「全般性不安障害」は、日本人の心や精神の病気の「国民病」です |
「全般性不安障害」について、ひきつづいてご一緒に考えましょう。
すでにお話しているとおり、「全般性不安障害」は、うつ病のように自分を責めたり無力感に陥る、といった際立った主症状をもってはいません。また、人が自分を悪く言っているのでは?といったような対人関係のストレスを幻覚などの妄想に作り直して、「行動に支障を感じる」という精神面の主症状を抱えているのでもありません。
心や精神の病気は、「現実との不適応や不適合」を病理の本態とします。
「全般性不安障害」も、心や精神の病いです。「行動」のそれ自体が支障や障害をつくり出します。
だから、うつ病のように「自分だけ別世界にいるようだ」(うつ病)、「人は、自分のことを悪く思っているに違いない」(分裂病)といった副次的な症状を自覚することはありえます。
副次的な症状は、性別、年齢、生育歴と家庭環境の中の「経験したこと」と「経験していないこと」の記憶に規定されてさまざまなあらわれ方をする、ということです。
あらわれ方のひとつに、「発達障害」があります。
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「発達障害」の作られ方 |
石川憲彦(いしかわのりひこ。児童精神科医)が書いている日本の児童の「発達障害」についてのリポートの要旨をご紹介します |
- 「発達障害」とは何か。「LD」といわれている。「学習障害」のことだ。「読むこと」「話すこと」「書くこと」「計算すること」の能力のうちのどれかの分野を極端にニガテとすることが「LD」(学習障害)だ。
- このLD(学習障害)には、さらに次の二つの「障害」が含まれている。
「ADHD」(注意欠陥・多動性障害)と、「アスペルガー症候群」(高機能の自閉症。相手の気持ちを察せられない。まわりの状況に自分を合わせられない。特定のものにつよくこだわる、などを傾向とする)の二つだ。
- LD(学習障害)やADHD(多動や忘れるなどを障害とする)国というのは、必ず、その国の人は「三K労働」に就かなくなっている。
「三K」とは、きつい、汚いなどの言葉を指している。これは、アメリカでもヨーロッパでも同じだ。
先進国とは情報産業社会のことでもある。学校は、知識重視、学力重視になる。すると情報処理が遅い人間、学力のない人間は、ついていけなくなる。
かつての農業社会や工業社会ではとくに問題にされていなかった子どもが、「この子はLDだ」「あの子はADHDだ」として処遇されていくということが起こるのだ。
- 「ADHD児」だけを見てみる。
一九八○年代のアメリカでは、2%くらいといわれていた。今では、8%になっている。約一割の子どもだ。
- 「ADHD児」にたいしてはリタリンが処方されている。リタリンは、かつては「ヒロポン」と呼ばれていた覚醒剤だ。
私は、30年前から、リタリンは要注意だと指摘してきた。このような危険な覚醒剤を一割近くの子どもに飲ませるのは「薬漬け社会」だ。覚醒剤を飲ませなければ成り立たない学校、学校の中の学級とは、何なのか?
