奴隷制のもとで、全市民は奴隷に、労働と消費という生物学的生命の重荷を背負わせていた。奴隷の存在により、人間生活が、欲求と必要に従属しているという「人間の条件」が誰の目にも明らかであった。 ●近代、労働の道具が大きく改善された。労働の苦痛が減少されたが、しかし、人間が生命の必然(必要)に従属しているという「人間の基本的条件」に変化があるわけではない。現在および、原子革命の起こる未来には、人間が、この「人間の条件」に気づくことが難しい状況になるであろう。 |
№47 平成24年 6月9日 |
第三章 労働第十六節 仕事の道具と労働の分業・2現代人が理解している「生産」とは実は「消費」のことである!! |
●近代の労働過程には二つの大きな変化が現われた。一つは道具の大きな改善、もう一つは分業の原理である。 ●道具や器具の改善は、労働の量を大きく発展させ労働力を強化したが、しかし労働に対して二義的な意味しか持たない。というのは道具は仕事・製作(使用物)の世界に属するものであり、その本質は本来の使用以上の結果を生み出すということにあるが、道具は労働の世界においてこの本質を果たしてはいないからである。また、消費の世界においても道具は一定以上の働きをしないため、道具がいくら改善されても人間(奴隷)のサーヴィスに取って代わることはできない。 ●一方、分業の原理は労働過程に大きな変化をもたらした。労働の分業は仕事の専門化と見かけは似てはいるが仕事の専門化とは違い、個々の構成員は同一で交換可能であるという一者性を本質とする。目的も終わりもない。集団の消耗不可能性は種の不死性に正確に対応している。 |
№48 平成24年 6月23日 |
第三章 労働第十六節 仕事の道具と労働の分業・3現代社会の本質「大衆社会」「消費社会」の行き詰まりと |
●近代、労働の道具と分業という二つの要素が発展し、生産力は無制限に増大し成長した。同時に、人間は財産を富に換えて無限に専有できるようにした。しかし人間の消費能力には限りがある。そこで問題は、個人の消費が、無制限な富の蓄積にどのように調子を合わせるかということであった。この矛盾への対処法とは、人間の全ての生産物(使用対象物)を消費物であるかのように扱うことである。これにより椅子やテーブルは服のように、服はかつての食物のようにすばやく消費されるようになった。これが消費社会であり、人間の全ての仕事が労働に解体されたということである。 ●また、機械は自然の循環以上にずっと速いリズムに人間を追い込んだ。分業による大量生産は、仕事の製品を労働の生産物(消費財)であるかのように変えた。こうして人間は、物に対する敬意を失い消費の欲求にかられるようになり、人間の世界を自然から防御していた壁を取り壊した。〈工作人〉の理想(世界形成)が〈労働する動物〉の理想(生産と富の過剰)の犠牲になったのである。 |
№49 平成24年 7月14日 |
第三章 労働第十七節 消費者社会・1現代人を「大衆社会=消費社会」の中で破綻の淵に |
●私たちは消費者社会に生きている。労働と消費は生命の同一の過程の二つの局面であるため、これは労働者の社会と同義である。私たちが何を行なおうともそれは「生計を立てる」ためにしていると考えられるということである。ここでは労働以外の活動は全て遊び(趣味)となる。 ●この「労働=遊びのカテゴリー」は近代以降のものである。それ以前はプラトンの述べるとおり、「金儲け術」は医術や航海術などの諸術と無関係のものであった。人は労働の要素としてではなく、労働から自由になり自由を保持するために諸術とは別個に「金儲け術」を必要としたのであった。 ●近代、労働が賛美され解放されて全ての人が労働者(生計を立てる人)となったことは、同時に、暴力の術(戦争、海賊行為、絶対的支配)が甚だしい悪評へ低下したことと密接な関係がある。このことはローマ帝国の崩壊時に起こったことであるが、近代人は暴力から解放されても自由を手に入れたわけではなく、むしろ奴隷階級の義務をもたらされたのである。 |
№50 平成24年 7月28日 |
第三章 労働第十七節 消費者社会・2「余暇」はもともと「生産の能力の学習」のためのものだった!! |
●近代の労働の解放は、万人に自由を与えたのではなく、万人に必然の軛を強制した。そこでマルクスに代表されるように、人々はこのような労働からの解放を望むようになったが、労働と消費は同一過程であるため、それは消費からの解放を意味するだろう。このユートピアは実現しつつあるが、それは人間が消費のための努力以外のものは行なわない世界に入ったことを意味する。 ●新しく発生した余暇という問題は、人間がいかに消費能力を維持するかという問題にほかならない。苦痛なき消費は人間の貪欲な性格を変えず、むしろ増大するのである。世界は人間の望むままに全ての物を再生産できるようになり、世界の耐久性を食い尽くす。さらにオートメ化は、人間の生産力に、機械により強度を増した生命過程に自動的に従うようにさせるであろう。 ●古典経済学の最終目的であった豊かさ(「最大多数の幸福」)とは結局、実現される途端に魅力を失う愚者の楽園ではないだろうか。 |
№51 平成24年 8月11日 |
第三章 労働第十七節 消費者社会・3大衆社会と消費社会とは同義である!! |
●私たちの不幸とは、一つには〈労働する動物〉(私的存在)として生きているために真の公的領域がありえないことである。もう一つは、労働と消費のバランスが崩れたことである。〈労働する動物〉の幸福は消耗と再生の生命過程にしかないが、これを満足させる十分な労働は現在は欠如している。しかし〈労働する動物〉はそのような幸福を手に入れようと頑固に要求する。 ●待ち構える明白な危険は浪費経済である。社会の生命過程の急激な破局を回避するためには、物が世界に現われた途端に貪り食い、投げ捨ててしまわなければならない。私たちが消費者社会のメンバー以外の何者でもないとすれば、もはや人間に安らぎを与える人工的な家である世界に生きているのではなく、絶えず反復される一つの過程に突き動かされているだけであるだろう。 ●生命が安楽になればなるほど、生命を突き動かす必要の緊急性に気づくことは困難となる。ここには生命維持のための苦痛や努力、および生命自身の空虚さに気づけないという危険がある。 |
№52 平成24年8月25日 |
第四章 仕事第十八節 世界の耐久性大衆社会・消費社会の孤立がつくる「主観」という病理を |
●人間の「仕事(製作)work」とは、耐久性、安定、固さをもつ、人間の住み家である「世界」(多種多様な工作物の全体)を作ることである。これは人間の個や種の生命を作り維持する、消費財を作る「労働labor」とは異なる活動である。世界の個々の物は確かに使用済みになるが、世代の変化とともに次に置き換えられるため、世界(全体)は使用され破壊される運命にあるのではない。 ●世界とその物は、人間に「客観性」を与える。人間は絶えず変化するが、同じ椅子、同じテーブルに結び付けられることによって、同一性を保つことができる。人間の主観性に対立しているのは世界であって、自然(無垢で荘厳な無関心)ではない。自然とはむしろ、人間を生物学的運動のサイクルに投げ込むものである。世界があるために人間は自然を客観視できるのである。 ●使用と消費は異なるものである。使用は緩慢な消費であるという見方もあるが、しかし消費物の目的が消費されることであるのに対し、使用対象物は一定期間は世界に留まることを本質とする。 |
№53 平成24年 9月8日 |
第四章 仕事第十九節 物化・1現代人は、歴史のどこで共同意識をなくして「根無し草」に |
●仕事(製作・work)すなわち人間の住家である人工世界を作ることの本質とは、自然への暴力と破壊である。仕事の材料そのものが地球の破壊を行なって取り出されるものである。〈労働する動物〉は自然への従属者であったが、仕事を行う〈工作人〉は地球全体の支配者として振舞う。その本質は、人間に火を与えゼウス神の怒りを買ったプロメテウス的反逆である。 ●仕事による暴力の経験は、人間に自信と満足を与える。これは自然の圧倒的な力に対する抵抗である。労働により額に汗した労苦の後の至福とは全く異なる種類のものである。 ●仕事(製作)の特徴は、物化がモデル(イデア・精神のイメージ)に従って行なわれることである。このモデルは近代心理学が唱えるように脳の中に収まっているのではなく、製作者の外部(複数の他者との共通世界)に存在する。個人の私的な感覚は物化できないものであり、一方、物化できるものは必ずそのイデアを持っている。つまり、ベッドのイデアなしにベッドを作ることはできない。 |
№54 |
第四章 仕事第十九節 物化・2日本人が今、どんどん無くしている「仕事人」のもつ |
●仕事(製作、工作)の本質は物化である。物化は製作に先行するイメージ(モデル)に導かれて行なわれる。製作のイメージ(モデル)は製品完成前も存在し、完成後も消滅せず、同じものを無限に作る潜在的増殖の本質をもつ。これはプラトンの学説のイデアに影響力を与えた。 ●製作過程は、目的である製作物の完成によって終わる。このことは、人間の生物学的生命に仕える労働が永遠に反復されるのとは異なる。製作が反復されるとしたら、それは製作者が生存手段を稼ぎたいという欲求によっている。ここでは労働と仕事が同時に行われていることになる。 ●仕事の特徴は明確な始まりと終わりをもつことである。このことにより、仕事は、始まりと終わりを持たない労働や、始まりをもつが終わりの無い(元に戻せない)活動は区別される。言い換えれば、労働者は自分自身の必要に従属しており、活動の人は仲間に終始一貫依存している一方で、仕事人(工作人)は、自分で生み出したものを壊すこともできるため、自分自身の行為の主人である。 |
№55 平成24年 10月13日 |
第四章 仕事第二十節 手段性と〈労働する動物〉・1機械に同化する人間の脳は、どうなっているのか?を |
●人間は、本来「道具製作者」である。しかし人間は、近代社会において機械を作り、機械が労働(生命)過程に入りこんだ。ここにおいて機械は人間の目的に対する手段なのではなく、人間が機械の要求に「合わせ」なければならない。生命過程においては、「労働をするために消費するのか、消費するために働くのか」というように、「目的‐手段‐カテゴリー」が存在しないためである。 ●近代の労働において労働過程を支配するのは「製作物を作る」という目的ではなく、機械による労働過程のリズムである。労働過程のリズムは、自然のリズムに対応しているためである。産業革命によりほとんどの道具が機械に取って代わって以降、人間は機械の世界に生きている。 ●「人間が条件づけられた存在である」とは、人間は全ての物を自己の存続の条件にするという意味である。それゆえ、機械を作った途端、機械は人間の存在の不可欠な条件となっている。しかし道具が人間の召使いであったのに対し、機械は人間に、機械に奉仕するよう要求するのである。 |
