みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●日本人の基本敬語「内(ウチ)意識」、その1。
平成22年7月30日に、「大阪・西区。23歳母親による1歳と3歳の自分の子どもに、水も飲ませず、食事も与えずに、喉の渇きと飢えで衰弱死させる事件」が起こりました。
この事件は、新聞でも大きく取り上げられたのでどなたもよくご存知の事件です。
では、あなたは、この事件のどこに注目されるでしょうか。
「自分の子どもは、母親が世話しなければ子どもは生きていけないということをこの23歳母親は、よく分かっていたはずだ。分かっていてその危険域に踏み込んで、わざわざ2人の子どもを死の淵に追いやっている。だったら、せめて子どもだけでも助ける手立てを講じるしかなかったのではないか。」
これが、今の日本の一般的なものの考え方です。
「今の日本に、子どもを死の淵に追いやる母親がいるのは、日本の当り前の現実だ」
という認識が「一般的なものの考え方」です。
この「一般的なものの考え方」とは、「大阪・西区の2幼児を餓死させた23歳の母親」の住むマンションの約30世帯の住人の態度によくあらわれています。近隣の住民は、数ヵ月間にわたって、喉の渇きと飢えのひどさで泣いて母親を呼ぶ声を聞いています。1人の女性だけが5回ほど行政に電話通報しています。ある20歳の女性も、2幼児の喉の渇きと飢えで母親を呼ぶ悲痛な泣き声を聞いていました。しかし「しつけかもしれない。通報すると迷惑をかけるかもしれない」と考えて、「行政に連絡しなかった」と言っています。これは、読売新聞の報道によります。
このマンションの住人の大半は、「20歳女性」と同じ「一般的なものの考え方」を持っていたことを意味します。それは、「母親は、自分の子どもに、飢えと渇きで泣かせてもよいのだ。泣きながら母親を呼ぶ声をあげさせてもいいのだ」という「ものの考え方」のことです。
「しつけ(擬似教育)ならば、飢えさせようが、喉の渇きによるものであろうとも、その結果、死んでしまってゴミの中で転がることになってもいいのだ」とするものの考え方のことです。「しつけだったらその結果、子どもが死んでもいいのではないか」。このものの考え方は、児童福祉の行政(保育所、児童相談所、保健センター、厚生労働省など)にも、日本の一般女性にも、そして「あなた」にもあります。
●日本人の「内(ウチ)意識」の2。……「可愛い」の『自我』の構造
「大阪、西区」の「1歳と2歳」の幼児を飢えと渇きの中に放置して外泊をくりかえしていた「23歳女性」は、最初の子どもが生まれたときは、ブログに「なんて可愛いんだ。こんなにも可愛いなんて思ってもみなかった」と書いています。
「可愛い」という言葉は一般的に、誰もが使っています。しかもひんぱんに使われている言葉です。だから、「自分の子どもが生まれた時」に「可愛い」と思い、そういう言葉を口から出すのはごく普通のことで、常識の範囲内のことではないか、と誰もが思うでしょう。「可愛い」と思うのはいいことで、この言葉には一片の問題もないと何の疑いも持っていないのが今の日本の圧倒的多くの女性であるでしょう。
この「可愛い」という言葉は、「可愛い」という言葉そのものに問題があるのではありません。
この「可愛い」という言葉の生成のメカニズムが問題になるのです。「大脳辺縁系」の中枢神経の一つの「扁桃核」が記憶する「生の感情」が表象させる言葉であることが問題になるのです。「扁桃核」は、「好き」「嫌い」「敵」「味方」の価値判断を記憶する中枢神経です。
この大脳辺縁系の中にあるいくつもの中枢神経の記憶する「生の感情」や「欲求」の記憶を表象した時の言葉は、全て「自我」といいます。「自我」は、人間に固有の意識です。いいも悪いもなく、ただ、「人間に固有」の「動物一般」のもつ原始的な感情をあらわす意識で、誰にもあるし、あって当り前の意識です。人間も「動物」だから、動物である以上ごく普通の意識だ、ということです。
●日本人の「内(ウチ)意識」、その3。とにかく「破壊」が目標!!
