●新年のごあいさつ
みなさん、新年おめでとうございます。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
年末年始は、関東は晴天に恵まれて暖かく、しのぎやすい日々でした。日本海側や東北地方の皆さまは、大雪で、おうちで暖かくお過しになられたこととおもいます。
さて2010年(平成22年)の新しい年は、アメリカ発の「金融システムのバブル」が崩壊して2年目の年になります。日本と世界の経済の生産水準は、リーマン・ブラザーズの破綻した年の水準に戻ることはないといわれています。輸出関連の市場と、ローンを中心にした個人消費による需要の消費社会は、向こう7年か8年は戻らないと、おおくのエコノミストは一致して語っています。
●ルビコン河を渡った
日本の経済社会の問題は「需給ギャップが40兆円とも50兆円とも」いわれていることです。この「需給ギャップ」が7年か8年くらいは回復しないといわれています。
それが、長引く失業問題や新卒者の就職難といったことの背景です。
少子高齢化や老齢社会、先進国で最悪の財政赤字、新政権の「バラマキ型の内需拡大政策」といった選挙対策優先の政治に取り込まれて、今年は、どういう未来への展望をもてばいいのでしょうか。
ポルソナーレの『谷川うさ子王国』の谷川うさ子は、そもそも日本と世界の現在の状況をもたらしたものは一体、何か?と問いかけます。今の世界は「パラダイム・シフト」の変換だといわれています。では、その「パラダイム」とは、何であったか?が問題になるでしょう。
ポルソナーレの見解では、世界の経済が第二次産業から第三次産業に移行したことが大きな転換期でした。膨大な貿易収支の利益(資本)が積み上がり、「投資」に新たな概念が生み出されました。
「投資」の新たな概念とは、「低コスト」か「高附加価値」か?ということです。このことは、「新たな投資先が見出されなくなった」ということを意味します。そこに登場したのが「コンピュータ」に代表される「IT」です。
そしてさらに「金融派生商品」(デリバティヴ)です。
●プラグマティズムの影響
この「IT」の登場と普及期でいわれたことは、マトリックスを中心とした「便利」「スピード」「省力化」でした。そしてもうひとつ、「コンテンツ」です。
世界の「投資」は、パソコン、携帯電話、ゲーム機械、音楽プレーヤーに見られるように「マトリックス」を中心に集中して現在に至っています。
そして「コンテンツ」とは、さまざまな「情報」という概念に集約されるもののことで、「マトリックス」の変型版というもののことをさしました。
このような「概念」を生み出したのが、アメリカの伝統的な哲学の『プラグマティズム』です。
アメリカの『プラグマティズム』とは何でしょうか。生活や行動にたいしてすぐに役に立つ「機能主義」というべきものです。それが「金融システム」や「金融派生商品」をつくり出しました。
プラグマティズムとは、一種の実用哲学というべきものです。ジェームス、デューイ、シラーなどが打ち立てました。「知識が真理であるかどうかは、生活上の実践に役に立つか、どうかで決定される」というのが定義です。この「功利主義」ともいうべき「プラグマティズム」が破綻したことの典型例が「アメリカ・金融システムのバブルの崩壊」です。
「アメリカ発の金融システムのバブルの崩壊」の後に何が残ったでしょうか。
「長期失業」「引きこもり」「長期薬物療法による社会不適応の生活」「小子化」「社会的入院」「12年連続の3万人を超える自殺者」「新卒者の就職難」「小中学生の学級崩壊」「WHOの提唱する疫学による障害者支援」「学校教師の休職者の増加」「モンスターペアレンツの増加」などといったものでしょう。
●プラグマティズムはヘーゲルの『精神現象学』の影響を受けた
なぜ、こういう社会現象や社会問題が「プラグマティズム」によるものだといえるのでしょうか。
ITの「コンテンツ」を開発する能力をもたないからでしょうか。
「IT」を普及させることには資本投下をしたけれども、その「IT」で用いられる「コンテンツ」は、表面的な情報であったり、消費されるだけで生産能力をもたないゲームや音楽、病的な悪意をかけめぐらせる匿名の発信などであるからでしょうか?
根本的には、このような「プラグマティズム」を正しく認識して、人間の心や精神の「主体」を守ったり、回復させる「本格的な知性」というものを分かる「知性」が衰弱して、全くの盲目に陥っている「学的な知性」の状況にあるのです。
「プラグマティズム」のもともとはどういう哲学か?というと、G・W・F・ヘーゲルの『精神現象学』(平凡社ライブラリー、樫山欽四郎・訳、上下巻)です。『精神現象学』は、マルクス主義、実存哲学に影響を与えました。これらの哲学は、ヘーゲルの『精神現象学』から出発したのです。
ヘーゲルは『法哲学綱要』でこう書いています。
「ミネルバのふくろうは、夕暮が近づいてきたときになってやっと飛び始める」
「ミネルバのふくろう」とは「哲学」のことです。その時代と社会が衰弱して「たそがれ時」になって、その時代と社会を語るものとして本物の哲学が生まれる、という意味です。
ヘーゲルの哲学は、プラグマティズムの欠陥をこう指摘するでしょう。
「生活に役に立つものが真理だとする考え方は、そこでは、生活に役に立たないとみなされるものを全く見ないか、もしくは、役に立っていないではないか!!という内なる発言によって虚偽であるのだ。」
ヘーゲルのこのような考え方は、定義ではありません。人間の意識と、その意識がつくる「認識の世界」とはこのような構造として生成され、展開をつづけていくものだ、という説明によって「虚偽」と見なされるのです。こういう発想そのものにすらも気づくことがないのがプラグマティズムによる「精神現象のバイアス」です。
●「ミネルバのふくろう」としての『言語にとって美とはなにか』
このようなヘーゲルの「学としての体系の中の叙述に真理の展開がある」という学的知性を実現してみせたのが『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)です。ヘーゲルのいう心理を叙述しているところをご紹介します。
- 人間は、意識の自己表出性によって、自己を対象化しうる能力を発達させた。
- 人間は、現実にたいしての反射なしに有節音声を発生することができる。
これにより、対象となる像を指示することができる。
ヘーゲルが、今から百五○年も前に書いた『精神現象学』でのべる知識がなければ、『言語にとって美とはなにか』で叙述されているこの説明よりも、「パソコンのディスプレーにあらわれる文字、文章」に信を置くでしょう。また、キーボードで入力する「打ち込み」による「文字変換」を便利だ、楽だ、何の苦労もない、これこそが情報だ、という固定観念にシバりつけられて「行動力」も「思考の展開力」も有しない「擬似精神の保有者」となるでしょう。
ヘーゲルが、百五○年前に『精神現象学』の長い序文で批判した「哲学とか、学とかという名にも値しない否定されるべきことにその存在意義がある」と指摘しているものは、現代ではこういうものであったのです。
●『谷川うさ子王国物語』のご案内
『谷川うさ子王国物語』は、日本の時代と社会の「たそがれ」に飛び立っている「ミネルバのふくろう」です。
新年の新しい門出から学習にとりくむと、未来の希望とか目標とかも輝いて見えてきます。この機会にぜひ学習にとりくんでみてください。
●お申し込みはこちらからどうぞ。
TEL・東京03(3496)6645 |