№56 平成24年 10月27日 |
第四章 仕事第二十節 手段性と〈労働する動物〉・2電気エネルギーによる労働過程のオートメーション化は、 |
●技術(テクノロジー)の本当の意味が明らかになったのは、その最後の段階であるオートメーションが出現してからである。テクノロジーの最初の段階すなわち産業革命時代には、そこで用いられた蒸気機関とは、有史以来人間が使ってきた水力や風力などの自然力の模倣に過ぎなかった。 ●技術の第二の段階は電気の利用を特徴とする。ここでは自然力の模倣では与えられない材料を使用している。ロサンゼルスの例に見られるようにここでは自然の力を人工世界に導き入れ、都市の要素の解消、都市と田舎の均衡を不可分一体に進捗させることにおける人間の勝利がある。 ●さらに次の段階が原子力と核の時代である。ここで行われていることは宇宙の力を自然の中に流し込むことである。このことが今まで知られていた自然界を変化させるかどうかは未知である。 ●技術の自動化(オートメーション)とは、自然において木の種子が既に木を含むような自動的過程である。ここでは既に〈工作人〉の「目的‐手段‐カテゴリー」の生産の概念は打ち砕かれている。 |
№57 平成24年 11月10日 |
第四章 仕事第二十節 手段性と〈労働する動物〉・3オートメーションによる生産とは人間の生存の仕方を |
●技術(テクノロジー)についての議論が不適切な範囲にとどまっているのは、機械は人間の役に立ち労働を楽にするという仮定にとどまっているからである。機械は人のためでなく物のために作られた。それ故、人間は機械の主人か奴隷かという問いは誤りであり、機械はまだ世界に役立っているのか、それとも世界を自動軌道に乗せて世界を壊し始めているのか、の問いが妥当である。 ●自動的な工場過程は、「世界の物は有用か美かのいずれかの人間的尺度に適うように作られている」という仮定を打ち砕いた。今、新しい製品として何を作るかは、使う人間の目的ではなく、作る機械の能力に依存している。機械は自然がそうであるように目的を問うことが無駄である。 ●機械による自動化は、人間の手による形成物の世界を否定するが、かつて自然がそうであったように人間種への扶養者となるだろう。技術は人間のコントロールから離れ、カタツムリの殻がカタツムリに属するように人間に属すようになり、それ自体が生物学的進行のように見えるであろう。 |
№58 |
第四章 仕事第二十一節 手段性と〈工作人〉・1人間にとって「目的」とは何か?「手段」とは何か? |
●〈工作人〉は生産物という目的のために仕事をする(目的‐手段‐カテゴリー)。仕事の本性とは、全ての物をある目的の手段とし、有用性という観点で判断することである。 ●しかし仕事が終われば生産物は、椅子が生命の安楽に役立つか市場での交換手段になるかのいずれかであるように、次の目的の手段となる。ここで人間が出会う困難とは、「目的‐手段‐カテゴリー」は無限に適用可能であることである(手段=目的連鎖の際限のなさというアポリア)。 ●このアポリア(解決困難)は、「有用性」(in order to)と「意味」(for the sake of)を区別できないことである。〈工作人〉にとっての意味とは「有用性」と同義であり、その実体は無意味である。〈工作人〉は「目的‐手段‐カテゴリー」の中にいる限り、真の意味というものを理解することができない。 ●この無意味性のジレンマからの出口は、使用対象物の客観の世界を捨て人間中心主義に立ち返ることである。しかしそのことは、世界は価値を失い単に人間にとっての材料となることである。 |
№59 平成24年 12月8日 |
第四章 仕事第二十一節 手段性と〈工作人〉・2「人間を自分の目的にする」とは、 |
●〈工作人〉である人間は、世界と自然の中の全ての物を次に自分が作る物の単なる「手段」としてしまい、全ての物そのものの意味を理解することのできない「目的‐手段‐カテゴリー」の連鎖の中に生きている。この連鎖に終止符を打つのはカント哲学の人間中心的功利主義である。カントは「手段=目的のカテゴリー」を人間以外の場所に追いやり、人間を「目的自体(最高目的、目的そのもの)」とし、〈工作人〉の考えから近代初期の哲学を完全に解放した。 ●しかしこのカントの定式さえ、人間以外の全てのものを単なる手段と堕し、人間に従属させ、そのものの意味を理解することはできないという難問を解決することはできない。古代ギリシア人は、〈工作人〉のこの態度をbanausic(実利的)であると軽蔑していた。 ●このような製作経験の一般化の考え方に従えば、一切の所与のものは、地球一般さえも価値を失う。これは人間が万物の支配者になったときにのみ止まる、増大する無意味性の過程である。 |
№60 平成24年 12月22日 |
第四章 仕事第二十一節 手段性と〈工作人〉・3全ての対象は、人間の欲求の対象であるとする |
●古代ギリシア人は、人間中心主義とそれに伴う世界と自然の無価値化を恐れ、一貫した功利主義を軽蔑した。そのことはプラトンのプロタゴラス(「人間は万物の尺度である」と述べたとされる。実際は「人間は全ての使用物の尺度である」と述べた)への反論に例証される。プラトンが見てとったのは、人間を全ての尺度にするという場合、その人間は使用する人間であって、話し、活動し、考える人間ではないということ、及び、全ての物を使用のために要求し、全ての物を手段と見るようになるだろうということである。つまり、プロタゴラスが述べたとされる通り人間は万物の尺度となる。 ●プラトンの考えに従えば、プロタゴラスはカントの先取りである(人間は「目的‐手段‐カテゴリー」の外に立ち、全てのものを自分に従わせる存在であるというもの)。 しかし人間が測定基準となるとすれば、人間の生産可能性は人間の望みと同じくらい無限であるため、世界と自然の無価値化は避けられない。かくしてプラトンの主張では、人間でなく神が万物の尺度とならなければならない。 |
№61 平成25年 1月12日 |
第四章 仕事第二十二節 交換市場・1現代の新しい製品は、 |
●近代社会の生産性は〈工作人〉の生産性に基づいている。そして近代の公的領域は〈工作人〉によって占められており、それ以外の人間、つまり労働者と活動者をそこから除外している。 ●交換市場は〈工作人〉にふさわしい公的領域である。消費社会が消費物を人の目に見せるように、〈工作人〉の生産社会の特徴は、生産の様子を人の目に見せることである(バザールの特徴)。独居で物を作る彼らは、生産物を交換することによってのみ他者と関係付けることができる。 ●彼らにとって独居とは必要な生活条件である。彼らの支配の対象は物であり、彼らにとって人間関係は二義的な意味しかなく、親方と職人の関係のような一時的なものでしかない。 ●社会の勃興は、彼らの光輝ある独居を終わらせ、彼らの仕事に参入した。共同作業(チームワーク)は、〈工作人〉の仕事とは合わないものである。ここにイデアをもつ一人の親方は存在しない。これは労働の分業の一変種であり、ここに〈工作人〉の独居、独立性は解体されている。 |
№62 平成25年 1月26日 |
第四章 仕事第二十二節 交換市場・2「価値とは交換価値のことである」!! |
●交換市場は、〈工作人〉の最後の公的領域である。やがて次に訪れる近代初期、商業社会が勃興し、交換・商品欲がそれを出し抜く。ここで彼らは使用品ではなく交換対象物を作るようになる。 ●商品市場においては、人も、人格としてではなく「労働力」という商品の保持者として現れる。マルクスのいう自己疎外はここにすでに始まっている。 ●近代後期に労働社会が現れる。労働力を高く評価するのは労働社会のみであるため、労働社会は一見人間的に見える。しかしここで人間が受ける評価は、機械が受ける評価と同じものにほかならない。この労働力ないし機械は物を亡霊に変えるような消費能力を生み出すものである。 ●物が大量生産によって作られるようになると、物の価値は値段(ある物と他の物との比率)によって決まる。ここで価値とは交換価値に他ならず、質とは交換されるまでの耐久性に他ならない。さらに交換価値とは、物に元々備わっている自然の生来的な価値とは少しも関係がない。 |
№63 |
第四章 仕事第二十二節 交換市場・3価値とは何か?全ての価値とは「交換価値」のことである!! |
●近代は、商品市場には交換価値しかなく、絶対的価値というものはないという単純な事実を誰も認めることができなかった。それ故、物それ自体の質であるworthという言葉を「使用価値」と言い換え(これが混乱である)、マルクスもこの用語法を受け入れた。マルクスは使用価値に固執し「市場価値」valueを資本主義の原罪であると考え、全てを生命と労働力の機能に解消してしまった。 ●よく嘆かれる「価値の喪失」とは、市場の発生と共に、人が全ての物を価値(商品)にした時に始まった。ここで全ての物が他の全ての物との関係におかれるようになった(普遍的相対化)。 ●問題は質の相対化そのものではなく、このことが近現代の人間のタイプに影響を与えることである。本来の〈工作人〉は絶対的な物指しを基準に世界を創るのであり、絶対的な価値の喪失に耐えられるものではない。貨幣は万物を越える基準(尺度)としてふさわしい自立性を持っていない。 このような普遍的尺度の喪失は、プラトンが最初から恐れていたことである。 |
№64 平成25年 2月23日 |
第四章 仕事第二十三節 世界の永続性と芸術作品・1吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で語った |
●芸術作品とは、世界に安定性を与え、死すべき人間に住家を与えるものの中で、有用性もなく唯一のものであるために交換価値をもたないものである。 ●芸術作品は、自然の過程が及ぼす崩壊作用の影響を受けない。使われるための物ではないからである。そして何百、何千年の世界の変化に同行することができる。芸術作品の永続性の光の中に、絶対でも純粋でもない世界の世界性が現れる。 ●芸術作品は、人の手が作った不死の印である。人の思考し内省する能力に負っている。単に感情や欲求、衝動の現れではない。感情や衝動は人間の作る世界とはほとんど関係がない。思考が感情に関わると、それは感情の閉鎖的な沈黙を、世界に適合させるようにすっかり変える。思考はむき出しの感情や衝動を超越し、自意識の囚われから世界の広さへと解放する。芸術における物化は単なる変化、変形と違い、心の火が灰にならないような変貌(メタモルフォーゼ)である。 |
№65 平成25年 3月9日 |
