みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●浅田真央選手
バンクーバー・オリンピックの「フィギュアスケート女子」で浅田真央が、金メダルの「キム・ヨナ」(韓国)に、約23点の大差で完敗しました。
2月28日(平成22年)の日経のスポーツ欄に、「なぜ、こんなにも差がついたのか?」(同じ19歳で、シニアデビュー時は浅田が先行していたのに)、について解説してあります。
- ジャンプは、難易度の高い順から6種類ある。
「アクセル」「ルッツ」「フリップ」「ループ」「サルコー」「トーループ」。
浅田は、3回転の「ルッツ」「サルコー」「トーループ」に難があり、苦手だ。五輪のプログラムに「ルッツ」「サルコー」を組み込めず、4種類で戦った。
- 最初のきっかけは2007~2008年シーズンの「ルール改正」だ。「フリップ」と「ルッツ」のジャンプの踏み切りを厳しく判定するようになった。
「フリップ」はインサイドにエッジ(刃)を傾ける。「ルッツ」はアウトサイドに傾ける。
浅田の「ルッツ」は踏み切る瞬間に「インサイド」に傾く癖がある。「踏み切り違反」で減点の対象とされた。
- 修正を試みた。だが「試合になれば気になる」。
周囲は「思い切って跳べば、大した減点にはならないくらいに修正されている」と説得する。
だが、浅田は納得できない。
「ルッツ」を気にするあまり、「ジャンプ」のスピードも落ちた。
結局、翌シーズンから「3回転ルッツ」を跳ばなくなった。
今季から「SP」からも外して「トリプルアクセル」(3回転ジャンプ)に置き換えた。
- 「回転不足」の判定も厳しくなった。「男女」ともに「3回転-3回転」の連続ジャンプの2つ目は「トーループ」を選択する選手が大半だ。
浅田は、「トーループ」に苦手意識があるため、2つ目はたいてい「ループ」を跳んでいた。
右足一本で踏み切る「ループ」では回転不足がとられやすい。そのせいで「3回転-3回転」の連続ジャンプが組み込めなくなった。
「トリプルアクセル」を「SP」、「フリー」で計3回跳んだのは快挙で、野心的な構成なのだが、「ジャンプ」の選択肢が狭まり、そこに頼らざるをえない事情もあったわけだ。
- 「ジャンプ」に問題が生じ始めたのは、2008年夏。浅田は、ロシアの「タチアナ・タラソワコーチ」の指導を受けるようになった。
浅田は海外生活になじめない。
そこで、月1回、浅田かコーチのどちらかがロシア、日本の間を行き来する指導体制となった。
「タラソワ」は「ジャンプ」を見るのが得意なコーチではない。その上、遠隔指導ともなると「日々変わる」と言われる「ジャンプ」の変調を察知できなかったのも無理はなかった。
- いい馬がいるのに、騎手がいない」。浅田の練習風景をこう表する人もいた。
コーチに、時折、助言をあおぐものの、実態は「自己流」だった。浅田は、練習量で自信をつけていった。
- 2年近くかけて変調をきたした「ジャンプ」を修正するには時間が足りなかった。日本国内の「連盟側」がこうした浅田の状態に目を配りきれなかったのも痛かった。
浅田陣営の必死の巻き返しが始まった。「トリプルアクセル」をなんとか間に合わせたが、他のジャンプや演技の完成度を考えて高める作業にまでは至らなかった。
- 浅田真央の「トリプルアクセル」…8.2点。
キム・ヨナ(韓国)の「2連続3回転ジャンプ」…「ルッツ」6.0点+「トーループ」4.0点=10点。
●「自己流」
■これは、一人の女子フィギュアスケートのアスリートの話です。それ以上でも以下でもありません。
しかし、イソップ童話に出てくる何かの教訓話としてみることは自由です。
ポルソナーレがくみとる「教訓」は、「自己流」というところです。
浅田真央は、なぜ「自己流」に陥ったか?
日経には、「コーチが気づかなかった」「連盟側が目を配らなかった」「浅田は、海外生活を苦手としていた」などという要因がとりあげられています。
もっと根本的に考えてみるということはできないでしょうか?
