みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●日本人は「特殊」を「普遍」と思っている
平成22年4月10日(土よう日)の日本経済新聞の一面の『こもるなニッポン』欄に、次のようなことが書かれています。
- 中国・北京に25歳の男性、加藤嘉一がいる。北京大学の大学院で国際関係論を専攻している。
- 加藤嘉一は、朝4時に起きて世界のニュースを確認する。
そして中国の雑誌、ネットに載せるコラムを書く。
テレビにも出演して、家の前で待っている記者の質問に答える。
夜は、中央電視台のニュースを見る。
夜10時に寝る。
昨年は中国メディアからの取材は、318回だった。
コラムは200本書いた。
「僕は、日本のここがおかしい、中国のここがおかしいときちんと指摘するようにしている。国と世界の問題を第三国の人から学ぼうというニーズがあるのです」(加藤嘉一)。
- 「北京に来てすぐ思ったのは『あ、日本が違うんだ』ということです。日本の中で、良いものも悪いものもスタンダードと思っていた多くは、じつは日本独特のもの。『世界の中の日本』は、日本では分からない」(加藤嘉一)。
この日経のコラムの中では、日本の中にいる日本人には全く見えていないもの、分からないものとは何か?は、説明されていません。それを説明します。
●英語の「5文型」
前回の本稿で、英語には「5文型」がある、ということをお話しました。
「文型」とは、「文の基本的構成要素(主語、目的語、補語、動詞など)の有無、配列などにもとづいて、いくつかの類型に分類した文の型」のことです。
「文」についてのこういう「文型」の考え方は日本語にはありません。
英語をはじめとするインド・ヨーロッパ語に固有のものです。
英語の「5文型」の類型は次のとおりです。
第1文型:S(名詞)V(動詞)(+副詞)
第2文型:S(名詞)V(動詞)C(名詞、形容詞)(+副詞)
第3文型:S(名詞)V(動詞)O(名詞)(+副詞)
第4文型:S(名詞)V(動詞)O(名詞)O(名詞)(+副詞)
第5文型:S(名詞)V(動詞)O(名詞)C(名詞、形容詞)(+副詞)
●日本語には「文法」は無い
「文型」の説明は、語順のとおりに言葉を並べる(語順のとおりに意味が決まる)、語順の「語」とは「品詞」の順序のことである、というものです。
このような「文型」の説明だけを見ると、「日本語も同じようなものだ」「日本語も同じしくみになっている」と考える人は多いようです。
金田一春彦は『日本語』(下)(岩波新書)の中で次のように書いています。
- 助動詞「だ」は、論理学で言うコプラ(注・繋辞のこと)の役をする語である。
森有正がその使い方をとらえて「日本語には文法がない」と言って話題になったことがあった。
森によると、「だ」は、フランス語の動詞とちがい、主語の人称によって変化せず、逆に主語の人称が同じ場合に、「だ」となったり、「である」となったり、あるいは「です」となったり、「ございます」となったり、不定である。だから文法的ではない、と言うのである。
- しかし、これはずいぶん一方的な見方である。言語というものは、なにも主語の人称によって動詞が形を変えなければならないものでもないし、「だ」や「です」は、「話の相手が誰であるか」といったような、ちがった原理にしたがって形を変えているのである。
- ここでは、日本語に「だ」という単語があることが、実に論理学の世界では日本語が非常にすぐれた言語であることを証しているという、佐久間鼎(かなえ)の説を紹介したい。
- 「だ」「である」の標準的な意味は次の四つである。
① そのものとイコールの関係にあることをあらわす。
例文=「富士山は日本の高山である。」「レーガンは現在のアメリカの大統領だ。」
② そのものの一員である、つまりそのものに属することをあらわす。
例文=「鯨は哺乳類である。」「私は日本人だ。」
③ そういう属性をもっていることをあらわす。
例文=「タバコは健康に有害である。」「あの人は親切だ。」
④ そういう状態にあることをあらわす。
例文=「風もなくうららかな日和である。」「この部屋は静かだ。」
- 英語ではこの「だ」の意味をあらわすのに、beという基本形をもつ語であらわすが、これはもともと存在をあらわす動詞で、それの兼用である。
日本語には別に「は」という題目をあらわす動詞があり、これは論理学の「主語」を表すぴったりのしるしである。そしてこのコプラを専門にあらわす助動詞「だ」をもっている点を佐久間は買って、日本語は論理学をするのに究竟(くっきょう・屈強とも書く。物の究極に達するところ。結局の意)な言語だ、と評価した。
●日本人には全く見えていないものとは
