みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●日本人が直面している困難
昨年の10月から始まったグローバル・リセッション(世界規模の景気後退)にともなう「調整」が始まっています。
新聞の報道を読むと、アメリカでは金融機関の縮小や再編、雇用調整などがおこなわれていると報じられています。日本や中国、韓国では、雇用調整や企業の倒産が進行しています。
このような「調整」につづくのが「再構築」です。市場づくりを目ざして実体経済による価値の創出のための資本の投下がおこなわれていくはずです。全世界で共通しているのは、「雇用の創出」を可能にする市場づくりです。
これまでは、自動車や家電、住宅建築、鉄道や空港、道路といった大量消費の「第二次産業」が雇用を保証してきました。これらの市場が「金融システムのバブル」の崩壊で一気に縮小したというのが、現在のグローバル・リセッションの背景にあります。
●日本人の「再構築」のテーマは「人材育成」
すると、日本の「経済社会の再構築のテーマ」(市場づくりのテーマ)とは、何でしょうか?
トヨタ自動車の大幅な営業利益の減少に象徴されることは、「海外に輸出して景気を上昇させる」という日本の経済社会の成長モデルは、ひとまず終わった、ということです。
海外の国の人々の大量消費を前提にした大量生産と、大量雇用のモデルが、新しい経済の成長モデルに変わらなければ、日本だけが大量失業者を抱えて衰弱していくということです。
ポルソナーレの考えでは、日本にとっての新しい「市場モデル」とは「人材育成」が重要な、しかも最優先のテーマになるはずです。
「人材育成」の具体的な事例は、「ニート」や「不登校」「引きこもり」「フリーター」などの対象とその親(父親と母親)になるでしょう。そして、「長引く薬物療法によって何年にもわたって薬(抗うつ薬や向精神薬など)を服用しつづけている人」と、その「親」(父親と母親)であるでしょう。
「氷山の一角」という言葉があります。
「不登校」「引きこもり」などの人々を三角形の頂点に置くと、底辺に向かって、類似した社会不適応の人々がぼう大に広がっています。企業の中のうつ病の人、公立学校の教師の休職者の増加傾向、10年間連続の3万人にのぼる自殺者の推移、年間1万人にのぼる家出する人の傾向、といったことです。
●ニート、引きこもり、不登校は、日本人の共通の問題
これらの人々の負の行動は、ひとりずつを見れば、そのひとりひとりの人に責任が帰せられるでしょう。
しかし、ものごとには、社会の中で一定の量が現象としてあらわれるとそれは社会問題となります。社会問題とは、何のことでしょうか?その社会の成員に共通する「意思」が流通しているということでしょう。「学校に行かなくてもいい」「自立して働かなくてもいい」「親とか、国に依存してやがて衰弱死してもいい」と許容する思考パターンが、流通している共通意思です。
デカルトは、『方法序説』の中で「大きな問題を解決するには、その対象を小さく分割して、小さな部分にする。その小さな部分を明確な形で解決するといいのだ」とのべています。ポルソナーレも、そのような方法で問題の解決にとりくみます。
「不登校」「ニート」「引きこもり」「長引く精神科の心の病いの薬物療法」の人々とその「親」に共通することとは、何でしょうか?それは「言葉」です。
日本人なので、「日本語」の学習の仕方に問題があるのです。
●言語社会学者・鈴木孝夫の日本語分析
鈴木孝夫(言語社会学者)は、『新潮45』(2009・1月号)の中の「日本語万華鏡」(人称の本質は何か)の中で、「日本語」の特性についてこんなふうに書いています。
- 日本語には、欧米語のいうような意味での「人称」(一人称、二人称、三人称のこと)は存在しない。
- 「あなた」「おまえ」「そちら」など、一見すると「二人称」のように思われているが、これは、英語の「I」「you」「he」「she」などの「人称」の意味とは異なっている。
