■日本人が用いる「否定的表現」による「肯定文」(話し言葉)は、「肯定の対象」の「Y経路」を、「行動の対象」として説明しないということです。
Y経路の文法の示す「前提」とか「条件」とか「因果」というものを一切、表現しないというのが「否定的表現」のメカニズムです。これは「脳の働き方の言語の生成のメカニズム」に則していうと「X経路」だけにとどまって、この「X経路」のゾーン(ブローカー言語野の3分の1のゾーン)だけで行動を完結させることに終始する文法体系をもっているということです。
国語学者・大野晋は、日本人の使っている日本語とはどういう起源をもっているのか?を追究しています。次のように考察と解析をのべています。
- 日本語の「亡くなる」「おいでになる」「ごらんになる」の「なる」(「ある」「らる」も)は、自然推移の結果として、ある状態に至る、という「自発」の表現である。
(注・自動詞の表現パターンに該当する)。
- 日本語の「尊敬語」の表現の「なる」「らる」「ある」は、自然的成立を意味する言葉が用いられている。
- 人称代名詞の体系は「うちの人」「こなた」「あちらの方」など、遠い人には尊敬語を用い、近いゾーンの人には「親愛の表現の『うち』『こっち』」を用いてきている。
- 日本語(和語)は、人間、物、事柄を「内」と「外」とで区別する文法体系になっている。ここに、漢字・漢語の輸入とともに「上、下の区別」が加わった。
- 日本語をつくった弥生時代の古代人の心性は、「遠い所…家の外のもの」は「自分は立ち入らない、手を加えない」ととらえた。これが日本語(和語)の文法を構成している。
■「遠い所」とは、「二・五次元」の対象としてみると「Y経路による認知と認識の対象」です。
「二・五次元」でものごとを了解するのは、「新生児・乳児」です。対象は、「母親」「母親の顔と目、声」(言葉)です。
これが、日本の古代人の心性では、「家の外の自然、現象、人間」の全てが対象となっている、と大野晋はのべているのです。
「外のものは恐い」「外にあるものは危険なものだ」だから「敬意を表しなければならない」と無意識に考えさせるのが日本語の「文法」である、と大野晋は解析します。
しかし、日本人は、「外のもの」をいったん「内・うち」(X経路)の中に取り込むと「否定的に表現する」と説明しているのが金田一春彦です。
我コレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石を抱きて野に歌ふ
芭蕉のさびを喜ばず
(与謝野寛)
この詩の例に見るように自分も否定するというところで、否定が進行します。
この「否定」は、敬語の対象にも及びます。
「貴様」(貴いご様子の方)が「内なる人間」と見なされると「きさま」という「ののしり語」に変化するのが典型例です。
日本人の日本語による「不適合」のパターンとは、次のとおりです。
◎パターン1
「あの本、どうした?」
「読んじゃった」
◎パターン2
「あの人は誰ですか?」
「隣のおじさんです」
◎パターン3
(若い妻が夫に)「ぼくちゃん、今日、何時に帰る?」
■「外なる人間」は疎遠なる者として排除し、恐怖の対象(妖怪と同列に扱う)、人間関係をとりきめるものではない、という「無意識」が表現されています。そしてひとたび相手を「内なる存在」ととらえると、どこまでも「省略語」と「曖昧語」の対象に変わり、相手の意思も人格も人間性も「無為化に帰する」という関係づけが成立しています。この「無為化」とは、手を加えないで成り行きの自然のままに放置するということです。この「無為化」というものが「不適合」の実体です。
この不適合を推進するのが「尊大語」(「貴様」「お前」「おい・こら」など)です。そして「尊大表現」(会社に電話するときの「今日は、お休みします」など)です。これは『瓜子姫』(民話)の説話のエピソードが示すとおり、「自分」と「相手」の「殺害」へと進行していくということは、前回の本ゼミでお話しているとおりです。 |