みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●『谷川うさ子王国物語』はこんなふうに役立ちます
ポルソナーレは、日本人の「日本型分裂病」をテーマにして、その根本からの解消策を追究しています。
『谷川うさ子王国物語』は、そのための重要なテキストです。
市販されている本の中に、「こうすれば文章が上達する」とか「文章の能力はこうして身につく」といった主旨のものがありますが、『谷川うさ子王国物語』は、そういった種類のテキストではありません。
「日本型の分裂病」とは、例えば次のような症状例のことです。
●強迫観念と症状
「手を洗う。汚れている気がして、何度も何度も洗う。数を数えて決めた数の回数までは洗う。人から話しかけられると、また始めからやり直して、洗いつづける」
「刃物が怖い。人を傷つけるのではないか?と思っている。そんな自分が怖い。こんな自分にとって刃物が怖い」
ポルソナーレでは、「こわい」と日本語(和語・やまとことば)で表現されるとき、「恐い」(こわい)と、「怖い」(こわい)とを区別します。
「恐い」の「こわい」は、身体に害悪が及ぶことをおそれる「こわさ」のことです。人が、人に「おびやかすこと」をする時は、身体に危害が加えられる危機を感じるので「恐い」と表現します。
「怖い」(こわい)は、目に見える危機の実体があるのではありません。理由もないのに、びくびくと怯えてドキドキするのが「怖い」の漢字の意味です。
●強迫観念の原因
「刃物が怖い」「汚れるのが怖い」というのは、なぜ起こるのでしょうか。
「脳の働き方」の言葉のつくられ方のメカニズムに即していうと「認識」の中身が普通の人と違うのです。
「ものごとを分かる」とは、「自分が見たこと、見たもの」を「これはこういうものだ」「それは、こういうことだ」という意味を理解することをいいます。
このときは、まず「目で見る」ということが初めにあります。
色か形、形状、様子、大きさ、といったことが「目で見たこと」の内容です。この内容が「これは」「それは」の意味です。
しかし、形状とか色とか、様子は、脳にとっては第一次情報というべきものです。例えば、「犬」や「猫」を見て、色や形状、様子の内容を意味として伝えても、「犬」と「猫」の区別はつきにくいでしょう。
●認知と認識の違いを教えます
そこで「脳」は「認識」ということをおこないます。「認識」とは、「A」と「B」とを比べて、比較した違いや差異の特性を「A」なら「A」の「内容」とすることです。この「内容」は、認識がとらえた「A」の意味です。もしくは「B」の意味です。すると、「犬」と「猫」の認識の差異は「動き方」「走り方」にあることが分かります。
「猫は、高い所を移動する」「高い所を速い動きで移動する」「犬は、地面しか走ったり歩いたりしない。地面を猫よりも速く移動する」というのが「認識」によって得られた内容です。
ものごとを「分かる」、ということにはもう一つ「理解」ということがあります。この「理解」は、語源的にたどると「二つに分ける」とか「固いものを別々に分離してしくみを分かる」というものになるでしょう。
しかし、脳の働き方からは、記憶と行動に即した説明の仕方をおこないます。「犬」と「猫」のケースでいうと、「動き方」「走り方」がそれぞれの内容でした。「犬」についての「認識」を「理解」の次元の分かり方に深めようとすると「犬の走り方」「犬の動き方」を他の動物一般と比較してその「差異」をとらえる必要があります。「犬は、なぜ走るのか」「犬の走り方は、どのように生成するのか」など「走ること」「動くこと」の「認識の言葉」を、抽象の言葉の次元でいくつもいくつも比べる必要があります。
すると「理解」とは、ものごとのしくみ、成り立ち、成り立ち方の構造といった「認識」の系統として得られる内容であることが分かります。この時の内容が「意味」です。
このようにして、判断や理解には基準というものがあるということが分かると、「汚れているものが怖い」「刃物が怖い」という強迫観念には、「目で見る」という「認知」はあっても、「認識」が普通ではないことが分かります。普通ではないとは、万人に共通する「認識」の「普遍性が無い」ということです。
●日本語の文法の「認識」の欠如例
「違う」の「違い」とは、本来は「A」という状態なり、結果なり、現象であるべきところが、しかしこの「A」には至らない、「A」と一致しない、という意味です。「差異」とは中身にかんする違いのことです。
「汚いものが怖い」「刃物が怖い」とは、「ものごと」のこのような違いや差異にかんする「認知」の仕方とここから得られる系統立ったいくつもの「認識」の言葉を学習していなくて、記憶していないということから生じた「バイアス」(歪み)の表象であるということになるのです。
