■ 相談の事例
「私は、二人の彼がいます。一人は5歳年上の男性です。もう一人は、父親くらいの年齢の人です。5歳上の人には、生(なま)の自分が出てうまくいきません。父親くらいの年齢の男性からは、とても素直で優しいとホメられます。
私は、一人前の女になれるのでしょうか」
(岡崎十四子。27歳。女性。会社員。福岡県大野城市)
(注・人物は仮名です。特定の人物・地域・団体・職業とは無関係です)
■相談の内容
私は、両親とは離れて一人暮らしをしています。自分では明るく、とても人に好かれる性格だと思っています。女の友だちも何人かいて、仲良くできています。
恋人との関係は、今まで何人かの人とお付き合いをしてきましたが、今、2年くらいつづいている5歳年上の人がいます。この人とはこれまでいちばん長く関係がつづいています。
私は、この5歳年上の恋人からは、会うたびに「しつけがなっていない。親の育て方が問題だ」と言われます。
初めの頃は、あんたの方がむしろ変じゃないかと思っていました。
どういうところを「しつけがなっていない」と言われるのかというと「自分の思うとおりに動いてくれないとすぐにイヤそうな顔をして、大声を出して、思うとおりにしてくれるまでいつまでも不快そうな表情をする」ということだそうです。返事をしないし、ソッポを向いて無視する、と言います。そんなことは普通じゃないかと思ってしまいます。ずっとガマンすると夜、寝るときまでムカムカしているし、ケータイのメールや電話で「次は、言ったとおりにする」と約束させるまでそのことを考えつづけるのです。
私には兄がいます。やはり5歳年上です。
「お前、甘えている。いつかそのせいで苦しむことになるぞ」って言っていました。いつもブスッとしていて、口を開くとどなってばかりいました。イヤな兄だとしか思っていませんでした。
私は、小さい頃から母親も父親も自分の思うとおりに動いてくれないとだだをこねていました。両親はがんとして叱ったことは一度もありません。
友だちとはとてもうまくいっていました。ちゃんと自分というものを出せているし、友だちといると楽しかったです。
兄は、そんな私に「外面(そとづら)はいい。でも、いつまでも外と内とを使い分けられていられると思うなよ。いつかつまづいたら立ち直れなくなるぞ」と言いました。
そのうち、つくづく自分の性格の歪みに気づかされるようになりました。何人かの男性とお付き合いをするようになってみると、どの人も一様にすぐに私から離れていくのです。外面(そとづら)はいい、でも家族みたいに深く付き合うようになると、食事だのお茶だのの場面で、私の態度が相手に不快感を与えているようなのです。私が楽しければ楽しいほど、相手の人はなぜか目も表情も固くなっていくのが分かります。どうも、私の性格には、誰から見ても嫌がられて、みにくいところがあるみたいだ、と気づきはじめました。
それを何度も、何度も見せられたら嫌になって、内心バカにして、なんでこんな奴とムリして付き合わなくっちゃいけない?と思われていたようです。ある日、もんもんとして眠れないときがありました。どこからか「死ねば?」という声が聞こえてきました。その日は、朝までろくろく眠れませんでした。
今の彼は、5歳年上です。その人は、私にすっごく意地悪をしました。
彼の性格って変わっている。なんて変な人だって思っていました。ところがよく説明を聞いてみると彼が私にやったことは、全部、私が彼にやったり言ったことばかりだと言うのです。わざと私にやってみせて気づくようにしたのだって言います。
彼は、私の「鏡」になってくれていたのでした。命令口調でものを言う、イバった調子で指示する、話をそらしてちゃんとまともに聞かない、嫌な話のときは断りもなくその場から立って話を最後まで聞かない、パッと話をさえぎって言い返す。「こんなことがどんなに相手をキズつけるかって、考えたことあるか?親のしつけが悪い」とまで言われました。兄の言ったことはこのことだったんだと思いました。
私は、もうひとりの父親のような年齢の男性とのお付き合いがあります。
恋人といっていいのかどうかは、分かりません。もっと別の何かのような気がします。なぜかというとこの人には、私はまるで飼い慣らされた、犬のように何でも素直に聞けるからです。その人には、どんなことでも心から喜ばれることをしてあげたいと思うので、言葉も態度もとても正直にやさしい気持ちになれるからです。その人は、私に「とても優しい女性」と言います。
その人の前では、私のみにくい歪んだ性格は全く出てこないのです。ずっと昔からファースト・レディだったような気持ちになっています。大切にされていると感じます。ここまで大切にされているのならその期待に応えて喜んでほしいという思いがいつもいっぱいです。
私は、5歳年上の彼とは、「好きだ」と言ってくれているのに優しくできないのか不思議でなりません。努力が足りない性格だって言われますけど、もっと別の何かあるような気がします。
「私は、誰となら生きられて、誰とは生きられない哀しみとか、切なさしか感じられない」っていうか、そんなものです。私は、恋愛が怖い、人を愛することが怖い、そんな性格になってしまったような気がします。
● ポルソナーレの「指示性のカウンセリング」とはこういうものです
見城徹(幻冬舎社長)の『編集者という病い』(太田出版)には中上健二や坂本龍一などの作家、ミュージシャンが次々に登場します。作品をとおして浮上する著名人ということではなくて、どこか病的な何かを抱えていてそれが日常的に露出してきていて、その病的な部分と徹底して付き合うという「語り」が書かれています。その病理の何ごとかが「作品」になって生み出されていくというきわどいサスペンスが本になっています。
おそらく、今の現在の日本は、「作品になる」という病理は「脳の働き方」が勝手に吸収してしまっていて「脳機能障害」に収れんしていっているように思えます。インターネットやケータイなどの「マトリックス」が生み出すバーチャルが触媒になって「作品になる」というその直前で脳の働きを退行化させていることが理由になっているように思えます。
事例のような「関係性はある。しかし関係づけはない」という問題は、「右脳・ブローカー言語野の3分の1の記憶のゾーン」(クローズ・アップ。すなわち触覚の認知)という距離の無い対人意識がつくり出す「内容の喪失」といった病気であることは、みなさまにはよくお分りのとおりです。
距離のある関係を適切にとってくれる関係では、脳の働き方が健全に発達していて、知性の能力も向上していく、という体験が語られているのです。 |