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平成16年9月15日。「長崎家裁佐
世保支部」(小松平内裁判長)は、「佐世保小6事件」の第3回「少年審判」を開いた。「加害者女児は、確定的な殺意をかかえていて、計画的に殺害行為に及んだ」と認定した。
「女児には、精神病性の障害はない。しかし、社会性や共感性が正しく発達していない。情緒面についても偏りがある。怒りを感じると、怒りの対象から回避するか、その相手を攻撃するという両極端しかない」と分析した。
「ゆいいつ安心できて、自分の存在感を確認できる居場所のインターネット、交換日記に反論を書かれこれを侵入と感じて、怒りをつのらせた」と原因について言及している。 |
●父親・恭二さんの手記 |
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被害者の女児、御手洗怜美(さとみ)さんの父親、御手洗恭二さん(46歳)は、「手記」のはじめに次のように書いている。
「さっちゃん。
あの日から3ヵ月半。少年審判が終わりました。
たくさんの人が彼女のことを調べてくれた結果に、父さんは戸惑っています。
彼女は、程度の差はあれ、父さんたち大人が一般的に「普通」と呼んでいる子どものようです。この結果は、鑑定や調査の限界だろうか。それとも「普通の子」でもこんな大変なことを起こしてしまうということだろうか。父さんには分かりません」。 |
●「長崎県・佐世保市事件」 |
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長崎県・佐世保市事件」は、なぜ起こったのか?
少女A(11歳)は、なぜ、同級生の女の子、御手洗怜美さん(12歳)の首をカッターナイフで切り裂いて殺害したのか。
少女Aは、自分の「考え」で殺害を決めた。そして計画を立てた。計画とは、「殺害する」という行動の目的を立てたことだ。殺害の方法は「カッターナイフ」を用いるというものだ。
「計画」のことは、ランドセルの中に入っていたノートに書いてあった。カッターナイフは、凶器として持ち歩いていた。同級生の男の子が、教室で「何の本を読んでるの?」とのぞきこんだら「あっちに行け」とカッターナイフの刀を向けられておいはらわれている。 |
●人間は、「考えたことを実行する、 考えないことは実行しない」 |
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では、どのように考えれば、同級生の親しい友人を殺害する、という「考え」になるのか?
それは、「頭の中」に「殺害する」というイメージがつくられなければならない。人間が何ごとかを「行動する」には、「頭の中」に「イメージ」がつくられることが必要なのだ。
たとえば、AとBという二人の人物に次のようなことを伝えたとする。
「今日も、明日も、あさっても、リンゴを買ってきてください。今日はリンゴ1つ、明日はリンゴ2つ、あさってはリンゴ3つです」。AとBは、それぞれ「はい、分かりました」と返事をした。
Aは、今日リンゴ1つ、次の日はリンゴ2つ、その次の日はリンゴを3つ、買ってきた。
Bは、今日、リンゴを1つ買ってきた。しかし、次の日はリンゴを買っ
てこない。その次の日も、リンゴを買ってこない。
Bは、なぜリンゴを買ってこないのか。
「はい、分かりました」と、Aと同じように返事をした。だから耳に言葉が入ってこなかったわけではない。
ちゃんと耳で聞いている。「なぜ、リンゴを買ってこないのだ?」と詰問する。すると「忘れました」と返事をするだろう。
「忘れました」とは、「憶えていたけれども、リンゴを買うという行動を起こさなかった」という意味だ。本当なのか?そこで質問してみる。
「Aは、ちゃんと憶えていた。なぜ、忘れた?」。すると次のような返事が返ってくるだろう。
「うっかりしていて」。
「ボーッとしていて」。
「聞いたのに、忘れて」。
「ほかのことをやっていて、リンゴを買うことを忘れて」。
「電話がかかってきて、長く話したので」。
では、リンゴを買ってきたAは、「ほかのことをやらなかった」のか?「電話で長く話さなかった」のか?
