みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●日本の「若者批判」の本
平成22年2月21日の日本経済新聞の「読書欄」・「今を読み解く」に、現在の日本の「若者」にかんするいくつかの本が紹介されています。
選者は、岩井八郎(京都大学教授)です。
紹介されている本は、
『欲しがらない若者たち』(山岡拓、日経プレミアンシリーズ)
『偶然ベタの若者』(関沢英彦、亜紀書房)
『近頃の若者はなぜダメなのか』(原田曜平、光文社新書)
『なぜ若者は保守化するのか』(東洋経済新報社、山田昌弘)
などです。
岩井八郎は、それぞれの若者らの主張の主旨をこうまとめます。
- 今の日本の若者(10代、20代)は、モノを買わない。元気がない。
これは、「消費離れ」のことだが、「生活スタイル」とかかわっている。
- 「車を欲しいと思わない」「酒よりもスイーツを好む」「休日は、旅行や遠出をするよりも自宅の近辺で過す」「今のことにお金を遣うよりも将来に備えてお金を貯める」、などが「生活スタイル」だ。
- 若者らは、「家族、友人との距離の無い親密な関係を維持するための生活スタイルをもっている」。
「メールよりも、近い距離の人との対面でのコミュニケーションをもつ、贈り物を交換する」などだ。
- 「メールの浸透が人間関係を変質させている」。
「10代の携帯電話の登録人数は約94人だ。1日の平均のメール送信数は20通だ」。
「すると交際回数も多くなり、ネットワークの中で村八分にならないように気をつけて、控え目にふるまう。当然、自己主張はしない」。
- 「ネットの人間関係の中で、自分は、他者にどう見えるのか?を想定する。そのために『空気』を読む。他者に受け容れられる自分の姿をこまかく修正して、相手に示す。携帯登録数・平均94人のネットワークから弾き出されないためだ」。
- このメールを中心とする「ネットワーク」は「既視感」を生む。
注・既視感…デジャビュ・フランス語。それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるかのように感ずること、の意。
「ハワイに関するブログのコメントを読んで、ハワイはつまらないと評価する」などだ。
「すると実際の行動範囲は、自宅の周辺だけ、と狭くなる」。
- 「既視感」は、自分の「将来・社会」にも及ぶ。
「雇用の自由化が進んだ状態の自分の姿」「男女平等の中の自分の姿」をネガティヴに「疑似体験」する。
注・ネガティヴ(negative)…否定的、消極的、の意。ポジティブ(positive)…積極的、肯定的の反対概念。
「その結果、まだ始めてもいない競争に擬似的に疲れる。そして身近な人たちとの穏やかな生活を維持する安定志向が強まっている」。
●本当は、何が問われるべきか?
ここで紹介されている著書はどれも未見ですが、「だから、何が問題になるのか?」という感想を抱くのは、どなたも同じでしょう。
日本人の知識人の「認識」は「こういうことがあります」「こういうことがありました」という現象を述べて、それで何かが分かった気になるというところに特徴があります。
ポルソナーレの見解では、ここにあげつられている「10代、20代の若者は」ということでさし出されている「事実」なり「行動に見る現象」なりは、30代にも40代にも、そして、50歳代にも60歳代の人々にも変わらないものの考え方であり、行動パターンです。もっと厳密にいうと明治、大正、昭和と、ずっと変わらない日本人に特有の「対人意識」であって、「社会意識」です。さらに徹底していうと「平安時代」を境にして現代まで脈々と続いてきている日本人の「日本語・和語」による「日本的な認識のパターン」というものです。
ポルソナーレの理解でいうと、日本人の「日本語」による「認知」と「認識」の仕方に注目せず、もしくは、注目もできない著者らの「知性」こそが問題にされなければならないものです。
●なぜ、大野晋の学説が無視されるのか?
