◎日本の女性と男性の恋愛、結婚の中の心的異常の事例。
「私は、歩く人たちがふりかえって見るくらいとてもキレイな女性です。
自分でも鏡を見て、私ってこんなにキレイ!と気がつきました。
でも、恋愛すると人格が一変して恥ずかしいくらい凶暴になるのです。
なぜ、私は、最も身近で大切な人間に怖い目、怖いものの言い方、怖い態度を
向けるのでしょうか?」
(尾野川聖子(28歳、仮名。石川県羽昨群志雄町子酒)
(謹告・匿名です。住所、地域も匿名です。相談の事例も合成し、再構成してあります。特定の個人の悩みとは無関係です。)
①のっけから変な話から始めて恐縮ですが、私は顔もプロポーションもキレイな女性です。このことはウソでもなんでもなく、町を歩いていても、電車に乗っていても、よくじっと見られます。親しい男性には、キレイだね、テレビに出ている女子アナのなになにさんによく似ていて、癒し系の優しい顔をしているね、などとよく言われます。だから、中学校でも高校でも、たいへんよくモテました。休み時間は、教室の外の廊下に男子生徒、それから男性の教師もたくさん集まってきて、私を見に来ていました。高校の頃は私も、だいぶ明るく話せるようになっていたので、話しかけられると、誰にも優しげな言い方で、冗談くらいは話します。声もかわいいと言われます。大学に入った頃から次々に交際を申し込まれて、卒業する頃には10人くらいの男性との恋愛になりました。この男性の中には、先輩も後輩もいました。でも、どの男性とも、せいぜい一ヵ月か二ヵ月くらいしか恋愛関係がつづかないのです。
性の関係がどうの、というのではなく、どういう関係になっても同じように、誰ともうまくいきません。
②私が、自分がキレイだと分かったのはごくつい最近です。私は、以前は、鏡というものをほとんどじっくり見たことがなかったのです。だから自分の顔というものをよく知らなかったのです。私は、人がよく鏡を見るというのを聞くと、その人は視線恐怖症の人で、あの人は、私のことをおかしいと思って見ている、という見方と同じように、人は自分をこんな目で見ているのではないか?という意識で鏡を見ているのだろうと思っていました。
だから、私は、恋愛をしている時も、人からキレイだと言われても、自分がキレイだという意識は、本当に全く無かったのです。
人からじっと見られたり、ちらと見られると、なんであんなに見るのだろうと、恐怖の念でいっぱいでした。話しかけられると恐怖心でいっぱいになります。
話しかけてこなければ、気持ち悪いという程度でガマンもできました。
③今の私は、人の言うところでは、のんびりしているようで全く神経質には見えないようです。体が弱いとか、脳の働き方に異常があるようには見えないようです。べつに何の悩みもないでしょうと言う人もいました。笑うと屈託が無さそうに見えるらしいのです。
私は、くる日もくる日もおとなしくて、何もしゃべれず、コンプレックスの塊で、人と話すときはケンカになり、言うことといえば嫌味やキツいことや罵(ののし)り、といったことばかりだったのに、少し、別人のようになっているのかと、複雑な心境です。
④私は、人がエステとか美容にかんすることに関心をもっているのがうらやましくてしかたがありません。電車の中で楽しく会話している人、夜、仲間で集まって飲み会をやってバカ騒ぎをしている人、ぺちゃくちゃしゃべりながら歩いている女子高校生たちがうらやましいのです。
今、私は、だいぶ前にくらべるとほんの少し、友だちもできました。私は、もっと友だちをつくることを望んでいます。恋愛よりも、友だちがもっとできればいいなあと思います。
昔、中森明菜がおこないましたが、私も左手首のちょうど時計をはめる当りのところをナイフでザックリと切りました。今も、深く傷跡が生々しく残っています。今も、このナイフの傷跡がズキズキと痛みます。ナイフで切ったことは、自分でしたことながら情けなくて仕方がないんですが、その時の私は、とっても悲惨でした。今のところはありませんが、いつか病気が悪化すると、死にたいという気持ちは消えていないので、そういうことが心を占めるようになると思っています。でも、今のところは、自殺する気は全くありません。
⑤私は、小学生の頃から神経質な子でした。神経質というのは恥しがりやで、人にものを言うこともできないということです。小学一年生のころは、授業中にトイレに行きたいとも言えず、おもらしをすることもありました。クラスの人からいじめられるという嫌われ者だったのです。
私は、高校に行くのを止めました。
登校拒否の道を選んだのです。中学校の三年間はほとんど学校には行っていません。
⑥学校にも児童相談所にも行かず、何をしていたのか?というと、今思い出して書くのも嫌なのですが、毎日、手を洗っていたのです。ほとんど一日中手を洗いつづけます。疲れると、母親にも手伝わせて、手を洗いつづけます。母親は泣いて止めようとしましたが、私には変なプライドがあって、意固地といいますか、学校とか、児童相談所という未知の世界に行くという不安があったというよりも、学校にも行かず、おかしな子だけが行く変な所に行っていると人に思われたくなくて、手を洗うという異常なことをやっていたのかもしれません。母親は、私を、どうにかして精神科とか、そういう類の所に連れて行こうとしましたが、プライドの高い私はガンとして家から出ようとはしませんでした。
人が聞いたらあきれられるくらいすごい汚い言葉を言ったり、傷つくことを言いつづけました。それが私の中学校の三年間でした。
母親には、本当にエラそうに言いました。思うことを言えるのは、母親しかいなかったのです。
中学校の頃は、私の心の中には、いろいろな感情がドロドロとあったと思います。
高校生の年齢の時に、児童相談所に行くようになり、通信制の高校に行くことにしました。
ここで私は、少し勉強というものに目覚めました。こういうとエラそうに聞こえるのですが、勉強というものは、小学校、中学校と、しなければならないときにしないと本当に後悔するものだなと思いました。ポルソナーレの通信教育をやってみて、ここで言われていることを、たとえば、家の中で親にあいさつをしなさいといったことですけど、小さい声ですが、それを言ったら、自殺する気もなくなったのです。それでパン屋にアルバイトに行けるようにもなったのです。
⑦この高校生の年齢の頃も、私の母親に対する態度は、全然変わりませんでした。しょっちゅう大声を上げて怒鳴るし、言い方もひどくて、すごく汚らしい言い方をしました。
たぶん、近所の人にも聞こえていたと思います。それで家の外には、私のことを知っている人がいっぱいいて、あ、この子か?!あ、この子なのね!!とじっと見ているなと確信するようになりました。
『蹴りたい背中』っていう芥川賞の小説の中に、主人公の女の子が自分の体を上からのぞいて女を意識する場面がありますが、それは、ネットとか、スマホを手離せない人の性の意識だと思います。
母親にも父親にも大声を出していた私は、外から自分が女であることを意識させられました。
女の子は、○○ちゃんと言って近づいて来るし、男性は、付き合わないか?と言って近づいて来るからです。そういう外からの関わりに意識が向くようになって、母親や父親に大声を出すように話すと、友だちもできないことに気づきました。
母親に対して怒るように、そんなふうに本当にすごく怒ると、人は、母親のようには優しくなく、キツイ言い方をしてきたり、殺されると思うくらいバカにする人ばかりではないか?とそういう目で見るようになりました。
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謹告・相談者は仮名です。地域、職業も特定の職業、団体、地域とは全く無関係です。相談の内容も合成、再構成しています。熊野クマ江)