みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●「人材育成」の原点は言葉の能力
ポルソナーレは、日本人の脳の働き方をグローバルな水準に押し上げるために「日本語の学習と訓練」をおこなうプリント形式のテキストを開発しています。どういうものか?というと、それは次のようなものです。
日本語に「尊敬語」もしくは、「ていねい語」というものがあることはよくご存知でしょう。
「亡くなる」「おいでになる」「ごらんになる」「おっしゃる」などが尊敬語です。「……になる」「……れる」という表現のことです。
このような「尊敬語」「ていねい語」を話し言葉でも、書き言葉でも使えないとどうなるでしょうか。たちまち「侮蔑語」「尊大語」に変化するのです。「侮蔑語」(ぶべつご)とは、相手を「てめえ」とか「おまえ」「おめえ」「このやろう」「あいつ」「こいつ」と低く軽んじて言いあらわす言葉のことです。また、「尊大語」(そんだいご)とは、相手よりも自分を高いところに位置させて、見下す言葉のことです。
「尊大語」とはどういうものでしょうか。メールや話し言葉などの表現でいうと、具体的には、次のような表現のことです。
「明日は、家にいる」
「田中は、今、会社にいる」
「その時間は、会社にいる」
「その日までには出来ないと思う」
「誰だかは知らない」
「その人は、田中という」
「書いておきます」
「もういいです」
「お茶でいいです」
この「尊大語」を「ていねい語」(謙譲語(けんじょうご))にして「尊敬語」に変えると、次のとおりです。
「明日は家におります」
「今、田中は、会社におります」
「その時間は、会社におります」
「その日までには出来ないと存じます」
「誰だかは存じません」
「その人は、田中と申します」
「書きます」「書くようにいたします」
「お茶でよろしゅうございます」
「お茶をお願いいたします」
国語学者・大野晋は『日本語練習帳』(岩波新書)の中でこう説明しています。
- 現在では、「いたします」のように「いたす」「ます」を付けずに使うと「尊大語」になる。
- 「いたす」とは、「至る」や「頂く」の「いた」と語源が同じだ。自分の力、能力で望ましい頂点まで努力することを意味する。
- 「おります」の「おる」は、「低い姿勢で座っている」という意味だ。したがって「自分の行動」について使う。もし相手にたいして「田中さんはおりますか?」と使うと、「田中さんは、自分にたいして卑下して低い姿勢でいるのか?」と問うことになる。
- 「おっしゃる」「いらっしゃる」などの「しゃる」は、「仰せある」からの変形である。「なる」「らる」「ある」という言葉は、自然成立を意味する言葉である。これが「日本語」(和語・やまとことば)では、尊敬語の表現になる。
日本語では、近称の「こちのひと」「こなた」は親愛の表現だった。安心、親愛、なれなれしくできる、時には侮蔑におよぶ対象だった。
一方、「遠いもの」「遠い所」は「外の世界」のことだ。恐ろしい場所、恐怖の場所、自分の力では左右できないことを意味した。外のことは、手を加えない、成り行きのままにまかせるという「自然推移」「自然成立」の言葉が「尊敬語」になった。それが「なる」「ある」だ。
日本語の語源とは、「和語・やまとことば」という話し言葉を生成した古代原始社会の人間の心性のことです。
「遠い」「近い」、そして「家の中」「家の外」、「うち」「そと」で言葉を区別しています。ここにいる人間は、人間そのものではなくて「場所」「空間」を指しています。欧米語の「人称代名詞」にみる「主体をもつ意思」をあらわす人間ではありません。
日本語の文法とは、このようなメカニズムになっています。「ていねい語」(謙譲語)、「尊敬語」を話し言葉や書き言葉で正しく使えることは、「相手にたいして尊大にならない」「相手を侮蔑の対象としてとりあつかわない」という姿勢を示すことになるのです。
●日本人は、人間関係に距離をとる能力が必要
このことを脳の働き方に置き換えると、最小限、相手と自分との間に距離をとる表現の形式になります。日本人に固有の対人意識の距離をなくして、自分と一体化した人物という人間関係の意識から離れる脳の働き方になるのです。
日本人は、「ブローカー言語野の3分の1のゾーン・X経路支配」の言語野で言葉を学習して憶えています。すると日本語の「文法」の特性から「相手を意思ある主体」とはみなさず、自分の生理的身体と同化した存在と認識してしまうことになりやすいのです。
「相手を意思ある主体とはみれない」しかも「自分の生理的身体とぴったり同化している」と無意識で考えるのが日本人の人間関係の脳の働き方です。
このような人間関係についてのものの考え方は、「会話」の能力を発達させるでしょうか?欧米人のいうコミュニケーションをおこなえるでしょうか?非常に困難であることがお分りでしょう。
「相手を意思ある主体」とみることができないと、どうなるでしょうか?
●欧米人の「人称代名詞」の中の「意思」のしくみ
子どもが「学校に行きたくない」と話したとしましょう。ここには一見すると「行きたくない」という「意思」をあらわしているように思うのが日本人です。
そこが根本的にまちがっているのです。「意思」とは、「行動すること」のための言葉とその意味を憶えていて、言いあらわすことをいいます。
「行動しない」「行動できない」という「意思」はありません。なぜか?というと人間の脳は、0歳3ヵ月から「行動すること」のために働いているからです。もし、あなたに子どもがいたり、きょうだいがいるとして、「生まれた時から何も話さない」とか「何も自発的な行動を起こせない」とすれば心配するにちがいありません。「行動してあたりまえだ」という理解があるからです。
同じことは、現在、日本でも起こっているグローバル・リセッション(世界規模の景気後退)の中で、「仕事がなくなった。だから生活保護を申請して受け身で生きていく」という人にもあてはまります。
目の前の危機は、たしかに回避しなければなりません。
しかし、ここで、誰も「行動しつづけること」「行動を止めないこと」のための学習や訓練を考えないとすれば、それはどういうことを意味するでしょうか。「乳児」がいつまでたっても「ハイハイ」をしない、自発的におもちゃで遊ばない、自分でミルクを飲もうとしない、などについて心配しないことと同じ見方になるのです。
●相手を「意思ある主体」ととらえると次へ一歩進める
日本語の文法は、もともと「近い」か「遠い」か、の対人関係の位置と空間だけをあらわすメカニズムになっています。遠い所と遠い位置にあるものは、「恐ろしいものだ」「危険なものだ」という心性が生成しています。この心性の言葉を、今も記憶しているのが、日本人の脳の働かせ方です。
そこで、距離があるか、無いか?だけをとらえて、距離のある言葉だけを使うのが、尊敬語、謙譲語です。相手を意思ある主体と正しく理解すれば、「恐ろしい」とか「危険なものだ」とは考えません。
相手を「意思ある主体」と正しく理解するための学習が、ポルソナーレが研究・開発している「プリント形式のテキスト」です。それは、「行動を可能にする言葉」を学習して憶えることで可能になります。「行動を可能にする言葉」とは「言葉の意味」を憶える、そしていくつかの行動場面で展開してみること、のことです。
この学習によって、「不況の状況といえども、今とこれからの現実の中で役に立つ行動の能力を身につけてスキルアップを図ろう」という意思がつちかわれるでしょう。
●くわしいことをお知りになりたい方は、こちらからお問い合わせください。
|