こういう認識のバイアスは日本人に共通のものです。日本語の「文法」が生成します。
A・「雨が降るかもしれない」
(『ない』の否定表現で、推測と可能性を肯定表現している)
B・「秋ですね」
「そうですね」
(『主語』に相当する言葉が省略されている。相手が分かっているだろうと、判断をゆだねる言葉は、省略して曖昧表現する)
C・「山に行くと、秋の紅葉が広がっていて、人は誰もいなかった」(「自分」だけは居た、という事実を欠落させている)
●「思う」と「考える」の違いについて
日本語には「私は、こう思う」という言い方と「私は、こう考える」という言い方の二通りがあります。
「思う」とは、いつもふらふらとイメージが思い浮んでいる(表象といいます)ことを口に出すことです。「考える」とは、「A」と「B」とを比べて、その差異を「行動」の意味の基準にして、判断や選択を説明することです。日本語の「文法」は「思うこと」を「説明」して、伝えるということを特性にしています。「考える」ということのための「文法」ではない、ということです。「ものごと」を目で見たり、耳で聞いたり、手で触れて「認知」はするけれども、「普通の意味の認識は欠如している」ということです。
あるのは、「バイアス」に歪んだ「歪んだ認識」です。
●日本人の「認識のバイアス」の実例と実体
このような日本語(和語)の文法はどのようにつくられたものか?ということを、国語学者・大野晋は、『日本語の年輪』(新潮文庫)で次のように説明します。
櫛も見じ屋中(やぬち)も掃かじ
草枕(くさまくら)旅行く君を
斎(いは)ふと思ひて
(『万葉集』)
高麗錦(こまにしき)紐の結びも
解き放(さ)けず
斎(いは)ひて待てどしるしなきかも
(『万葉集』)
前者の歌の意味は、こうです。
「恋人の男性が旅に出た。旅は草を枕にして歩きつづける遠い、長い旅だ。その恋人はいつ帰ってくるのか。恋人の触った髪、家の中に手を触れずに同じままにしておこう。形が変われば様子も変わる。それは、自分と恋人との関係の様子も変わる、ということだ。良いことがありますようにと、祝うと思って。」
後者の歌の意味はこうです。
「高麗錦(こまにしき)という渡来人の持ってきた高級なひもをしっかり結んで寝ている。恋人が、自分とつながっていて、関係がつながっている、そして変わらない、という良いことのための「お祝い」だ。だが、それなのに、恋人が来る気配もない。」
日本人は、アニミズムという自然の中の霊を信仰しています。
「太陽を拝む」「正月の松を飾る」「結婚式では、切れる、割れる、終わる、などの忌み言葉を言わない」などがアニミズムです。「一神教」ではなくて「多神教」のことです。自然の中だの、自分の思いをこめた「言葉」だのの中に霊があると信じるのがアニミズムです。
日本人の「認識」は、この万葉集に歌われているようなアニミズムで、ものごとの意味や内容を表象させます。それは、「自分の行動」を変える、あるいは変えないことが、ものごとの「認識の意味、価値」になるという分かり方です。日本語の文法は、「行動の仕方」をあらわすことで対象との関わり方や、対象の内容と意味をあらわす、というメカニズムになっています。
●日本語の文法の欠陥の証明と対策
したがって、「汚いものが怖い」「刃物が怖い」という強迫観念は、生育歴や家庭環境の中で「A=B、B=C、故にA=C」という推移律による認識の仕方と、そこからの抽象の言葉を学習して「記憶していない」ということが根拠にある、「認識のバイアス」を今も、なお抱えているという分裂病が診断されるのです。
「文字どおり何の関連する証拠も与えられないのに、幼児が言語の諸事実に関する知識を完全に獲得し、たやすく、しかも正確に使用するようになるという多くのケースが研究されてきた」
(ノーム・チョムスキー『言語と認知』秀英書房)
チョムスキーのこのような言語理論が、第一級の言語理論として、日本はもちろん、世界で支持されています。「幼児」は、認知(A)を認識して「認識A」を記憶します。この「認識A」が行動に移されて「認知B」を右脳・前頭葉に表象させます。このようにして「認知」と「認識」を抽象の言葉の次元に高めます。
この高める過程が行動対象の内容となり言葉の意味となるのです。
日本人の「日本語の文法」はチョムスキーのこの言語理論を支持して、コンピューターやパソコンなどの「情報通信」の中で「認知による行動」をどこまでもバイアスに歪めている、というのが「強迫観念」の「なになにが怖い」の症状です。
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●ポルソナーレは、このような観点から最も望ましい日本語の文法の使い方をレクチュア中です。それが『谷川うさ子王国物語』です。
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