「ボーッとする」「うっかりする」ということはなかったのか?こういうことは、誰の経験の中にもある。しかし、「リンゴを買うこと」は忘れない。
ちゃんと耳で聞いて、「はい、分かりました」と返事をしたことは憶えている。
「リンゴを買わなかったB」は、「買わなかった理由」について正当性のある理由を話していない。なぜ、「正当性がない」と分かるのか?
それは、次のような質問をしてみれば明らかになる。
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●「忘れた」のではなく「記憶できていない」 |
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「では、何を、どのようにしてく れと命じたか?」
この問いにたいする即座の返事は、こうなる。
「リンゴを買うことです」。
同じ質問をAにする。
「では、何を、どのようにしてくれと命じたか?」
「リンゴを買うように命じられました。今日リンゴを1つ、明日はリンゴを2つ、あさってはリンゴを3つ、買うということが命じられた内容です」。
このAとBへの質問の回答を比べてみる。
Bには、「リンゴ」を「買う」という言葉しか記憶されていないのだ。
「頭の中のイメージ」は、「リンゴ」と「買う」という二つの「イメージ」しか思い浮べられていない。
Aの「頭の中」には、「今日はリンゴを1つ」「明日はリンゴを2つ」「あさってはリンゴを3つ」、「三日間にわたって、連続して買って来る」というイメージが思い浮べられている。AとBには、こういう違いがある。
この違いとは、Aは「話し言葉」を耳で聞いたことが「脳の中で学習され、記憶されている」、Bは「脳の中で学習されない、したがって記憶されない」という違いがあるということなのだ。
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●忘れた人」は「責任意識」を感じる |
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もし、Aが「リンゴを買うことを忘れた」とする。すると、Aは、「はい、分かりました」と返事をしたのに「買わなかった」のだから「自分が過ちを犯したこと」に責任を感じる。「リンゴを買わなかった」ことで生じたダメージや損害、信用の欠損に思いを寄せて、これらの「損害」の回復につとめなければならないと考えるだろう。
「リンゴを買う」という責任主体が「命じた人間」からAへと移行したからだ。「聞いた言葉が頭の中に、学習されてイメージがつくられた」ということは、「責任主体」が移行したということだ。
「命じた」ということには、必要と目的があるから、伝えられる。
「買う」という行動には、「利害」という価値が内包されている。
しかし、Bの「頭の中」には「3日間、連続してリンゴを買う」というイメージが無い。「耳」で「リンゴを買うように」という「話し言葉」は受容された。だが「脳の中」でその「話し言葉」は学習されない。
「学習する」とは何のことか?「言葉になる」ということだ。「話し言葉」か「書き言葉」にむすびつけられることが「学習」ということだ。
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●「記憶」は虚無だから「自分の責任」とは思わない |
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「頭の中」にイメージが形成されなければ、「無」だ。「話し言葉」として「耳」で聞いた時は、耳の聴覚機能が知覚した。だから「はい、分かりました」と口に出して返事をした。だが、「頭の中に確かにイメージが形成されました」という返事ではない。「頭の中」に「イメージが形成されていない」とは、虚無だ。
虚無ならば、「リンゴを買うことを忘れた」と、言っても、責任は感じない。「主体の行動」はおこなわれていないからだ。そこに、「損害」が発生しても、自分とは全く関係のない「損害」の現象が勝手に起こったとしか認識されない。「損害」に羽根が生えて、自然にやってきたという認識の仕方になる。 |
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ここで、Bの「リンゴを買うこ とを忘れました」という言葉を考察してみる。「リンゴ」と「買う」という「話し言葉」は学習されて記憶されている。しかし「今日はリンゴを1つ」「明日はリンゴを2つ」「あさってはリンゴを3つ」を「買う」という「話し言葉」が学習されていない。 |
●「触覚の意識」は記憶する。「視覚」の対象は「虚無」 |
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「脳の中でイメージされる」ということが「学習」だ。
Bの「学習されている言葉」と
「学習されていない言葉」は、
「脳の中」に、確定される部位と、確定されない部位があることを意味しているのだ。
「リンゴ」「買う」というのは「手」「指」「足」による関わりで関係性が成り立つ。「関わりが成り立つ」ともいう。これを「触覚による認知」という。
「触覚による認知」をつかさどるのは、「右脳のウェルニッケ言語野」だ。だから、Aは「右脳のウェルニッケ言語野」で「話し言葉」を聞いたことになる。
では、「リンゴが1つ」「リンゴが2つ」「リンゴが3つ」というのは「触覚の対象」ではないのか?