第四章 仕事第二十三節 世界の永続性と芸術作品・2思考とは何か?認識とは何か?思考過程をもつ芸術作品とは |
●芸術作品とは、人間の思考が人間の人工世界に入るため物化されたものである。この物化の際に、人間の思考の生命、つまりはかない一種の間に最も生き生きするものが代償として失われ、芸術は死んだ形として、詩芸術であれば「死んだ文字」として保存される。その詩は「死んだ文字」が生きた精神を蘇らせ、読まれたら再び死ぬ。この非生命性は思考と世界の隔たりを表している。 ●芸術の非生命性は、物化が最小限である詩や音楽では最も薄い。詩の源泉は追想であり、言語に圧縮されることにより、それを人間の記憶に残るものにさせる。 ●思考と認識は別物である。思考は芸術や哲学を作る一方、認識は知識・科学を成立させる。認識はそれ自身のゴールを設定し、到達したら終わりである。思考は生を貫き、目的もゴールもなく、芸術作品と同様、何の役にも立たない。生と同じで終わりがなく、意味があるかどうかも不明である。 ●しかし芸術も学問も、純粋に思考の産物ではなく、物化という仕事の作品である。 |
№66 平成25年 3月23日 |
第四章 仕事第二十三節 世界の永続性と芸術作品・3人間の知性とは、「知能過程」のことだ。そこでは演繹し、 |
●知性(悟性、intellect)は、演繹や帰納などを行なう論理的推理力である。生命の必然が人間のに労働という強制力をもつと同じように強制力をもつ。近代にはこの知性が最高の能力とされた。 ●もし人間が「理性的動物」以外の何者でもないならば、計算機は小型人間であろう。実際、計算機は人間の力(筋肉や脳の力)の代わりをするのである。この計算機の存在が明らかにしたのは、17世紀の「結果を計算できる能力」が人間の最高の能力だという考え方は誤りだということである。 ●また19世紀、マルクスらが唱えた「知性とは単に生の一機能」という主張が正しいということである。しかし、彼らは知性(計算機が代わりをできる)を人間の特徴たる理性と取り違えた。知性という脳に基づいたプロセスには「世界」(複数の人間の永続的な住家)を樹立することはない。 ●物の純粋な有用性とは耐久性の微かな反映であり、永遠なるもの(プラトンのイデア)の一変種である。実際、姿形を取るものは、プラトンのイデアに近い(美)か否(醜)かと評価されることとなる。 |
№67 平成25年 4月13日 |
第四章 仕事第二十三節 世界の永続性と芸術作品・4人間の寿命とは何か?それは二つである。 |
●全ての存在物は世界に現われ、形および質をもつ。質の卓越さの基準は外観(美か醜)である。つまり物は単なる使用や機能、目的を超越する。この外観は、プラトンのイデア(制作者が物を作る際に、内的な目に浮んでいるもの)に相当する。存在する物は全て、人間の主観的な欲求を果すのみとはならず、世界の客観的基準の中に入ることになる。物の世界が人間へ住家を与えるという課題を果すことができるのは、永続性が人間の激動性を持ちこたえる時である。 ●しかし世界に滞在しない消耗品を「美しくしよう」とする努力は、キッチュ(趣味の悪いもの)となってしまう。美の本質(手が届き、つかみ取られるものではない)と矛盾するためである。 ●人間固有の生は、活動actionと言論speechの中で実現する。しかし言葉と行為はその瞬間が過ぎると何も後に残さず消えてしまう。芸術はこのはかないものに安定的場所を与え、人間に実際の故郷を与える。最高の水準における芸術の詩人や作家がいなければ、語り活動する人間を生み出す唯一のもの、即ち物語は、世界の一部となるような人類の記憶に決して残らないだろう。 |
№68 平成25年 4月27日 |
第五章 活動第二十四節 言論と活動における行為者の暴露・1人間が人間として生きる「生きられる時間」とは何か? |
●複数性(plurality、世界に生きるのが複数の人間であるという事実)とは、活動と言論の基本条件であり、人間の同質性と差異性という二つの仕方で現れる。同質性がなければ人が互いに意思疎通ができない。また、差異性がなければ、互いの理解のためには言語は必要ないことになる。 ●言論と活動は人間の唯一性(uniqueness、比類のなさ)を表す行為である。この表れは誕生とともに始まり、その人の決心なしに行なわれる「創始」(initiative、何かを新しく始めること)に基づく。活動と言論は人間に強制されるものではないが、しかしどの人間も活動と言論なしに済ますことはできない。言論と活動のない人生は文字通りの生ではなく、死が引き延ばされたものである。 ●アウグスチヌスが「始まりが為されんがために人間は創られた」と述べる通り、どの人間も生まれ出ずる者であるので、世界にとっての「新しい始まり」(新しいことを始める力の開始)でありうる。人間の創造と共に始まりの原理が現れる。即ち、ある人間の創造は自由の創造と同時である。 |
№69 |
第五章 活動第二十四節 言論と活動における行為者の暴露・2現代人は、「人間として生きられる時間」を喪失し、 |
●全ての始まりの特徴は「全く予期できない」ということである。新しい始まりは常に統計的蓋然性に反して起こるため、過程の進行から見れば「最もありそうにないこと」であり、それ故奇蹟の様相を帯びる。人間が新しい始まりの意味で活動を行う力があるということは、ありそうにないことがありうるということ、「理性的なこと」は予期されるのでなく待望することが許されているということである。 ●この予期しないこと(活動)を行うという才能は、人間の唯一性に基づく。それは人間の共生に根拠を置くナタリテート(出生、誕生)という事実に基づく。この唯一性があるため、個々の人間において天地創造が繰返されているかのようである。彼の存在の前は「誰もいなかった」と言える。 ●活動と言論は全ての新参者への「あなたは誰か?」という問いへの答えを含むものである。言葉なしの活動は存在しない。活動以外の行為(数学や科学や集団労働)では言葉は下位の役割を果たす。活動を単に目的への手段と考えれば、言葉より無言の暴力の方が適切であるだろう。 |
№70 平成25年 5月25日 |
第五章 活動第二十四節 言論と活動における行為者の暴露・3日本人は「無縁死」「ツイッターが友だち!!の孤立」 |
●活動し語ることで人間は「自分が誰であるか」を示す。「その人が何であるか」(性質、才能、欠陥)とは違い、「その人が誰であるか」は本人が隠したり現わしたりというコントロールができない。またこの「誰」は同時代人には誤解なく明瞭に現れるが、ダイモンのように本人にのみ隠されている。 ●「その人が誰であるか」を暴露する活動と語りは、人々がお互いの犠牲になるのでも敵対してでもなく、共に語り活動するところで現れる。善と犯罪は、人から隠れて行なわれるものであるため、「誰」の暴露を行なうことができない。善あるいは犯罪には他者との距離(孤独)が必要なのであり、政治的に零落、破滅の時に人間事象の領域の淵に現れる。このような時期に、人間事象の領域は暗くなり、人が活動・言論を行なうに適した明るさは失われ、人は互いによそ者であると思う。 ●「誰」を暴露する性質がなければ活動は他の行為と同じ、単なる手段となる。共生が破壊されるところでそれは常に起こる。匿名の活動は無意味であり忘却に曝され、そこで語られる物語はない。 |
№71 |
第五章 活動第二十五節 関係の網の目と
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●人間の「その人が誰であるか」(正体)を語ることのできなさは、人間事象の領域に大きく影響を及ぼす。この領域は活動し語る場所であり、私たち人間が意のままにできる場所ではない。このことは政治のみならず人間が共生する事象の不確かさや困難を引き起こす。この困難は労働など確かで生産的な行為とは異なり、活動そのものから生じ、その意図を失望させるようなものである。 ●人間の中間には第一の介在者(客観的な利害)が存在し、活動者と言論者はそこに登場する。 ここで活動と言論の結果、私たちが結果的に必ず「誰」(正体)をも表わすことで、第二の中間物が生じる。これは物の世界と同じくリアルである。それを人間事象の関係の網の目という。 ●政治的領域を唯物論的に理解しようとすることの誤りは、人がただ物理的利益を追求している時でも、彼の正体を曝しているのだということを見逃してしまうことである。また、新参者の活動は網の目の縫い糸のようなものであり、それは紡ぎ出されたら人生の物語として語ることが可能となる。 |
№72 平成25年 6月22日 |
第五章 活動第二十五節 関係の網の目と
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●人間関係の網の目にはすでに人間の無数の意図と目的があるため、活動者はほとんどの場合その目的を果すことができない。活動の産物とは目的の実現ではなく、本人には全く意図されなかった物語(自己暴露)である。一人の人間の誕生から死までは語ることのできる物語となる。主人公は物語の性格を決定するが、誰も小説の作者のように自分の人生の物語を作ることはできない。 ●人が人類の物語(歴史・ゲシヒテ)を語るとき、そこには誕生も死もないので、語られようのないものにゲシヒテという言葉を比喩で用いている。歴史の難問は、主人公(人類)は抽象であり、活動のできる人格ではない(歴史は人間によって作られるのではない)ということである。従って近代歴史哲学は「神の摂理」「見えざる手」という概念を導入しなければならなかった。この「時代精神」の導入(捏造)により、歴史が観念化され、個々のバラバラな出来事も語ることのできるような意味の連関の中に置かれた。しかし歴史とは本来、観念ではなく現実の活動、行為から生じたものである。 |
№73 平成25年 7月13日 |
第五章 活動第二十五節 関係の網の目と
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●古い「裏で糸を引く人」(プラトン)の仮説は新しく生まれた歴史(虚構、作者が実際に手に糸を持っている)とは異なる。発明された歴史はその作者がいることを指し示す。本当に起こった歴史と発明された歴史の違いは、後者は考え出されたものだが前者はそうではないということである。 ●歴史が明らかにする唯一の人物はその歴史(物語)の主人公である。彼の人格は活動と言論を通して同時代人に記憶されている。その人の「誰」は私たちは伝記によって知ることができる。 ●物語(歴史)が描く主人公は必ずしも英雄的な性質を必要としない。徳としての勇気は今日は主人公に不可欠と思われているが、当初勇気とは公的領域に入る活動と言論、創始のことであった。 ●ある行為を称賛し変貌させ輝かせることで、その内容は芸術となる。活動と言論による「誰」の暴露は生きた進行の流れと結びついているため、それは模倣すなわちドラマ(劇)によってのみ表現され物化される。従って演劇は「活動する人」の芸術、すなわち政治的芸術である。 |
