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柳田邦男が『14年目にやってきた男の出番』というリポートを書いている(『新潮45』二○○五・三月号)。
このリポートで書かれている主旨は「療育」ということだ。「療育」のもともとの意味は「先天的に障害をもって生まれてきた子ども」を自立に向けて生き延びさせて、普通の生活ができるように社会的な学習や訓練を施すことだ。 |
●「二分脊椎」という障害 |
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柳田邦男は、実際にあった二つのエピソードを紹介している。一つは「二分脊椎」という障害をもって生まれた子どもの話だ。男の子だった。「手術をして、二十四ヵ月生きた例がある」というくらいのきわめて生き延びること自体が困難な障害だ。「脊椎」に異常があるからだ。母親は二十二歳だった。
絶望して「死ぬしかない」と思い詰めたという。だが、この二十二歳の若い母親は「二分脊椎」の障害の子どもに「療育」をおこなった。
「二分脊椎」の男の子は、二十四ヵ月以上、生き延びた。成人した。車椅子で仕事にも就いている。 |
●「ダウン症候群」という障害 |
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もう一つの「療育」のエピソードは、「ダウン症」の男の子の話だ。
「ダウン症」とは、「ダウン症候群」と呼ばれている。イギリスの内科医ダウンが初めて報告した。(J.Lang don.Down1826-1896)。ヒトの二十番目の染色体の過剰によって起きる。発達、成長障害のことだ。先天性の心疾患をともなう。「精神遅滞」の一種と考えられてきた。かつては「蒙古症(モンゴリズム)」と呼ばれた。目が吊り上がり、上まぶたが目がしらで下まぶたを覆うという表情をしている。鼻が低く、舌が大きく、皮ふが厚い、という特徴をもつ。
「心臓の奇形」「ヘルニアの奇形」をともなう。特効薬はない。「治療教育」、すなわち「療育」が非常に大切とされている。
「精神発達の遅滞」が特徴の一つだから「早期の療育」が一日も早くおこなわれればそれだけ成長や発達の遅れがカバーできると考えられている。
この「ダウン症候群」の障害をもって生まれた男の子に「療育」がおこなわれた。 |
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「ダウン症候群」の男の子は「裕介君」(次男)といった。 父親は江口敬一だ。一九四九年 生まれで現在、55歳だ。 |
●「あなた方には資格と力があります」 |
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「ダウン症候群の裕介君」にはどのような「療育」がおこなわれたか。
まず、勤務地先のアメリカ(西海岸シアトル)の医師の言葉から始まった。
「あなた方は、障害をもった子どもを立派に育てられる資格と力があることを神様が知っておられてお選びになられたご夫妻です。
どうぞ愛情深く育ててあげてください」。
江口敬一は、医師のこの言葉で立ち直った。
江口夫妻は、アメリカから日本に引き上げてきて、日本で「ダウン症の裕介君」を育てる。「療育」をおこなう。その考え方とはこうだった。 |
●「療育」の考え方 |
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「他人の痛みが分かる、思いやりのある人に育つようにしよう」。
「できないことは、自分の意思で他者にサポートを頼んで、普通に生きられるようにしましょうね」。
「他者のことをちゃんと考えられる人間に成長させよう」と言っている。また「何から何まで他者に依存するのではなくて、どうしても自分の力でできないと思える時は、自分はどうなりたいのか、自分は何が欲しいのか、自分はどうありたいのか、を正しく他者に伝えられる人間に成長させよう」とも言っている。結論を正しくのべる、自分の主張をはっきり言葉で言いあらわす、ということだ。対話ができる、他者の言葉を正しく聞ける能力を身につけさせようということだ。
江口敬一夫妻は、「ダウン症の裕介君」の「療育」をこんなふうにおこなおうと教育方針を決めて考え方を一致させた。
「療育」とは、心や精神を健全にして、家の外の「他者」と適合して生きる力をつけるということなのだ。 |