- 文部科学省の発表では、「日本では、発達障害の子どもは6・3%いる」ということだ。この数字の妥当性は怪しいと思っている。
百歩ゆずっても、6・3%という数字の程度ですんでいるのは、日本的な教育の良さの「乱暴でもいいじゃないか」「人に迷惑をかけるくらいでいいじゃないか」という言葉があったためだ。こんなふうに認め合える学校ではADHDといわれる子どもは少なくなる。
日本の学校の先生たちは、クラス運営の中で、生活を楽しむ、子どもたちが楽しむことを重視してきた。この伝統が消えているからADHDが増えてくる。
- 「学力が得意な子ども」はいい。
だが、それ以外の過半数以上の子どもにとってはただ苦しいだけ、というのが今の日本の教育だ。
この傾向がどんどん広がっていく。するとアメリカのようになる。ADHDだけで8%、LDが10%を軽く超えるようになるだろう。
アメリカのある州では、もうすでに、30年も前から「4人に1人の子ども」が児童精神科医を受診している。
- なぜ、アメリカでは、ADHDやLDの子どもが増えつづけているのか。「富裕層」が一割以下という社会現実に理由がある。今の日本も、そういう道をたどっている。「ワーキングプア」といったって全ての日本人がそうなるわけではない。あとの9割の中のとくに「中産階級層」から打撃を受けていくのだ。このような社会状況になると「下流になる層」を分断し、処遇するというのが国家にとっての安全策になるということをご存知だろうか。
そのために非常に有効な手段の一つが「病気としての管理」なのだ。
アメリカで起こりつつある「リタリンなどの薬剤による管理」は、分断策である。
- アメリカでもイギリスでも、「発達障害」の問題は「経済問題」とリンクしている。
アメリカでは、「富裕層」では「発達障害の子ども」はものすごく少ない。なにも「富裕層に、生物学的な差異がある」ということではない。重度の知的障害の人の発生率は、上流層も下層階級でも変わらない。
アメリカの富裕層の子どもは、「軽度の発達障害」の子どもに費用をかけて「社会教育」をやって学校生活と適応させているうちにいつの間にか「社会参加」の能力を身につけている、ということなのだ。
- こうした格差を「経済問題」にしないためには、別の理由が要ることは自明の理だ。こんなときに「医療」というのは、アメリカでは人種問題、差別問題、貧困問題にならない大義名分になって、非常に役に立つ。
- 日本で、LDやADHDの子どもが増えてきたという根拠はどこにもない。
「この子は発達障害だ」と判断するのは、誰か?医師なのだ。その医師の判断、ないし「診断」が正しいか?となると、それは大きな疑問だ。
例をあげると、ある一人の子どもは、Aという医師はADHDと言い、別の医師は自閉症児だと言い、さらに別の医師はLDと言う、という具合に、診断名が医師ごとに違う、ということは多い。
日本の医師が「判断」に使っているのは、アメリカで使われている「DSM」という「手引き書」だ。
日本の医師は誤解しているが、「DSM」というのは、研究のための「とりあえずの診断」のための「区分」なのだ。「統計的に処理するための、区分のための基準」なのだ。
項目に当てはめていけば、どの子どもも該当してしまう、というものだ。
- 日本人も含めて、一般的な親は「LDです」「ADHDです」と診断されると「良かった、自分のしつけや教育の仕方のせいではなかった、病気だったんだ」とホッとしてしまうところがある。
「うちの子は、ADHDなんです。少々のことは大目に見てガマンしてくださいね」と理解を求めることができる。「LDなので、先生、どうか許してくださいね」と理解を求めて努力している親は多い。そんな親たちの言葉を受け容れてスタートしているのが「特別支援教育」だ。
2007年の4月から「改正学校教育法」により、障害に応じて、特別の場所で指導を受ける「特殊教育」から、「特別支援教育」(通常の学級に通いながら必要に応じて個別の支援を受ける)という制度のことだ。