「触覚の対象」に決まっている。それならば、「リンゴ」という「触覚の対象」は認知されているのに
「リンゴ1つ」「リンゴ2つ」「リンゴ3つ」は、なぜ認知されていないのか?
これは、「量としての数」の「認知」が失語症であるという。
「順序としての数」ではない。「順序としての数」は、「右脳のウェルニッケ言語野」ではなくて「右脳のブローカー言語野」で学習して、認知する。Bは、「量としての数」の「話し言葉」を「右の耳」で聞いたことが無いか、もしくは、聞いたことはあるが、「特異体験」として「パソコン・ケータイ」のディスプレーで「量」を数えたか、もしくは、「長崎県・佐世保市事件」の少女Aのように「騒音の中」で「量」を数えたのだ。「騒音の中」で「量」を数えると「右の耳」で「人の話」を聞いていたものが、パッと「左の耳で聞く」というようにスイッチされる。
すると、「右脳のウェルニッケ言語野」の「触覚による認知」は「自分の一つの手と一つの対象物」との「一対一の対応」になる。
「リンゴ2つ」「リンゴ3つ」という「触覚のイメージ」は破壊される。そしてひょっとして「バッド・イメージ」に変わるかもしれない。 |
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日本人は「右脳」で言葉を学習して憶えている、といわれている。
しかし、大脳生理学の本を見ると、どの本にも「右脳には言語を学習す る機能はない」と書いてある。
「言葉を話す」「言葉を書く」という時の「言語」は主要言語という。主要言語を学習して、記憶し、話したり書くという「表現」をおこなうのは「左脳」なのだ。
では、日本人は、一体、どうやって「右脳」で「言葉」を学習して、話したり書いたりしているのか?
それは、「左利きの人」のことを モデルにして考えてみるとよく分かる。 |
●交叉支配 |
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「交叉支配」ということはすでに教えた。くりかえせば「身体」の「左半分」「右半分」は、脳の「右脳」と「左脳」がそれぞれ半分ずつを支配しているということだ。身体の「左半分」は「右脳」が支配している。また、身体の「右半分」は「左脳」が支配している。
これは、人間というものを正しく理解するうえで非常に重要なことだから、「カウンセリング」を勉強する人はとくに、ちゃんと憶えておかなければならない。
このことを学習しているのに、人と会話をする時に、「左か、右のどちらかの方向を見ながら相手の話を聞く」とか「左の耳に電話の受話器を当てて聞く」とか「ハッキリしないボソボソした声でしゃべる」ということがあれば、それは、「右脳のウェルニッケ言語野」でなければ「右脳のブローカー言語野」の重症の失語者であるといっていい。
会社の社長がそういう人だったらまちがいなく、その会社は、どこかで危うくなる。
しかし、今の時代と社会でそういう会社が立ちいくはずがないから、「社長」の中にはそういう人はいないといっていい。一般職員の中の、しかも「中間管理職」にそういう人がいればどうなるか?「脳の働き方と言語の学習能力」の問題は、こん なふうに「現実の利害」の中に置いて考えてみるべきなのだ。
「交叉支配」ということをよく理解してもらえただろうか。
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「左利きの人」は、「左手の触覚」 を「右脳のウェルニッケ言語野」で 触覚の対象として認知するのだ。こ れは、一体、どういう問題をはらむのか。 |
●右利きの人 |
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「右利きの人」と比べてみよう。「右利きの人」は、「左脳のウェルニッケ言語野」で、触覚の対象として認知する。この両者の違いが分かるだろうか?「左脳のウェルニッケ言語野」は、「主要言語」を学習して、憶える、と説明した。
すると、「右手で物を触る」というのは、「物理としての物体」を触っているのではない。「触覚の対象」を《観念》として触っている。これを「一対二の対応」という。「手で触る」というのが「一」だ。「触った時の知覚の感触」と「これは、リンゴよ」(母親の話し言葉)が「二」だ。 |