では、「大阪・西区。2幼児を餓死させた23歳の母親」が発言している「子どもに、水をやったり、食事を与えたり、風呂に入れることが嫌になった」「2人の子どもに水を飲ませず、食事も与えなければ生きていけないことはよく分かっていた」という言葉は、何でしょうか。
人間が使っている言葉は、「一般化された言葉」と「正当に学習して教育をとおして身につけた言葉」との二種類があります。
「一般化された言葉」とは、「常識」ともいわれています。「その言葉の意味は知らない。しかし、誰もが使っているのでいつの間にか憶えている。言えば通じるので、仕事、生活の中で使っている。会話の中でも、しょっちゅう使っている」というのが「一般化された言葉」ということの定義です。
「2人の子どもに、水をやらず、食物も与えなければ死ぬことは分かっていた」という言葉は、正当な教育によって学習して身につけた言葉であると考える人はいないでしょう。この言葉の「意味」は、「1歳と3歳の子どもに、水も飲ませず、食べ物も与えない。そうすれば、この2人の子どもは、3日もしないうちに死ぬだろう。わずか3日でこの2人の子どもはいなくなる。そうなれば、今、大急ぎで遊んで帰ってくるという制限されている時間内の自由がもっと無制限につづく自由になる。この2人の子どもは、私の楽しみ、快楽なことを妨げているジャマな存在だ」というものです。
誰の言葉であっても、その人の語る言葉が「正当な教育による言葉」なのか?どうか?の判断の仕方は、その言葉にもとづく行動とはどういうものか?その行動のつくり出す人間的な現象とはどういう現象か?によって正当か、不当か?にもとづいて評価されます。いいか悪いか?の価値判断がなされるということです。
人間的な現象とは、「3人以上」の多くの人が集まる公の場面でその行動が再現された時、誰もが共通認識として「それはたいへん立派なことだ。素晴らしい。私たちは、あなたのその行動を高く評価して、支持する」という普遍性をもつ認知が与えられるか、どうか?ということです。
この「23歳・元母親の女性」は、大阪府警に逮捕されて、供述の中で「2人の子どもは、私のことを恨んでいると思う」と述べています。
表面的には、自分の行動の反省のように見えます。「1歳の子どもと、3歳の子どもの2人」に「自分は、ひょっとして恨まれるようなことをやったのではないか」と多数者の共通認識の目から見た自分の行動と姿を言葉に出して表象させているからです。
しかし、この言葉は、「正当な教育にもとづく言葉」ではありません。なぜでしょうか。
「恨む」とは、「他からの仕打ちを不当と思うこと、その不当な仕打ちの気持ちを図りきれず、その仕返しもできないので自分の無力を嘆いて、こうむった仕打ちを忘れずにいること。不満に思い、悔しく思い、残念にも思うこと」が「意味」です。「恨む」ということには、「思う」とか「考える」とか、「行動」にむすびつく「意思」というものが前提されます。
「1歳」や「3歳」の子どもの記憶は、母親の評価を得て安定した「長期記憶になる」というものです。否定されたり、拒否されたり、放置された行動は、眼の視覚の認知のメカニズムの「X経路」を中心に完結して、「自閉」します。「正常な行動」は止まり、「行動停止状態」を長期記憶とします。
「何もしないことが一番いいことだ」という知覚の麻痺をつくり出します。つまり、「他者を恨む」という能力には、一人で社会の中で生きていける自立した社会意識が必要です。
●日本人の「内(ウチ)意識」、その4。「可愛い」がつくる「尊大」と「イバリ」。
「23歳・元母親」の女性は、2人の幼児を、「ペット」にたいして「うちの子は」とか「あの子は」という話し方をする人と同じように、「ペットを擬人化」することの対極に、「乳児」「幼児」を「ペット化」して美化のイメージの中に表象させていたのです。この「美化のイメージ」の中の「2人の幼児」とは、「自分」が「可愛いと思って気分よくなる笑顔を向けてくれる」ということを内包しています。「自分が抑うつ状態にある時は、優しい言葉をかけてくれる存在である筈だ」という価値意識がつくり出しています。
「自分が、うつ状態にある時は、いらざる労力とか負担を求めずに、自分に向き合って孤立感を解消してくれる存在」といった、どこまでも拡大していく恣意的な材料による「美化のイメージ」の像が表象されていたのです。
これは、「正当な教育による言葉」がつくり出すものではなく、「可愛い」という言葉と同じ次元の「自我」が『虚像』に表象させている像を、その場、その場で適当に思いついた「一般化した言葉」にくっつけて思考していることになるのです。
「美化のイメージ」は、大脳辺縁系にあるいくつもの中枢神経の一つ「扁桃核」がつくり出すイメージです。
「好き、嫌い」「敵、味方」という両極の価値をセットにしています。
「好き」は、必ず「嫌い」を基準にして成り立つ価値のイメージです。