№74 平成25年 7月27日 |
第五章 活動第二十六節 人間事象のもろさ・1時代と社会は、今、富の独占と、持たざる者の苛酷な貧困化が |
●活動は複数の人間で行われるものである。労働、仕事とは違って「活動」は一人ではできない。強者は一人で活動するという考えは、物を作るように人間を「良く」あるいは「悪く」作ることができるという誤解に基づく幻覚である。強者が仲間の助けなしで失敗するという例は歴史上、数多くある。 ●古典語には「活動」を現わす二つの動詞(「始める」「行う」)があった。やがて活動という語の二面性は二つの意味へ、支配者(創始者)の特権である命令と、臣民の義務である命令の執行という意味へ分化した。同時に、命令者と命令に従う人という関係が現れた。多くの人の力で成し遂げたことを創始者・支配者の功績とすることは差支えないが、それは無数の力の独占なのである。 ●活動者は他の活動者の下で動くので同時に受難者であり、活動と受難は一対である。反応は自動的に反応の連鎖を起こす。活動は無限の網の目で生じるため、その結果は限られた環に留まらず限界がない。数え切れないほど多くの人がそこに関係するからである。 |
№75 平成25年 8月10日 |
第五章 活動第二十六節 人間事象のもろさ・2「2008・秋・リーマンショック」以降、 |
●人間関係の網の目の際限のなさは、関係を作る能力と制限を越えようとする傾向より生じる。法などの制限がなければ共生はそもそも不可能であるが、それは新世代の攻撃に対して十分安全なものでは全くない。制度や法の脆さの原因は、人間の誤りや弱さではなく、新しい世代がこの領域に入り込み活動(それは新しい始まりであり安定化が目的ではない)を行なうことにある。 ●制限や法は、活動の「不可予言性」(活動の結果を予見できない)を防ぐことは全くできない。不可予言性とは、活動により不可避的に作られるものであり、人間に休む間を与えない物語の進行による。この物語は、活動の唯一の目に見える結果である。確実な終わりは死であると分かっていても、私たちを未来に向かわせる。仕事の過程では進行が予め定められているのと反対に、活動のプロセス(物語の意味)は活動が終わってから初めて明らかになる。それは物語に直接関わる人ではなく、最終的に物語を概観し語る人(歴史家や語り手)が知ることになる。 |
№76 平成25年 8月24日 |
第五章 活動第二十七節 ギリシア人の解決・1人間の生きる喜びや幸福とは何か?を明らかにする |
●活動の不可予言性(活動の結果を予言できないこと)は、活動者が自分のどのような正体をさらしているのか分からずに自己暴露をしていることと密接に関係がある。 ●エウダイモニアという言葉は、私たちのいう幸運や健康、息災を意味していない。それは本人以外の人にのみ見える神霊(ダイモン)の心身の健康、健全を意味している。一時的な幸運を意味するのではなく、人生そのものであり、人生のもたらす移り変わりや人間によって直接もたらされるものではない。この人物のアイデンティティの本質をなす存在は活動や言論で現れる。それが触知できる形ではっきり見えてくるのは物語が終わった時点での生の物語においてである。 ●自分の物語を残し不死の名声を得ようとする人は、アキレウスのように短い生と早い死を選択しなければならない。人間の活動は網の目の中で新しい始まりとして現れるだけである。幸福を確かなものにしようとするならば、最高の努力と人生の終わりが同時に起こるようにすることである。 |
№77 |
第五章 活動第二十七節 ギリシア人の解決・2現代社会の「思考の枠組み」(パラダイムシフト)の起源とは? |
●人間は、活動によって「その人が誰であるか」という正体whoの暴露を行う。自己暴露は活動の目的ではないが、活動者の暴露が重要であるとき、全ての活動は意図された目的を達成するのである。これが古代ギリシアの競技精神、政治活動の原型となる。 ●ギリシア人は立法を本来の政治的行為と見なさなかった。彼らにとって立法者とは市の壁の建設者と同じであり、その仕事が終わってから本来の政治活動が始まるのであった。法・壁とは活動の産物ではなく仕事の産物であった。従って立法者と壁の作成者は外国人でも良かった。 ●一方、プラトン・アリストテレスは、都市建設者と法作成者を彼らの政治哲学の中心に置いた。彼らはローマの考えを先取りしたのではなく、政治的なものとポリスの活動に反対していた。立法は仕事の形で行われるために優れて信頼性をもつと思われた。活動の脆さ、無制限性、不可予言性を改善しようという哲学の知恵は、活動を断念(放棄)しようという結論に至ったのである。 |
№78 平成25年 9月28日 |
第五章 活動第二十七節 ギリシア人の解決・3「法」の本質とは何か?古代ギリシア「法」を「製作」と |
●ソクラテス学派(プラトンら)の「活動の脆さ」に対する救済策は、立法(仕事)を活動の中心に据えることであった。この策は人間関係の本質を破滅させてしまう。好例はアリストテレスの慈善の例である。慈善家は命を救うという仕事をしたことになり、母が子を愛するようにその相手を愛するが、相手は慈善を受けるという行為に耐えただけであり忘恩の結果となる。ソクラテス学派のこうした考え方は、活動すなわち脆い人間関係は必要でも望ましいものでもないと考え断念した結果である。 ●人間事象の脆さに対する哲学以前の救済策はポリスの創設であった。ポリスとは人間の共生が言葉と行為の共有に基づくという確信に基づいて成立したものである。ポリスの課題は、不死の名声を得る機会を与えたこと、忘却への救済策を作ることであった。ホメロスの詩が伝えているのは、トロイ戦争のような偉大な企ても、詩人が現れなければ忘れ去られるということである。ポリスの使命は活動を詩の芸術への依存から解放することであった。 |
№79 平成25年 10月12日 |
第五章 活動第二十七節 ギリシア人の解決・4「人間にとって「存在するもの」とは何か? |
●ポリスはトロイ戦争から帰還した人々の組織化された記憶であるということが、ギリシア人自身の考えるポリスの意義である。ポリスが人々に保証しているように見えたものは、人間の行為の最も儚いものである活動と言論が不滅、不朽の中に直接入ることができるということである。 ●ポリスの中で保証されるリアリティとは同時代人が共に居ることである。ポリスの領域は登場があり退場のない絶え間ない舞台に似ている。各人が観客であり、同時に共に活動する人である。 ●活動とは世界の公的部分をなすものである。壁や法は後から作られる。ポリスは地理的な意味の都市ではなく、共に活動し共に語るところから生じる全住民の組織構造、「現れの空間」である。 ●この空間がいつどこにでも存在するという考えは誤りである。生きている人の大部分(奴隷、労働者、現代の就業者)はこの空間に住んでいない。現れの空間の外に住む人に欠けているのは生命感情ではなく、リアリティの感情(様々な人に同一の世界が現れるということ)である。 |
№80 平成25年 10月26日 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・1「人間にとって「権力」とは何か?「支配者が被支配者に加える強制力」というのは、 ローマ以降の「暴力概念」のことである!! |
●人が活動し語りながら互いに行き来するところには必ず「現れの空間」が生じる。これは人間が建設した空間とは異なり、進行中の現在性のことであり、そして国の基盤となる。人々がいなくなった時に初めて消えるのではなく、それを成り立たせる活動が停止した時に姿を消す。 ●権力(power)とは、現れの空間を人間へ呼び寄せ保持するものである。権力が実現されるとは、言葉と行為が互いに結びつき、言葉がリアリティの暴露のために語られ、行為が新しい関係を樹立することである。権力は潜在能力であり、人間が共生する時に発生し、人間が散っていくと消滅する。蓄えておける暴力の手段や個人の体力とは異なり、不変なもの、測れるもの、信頼できるものではない。権力は誰も所有することができず、それが現実にある間しか存在しない。 ●権力は物質的要素とは無関係である。小さいがよく組織された集団が大帝国を支配できる。ダヴィデとゴリアテの物語は比喩として、人間集団の関係に置き換えた場合に真実である。 |
№81 平成25年 11月9日 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・2古代ローマ以降、現在の政治権力の無能と、ノーベル賞 |
●権力(power・威力、影響力)が生じるのに不可欠な前提条件とは人間の共生それ自体である。活動の束の間の瞬間が過ぎ去っても人間の集団を結びつけるのは権力即ち組織である。いかなる正当な理由であっても孤立を求め共生に参加しない個人は無力となる。 ●もし権力が人間の潜在能力以上のものであり、体力や実力のように所有でき行使できるものであれば、人間の領域に全能というものが出て来るだろう。このような全能を得ようと努めることは、唯一神の属性においてのみ考えうるものであり、「複数性plurality(人間が複数存在すること)」それ自体の破壊である。しかし権力は他の人間集団という限界を持っている。権力とは最初から「複数性」が条件であるためである。また、個人の体力は複数者の権力に負かされてしまう。 ●権力と匹敵する唯一のものは個人の体力ではなく実力(暴力に特有の力)である。暴力は権力を破壊することはできるがそれに取って代わることはできない。無権力と暴力の結合は暴政である。 |
№82 平成25年 11月23日 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・3現代の大衆社会・消費社会は、「暴政」の無能な権力と無能な実力がつくり出したことを明らかにするアーレントの「権力論」!! |
●モンテスキューによれば、暴政の顕著な特徴は、支配者と被支配者、及び被支配者相互の孤立である。暴政の国家形式は、それがどんなに正統なものであっても、政治の本質、複数性、人間の共生に対立しており、その否定の芽を生み出す。権力は暴力によって破壊されやすい。 ●暴政は必ずしも生産性の無さや個人の弱さを意味しない。独裁者が啓蒙されていれば、芸術や学問が栄えることはできる。個人の体力は様々な方法で暴力に対処することができるからである。 ●権力(複数の人間の力)は体力(個人の強さ)を全滅させることができる。国家形式が権力の形成物であれば、個人は自らを引き立たせることはできない。ここで生じる個人による「権力への意志」(ニーチェ)は弱者の悪徳であり、政治的に影響を及ぼせば最も危険なものとなる。 ●暴民支配とは、体力を権力で埋め合わせる試みであり、ここでは個人の競争が決定的となる。何もできず何も知らない者が前面に出るようになり、良き思想家や芸術家の力は失墜させられる。 |