- 日本語の「擬似代名詞」は、相手か自分の「場所」や「位置」を指しているのであって、「人格的な意思」をもつ「主体」を指すのではない。
- 日本語で、「人称の代名詞」としいていうのならば、「私」「おれ」も含めて「三人称」というしかない。
ここで鈴木孝夫がのべていることは、日本人の「日本語」というものと日本人の「人間関係の無意識」というものをよくとらえています。
●大野晋の日本語の起源の研究
このあたりのメカニズムについて「言語学者・大野晋」は、『日本語練習帳』(岩波新書)の中で、次のように書いています。
- 日本人の「人称代名詞」は人間の立っている場所、位置をあらわすものだ。自分にたいして「近い位置」か「遠い位置」をあらわす。
- 日本の原始社会の人には、「近い位置」とは「家の中」のことである。「うち」という言い方をする。「うち」は「安心な場所だ」「なれなれしくできる」「ときには、バカにしてもよい場所」のことだった。
- 一方、「外」は、「家の外」のことである。「外」で起こることは、「自分の力ではどうにもできない、自分で左右できないこと」だ。「自分が立ち入るには、非常な危険を冒さなくてはならない」。
だから「外で起こること」は、その成り行きにまかせて、そっとしておいて事を加えてはいけない。
これが「日本語」の「尊敬語」のはじまり(語源)である。
- 尊敬語の例
「思う」→「お思いになる」
「取る」→「お取りになる」
「もらう」→「おもらいになる」
「見せる」→「お見せになる」
「教える」→「お教えになる」
「教えている」→「お教えになっている」
ここで「尊敬語」とは「なる」(ある)のことだ。「なる(「らる」「ある」も)は、「自然に推移して、自然に成り立つ」という意味だ。自発性、自然な推移性が「尊敬」になる。
- 日本人にとって、「外のもの」「外のことがら」とは、「外界への恐怖」という原始的な心性によってとらえらえている。「恐怖」は「畏怖」に変わり、これが「畏敬」となり「尊敬」に変化した。
●日本人は、親が子をバカにして崩壊させている
■この大野晋の日本語の「人称」の成立の由来を指して、日本人の用いている「わたし」「わたくし」「おまえ」「あなた」「彼」「彼女」「あの方」などを含む全ての「人称」を、鈴木孝夫は、英語の「I」「my」「you」などの「人称」とは、全く内容が異なると指摘しています。
「私」というときは「主体としての自己」のことではなくて、現在自分の立っている位置関係を示すものだ、というのがその根拠です。
この鈴木孝夫や大野晋の指摘は正しいのか?というときわめて正しいのです。
大野晋によれば、日本人の「家の中」(うち)の人間関係は「なれなれしくする」「時にはバカにする」という対人意識です。
このことは、関係意識としてみると「外の人間はバカにできず、恐れる」ということです。「ニート」「引きこもり」「不登校」の人々は、「外の人を恐れている」ということになり、その親もまた「一緒になって恐れている」というメカニズムが成り立ちます。
なぜか?といえば、ニートなり、不登校なり、引きこもりという行動を「許容している」ことが「同調」を意味するからです。
●脳の働き方を変えるための学習法とはこういうものです
このような日本人の対人意識をつくる「言語観」は、脳の働き方に置き換えることができます。げんみつにいうと「脳の働き方」がこのような日本語を生成しているし、学習して、母親から子へ、父親から子へと継承させています。
日本語のもつ特性をしっかり分からないと、欧米人の考える「人格主体」とのコミュニケーションは不成立でしょう。鈴木孝夫はこのことを言っているのです。
人格の主体がないのに、一体、どのようにして経済的価値を創出できるのでしょうか?「人材育成」の必要があるということの根本はこのことをさしています。
つまり、「遠くの対象」について正確に考えることができないという「言語能力」を改善しないかぎり、教訓もなく、内省もなく、したがって計画も目標もありえないのです。
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