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「ダウン症の裕介君」は「小学校」「中学校」は、地元の子どもたちが通う学校に通わせた。「いじめられるのではないか」「人に迷惑がかかるのではないか?」などとは心配しない。「できないことは他者に自分の意思でサポートを頼む」「普通に生きられる力を身につけていく」とは、自分で自分のことを悪く考えないということだ。他者を信頼して、積極的に自分から明るく打ちとけていくということだ。これが「療育」の考え方だ。 |
●「ぼくは働きたいよ」 |
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「ダウン症の裕介君」は、「高校」は「養護学校高等部」に進んだ。「高等部三年生」になると社会参加するための「職場実習」がある。「ダウン症の裕介君」は父親と母親に言った。
「お父さん、お母さん、ぼくは働きたいよ」。
「療育」とは、社会と適合するものの考え方を身につけて独力で生きていける社会性の能力を最大限に発達させるということだ。 |
●「やれることは何か」を考える |
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「ダウン症の裕介君」は、高等部を卒業すると「高齢者デイ・ケア・サービス・センター」に就職する。事前に「就業可能」の適正実習を受けている。客観的に評価されて採用が決められている。
「障害者」だから何ができない、とは初めから考えてはいない。「できることがある」「与えられた課題には積極的に取り組む」というものの考え方が身につけられている。
就職先は「アンデスのトマト」という高齢者を介護する施設だった。利用者にお茶を出す、お菓子を出す、フロやトイレのそうじをする、洗車をする、昼食の配膳をおこなう、レクリエーションの手伝いをする、などが業務だった。 |
●ホーム・ヘルパー3級の資格 |
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働いて2年が経った。「ダウン症の裕介君」は、父親の江口敬一が手に入れてきた情報を聞く。
「知的障害の人のためのホームヘルパー3級の養成講座」の話だ。
「ダウン症の裕介君」に江口敬一はたずねる。
「勉強したいか?」
「勉強したいよお父さん。教えてくれてありがとう」。
「ダウン症の裕介君」は二ヵ月間の講習を受けて「ホームヘルパー3級」の資格を取得する。 |
●ホーム・ヘルパー2級の講座を受ける |
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「ホームヘルパー3級」では利用者の身体に触れる介護はできない。「障害のある人」にはどうしても身体をサポートする介護がともなう。そこで「ダウン症の裕介君」は「ホームヘルパー2級」の資格を取得する養成講座に挑戦することを考える。
「お父さん、がんばってみるよ。応援してくれてありがとう」。
「ダウン症の裕介君」は、要介護の高齢者の身体に触れてお世話をする「ホームヘルパー2級」の養成講座に通い始める。
講義の中に「ダウン症についての説明と講義」があった。
「なんや、ぼくと同じやないか」。
「お父さん、お母さん、ぼくにはひょっとして知的障害があるかもしれへんよ。今まで気がつかなかったけどね」。 |
●「お母さん、サポート!!」 |
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「養成講座」は実技編に入った。「排泄・尿失禁の介護」の実習もある。課題に「自宅で紙おむつをつけて寝てください」というものがある。「ダウン症の裕介君」はこの課題にとりくむ。
その夜。
「サポート、サポート、お母さん」と自室から呼ぶ声がする。江口夫妻が行ってみる。ベッドの上で裕介君が仁王立ちになっている。「紙おむつ」は赤ちゃん用で小さい。なかなかうまくつけられない。
「うわーっはっはっはっはっは、わーっはっはっはっは」。
江口夫妻は爆笑する。「ダウン症の裕介君」も爆笑する。
「あーっはっはっはっはっ、うわーっはっはっはっはっ」。
母親が手伝ってなんとか「紙おむつ」をつける。その夜、裕介君は「紙おむつ」をつけたままで寝た。
窓からまるい月が銀色の光をさしこんでキラキラ光っている夜だった。 |
●道標、底無しの奈落にうがつ |
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「ダウン症の裕介君」は「ホームヘルパー2級」の資格を取得した。講座の参加者は七名だった。七名の全員が取得した。
「知的障害者」が「2級の資格」を取得したのは「大阪」では初めてのことだった。
それは、「障害」をもった人が社会参加して自立し、単独で生きるということの一里塚の道標を底無しの奈落にうちこむ、画期的な出来事だった。
「おかげさまでね、お父さん、お母さん。励ましてくれてありがとう」。
二○○四年三月のことだ。 |