国語学者・大野晋は、『日本語の文法を考える』(岩波新書)の中で、こう書いています。
- 日本語(和語)による表現の例
「あの本、どうした?」
「読んじゃった」
◎
英語、ドイツ語など欧米語では「主語」が省略されることは、一般的にはありえない。しかし、日本語では、「主語」であっても、「相手が分かっていること」は、きわめてしばしば省略する。
- 「主語」を省略するという、日本人が自分で考えて「不要だ」と思ったものは省略するというのは、これを可能にする「文の構造」が日本語にあるからだ。
- それは「日本の社会の成り立ち」に関係している。「日本の社会の成り立ち方」が「主語を省略する」という表現の仕方(文の構文)を支えてきた。
「省略しても、省略した言葉の理解が可能な人間関係」が支えてきた。
- それは、「我」と「汝」とがきわめて親密で、その親密な間柄でしか言葉は交されて来なかったという日本社会の全般的な状況がある。
- 日本人の社会は、「弥生時代」よりずっと今まで「農村社会」が中心だった。
明治の初めは人口の80%が農民だった。
日本人は、長い間「農民」が中心で、農村社会が日本の中心だった。土地に定着し、稲作を毎年くりかえして生活を営んできた。「村」という一つの輪の中で、代々、土地に定着して暮らしてきた。
- 村の中では「誰がどうした」とか「あの人はどういう人だ」とかはすっかり知り尽している。「他所者」は輪の中に入れない。知らない者は「他所者」(よそもの)として排除する。違反者は追放する。
自分たちの「村の中」には入れない。
- 知り合った人間どうしが会話して生活する。くりかえされる生活や事態が先にある。この中のごくわずかのことを言葉で伝える。
- このような日本社会の特徴は、「言葉の表現の仕方」にもあらわれる。狭い人間関係では、ものごとの事実を明確にすることよりも「自分の相手となる人間」の気持ちに遠慮して気がねをする。
「相手の気持ちを損ねまい」として気を遣う。相手に嫌に思われずにすむことに細かい神経を遣う。
●日本人の「学的知性」の欠陥とその本質
大野晋は、日本語(和語)の「文法」の構造について、その由来と歴史的な背景をのべています。
すると、ここで問題になるのは二点です。
- 日本語(和語)について、すでにこのように国語学者・大野晋が書いているが、岩井八郎をはじめ、「若者について語っている著者ら」は、日本語のこういう特殊性について知らなかったか、知っていても忘れたか、知っているけれども、「若者問題」とどう関わるのか?がよく分からないか、のいずれかである。
- これは、本の出版社とこの中の編集者にも関わる問題となる。もし、出版不況とか、若者の活字離れということを前提にして、「知っているけれども、あえて、売れそうだから、出版した」とすると、それが、今の日本の「文化」と「文明」の越えがたいハードルを自らが作っている「自家撞着」(じかどうちゃく・自分の言っていること、行動の前後のつじつまが合わず、くい違うこと、の意)というものだ。
みなさまには、この説明がお分りでしょうか。
少し、噛み砕いてお話しましょう。
- ダメになっているとされる若者の人間関係とか、コミュニケーションが「命題」になっている。
- それを批判する著者らもまた「日本語」で書いて説明している。
- 若者らは、ヘーゲルの『精神現象学』でいう「無教養な個人の集合」である。
注・「無教養」とは、人間関係、社会、仕事についての「学」を修得していない、の意。
- 著者らは、学者であり、本を書くほどの経験をつんだ「一般的な教養者」である。
注・「一般的な教養者」とは、ものごとに取り組むにあたり、自らの「判断」や「認識の仕方」の中に「どのように?」「どうすればいいか?」「どうあるべきか?」「どういう方向に進んでいくべきか?」の「運動性」を内包している人間のこと、の意。
これが、「脳の働き方を発達させる」ことの必要と、重要な「命題」の素材になるのです。
このように根本から問いかけるという「知性のあり方と能力づくり」を日本の「アカデミズム」は、放置しています。それが、今の日本の「構造的なデフレ不況」の根幹にあり、膨化する国債による国家破綻に向かって直進している(野口悠紀雄)原因にもなっているのです。
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