「可愛い」は、「醜い(古語の原型は『見憎い』、容貌が悪い。見ていると不快な感じがする)」という価値判断を土台に置いている言葉です。また、「可愛い」は「敵か、味方か」の「味方=内輪の存在である。内扱いの対象である」という価値判断をカテゴリーに内包しています。ひとくちにいうと「扁桃核」のつくる「自我」は、攻撃的で、怒りを一直線に直進する感情を内包しています。
何をもってどういう「扁桃核」の「自我」を形成したのか?は、その人の生育歴の中の『愛着』のシステムで測定されます。
エインズワースの開発した「不安定な愛着」の「Aタイプ」か「Cタイプ」「Dタイプ」のうち「Cタイプ」の場合であれば、「アンビヴァレンツな愛憎」を「自我」として扁桃核に長期記憶させているでしょう。この「Cタイプ」の「不安定な愛着」は、「好き=可愛い」の美化のイメージを「アンビヴァレンツ」の「憎」(嫌い)と常に隣り合わせにしています。
●日本人の「内意識」、その5。三世代にわたる連鎖を断ち切る勇気をもとう。
「大阪・西区」の「23歳母親」であった女性の「内(ウチ)意識=自我」は、こう推測されます。
- ブログには「こんなに可愛いとは思ってもみなかった。Happy!!」と書いた。
- 「子育て」の最中に、育児を夫や義父母にまかせて遊び歩いた。この時の交友関係が理由で離婚した。
- 2人の幼い子どもを育てながらホストクラブに遊びに行った。
しばしば外泊した。2人の子どもはジャマ扱いして放置した。
- 風俗店に勤めた。ここでも外泊して、2人の乳幼児への親の責任や義務を放棄した。(子どもに入浴させたり、水や食事を与えることが『嫌』になった、と『考えた』。)
この1,2,3,4の中の大脳辺縁系の中の脳の働き方は、ノルアドレナリンが常に異常分泌していて、「トカゲの脳」(中隔核)から「性の快感」をベースにした快感ホルモンのドーパミンが分泌している、という表象の仕方をしています。そのドーパミンを分泌する「美化の妄想」の表象のさせ方は次のとおりです。
- 目の前に2人の幼児がいる。
何日も入浴させていない。飢えと渇きで哀れに泣いている。
- しかし、水の一口、食べ物の一片も与えない。子どもらは、渇きでカサカサに渇いた唇と舌をたえず動かして、何かを食べているかのように、口をパクパク、舌を震えさせて動かしている。舌は、水をなめているかのように、乾燥してあぐあぐと動いている。手は、母親に向かって差し伸ばされている。
脱力感で体も、手もフルフルに震えている。
- 母親の自分は、水を飲み、食べ物を食べる。すると、子どもが渇いて苦痛にさいなまれていること、飢えで絶望している悲痛な状態をイメージさせる実感をともなう情愛が消える。
いくらかでも動きそうになっていた母親らしい気持ちの子どもを助けようという感覚は、自分は水を飲む、自分は食物を摂る、自分は風俗やホストクラブの誰かと性の接点を確保している「美化の妄想」による「快感」が、『虚像』に表象しているので、麻痺して動かなくなっている。
- だから、目の前の2人の幼い子どもが涙ながらに自分を必至の目で見ている目や表情は、見ているのに、しかし、見ていない。自分を求めて、助けを訴える泣き声や哀願の声は、聞いているのに聞いていない。
- 2人の子どものそれらの表情や声は、対極の美化の妄想をより鮮明にさせるので、見たり聞いたりしていると、時の経つのも忘れるくらおの快感で思考が麻痺して、異様な快感に呑み込まれて「happpppy!!」と思える。全身をノルアドレナリンがかけめぐり元気になってきた。
●日本人の「内(ウチ)意識」、その6。日本語の「和語」の「敬語体系」の「内扱い」「外扱い」が自分の現実を壊す
日本の女性にはこのような脳の働き方がなぜ生じるのかの解明が最大のテーマになっています。
それは、日本語の和語(ヤマトコトバ)の敬語体系に原因があります。
「遠いか、近いか」が和語の文法でも秩序づけられています。「遠いもの」は、「敬して近づかない、遠ざける」、という『自我』に直結した文法を「一般化」しています。「遠い」とは「外扱い」のことです。「外扱い」の対象に「子育ての知性」「仕事の知性」「勉強の知性」もあてはまります。これらの「外扱い」の対象を「内扱い」する時に、大脳辺縁系の「自我」の中枢神経の記憶を『虚像』に表象させて無意識のイバリ、尊大をごく普通のこととして常識にしているのです。
例えば、「貴様」「御前」は「外扱い」の最も高い価値の対象をあらわす言葉です。これが「内扱い」に用いられると、「侮蔑語」や「愛狎語」に変わるのはどなたもよくご存知のとおりです。
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日本人女性の脳の働き方をモデルにする「大阪・西区の事件」は、日本の女性に、和語(ヤマトコトバ)の敬語を中心とする脳の働き方の変革を求めています。
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