ここには、これまで障害児教育の対象ではなかった「発達障害のある子ども」も含まれる。
- 文部科学省は、「日本の発達障害の子どもは、6・3%だ」と発表した。これは、文部科学省が調査した結果の数字だ。
「こういうタイプの子どもはいませんか?いたら、その子は発達障害児です」というようにチェックさせるという調査の仕方だ。その結果が6・3%という数字になっている。
ある地域では、該当する子どもが非常に少なかったので、想定されていた数字になるように、再び、調査をやらされたと聞いています。
これは、私の推測だが、「20人学級」が増えているので、クラスから「1人」出せば5%ぐらいになる。つまり、だいたい、クラスに「1人」はいるだろうと想定された数字が「6・3%」なのだ。
「うちには1人もいません」という先生は、「あの先生、子どもを見る目がないんじゃないか」とささやかれる。「子どもを評価できない先生だ」とも思われる。
「問題児」は、見つけようと思えば見つけられるものなのだ。
- 「特別支援教育」は、「ほとんどの授業を通常の学級で受けながら、障害の状態に応じた、特別な指導の場で、特別な指導を、週に1から8単位時間くらいをおこなう」と文部科学省は、『特別支援教育』のパンフレットで書いている。
- 私は、約30年前、障害児の診察を始めた時に、ヨーロッパとアメリカを回った。障害者の教育を見るためだ。
スウェーデンは、個別教育を「発達障害児」だけにおこなうことは差別だと考えた。あらゆる子どもが、自分の好きなプログラムを自分で組んでいい、という時間をつくり出した。算数のニガテな子どもはこの時間を、算数を習う時間にしてもいい。計算機を使いたければ自由に使っていい。体操が嫌ならば、野外を散歩する時間にしてもいい。「特別支援」ではなくて「全員支援」だ。
スウェーデン社会でも理想どおりに行なっているとはいわない。
しかし、日本のように、ついてこれない人間は「自信をなくすだろうから、別の教室へ行け」というのは問題の立て方が間違っていると思う。日本は、「自信のない子」がますます自信をなくすための「特別支援教育」のように思える。
- 学校側から「病院に行って、診断を受けて、正しい指導を受けなさい」と言われて、「児童精神科」に来る子どもは、今、ものすごく増えている。子どもの精神科クリニックは、「半年待ち」「一年待ち」も珍しくはない。そこで「薬物療法」をすすめられることもある。
- リタリンに限らず、精神に作用する薬は、全て、将来の「脳の機能」に重大な影響を及ぼす可能性を否定できない。
今の日本で困るのは、「薬を飲ませなければ、来てはいけない」という保育園も出て来たことだ。
すると、ここで親はどうするのがいいか。「薬を飲ませている」と嘘をつくしかない。
するとどうなるのか。けっこう多くの学校や保育園で「良くなりました」という話になる。ADHDの「多動傾向」などは、ほとんどの場合、自然に治まっていくものだからだ。
- 今の日本は、これからの時代、「食糧難」とか、何が起きても不思議ではない。日本人が生きていくために基軸になっていく「生き方」や「産業」は20年後は大きく変わっているはずだ。そう考えないほうがおかしい。すると、「学力主義」というのは安全なのか?むしろ、「危ない」と考えるのが健全というものだ。必要なのは、「学力」よりも「人生を生きていける知的な実力」なのではないか。
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「発達障害児」は、なぜ勉強ができないのか? |
石川憲彦(いしかわのりひこ)のリポートする「発達障害児」とは、「多動症」や、「学習にあたって脳の働き方に偏向がある子ども」のことです。石川がのべていることを簡単にまとめると、こんなふうになるでしょう。
- 「発達障害児」は、今、突然に増えたということはない。
日本にも、そしてどこの国にも少なからず存在していた。