№83 平成25年 12月14日 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・4共同体、共生の成立と存続の条件とは何か。 |
●権力とは人間の現れの場である公的領域をもたらし保つものであり、世界を生きたものにすることである。人間に住まれず話し合われることがなければ世界は無関係なものの堆積に過ぎない。そして人間の間で起こることは、憂鬱な徒労の暗闇に留まるだろう。説教者ソロモンの心痛を紛らす知恵が語るように、人間の世界がなければ「日の下に新しいものはなく」、すでに起こったことが言語化されなければ「人は以前に起こったことについて考えない」。 ●人間の「現れの空間」を保たせるのは権力であり、これは人間が集まり活動・言論を行うときに輝き、人々が散っていくと全く突然に暗くなる。権力への信頼ほど稀で儚いものはなく、「権力は腐敗する」という確信ほど近代に一貫しているものはない。しかしかつて、古代ギリシアの時代に、人間は活動しつつ自らの偉大さを表現するという高い信頼があり、この経験のために言論は動物と人間の違いだと見なされ、政治への尊厳は今日もなお忘れ去られていないのである。 |
№84
平成25年 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・5人間の脳は、なぜ「共同体」と「共生」を思考、行為の |
●古代ギリシアの将軍ペリクレスの演説で明らかになったことは、行われた行為と話された言葉の最も深い意味は成功や失敗といった結果からは独立しているということである。様々に振舞うことのできる行為が道徳的尺度で判断されるのとは異なり、活動は偉大さという基準でのみその本質が理解される。歴史家トゥキュディデスがアテネの名誉について述べた時、活動は通常のことが破られて異常なことへ突き進むことがなければ成立しないということを指し示していたのである。 ●政治の術は、人間の偉大さ、最高の像を得るための苦労を人に示しているため最高の術である。ポリスが存在し人に異常なことを行なうよう促す限りこの像は長く続き、全ては正当となる。ポリスが滅びると最もはかない最高の人間事象は全て失われる。行為の動機や目的・結果は残るが、それらは純粋で立派かもしれないが唯一のものではなく典型的なものである。唯一性にふさわしい偉大さとは動機や目的にあるのではなく、行為が行われる遂行の仕方そのものにある。 |
№85 |
第五章 活動第二十八節 権力と出現の空間・6吉本隆明が定義した「人間の存在の仕方」とは |
●生きた活動と語られた言葉は人間ができる最高のことだということは、アリストテレスの概念「現存性(エネルゲイア)」によって述べられている。それは目的も追わず、最終生産物も残さず、その完全な意味はその実行そのものにある。アリストテレスは、政治(複数の他者との共生)において重要なことはこの「人間の作品」であると述べ、これを「良い生」と呼んだ。この遂行の現実性以上に到達はできないないのであり、この目的(徳)に到達する手段とは言い換えればすでに目的である。 ●プラトンやデモクリトスの政治哲学が述べるように政治の術(活動と言論)とは製作されたものではなく、巨匠的技量というものであり、医術や航海術、踊りや劇のように遂行される術であった。近代(アダム・スミス)はこうした仕事を「食っていけない」、寄生的で下男下女の最低で非生産的な仕事だと考えるようになった。近代社会では深く軽蔑される「巨匠的技量」であるが、ギリシア・ローマの古典古代はこの中に人間の最高で最も偉大な可能性の現前を見たのである。 |
№86 平成26年 1月25日 |
第五章 活動第二十九節 〈工作人〉と出現の空間・1現代人の生きられ難さ、生きることの放棄は |
●古典古代の政治に対する評価は、人間の唯一性は活動と言論において現われるという確信、および、これらの行為はその儚さに関わらず不滅・不朽を特質とするという確信に基く。人間が現れる公的領域は、「人間の作品」であり、彼の現れと現存化は人間が成し遂げる最高のことである。 ●これに対し「工作人」は「人間の作品は人間以上のものである」という信念で、「労働者」は「生命が全ての財の中で最高のものである」という信念で対立している。だからといって労働者と工作人が公的領域なしで済むということにはならない。活動と言論への信頼がなければ、人間は外界のリアリティも自身のアイデンティティをもつこともできないためである。 ●私たちが世界のリアリティを認識し測ることのできる唯一のものは共通感覚common senseである。これは私達が主観で受け取るものを客観的で共通の、現実のものへと組み立てる。健全な人間の知性の減少が示しているのは、共通感覚の崩れ、世界との疎遠、主観への引きこもりである。 |
№87 平成26年 2月8日 |
第五章 活動第二十九節 〈工作人〉と出現の空間・2アンガス・マディソンの経済史「人類は、産業革命以降、 |
●世界疎外(現れの場と共通感覚の衰え)は、工作人の社会よりも労働社会において極端な形をとる。工作人がどれほど孤独の中にいても、彼はまだ物の世界や他者との共生に結びついている。 ●商品市場と交換市場は工作人の公的領域である。ここで起こること(売買という交換)はもはや製作に結びつきそこから生じたものではなく、むしろ「活動」(商い)である。商いという活動は、労働の過程から自動的に生じる純粋な消費という生命への配慮とは原理的に異なっている。 ●しかし商品市場が呼び集める人々は人格(人物)ではなく生産者である。彼らが市場に持ち込むのは生産物であって、彼らの能力や質、「その人が〈誰〉であるか」(正体)ではない。工作人を市場へ駆り立てる力は他の生産物への関心、交換の力である。これをマルクスは自己疎外と呼び非難した。商品交換の優位は人格(人物)を公的領域から締め出し、家族や友人関係などの私的領域へと追いやった。このように近代社会は古典古代からの社会的な逆行に基づいている。 |
№88 平成26年 2月22日 |
第五章 活動第二十九節 〈工作人〉と出現の空間・3古代ギリシア人が史上初めて現前化した「共同体」は、 |
●生産社会や商業社会で本来の人格(人物)を貫くことがどれほど少ないかということを説明するのは、近代において、「天才」(芸術家。工作人の頂点)を人間の本来の理想と見なす現象である。この現象は古代でも中世でも異質なものであった。20世紀になり「天才」の卑俗化、商業化、および、社会の労働社会への変化により、芸術家たちは再び天才と呼ばれることに抵抗するようになった。労働社会には、創造の神格化は遠いだけでなく、偉大さの概念も欠けているためである。 ●「天才」(芸術家)が仕事人と異なるのは、仕事人には唯一性と比類のなさが欠けていることである。近代は芸術家の唯一性に関心を持ち、従って芸術家の署名に憑かれ様式に敏感となる。 ●天才における彼の唯一性の超越は、芸術作品を他のどの形成物よりも目立たせる。この超越性のために、天才の現象は、「作品はそれを作った人間以上のものである」という確信となっているのである。(しかしこの確信は間違いであり、このような誤解は天才にとっての真の苦境である。) |
№89 平成26年 3月8日 |
第五章 活動第二十九節 〈工作人〉と出現の空間・3「ネトウヨ」(ネット右翼)という脳のウェルニッケ言語野の |
●近代の天才(芸術家)に対する偶像崇拝的な尊敬に正当な根拠があると思えるにしても、人が「その人が誰であるか」を自分で物化し対象化することはできないという基本的事実は変わらない。アイデンティティの表明も作者の人格的要素については語らない。天才崇拝は、商業社会における人格の降格(格下げ)の表明である。 ●人物(人格)の完全さというのは、彼が生まれたときに持ってきたものを現実化し保つということ以外で成立することはない。これを我々は通常誇りと呼ぶ。誇りとは、「その人が〈誰〉であるかが、その人が為すことを超える」という信頼の中にある。自分の為したことを誇りに思うのは下品な人であり、彼は自分の能力の奴隷か囚人となる。 ●天才的才能のある人の場合、人物と作品の関係が逆になりうるが、このことは彼の苦境である。偉大な才能の人が人格の尊厳を救出する方法は、この重荷から遠ざかり自分の作品への主導権を保つことである。これがうまくいくのは創造の源泉が尽きない時である。天才の苦境が本物であることは、作品と人物の関係が決定的に逆転した知的な人(インテリ)の場合に現れる。人に憎まれるのは、見せかけの知的優位よりむしろこの場合である。 |
№90 平成26年 3月22日 |
第五章 活動第三十節 労働運動・1「2008・秋・リーマンショック」以降の世界経済をどう見るか?その理解のための「抽象名詞文」と論理を学ぶ!!経済社会は「労働とその集合」を富の源泉とする。 |
●仕事(製作)は世界と結びついており、反政治的(複数の他者との共生の関係がないこと)ではない。反政治的であるのは労働である。確かに〈労働する動物〉は他者と共に居るが、これは真の複数性pluralityの印ではない。労働において他者と共に居ることはむしろ、種の一つである「ヒト」を単に何倍にもすることである。 ●労働で最も自然な組織形態は労働の集団であり、そこでは任意に選ばれた一定数の個人が「あたかも一者であるように共に振舞う」。労働の進行は、個々の労働者が個別的なアイデンティティを消すことを要求するものである。この社会性への進行は平等ではなく同一性samenessに基づいている。同一性とは「鎖につながれた犬が狩猟犬と違わないとのと同じくらい、荷物運搬人は哲学者と違わない」(アダム・スミス)ということである。 ●労働のリズムがもたらす労働者の全体への融合は労働の苦痛を軽くするが、それはちょうど集団で行進すれば行進の苦痛をある程度取り去るようなものである。それゆえ労働する動物にとって「労働の意味と価値は全く社会的条件次第である」。それは摩擦なく、労働と消費の仮定を可能にするという条件である。 |
№91 |
第五章 活動第三十節 労働運動・2「一九五六年・ハンガリー革命」とは何であったのか? |