●左利きの人の場合 |
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ところが「左利きの人」の場合は「右脳のウェルニッケ言語野」で「触覚の対象」を認知する。
「右脳のウェルニッケ言語野」は「言語」は学習しない。物体の形象を「認知する」。すると「左利きの人」は「触覚の対象」を《物理》としてのみ触っていることになる。
このような触り方を「一対一対応」というのだ。ここには、言語のレベルの《観念》は無い。 |
●左の耳で聞いた場合 |
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このような「左利きの人」に「母親」が「これはリンゴよ」と話して聞かせたとする。この場合、二通りの「話し方」が成り立つ。一つは「右の耳」に話しかけて聞かせる場合だ。もう一つが「左の耳」に話しかける場合だ。これも「交叉支配」の法則にもとづいて考えなければならない。
母親が子どもの「左の耳」に話しかければ、子どもの「右脳のウェルニッケ言語野」に届く。「左利きの人」が「手で触った触覚の認知」は「右脳のウェルニッケ言語野」でおこなわれている。「じゃあ、ちょうど、うまくピッタリと一致しているではないか」と思う人がいるかもし
れない。
ところが、そうはならないのだ。
「左の耳」は「右脳の聴覚野」とむすびついている。この「右脳・聴覚野」から「右脳・ウェルニッケ言語野」にむすびついて、このむすびつきが「左脳のウェルニッケ言語野」へとフィード・バックされる。
「右脳・聴覚野」は、「人間の声、言葉」を了解しない。「虫の音」とか「風の音」「生活音」のような「自然音」を了解する。すると「これはリンゴよ」という母親の話し言葉も「声の音」のみが了解されて「これは、リンゴよ」という言葉は了解されない。すると、子どもは、今、自分が手で触っている「物体」(リンゴ)について「リンゴ」という言葉を学習することができない。 |
●右の耳で利いた場合 |
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では、「左利きの人」が「右の耳」で「これはリンゴよ」という「話し言葉」を聞けばどうなるか。
「右の耳」は、「左脳の聴覚野」
にむすびついている。母親の「これはリンゴよ」という「話し言葉」は、そのまま学習されるだろう。だが、「左の手」でリンゴを触っている。「左手」は「右脳のウェルニッケ言語野」につながっている。だから「リンゴ」という物体は知覚する。だが、「左手」は「左脳のウェルニッケ言語野」にはつながっていない。
すると「右の耳」から「左脳・聴覚野」に入ってきた「これはリンゴよ」という母親の「話し言葉」はどうなる?「左脳のウェルニッケ言語野」には、「右脳のウェルニッケ言語野」の「触覚で知覚された認知」(リンゴの形象性)は届いていない。
子どもは、「一体、何が、リンゴなのだろうか?」と考えるのだ。今、自分が手で触っている物体が「リンゴ」であるとは認識されないのだ。
子どもは、「右の耳」から「左脳の聴覚野」に届いて学習された「これはリンゴよ」という「話し言葉」を「何がリンゴか?」と分からないままに記憶している。その一方で、「左手」でリンゴを触りつづける。 |
●左利きの人の言語の学習の仕方とは |
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もちろん「眼」でもリンゴを見つづけるだろう。「眼の視覚情報」の「X経路」がくりかえしリンゴに焦点を合わせる。そして、詳細に観察する。この「X経路」が「左手で触ったリンゴの知覚」と「これはリンゴよ」という「話し言葉」をむすびつけるのだ。
子どもは、自分が今、げんに手に触っているリンゴを見て、母親の「これがリンゴよ」という言葉を思い出す。
「これが、リンゴだったのか」。 |
●日本人の言語学習の仕方と同じ |