- ここへきて急に「発達障害児」が問題になっている理由は、「学力主義」の社会になっているからだ。「2007年7月、東京都足立区の小学校で障害児の勉強の成績を、学力テストから外した」という不正が発覚した。成績の悪い子どもを排除することで、学校の点数を上げようとした。足立区は、学力差によって小学校の予算配分を決めている。公立学校でも学校間の競争がいたるところで起こっている、とい うのが「学力主義」の典型だ。
「学力に自信がない子ども」「勉強ができない子ども」らが「エリートコース」の「管理のシステム」から排除される時が「発達障害児」になる。
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学校を崩壊させる「発達障害児」の実体 |
では、「発達障害」とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。
榊原洋一(さかきばらよういち)は、『「多動性障害」児』(講談社+α(プラスアルファ)新書)でこんなふうに書いています。 |
- 子どもの「心」の問題を日本の国民が真剣に考えるようになったきっかけの事件は、1997年の神戸で起こった14歳少年による小学生殺害事件である。
いわゆる「酒鬼薔薇事件」(さかきばらじけん)である。
さらに、1998年の「中学生が女性教師を刺殺した黒磯(くろいそ)事件」だ。
この「黒磯事件」のキーワードは「キレる」だった。この反抗の動機は誰にもよく理解できるという意味で、社会的な意味は「酒鬼薔薇事件」以上のものとして注目された。
「キレる」とは、「ガマンができない」「すぐに衝動的な行動に出る」というものだ。
- 黒磯事件の当時の少年は、二時限目の国語の授業のあとに「気分が悪い」と訴えて保健室で休んでいた。この「気分が悪い」とは「教室でじっと座っていることに飽きて、じっと座っていることにガマンができなくなった」という性質のものだ。この少年は、三時限目の授業に戻った。トイレに寄って遅刻したことを被害者の女性教師に注意された。
少年は、授業が始まっても友人と雑談をつづけた。女性教師に、静かにするようにと、再三にわたって注意を受ける。これらのことが、被害者の女性教師をナイフで刺殺する「動機」を構成する。
ガマンができない耐性の低さ、教師の注意を積極的に無視するという「挑戦的な態度」、そして威嚇(いかく)のためにふりかざしたナイフに女性教師が全く動じなかったために、突然に切りつける「衝動性」などが、「多動症」や「学習障害」と無縁ではない、と注目された。
- 「DSM‐IV」には、「疾患である」として「反抗挑戦性障害」をあげている。
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かんしゃくを起こす。
- 規則に従うことを拒否する。
- 自分の失敗、行動のマナー欠落を他人のせいにする。
- 怒りをあらわにして、腹をたててコトバ、態度にあらわす。
- 相手にたいしてイジワルで、執念深い。
- 『学校崩壊』(草思社・刊)を書いた河上亮一(かわかみりょういち)は、「この10数年の間に、それまでの子どもとは全く異質の、見たこともない子どもが登場した」と語る。その特徴は、「生活がひどくだらしがない」「自分の身の回りの清潔、整理ができない」「時間どおりにうまく動けない」「他人と協調して動くことが不得意」「すぐに自分のカラに閉じこもる。他人をひどく怖がる」「ちょっとした言葉ですぐに傷つく」などだ。これらの子どもが急に衝動的になり、攻撃的になって「キレて」しまうのだ。
河上亮一は、なぜこういう子どもが増えたのか?についてのべる。
一つは「学力の低下」だ。もともと学校教育とは、その社会の文化や共通の価値観の「かたち」(規範)を生徒に「強制すること」で伝承することをいう。だが、この「強制」にたいして「生徒と教師は平等である」という「教師叩き」が登場した。「学級崩壊」を肯定的にとらえる芹沢俊介、藤井誠二らだ。「すなわち、学校生活はあまりにもスピードが遅いので生徒は、かったるいと感じている。そこでカーニバルをつくって楽しむ。それが暴力になり、ケンカにもなる」(藤井誠二)。