「自己流」…他者から指導されたのではない。自分一個の流儀。我流のこと。
この「自己流」の一般的な意味とはこういうものです。ふつうの日本人は、この意味の範囲で理解するでしょう。それは、日本語のもつ「曖昧性」に由来しています。
ポルソナーレの「脳の働き方」の考察は、もう少し徹底しています。
「自己」とは、何か?と問いかけます。この問いかけ方は、古代ギリシャ哲学からの哲学の系のソクラテス、プラトン、アリストテレス、ロックらが問いかけた仕方と同じです。この哲学の延長にカント、ヘーゲルが位置していて、ヘーゲルが近代哲学の土台を完成させました。
このような哲学の学的な体系の上に「自己」という概念は位置しています。したがって、「自己」を「自分」とか「自分自身」、あるいは「私(わたくし)」という「私人」といったふうにだけとらえる力は、日本人にだけ特有の文化概念というものです。単なるローカルなサブ・カルチュアの言葉です。
●脳の働き方の正しい理解の仕方
正しくは、こうです。
人間には、身体があります。
この身体は神経系で有機的につながっています。
「有機的」とは、「生命的なつながり」といったほどの意味です。
それは、「脊髄」「脳幹」(視床、視床下部も含む)、「大脳辺縁系」、「大脳新皮質」(左脳と右脳を含む)、といった内容になります。
この「大脳新皮質」(左脳と右脳)の「前頭葉」に恒常的な「像」(イメージ)が表象します。
- 右脳の前頭葉…虚像(擬似視覚のイメージ)が表象する。
- 左脳の前頭葉…右脳の虚像に対応した「記号性」の形象が表象する(この記号性の形象が言葉、言語の要素になる)。
この単なる経験則の体験からの長期記憶からつくり出されて生成された「右脳系の前頭葉」に表象される「像」(虚像)が「自己」というものです。
この「虚像」をプラトンは「イデア」(観念)と名付けました。アリストテレスは「形相」(エイドス)と名付けました。ロックは「この像が知性の素になるものだ。人間の自然な経験から生成されるものだ」と「人権」(自然権)の基礎としました。このロックの「人権の定義」がフランス革命やアメリカ独立に影響を与えたのです。
●日本人の知性は動かない「像づくり」をおこなう
だから「自己流」とは、ここには「知性」とか「知的認識」というものはなく、「感情」だの「欲求」だの「感覚」を中心とした方法ということになるのです。浅田真央選手は、そんなふうな練習をしたということになります。
「自分一個の流儀」とは何でしょうか?
「一個」の「個」とは、「個人」の「個」のことです。
日本語は、この「個人」も「私の勝手」「私が決めたこと」「私が決めて私が行動すること」というように解釈して理解します。哲学から見た「個人」とは、「国家」「組織」「団体」を構成する単位としての個々、別々の人間、という意味です。したがって「自分一個の流儀」とは、「組織」や「他者」との同意を前提にしないじぶんの「感情、欲求、身体感覚にのみ従った取り組み方」というふうに正しく理解されるものです。ここでは、拡大解釈、恣意的な解釈(思いつき、その場だけの考え)といった思考が支配するでしょう。
浅田真央が日本人だから、ということではなく、日本語(和語)は、浅田真央が表象させたような「像」による「自己意識」を生成させます。
「相談しない」「質問する力がない」「正しく質問する言葉の力がない」「他者の意見を前提にして思考しない」といった「固定した像」をつくるのが「日本人の自己意識」です。
●欧米人の「プリンシプル」
金メダルを獲った韓国の「キム・ヨナ」のコーチに代表される西欧人は、日本人がもつ「自己意識の像」を運動させる、という認識の原則をもっています。つねに真理を求めて「像」を変化させること、という原則(プリンシプル)をもっています。
日本人は、こういうものに対して敗北したというよりも、「命題を立てる」という日本語(和語)の「文法」の「構文」をもっていないので、「独自に、自立してものを考える」そして「行動する」という局面では必ず「妄想」を生成して「行動が止まる」ということのモデルとして見るべきです。
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