■日本人の言語学学者は、日本語(和語)をどのように見て、どのように扱ってきたのかがよくうかがわれるでしょう。日本人は、長い間、このような「言語学」を教えられて、信じ込まされてきたのです。
古代ギリシャ哲学から近代哲学までと、その集大成をおこなったG・W・F・ヘーゲルの説明は全く違います。
『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(無藤隆、講談社現代新書)には、無藤隆が「0歳8ヵ月児」の「イメージ思考=イメージスキーマ」の実験例と観察の結果を紹介しています。アメリカの認知心理学者・レイコフ、アメリカ・カリフォルニア大学サンディエゴ校のマンドラー、ミネソタ大学のバウアーらの研究です。
ここでは、「0歳8ヵ月児」の言語以前の「認知」と「認識」の具体例があります。
ひとくちにいうとものごとのカテゴリーやベクトルといったことを中心とする「イメージスキーマ」が表象されていることを実証する事例です。
このことは、「人間にはイメージ=像」が表象する、ということを説明するものです。
日本の言語学者らは脳に「イメージ」(像)が表象する、といったことには考えが及びもつかないことを見てとる必要があります。
しかし、古代ギリシャ哲学からヘーゲルまでの哲学は、人間の脳には「像」(イメージ)が表象する、この「像」(イメージ)をどのように「言葉」ないし「言語」の意味として確定するか?ということを考察してきました。
●ヘーゲルの『精神現象学』
G・W・F・ヘーゲルは、『精神現象学』(平凡社ライブラリー)の中でこう書いています。
「そこでわれわれが、知を概念と呼び、実在つまり真を、存在するものまたは対象と呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するか、どうかを見るということである。」
「われわれが実在もしくは対象の自体を概念と呼び、これに対し対象という言葉で、対象としての対象、つまり他者にとって在るものを呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するかどうかを、見るということである。」
●解説
このヘーゲルの説明は、もちろん、「文型」のことや「文法」のことを説明しているのです。金田一春彦の説明を先に読んで、次にこのヘーゲルの説明を読むと、まるで何を説明しているのか?と分かりにくいかもしれません。
簡単にいうとヘーゲルのいうところはこんなふうです。
- 人間は、ものごとを見聞きし、手に触れる。
感覚や知覚でとらえたものごとは、感覚や知覚のとおりに頭の中に思い浮んで「像」を表象させる(注・右脳・前頭葉に思い浮ぶ)。
- だが、人間が頭に思い浮べる「像」は、一人一人の人間にとってのことだから、同じものを見たり聞いたり触ったとしても同じ「像」を思い浮べているとは限らない。
- 人間にとって真とは「実在するもの」のことだ。人間は、現実から生きる糧を受け取り、摂取して生きていけるからだ。
- そこで、ある人がリンゴが欲しいと思っているのに、このことを伝え聞いた別の人が、リンゴとは似ても似つかないものを持って来たらどうなるか。そのものは真ではなく、「偽(ぎ)」としてしりぞけられるだろう。リンゴは、現実の中にあって、それが概念の内容をつくる。だから、概念としてとらえられないリンゴは、なるほどイメージは思い浮ぶかもしれないが、概念化されないと「偽(ぎ)」をはらんでいるのでそういうイメージを「他者」というのだ。
- ゆえに、思い浮ぶ「像」にたいして、これが現実の実在と一致するような概念形成がなされなければならない。
このような考察をふまえてつくり出されたのが、英語の「5文型」のような「形式」です。「5文型」の「主語」は、概念が「現実の実在」と「一致」するかどうかを「吟味」するための「命題」の項辞です。
「SV」の形式によって「命題」が定立して、ここから真か偽(ぎ)かを問う証明がおこなわれるのです。
●日本人の哀しい「非知性の真実」
ご紹介した金田一春彦の「だ」(助詞)は論理学に向く「コプラ」と説明しているところは、論理とは、「演繹法」か「帰納法」のことで、「証明することをいう」という本質が恣意的に歪められていることが分かります。こういう恣意性が学者によって権威づけられているところに日本人と、日本語の困難の根拠があります。
こんなふうな日本語と日本人の抱えている現実の危機をくぐりぬけて生き残れる知的実力を習得していただくために開発されたのが『谷川うさ子王国物語』の通信講座です。
この混迷の状況から一日も早く抜け出したいと思っている方にはお役に立つ学習です。
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