■相談の事例
「私は、一人暮らしです。まわりに友人がいません。遊べる友人は、一人か二人、しかも遠くにいます。
遊びに行く時は、長い時間をかけて遠くの友人のところまで行きます。たいていは、部屋で一人でこもっています。私は孤独です。私には、なぜ友人がいないのでしょうか」
(34歳。村山晴子。外資系金融会社勤務。神奈川県平塚市)
(注・人物は仮名です。特定の人物とは無関係です。また、特定の地域、職業、団体とも無関係です。相談の内容もいくつかの内容を合成して再構成してあります)。
■相談の内容
私は一人暮らしです。まわりに友人がいません。一人か二人の友人は、遠くにいます。メールをやりとりしても孤独なので、遊びにいくのですが「よく、こんな遠くまで来れるね」などと言われてしまいます。
友人が、私の家に来るということはありません。電話やメールも、私からしても相手からは来ません。迷惑がられては、と思い、私も遠慮しています。
人は、なぜ、私に電話やメール、遊びに訪ねてくる、ということがないのでしょうか。毎日、仕事と一人暮らしの家との往復で10年近くになりました。誰も知らない所で一人で暮らすというのは、本当に寂しくて悲しいです。
私は、仕事場ではまたべつの人間関係の悩みがあります。何人かの女性社員がいるのですが、とくべつ に安心して付き合いが深いという人は一人もいません。
私は独占欲がとても強くて、少し私と親しく話してくれる人が別の誰かと話しているのを見ると、私はひどく嫌な気持ちになります。嫉妬してしまうのです。その友だちを取られたくない、という思いで一杯になります。
私と話している相手に、別の人が話しかけてきて、その相手が話しかけてきた人と話しても、嫌な気持ちになります。
私は、いろんな人と話しますが、みんなと公平に仲良くしているつもりが、じつはそれが外見だけで、内面は違っています。淋しがりやで、腹黒いのです。
●ポルソナーレのカウンセリング
「人間の行動」には、年齢、社会的な位置に見合う基準がある……その基準とは「言葉」の中にあります
日本人の女性も男性も、あまりナットクされていないことの一つが、「社会人になったら友人はできない」という普遍的な基準です。「友人」とは、無償性の関係のことです。互いの関係の行動には、利害関係が介在しない、という意味です。友人が必要な時期は、「人間関係を練習する」という年齢の時のことです。すると、だいたい高校生くらいまで、です。20歳をすぎると、大学生でも、知的実力の水準によって潜在的な利害が発生します。
すると、こういう社会的な水準に見合う「言葉」というものがいくつかあって、これを段階的につみかさねていくにつれて「行動」も社会的な水準を上げていくことになります。ここでは、20歳をすぎているのに「友人がいない」などという「行動停止」は出てこないのです。
ここでは省略していますが、相談の女性は、「友人はできないので、淋しいので恋人がほしい。そして早く結婚したい」とも語ります。
人間関係をせいぜい「友人」の次元の言葉でしか「行動」をおこせないという水準では、「恋人」や「結婚」などという利害関係を土台にした人間関係は、「脳の働き方」から見るとつねに「関係はあっても行動停止の状態」…つまり、相談者のいう「孤独」「孤立」「淋しい」「嫉妬する」という「負の行動のイメージ」が喚起されつづけることになるのです。
「記憶のトラブル」とは、よくいわれているような「脳トレ」とか「アルツハイマー病か?の診断テスト」で示されているような「憶えていますか?」「憶えられますか?」のようなことではないのです。これは「記憶」にかんする虚報というべきものです。
「記憶」は、「行動」と一義的にむすびついています。現在の行動と、将来の行動が「止まる」というときに、そこには、「行動に必要な長期記憶が無い」とみなされます。
相談の事例の女性は、「女性どうしの人間関係」についての行動のための「言葉」の記憶が欠如しています。すると、「自分が女性であること」に必要な「言葉」も、「社会的な知性の能力を発揮するための言葉」も記憶されていません。すると動物のような次元の行動とそのために記憶されている「言葉」だけで生きていくことになるでしょう。そこには、アルツハイマー病的な記憶の障害も、脳血管性痴呆のような「まだら痴呆」も、行動の必要の局面でぞくぞくとあらわされてくることが予測されます。このときの痴呆状態が「うつ病」といわれたり「分裂病」とも呼ばれることがあるのです。
「負の行動のイメージ」の内容が病理を決定するのです。 |