●人間が一つの労働集団への融解するということは、人間の複数性(一人として同じ人間はいないということ)の放棄であり、共同体の反対物である。共同体とは、二人の医者の間のものではなく、一人の医者と一人の農夫というように、異なって等しくない人々の間のものだからであり、すでに在る差異を調整する「平等」による。平等とは「同一性」(死の前の平等や神の前の平等)の反対物である。同一性が支配するところでは、他者との意思の疎通、共同体は存在しない。 ●歴史上まともに取り上げられる奴隷反乱は存在しなかったのに対し、近代の労働運動は重要な役割を果たしている。1848年から1956年(ハンガリー革命)、ヨーロッパの労働者階級は最も輝かしい唯一の章を綴った。彼らが最終的にもたらしたのは、労働階級を近代社会へ入れたことである。彼らは利益政党であり社会の変革に関心はなかったが、この革命の進行の中で突然、現代の状況下での民主的な国家形式の独自の観念を作ることができた。これが革命的なことである。 |
№92 平成26年 4月26日 |
第五章 活動第三十節 労働運動・3革命とは何か? |
●人が簡単に見過ごしてしまうのは、百年以上前から驚くべき民族革命、すなわち政党に取って代わるものとして評議会制度の提案が起きているということである。しかし、労働組合が例がないほど成功しているのに対し、評議会運動は経済的改革を超えた要求を叫んだ時に決定的に敗北している。ハンガリー革命の悲劇が世界に示したのは、多くの敗北にも関わらず、その政治的高揚がまだ消えていないということのみであった。そうでなければこの犠牲は行き倒れていただろう。 ●労働者階級の政治的生産性と、労働行為の反政治的本質の矛盾は、古代の奴隷運動と近代の自由な労働の違いを見れば解消される。それは、労働者は階級による制限選挙権の廃止により政治的に解放されているということである。選挙権が財産資格に基づいている間は、労働者の地位は古代の解放奴隷と似て市民ではなかった。古代の解放奴隷とは異なり、近代の労働者はまず労働自体を解放した。そして労働者のままで地位を向上させ、ついに完全な人権を獲得した。 |
№93 平成26年 5月10日 |
第五章 活動第三十節 労働運動・4労働する者の無世界性と大衆化は、 |
●労働運動により人間は「同権」を手に入れた。このことの意味は、新しい住民の部分が突然に公的領域に入ることを許されたということに留まり、彼らが経済社会に入ることを許されたわけではない。この単なる現れの意味を物語るのは、フランス革命時のサン=キュロットのように、服装で自分が他と異なることを示したということである。 ●労働運動初期のパトスは、社会に対する意識的な対立から生じている。彼らが短い期間に不利な状況から成長したのは、彼らが経済的利益を代表したのみならず、政治的に参加し、人間としての人間として活動した唯一の集団だったからである。彼らの源泉は労働にあったのではなく、社会の不正や虚偽に対することにあった。 ●この虚偽や不正は、階級社会から大衆社会へと変化するにつれて消えている。労働者は年給を保証されており社会の成員になっている。従って労働運動は今日、必然的にその政治的意義を失っている。労働者はもはや(ハンガリー革命の時にはすでに)「人民」(フォルク)を代表していない。労働者は西洋では自立し社会的・経済的な権力の位置に立ち、ロシアでは全住民が労働社会へと溶解している。これは公的領域の徐々の死である。 |
№94 平成26年 5月24日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・1この世界に一体、なぜ、「支配」と「被支配」という思考の |
●活動に固有のアポリア(解決困難性)である不可予言性、不可逆性(ひとたび始められたプロセスを元に戻すことができないこと)、及び生じたことへの個々人への責任を突き止められないことは、とても基本的な本質であるので非常に早くから人間の注意を引いてきた。思考の人のみならず、活動者も、活動の代替物を探したいという誘惑にかられてきた。それは、活動によって生じる危険や無責任性から、人間事象を救出したいという望みであった。 ●このアポリアの本質は単純であるため、その解決のために提供された試みは常に同じものとなる。それは、多数者の活動を一つの行為にとってかえ、一人の人間が他者の妨害から引離されて初めから終わりまで自分の行為の主人となることである。この試みは、民主主義に対する論争の歴史の中を赤い糸のように貫いている。その議論は証明力があればあるほど、政治そのものに対する異議に容易に変わるのである。 |
№95 平成26年 6月14日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・2現代で、政治といえば「支配する人、支配される人」の |
●活動のアポリア(解決困難)は複数性という人間の存在の条件のために起こる。それゆえ複数性の王になろうという試み(君主制や一人支配)は、公というものを廃止しようとする試みと同じ意味である。プラトンの提案による哲人王の「知恵」による支配は、残酷ではないが(最も「進歩的」に見えることもありうる)、決して非専制的というわけではない。専制の直接の利点は生産性、安全、安定など明らかである。しかし個人を私的な生業へ専念するよう甚だしく要求する。これは潜在的権力の喪失を準備しているということであり、ここでは遠い将来の危険が準備される。 ●人間事象を非政治的秩序の導入により安定させたいという誘惑はあまりにも大きいので、プラトン以来の政治哲学の大部分は、政治そのものを理論的にも実践的にも廃止しようという試みと提案の歴史であったと簡単に解することができる。こうした政治は支配であるべきだという伝統的考えは人間への軽蔑に基づくのではなく、活動への不信、活動を廃そうという努力に基づくのである。 |
№96 平成26年 6月28日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・3「オウム真理教の地下鉄サリン事件」は、なぜ、 |
●製作(一人の人間による活動)を複数の人間の活動に取って変えようとする努力はプラトンの『政治家』で表現されている。ここでは活動の二つの段階(始めることと実行すること)が、二つに完全に分けられる。そこで大切なことは創始者がその行為を遂行する人々から距離を保ち絶対的に独立すること、彼らを意のままにすることである。この状況下では政治は「術」へと下降する。プラトンは人間を「知る人」と「行う人」に分けた。彼は、行為と知という正反対物を、活動と思考そのものにまで拡張し、支配者と被支配者の隔たりと同一視した。 ●この理論のモデルとなるのは古代ギリシアの家庭である。家長のみがなすことを知り、彼は指示されたことを行う充分な奴隷をもつ。プラトンは家庭を司る規則をポリスに適用した時、革命的な変革を提案しているのだということに気づいていた。彼は家族を廃止しようとしたのではなく、ポリスの市民が一つの家族の一員であるようにしたのである。ここではどのような活動も排除されている。 |
№97 平成26年 7月12日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・4今、誰もが当り前であると思っている「支配と被支配」という |
●プラトンのユートピアは秩序がもたらされるという長所があり、「多数者が一者となる」。ここで見過ごしてはいけないのは、このユートピアにおける支配のカテゴリーは、道徳的なことも含め、全ての人間関係の秩序と判断が支配の法の下に置かれるということである。プラトンは国家の本質は人間の心の体制(理性が熱情を支配し、魂が身体を支配する)と一致すると考えたためである。 ●プラトンの支配の理論の合法性(始める者が支配の権利を与えられている)は、ギリシア語「アルケイン」の二重性、即ち支配することと始めることは同義だと示唆していることに基づく。伝統の中ではこの支配と始まりの同一性は消え、古代世界の終焉の後で、支配概念から始まりの要素は完全に消えた。この喪失により、政治思想は人間の自由の力の最も基本的かつ根源的な経験を失った。プラトンの知と行為の区別は今日まで全ての支配試論の根として保持されている。この理論の粘り強さは、プラトンが製作の領域にその事例を求めたことに理由がある。 |
№98 平成26年 7月26日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・5プラトンの『国家』、アリストテレスの「政治支配」は、共同体、共生を脳の働き方から取り除き、被支配者を半・奴隷と |
●人間事象に、仕事(製作)に固有の耐久性や秩序を与えるようとするプラトンの努力は、イデア説の概念を政治に適用した時に最も明瞭となる。イデア説において、プラトンは光の二つのメタファーを用いた。一つ目は「美」、二つ目は「善」であり、後者に従い政治的な活動は行われる。 ●プラトンの哲学では政治哲学でのみ善のイデアは最高のものと見なされる。洞窟の比喩では、哲学者は物の本質すなわち美を見るためにイデア界に行くが、洞窟の中に戻れば彼が見たものは基準、規則へと変わる。これはイデアの哲学的概念を政治に適用するということである(イデアを製作のモデルに使うか、実用政治の基準に使うかに大きな差はない)。ここでの利点は、支配概念から人格的要素を取り除けるということである。支配者は非人格的な理性の要求へと変わる。支配は一種の神というアナロジーにより支配者と被支配者が分けられる。国家がひとたび建設されたら、大切なのはいつの時代にも持ちこたえる規則を用い、認識された法を執行することである。 |
№99 平成26年 8月9日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・6「長崎県・佐世保市、女子高校生殺害事件」の「暴力」の |
●仕事の経験で得られた概念構造(設計図の通りに現実の物を作るということ)が政治的ユートピアの建設に素晴しく適していることは自明である。プラトンは政治におけるユートピア思考の本来の建設者である。しかしこのユートピアは歴史的に稀に実現した場合にもすぐに現実の人間関係の網の目によって挫折するため、歴史的役割は重要ではない。 ●重要なのはこのユートピアの自己理解と政治思想の伝統における役割である。全ての仕事において基本的前提として暴力が貫いているように、暴力は政治的領域でも重要な役割を演じている。暴力それ自体の賛美は近代以前の政治哲学では程遠いものであったが、近代になって初めて危険な影響を及ぼすようになった。それは、人間は自分が作ったものだけを知ることができ、人間の真実の理解力は〈工作人〉の仕事に依存しているという確信が広まった時である。この特別に近代的な暴力の、活動への侵入は特に、近代に特徴的な革命において決定的なものとなる。 |
№100 平成26年 8月23日 |
第五章 活動第三十一節 活動の伝統的代替物としての製作・7人間の心的異常と心的病気がつくる「目的よりも手段が |