この芹沢俊介や藤井誠二らの解説する子どもの行動様式は「注意欠陥多動性障害」(ADHD)とぴったり共通して一致する。
1998年、NHK総合テレビ『学校—荒れる心とどう向き合うか』では、授業中にもかかわらず、机の上を走り回る小学生、「トイレ」と言ってほとんどの生徒が教室から走り出る光景を映し出していた。
- DSM‐IVの記述する「ADHD」(注意欠陥多動性障害)のおもなものの要旨はこうなっている。
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学業、仕事などで注意力がなく、不注意な間違いをおこす。
- 人の話を聞いていても、言葉を忘れる。
- 指示に従えず、義務をやりとげることができない。
- 知的な精神活動を嫌い、避けて逃げたがる。
- おもしろい刺激に反応して、今の現実のことを忘れる。
- 毎日の生活の活動を放置して忘れる。
- 不安で落ちつけなくてイライラする。
- 自分の欲求、感情につきうごかされて一方的にしゃべりすぎる。
- 相手の話をさえぎって話し出す。
- 順番を待つことができない。
- 他人を妨害したり、他人のやっていることをジャマする。
- このような「多動性の障害」の 結果、社会的な不利益が生じる。
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「仲間外れになる」
- 「いじめられていると感じる」
- 「言うことに従わないし、聞かないので相手にされなくなり、遠ざけられる」
- 「親、まわりの人からの虐待を受けやすい」
- 「自尊心をキズつけられて、低い自己評価のイメージがいつも頭に浮んでいる」
- 「事故を起こしやすい」などだ。
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左脳・A6神経が正しく働いていないことがリスクを生み出す |
次に、「発達障害児」は、なぜ、そしてどのようにつくられるのか?についての最も正当な考え方をご紹介します。
『人はなぜ、エセ科学に騙されるのか』(下巻、カール・セーガン。新潮文庫)でカール・セーガンはこうのべます。
- 未開人が獲物を追うときには、細かい観察と、帰納および演繹(えんえき)による正確な推論を行なっている。それがほかのことに応用されれば、科学者として相当な名声を博するにちがいない。
「腕のよい狩人(かりうど)または戦士(せんし)は、ごく普通のイギリス人にくらべて、かなり程度の高い知的労働をおこなっているのである」(トマス・H・ハックスレー『論集第二巻:ダーウィニア:論集、ロンドン、マクミラン、一七五~六ページ』
- 失業者があふれた大恐慌時代にも、教師たちは雇用を保証された。尊敬と高給を享受してきた。教職が敬われていたのは、一つには、学問は貧困から抜け出す道だと広く認められていたからである。しかし今は、事情が違っている。
科学および、その他の学問は、ヤル気を引き出さない下手な教え方をされていることがあまりに多い。しかも、教師の中には、科学の方法をじっくり身につけることもなく、いきなり科学の結果だけに飛びつき、教える教科の訓練を全く受けていない者もいる。
教師自身が、科学と、似非(エセ)科学とを区別できないこともある。科学の訓練を受けた者は、どこか別の場所で、もっと報酬の良い仕事に就くことが多い。
子どもたちには、実験と観察をじかに体験させなくてはならない。
科学の本を読むだけではだめなのだ。
- 実験による方法や科学の方法は、科学以外の場面でも教えることができる。ダニエル・クーニッツの例がある。彼は、中学と高校の社会科の教師だ。
生徒たちに、アメリカ合衆国の憲法のことを教える。
憲法を一条ずつ読ませ、暗記させるというのも一つの方法だ。
しかし、悲しいことに、これではほとんどの生徒が眠ってしまうだろう。