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日本人が「右脳」をつかって「言葉を学習し、憶える」とは、この「左利きの人」が「右耳」で「話し言葉を聞く」という学習システムのとおりに学習するのだ。 |
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「左利きの人」と「日本人一般」の「言語学習のシステム」は、ほとんど同じだ。
母親の「話し言葉」を「右の耳」で聞いた場合に限って「左脳の聴覚野」が「母親の話し言葉」を学習して憶える。
「右利きの日本人」は、「右脳のウェルニッケ言語野」で「触覚の対象」を触覚の知覚として認知する。同時に、「左脳のウェルニッケ言語野」で「母親の話し言葉」を学習する。そして「右手で触った物体」についての「言葉」を学習する。 |
●日本人の言語の学習の仕方 |
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この日本人の言語の学習システムのどこが不都合なのか?いいかえれば、一体、なぜ「右脳で言葉を学習して、憶える」ことになるのか?
それは、日本人の「子育ての仕方」に理由がある。
?子どもを抱っこして育てる。
?子どもを背中に背負って母親の身体に密着して育てる。
?母親が、子どもと自分を気持ち(感情)の上で一体化させて、「子どもの気持ち」をくみとって、「子どもがこう思っているだろう」ということを予測して、「子どもになり変った話し言葉」を話す。 |
●例 |
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「ママはねえ」
「おいちい?」
「あんよはじょうず」
「順子ちゃん、おはよー」
「おみじゅ、飲む?」
この、子どもにとって「対象」との「距離の無さ」が、「対象」をつねに「触覚の対象」として了解させる。つまり、「右脳のウェルニッケ言語野」だけで「現実の物体」(書き言葉の文字、漢字、文章も)を認知してきた。 |
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「必然的」という言葉がある。
「雨が降れば、身体がぬれる」というのは必然的だ。
同じように、右脳のウェルニッケ言語野の「触覚の対象」としてだけで「現実の事物」を了解しつづければ、「眼で見る」という「視覚の対象」も「触覚の知覚」の地続きで「見る」ということになる。 |
●ブローカー失語のしくみ |
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遠くにあるものは手で触れないから「無い」も同然だ。必然的に「遠くにあるもの」は「見えない」から「無い」も同然だ。
これは、「抽象的なもの」は、知覚で認知できないということだ。
「視覚の対象」を形態認知するのは「右脳のブローカー言語野」だ。
このようにして、「ブローカー失語」なるものがつくられる。「ブローカー失語」とは、次のようなものだ。
1.ものごとと自分が「距離」が離れると分からない。
2.ものごとにたいして、角度が変わると分からなくなる。
3.ものごとが、どちらに進んでいくか?その進んだ先々ではどのような状態になるかの予測、推測、推察ができない。
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「長崎県・佐世保市事件」は、「右脳のウェルニッケ言語野」の「触覚の形態認知」が、「右耳」に入ってくる「話し言葉」が、教室内の「暴言」によって「左耳で聞く」というようにスイッチされた。 |
●暴言、怒鳴り声は「左耳」で聞く |
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「暴言」が「右脳・ウェルニッケ言語野」の「触覚による形象のイメージ」をいびつに歪めた。バッド・イメージに変わった。
「人間は、自分が考えたとおりに実行し、考えないことは実行しないのである」という無意識の観念の運動の法則のとおりに行動した。
「バッド・イメージ」のとおりに現実の対象が壊れれば「右脳・ウェルニッケ言語野」にドーパミンが分泌する。だから同級生の女の子は殺害された。 |