●活動の製作(仕事)の形への転換を証明するのは、近代の政治理論が「目的‐手段‐カテゴリー」を用いずに政治の問題を語ることが不可能であるということと、通俗的な格言が一致して「目的は手段を正当化する」と語っているということである。私たちはこの観念の殺人的な結果を確信する機会をもった最初の世代である。こうした思考の危険を取り除くには、「許されない手段もある」と制限するだけでは不十分である。「目的が全ての手段を正当化するわけではない」というのは逆説である。この中では、ある人がどの手段でも使おうとするのを防ぐのはほとんど不可能である。 ●製作を活動に取って変えようとする希望は、政治思想の伝統と同じくらい古い。確かに近代は人間を初めて〈工作人〉と定義し、仕事の領域を偏見から解放したが、実際はプラトンの時代から人は活動より製作を好んでいた。こうした古代からの製作への信頼が示しているのは、もろくて壊れ易い活動の問題点がどれほど重大で解決不可能に見えるかということである。 |
№101 平成26年 9月13日 |
第五章 活動第三十二節 活動の過程的性格・1「活動の過程的性格」とは、「空間概念の喪失」のことである!! |
●活動(複数の人間の共生)は活動以外の他の何かの目的に至るための手段と堕し、活動は仕事の法則の管理下に置かれるよう試みられた。しかしだからといって、活動が世界から完全に追放されること、そして人間事象の領域が破滅させられることはなかった。 ●私たちが生き始めている未来の特徴は、人間が自然に対して工作人あるいは認識する人として振舞うことでは満足できず、活動者として自然の中に入り、その活動能力(人間がいなければ生じなかった自発的過程を解き放つこと)を自然に向けたことにある。それは実験から始まった。実験とは自然に条件を与え、進行を引き起こすことである。ここから最終的に自然を「作る」本格的な力、地球の自然が明らかに作ることのできなかった過程が発生した。そこで成功したのは、「太陽の中で起こる進行」を地球上で「再現すること」、つまり地球の自然を、人間の介入がなければ宇宙でのみ起こっていたエネルギーにしたということである。 |
№102 平成26年 9月27日 |
第五章 活動第三十二節 活動の過程的性格・2現代人の完全なる無能は、空間概念よりも時間概念を価値と |
●自然科学は今日とりわけ過程の科学となった。その最終段階において、不可逆性の過程の科学となった。自然科学的が研究が今日行っていることを行えるのは「活動」(終わりを知らない過程を始めること、元に戻せない過程を準備すること、自然の営みの中では予見できなかった力を作ること)だけである。そこで分かることは、人間事象の領域のためのものである活動が、自然の領域に入りこんでも同様にその性質を保持しているということである。 ●活動の過程的性格は、近代のほかの全ての領域においても貫いている。過程の概念は歴史学と自然科学の二つの近代科学において決定的な概念となった。ここでは活動の不確実性が決定的な役割を占めている。近代は人間事象の領域は異状な粘り強さをもったものとして評価した。しかし人間は活動によってもたらした過程を元に戻したりコントロールすることはできない。このことは結果を予見することができず、動因を突き止めることもできないという無能力に対応している。 |
№103 平成26年10月11日 |
第五章 活動第三十二節 活動の過程的性格・3近代以降、現代人は、客観の認識と言語の能力をなくして、 |
●活動が引き起こす力は消えず、それどころか一つの行為に従って増え続け、その結果は蓄積され続ける。これは無限であり、人類の存続以外の限界を持たない。私たちがなぜ活動の結果を前もって知ることができないのかの理由は、単に、為されたことは終わりをもたないためである。 ●この人間の活動の巨大な持続力は、もし人間が活動の本質をなす不可逆性と不可予言性を担うことができれば、人間の誇りとなるであろう。しかしこのことは不可能であることを人は常に知っていた。活動している人は誰も自分が行っていることを知らない。彼は必ず責任がある。結果がどれほど重大なものであってもそれを元に戻すことはできない。彼の行為は彼一人のものとはならない。彼が行ったことの意味は歴史家(後から物語を語る人)の目にのみ明らかになるのである。これらは全て、人間事象の領域を疑いをもって遠ざける充分な理由となる。人間は自由という能力をもつが、そのために人間関係の網の目に巻き込まれ、自分自身の行為の犠牲者となるのである。 |
№104 平成26年10月25日 |
第五章 活動第三十二節 活動の過程的性格・4現代人は、一体、なぜ、「自分を支配する人」と見なし、 |
●活動は新しい始まりという仮象をもつが、それはすぐに関係の網の目の中に巻き込まれてしまうという非難が西洋思考の伝統を貫いている。自由は、活動を放棄した者だけが保持するうことができるように見えるため、人間間の領域に距離を保つべしというストア派のような助言もある。ここには自由と主権の同一視という基本的な誤りがある。主権と自由が実際同じものであれば、人間は自由ではありえないだろう。どの人間も主権を有していないが、それは地上に住んでいるのは一人の人間ではなく複数の人間だからである。伝統が唱える人間の弱さとはこの複数性に他ならない。 ●この忠告に従い、複数性の結果を克服しようと真面目に努めれば、そこでは他者への好き勝手な支配が出てきてしまう。あたかも現実の世界を、他者が全く存在しないような想像の世界と交換するかのようである。しかし人間が自由を行使すれば不自由に巻き込まれるからといって、人間的自由を否定することは、自由であるからといって主権を主張することと同様に不可能である。 |
№105 平成26年 11月8日 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・1現代人が「私はあの人を許す」と一神教の神のように |
●〈労働する動物〉がその強制的な労働と消費の永遠の循環という苦境から解放されるのは、〈工作人〉の世界を作る能力による。また〈工作人〉が「全ての価値の低下」という苦境から免れるのは活動と言論による有意味な物語の創出という能力を動員することによる。 ●活動とそれに固有の苦境の場合は、それに対する救済策は、他のより高い能力からではなくて、活動そのものの可能性から生じる。不可逆性(人が自分が何を行っているのか知らず、知ることができなかったにも関わらず行なわれたことを取消すことができないこと)に対する救済策は、許すという能力にある。不可予言性(全ての未来の混沌とした不確かさ)に対する救済策は、約束をし、守るという能力にある。この二つの能力は、一方が過去に関係があり、もう一方は未来に道案内を打ち立てるために、互いに緊密な関係にある。もし許しがなければ、その罪はダモクレスの剣のように、各々の新しい世代に上にぶら下がり、彼らを最終的に自分の下へ埋めてしまうであろう。 |
№106 平成26年 11月22日 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・2「許し」と「約束」の共同体の概念の本質と根拠を |
●もし私たちが互いに許し合わず、私たち自身の行為の結果から互いに解放し合わなければ、私たちの活動の能力はたった一つの行為に限定されてしまい、その結果は私たちをその生命の終りまで追跡するであろう。もし私たちが約束をして自分たちを不確かな未来に結びつけることがなければ、私たちは自分のアイデンティティを保持することができないであろう。これら二つの能力は複数性という、共に存在し共に活動する他者の存在という条件の下でのみそもそも働くことができる。誰も自分を許すことはできないし、自分との約束に結び付けられていると感じることはできない。 ●許し約束する能力は、プラトン以来の「道徳的な」尺度とは原則として異なる。プラトンの尺度の出所は、自分自身との関わり(自己支配)の領域である。これは複数の人間を一者と見、自己支配の方法が他者への支配を正当化するというものである。彼のユートピアが現実に対して盲目であるのは、そこで基準となっているのは他者との関わりではないからである。 |
№107 平成26年 12月13日 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・3「許し」はなぜ必要か?人間が公的に生きる能力として |
●活動の能力を人間事象の領域以外で作動させることは甚だしく危険である。近代の自然科学と技術は、不可逆性と不可予言性を、行なわれたことを元に戻す手段のない領域へと運んでしまったように見える。このような試みにおいて示されることは、活動に固有の救済策がなければ、人間を圧倒するのみならず人間の条件を破壊してしまう力がいかに巨大であるかということである。 ●許しが人間事象の領域の内部で何を成し遂げられるかを最初に発見したのはナザレのイエスである。この発見が宗教的な文脈で語られたということは、それが全く現世的な意味で真面目に受け取られなくてもいいという理由にはならない。西洋の政治哲学の伝統は、イエスの教義を含め、とても基本的な性格をもつ真の政治的経験を排除してきた。イエスの説教のある側面は、キリスト教の福音とは関係がなく、弟子たちの原始共同体の政治的経験に基づく。福音書以外では、許しの重要性の洞察の軌跡は、古代ローマ人の「敗者を大事にすること」の原理に見られる。 |
№108 平成26年 12月27日 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・4ナザレのイエスの「許し」の定式「悪意ある誹謗、傲慢による |
●イエスが主張したのは、第一に神だけが許す力を持っているのではないということ、第二に、人間同士のこの能力は神の慈悲に起因するものではないということである。人は、神が許し、人も同様にふるまうべきだから許すべきだというのではなく、逆に、神は「私たちが私たちの罪人を許すように、私たちの罪を」許すのである。「なぜなら彼らは自分の行なっていることを知らないからである」という洞察が、人間が互いに許し合わなければならない本来の理由であることは疑いない。 ●許しの義務は、故意の悪と犯罪には適用されない。悪と犯罪は、イエスによれば最後の審判によって、各人の行いに応じて報いられるのである。しかし過ちは日常的な出来事であり、活動の本性から生じる。過ちは許しと忘却を必要とする。人間が自分の行なっていることを知らずに行なった結果から互いを解放することがなければ、人間の生は歩み続けることができないからである。許しによって人間は自由であり続けることができ、活動の能力を手にすることができるのである。 |