クーニッツは、まず、生徒に憲法を読むことを禁じる。二人一組で一つの州を担当させる。「憲法の制定議会」に出席させるのだ。13のチームには、あらかじめ、その州、地域に特有の事情をくわしく説明しておく。こうして、13の州の代表国が集まり、多少は教師の指導を受けるにせよ、ほぼ自分たちで本物の憲法を読む。
生徒たちは、宣戦布告権を大統領に与えたが、一七八七年の代表国はそれを議会に与えた。なぜだろう?この方式では教師も準備が大変だ。生徒もたくさん勉強しなければならない。しかしこの経験は忘れられないものとなる。
- アメリカ人の子どもだって、頭が悪いわけじゃない。彼らがあまり勉強しない理由の一つは、勉強したところで、目に見える利益につながらないからである。読み書き、数学、科学、歴史の力があったとしても(つまり、彼らが本当にそれを理解していたとしても)、高校を卒業して8年以内の若者では(彼らの多くは製造業ではなくて、サービス業に就いている)、増収につながっていないのだ。
しかし、製造業の場合には、話がそれですまなくなっている。たとえば、いくつもの家具工場が倒産しかかっているが、それは顧客がいないからではなく、末端の従業員に簡単な計算のできる者が少なすぎるためだ。ある大手エレクトロニクス企業の報告によると、同社への求職の80パーセントが、小学5年生の算数のテストにパスできないという。労働者の読み、書き、計算し、そして考える力があまりにも低いために、合衆国は、すでに年間約四百億ドルもの金を失っている。生産性の低下による損失と、補習教育に金がかかるためだ。
- 大学についてはどうだろうか。実施すれば効果のあることが分かりきっている措置はいくつかある。まず、教育の実績にもとづいてのみ、教師の地位向上を図ることだ。二重盲検法で統一試験をおこない、その成績を担当教師の昇進、昇給に反映させる。奨学金、研究奨励金をもっと増やして研究設備を充実させることだ。
一流の教授陣が中心となって、イマジネーション豊かな、ヤル気を引き出すカリキュラムや教科書をつくることだ。卒業のための必須科目として、全ての学生に実習を課すことだ。
そして、科学がこれまで目をそむけてきた問題にたいしても特別の注意を払うこと。また、第一線の科学者に働きかけて、一般市民の教育のためにもっと時間を割いてもらうべきだろう。教科書を執筆する、講演する、新聞、雑誌に記事を書く、テレビに出演する、などだ。
重要なのは、一年生か二年生の時に、「懐疑的思考」と「科学的方法」について必修広義を設けるというのも、やってみるだけの価値があるかもしれない。
- 哲学者のジョン・パスモアは次のようにのべる。
「学校が教えるような科学は、原理を教わり、それを型どおりに応用するだけのことが多い。科学を学ぶのは、教科書からであって、大科学者の業績や科学雑誌に寄稿された最新の論文からではない。科学の初心者は、人文学の初心者とは違って、天才とじかに接触することがないのである。実際、学校の授業によって科学に魅力を感じて引きつけられるのは、科学に向いていない人たち、つまり、型どおりの作業が好きな、想像力の乏しい少年と少女ぐらいのものだ」。
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脳の働きは「上向システム」と「下向システム」の二つを働かせる |
ご紹介したC・セーガンは、何をのべていることになるのでしょうか。「脳の働き方」のメカニズムに即していうと、「左脳を働かせるためのA6神経をつねに、正しく活動させなければならない」ということをのべているのです。
「脳の働き方」は、この人間の社会に「乳児」「乳・幼児」が存在しているかぎり、人類は、どの人も平等な脳の働き方のメカニズムをつくり上げています。「平等な脳の働き方」とは、与えられた目の前の現実に正しく関わり、適応していける「言葉」や「行動」を表現するシステムのことです。
今回の本ゼミでは、「発達障害児」をケースにとりあげて「全般性不安障害」のつくられ方についてお話しています。C・セーガンの『人は、なぜエセ科学に騙されるのか』の中のケースの紹介は脳の働き方のメカニズムと、どのようにつながるのでしょうか?