№109 平成27年 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・5「許し」「復讐」「罰」とはこのように理解する!!の |
●過ちとそして過去の行いに関して言えば、許しに対する自然な反対物は復讐である。それは反動の形で行なわれ、そこで全ての参加者はたった一つの行為の鎖につなぎとめられ、もはや活動することはできない。自然な自動的反応としての復讐とは異なり、許しは新しい始まりを表現しており、計算できず、起源としての初めの活動に匹敵する唯一の反応である。そして許す者と許される者を解放することができる。復讐は自ずからは決して終局に達することはない。 ●許しの唯一の真の代替物は罰であり、永久に続いていくであろうあるものを終わらせる。私たちは許すことができないものは罰することはできないが、これはカント以来「根源悪」と呼んでいるものである。根源悪とは、人間間の力の領域を破壊するというものであり、次の行為を不可能にする反行為である。これについてはイエスと共に「石臼をその人の首につけて海に投げ入れる方がましである」と言うしかない。言い換えれば、彼は生まれて来なかった方がましだったであろうということだ。 |
№110 平成27年 1月24日 |
第五章 活動第三十三節 不可逆性と許しの力・6マグダラのマリアは、なぜ |
●許しの中心にあるのは罪ではなく許される人自身である。イエスは許しのこの人格的な要素を罪の女のエピソードにおいて愛との関連へと持ち込んでいる(「この女は多く愛したからその罪の多くは許される」)。愛が許しの力をもつのは、「その人が誰であるか」への比類なきまなざしが特有のものだからである。愛の鋭いまなざしは、私たちを他者と結びつける「間の空間」を全て無くしてしまう。それ故愛だけが許しの力をもつとすれば、許しの力は私たちの考察の外に留まるであろう。 ●愛に対応するのは、より広い人間事象の人間関係の「尊敬」である。尊敬は距離の遠い位置から見られる「その人が誰であるか」への敬意である。愛および尊敬において、私たちが活動と言論の中で暴露する「その人が誰であるか」がまた許しの対象でもあるということは、なぜ誰も自分自身を許すことができないかの深い理由でもある。もし他者(同時代人)がいなければ、私たちは自分自身に閉じ込められてしまい、許しの対象である当の人物がそこには存在しないからである。 |
№111 平成27年 2月14日 |
第五章 活動第三十四節 不可予言性と約束の力・1ウルの人アブラハムは、なぜ、神と約束し、その約束は |
●許しは宗教的な文脈で発見されたために、政治の領域では一度もまじめに取り上げられたことはなかった。それに対し、約束をしそれを守る力は、政治の理論と実践において、伝統的に並外れた役割を果たしてきた。この伝統は、ローマ法が基づいている「契約と条約の不可侵」、およびウルの人アブラハムに遡る。アブラハムは協定の力で人間世界のカオスに秩序をもたらした。 ●不可予言性は、「反抗的で弱気」である人間の心を究明できないことから生じる。その根源は、人が明日はどうなるか分からないという人間存在の基本的な当てにならなさにある。また、活動自体が動く複数性という媒介物のために生じる。一つの行為の結果はそれが起る関係の網の目から生じるためである。人間が自分自身を完全に当てにすることはできないということは人間が自由であることへ支払う代償である。人間が自分の行為の主人でありえないことは、人間が自分と同じような他者とこの世界に住んでいること、この生がただの夢以上であることの喜びへ支払う代償である。 |
№112 平成27年 2月28日 |
第五章 活動第三十四節 不可予言性と約束の力・2約束とは何か?契約とは何か?主権とは何か?
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●約束をし守る能力行わなければならないという課題は、人間事象の中に、自己
支配と他者への支配以外の方法としての秩序を打ち立てることを可能とする。な
ぜなら、約束とそこから生じる協定と契約は、非主権という条件のもとでの自由
にとって適切で唯一な条件であるからである。支配と主権に基づく政治体とは異
なり、約束に基づく国家形式は、人間事象の基本的な不可予言性と人間の基本的
な頼りなさをそのまま残す。約束は、その中に可予言の小島を投げ入れるのである。 ●主権とは個において要求される時は常にまやかしであるが、この主権が互いの 約束の力によって結びつけられた共同体の中では、ある程度限界づけられた程度 まで実現する。主権とは、まだ起こっていない知に対する信頼に対応する。多数者が約束によって結びつけられたような共同体の主権は、どんな約束によっても 結びつけられていない全ての集団に対して疑いのない優位を示す。約束だけが人間を自分自身のために「予測できる」ものにし、未来を意のままにさせる。 |
№113 |
第五章 活動第三十四節 不可予言性と約束の力・3人間の道徳をつくる「徳性」は「約束」の能力の |
●もし私たちが道徳というものを、その時々に通用する風習やしきたりのモーレスの総体以上のものであると理解するのであれば、それは政治の領域では約束をする能力以外のものには基づかない。これは約束以外のより高度な能力や尺度や規則が活動に持ち込まれたものではなく、むしろ、活動と言論一般に関わり合うような人間の共生から直接に発生するものである。 ●もし私たちが活動し話すということがなく、即ちナタリテート(出生)という事実を実現し言葉で表現することがなければ、また、行れたことを元に戻し、過程を部分的にもコントロールする能力を持たなければ、私たちは自動的な必然の確実な犠牲者となるであろう。自然の可死性の中では生も死も、その間の人間存在に特徴的な期間もないからである。歴史的な過程の本質は不可避な必然という特徴を担うものであるということが真実であるならば、そこから結論づけられることはただ、歴史的な時間の中で行われることの全ては、没落に向かうことが定められているということである。 |
№114 平成27年 6月13日 |
第五章 活動第三十四節 不可予言性と約束の力・4人間にとって日常生活の行動秩序とは |
●もし人が人間事象の領域に介入しなければ、それは人々を誕生から死へと不可
避に急がせるような法則に従うしかないであろう。活動の能力が始まるのはこの
場所からである。このことが示しているのは、人間は確かに死ななければならな
いが、しかし死ぬために生まれてきたのではなく、何か新しいことを始めるため
に生まれてきたということである。自然の進行の観点からは、人間の生命期間は
何か珍しいこと、「最もありそうでないこと」であり、あるいは奇跡のように見
える。 ●この奇跡を成し遂げる能力は活動に他ならないこと、これは現世の人間にふさ わしい可能性であることをナザレのイエスは知っていた。この奇跡は結局ナタリ テート、即ち人間が生まれいずる存在であるという事実のことであり、活動によ る新しい始まりが生まれたということである。活動のこの面が経験されるところ でのみ、「信仰と希望」のようなものが存在しうる。そのことを最も美しく簡潔 に表現したのはキリストの福音の宣言、「私たちのもとに子どもが生まれた」である。 |
№115 平成27年 9月12日 |
第六章 〈活動的生活〉と近代第三十五節 世界疎外・1ハンナ・アーレントの警告。人間の「世界疎外」の始まりと |
●三つの大きな出来事が近代の入口に立ち、その数世紀の相貌を決定している。ヨーロッパ人によるアメリカの発見、宗教改革とそれに誘発された教会と修道院の没収、最後に望遠鏡の発明と新しい科学の発展。これらの出来事は近代の始まりを意味するが、現代の始まりではない。これらは多かれ少なかれ途切れない連続性の中に立っており、先例があり、発見者や発明家の先駆者の名前を挙げることができる。 ●それらは歴史の光の中に発生したのであり、あたかも地下の水流が日付けや名前を持たない暗闇から爆発的な力でもって突然に日の光の中へ現われたような現代の出来事に特有の性格を持たないのである。これらの出来事と結び付けられる名前(ガリレオ、ルター、航海者たち)は全く前近代の響きを持っている。彼らに欠けているのは新しいものに対する奇妙なパトスでありる。彼らは全く革命的ではなく、彼らの動機と意図はなおしっかりと伝統に基づいているのである。 |
№116 平成27年 11月14日 |
第六章 〈活動的生活〉と近代第三十五節 世界疎外・2ハンナ・アーレントのメッセージ「人間の世界疎外」の真実!! |
●近代の入口になる三つの出来事の中で、最も人々の注意を引かなかったものは、人間の道具庫に望遠鏡という道具が一つ増えたという事実である。この歴史的出来事を自然の出来事のように測ることができるならば、ここで明らかになることは、人間の地上から宇宙の発見への手探りの初めの第一歩は、速度と勢いにおいて常に成長し、ついにそれは地上における無限の富の蓄積を意義においてはるかに凌駕するに至ったということである。 ●地球の表面の発見と、大陸と海の測量と地図作成は今日においてようやく終わりに達し、私たちの世紀に入って初めて人間はその地上の住処を完全に所有した。そして人間は、地平線を地球儀として手にした。その瞬間に同じ地球が縮み始めた。各人は、特定の国の住民であると同時に同じ程度に地球の住民であるようになった。現代世界は、地球全体を超えて広がってゆく一つの連続体である。そしてこの連続体からは遠さと距離が、速度の襲撃の前に消えているのである。 |
№117 平成28年 2月13日 |
第六章 〈活動的生活〉と近代第三十五節 世界疎外・3世界疎外とは何か?それは、このように始まった! |
●近代初めの発見者や世界周航者をそこへ導いたのは地球の広さであって、地球の縮小の過程の指示者になるほど彼らに無縁のものはなかった。彼らは距離を根絶するという意図は持っていなかった。しかしひとたび測られてしまえば、何も計り知れぬものはない。全ての測定とは遠くのものを集めるということ、近さへと構成することに本質があるのである。 ●この地上の空間の一斉の縮小、交通機関による距離の廃止に先立っていたものは、数、シンボル、モデルによって、人間の理解力が測定の能力をもつようになったことで、物理的に与えられたものを任意の尺度に縮小することができるようになって成立したものである。これは無限に効果的な、そして革新的な縮小であった。それは、それまでは人間の心や精神にとっては無限に思われていたものが、人間に固有の身体的、精神的な偉大な秩序という条件化で扱われるということである。 |
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