「発達障害児」の多くの「行動」の病的な特性は、その場の現実の秩序と不適合の状態を起こす、というものでした。どのようにつながるのか?についてご説明します。
「脳」は、「上向システム」と「下向システム」の二つの働き方が基本になっている、とすでにお話しています。自律神経の「A6神経」(副交感神経)が「上向システム」と「下向システム」をつかさどっていました。「下向システム」では、心臓、肺、胃や腸、血流の流れなどを恒常性(ホメオスタシス)として働かせる機能のことです。「上向システム」は、A6神経が、神経伝達物質のノルアドレナリン(猛毒のホルモン)を、「左脳」「小脳」に送って働かせることです。 |
発達障害は「下向システム」しか働いていない |
皆さまは、ここで、本ゼミのカウンセラー養成ゼミでレクチュアした「不眠症の脳の働き方」についてのメカニズムのお話を参照していただけます。
「不眠症」とは、「右脳」だけが夢を見るなど以上の過度な働き方をしている脳の働き方のことです。
「左脳」は、夜になると休息します。
これが、「眠る」ということです。「眠り」の定義は、「左脳の働きが中止して、休息をとる」ことでした。しかし「右脳」は眠りません。右脳は、大脳辺縁系の生(なま)の感情や生(なま)の欲求を表象(ひょうしょう)させることを重要な役割にしています。
夜、トイレに行くとか、寒いので起きて毛布を一枚かける、などをおこなうのは「右脳」の働きです。
ADHDやLDなどは、学校の教育の現場で起こります。教室の中です。学習ができない、勉強がおもしろくない、しかも教師に「ムカつく」などのことが起こるのは、「脳の働き」をおしすすめる「上向システム」が働いていないことを意味します。A6神経が全く働いていないのです。「下向システム」しか働いていません。「A6神経」が正当に働いている、というのが「学習している」「正しく、知的にものを考えている」「正しく学んでいる」という状態のことです。 |
「不眠症」と同じ脳の働き方がADHD、LDである |
ここでは、ちょうど「不眠症」で「眠れていないベッドの中」と同じように「右脳」だけが働いていることがお分りでしょう。「不眠症」とは何のことでしたでしょうか。「行動が止まっている状態」の時の「負の行動のイメージ」が、昼間から引きつがれて継続的に表象(ひょうしょう)されているということでした。
「負の行動のイメージ」は、「自分は不快だ」「自分だけが損をしている」の二つのうちのいずれか、もしくは両方とも、の言葉の記憶とエピソード記憶としての体験のイメージを思い浮べつづける、ということです。この「右脳」の「負の行動のイメージ」が教育の現場であたかも「不眠症」の時点と同じように表象(ひょうしょう)されているというのが「ADHD」や「LD」などの「発達障害児」の「行動」にあらわされる病理です。
左脳のA6神経が正常に働くということは、視覚と聴覚の「Y経路」がシステムとして動いていなければなりません。「左目、左耳」による「認知」がおこなわれなければ、教師がいくら「このようになっています。分かったでしょうか?」と語っても、生徒には、何一つ、「見えていない」し「聴こえていない」ので「はい、分かりました」とは言えないでしょう。
なぜ、このような「脳の働き方」になるのでしょうか?「Y経路」とは、言葉のパターンでいうと「いつ」「どこで」「何を」と、そして「どのように」に当る言葉のパターンのことです。「パターン認知」といいます。「乳児」(0歳1ヵ月から0歳4ヵ月)は、この「どのように」のパターン認知を「物が動いていく、動いた物が見えなくなる、そして見えなくなった物がちゃんと実在することを認識する」という記憶として完成させています。
このことについては『カウンセラー養成ゼミ』(平成20年1月12日のゼミ)でくわしくご説明しています。この「見えなくなった物」の記憶がないと、時間性としての「未来形の行動」をおこなうことはできません。 |
「行動」には、「どのように」の長期記憶が必要 |
人間の脳は、「行動」のためには「長期記憶」が必要です。目の前にないものと関わる、未知の見たことも聞いたこともないものについて認識して理解するために、「乳児」が完成させた「行動のモデル」の「見えなくなった物の実在」を表象(ひょうしょう)して、「記憶のソース・モニタリング」が始めて可能になるからです。ADHDやLD児の発達障害児にはこの「どのように」に相当する「長期記憶」が無いのです。したがってすぐに「行動停止」になるでしょう。
ここで、「父親不在」と「母親不在」による「負の行動のエピソード記憶」が想起されるとき、榊原洋一がとりあげている芹沢俊介や藤井誠二のいう「教室をカーニバルにする」という「全般性不安障害」があらわされるのです。 |