みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●「主観」とは何か?についてご説明します
ポルソナーレは、日本語(和語・やまとことば)は、「主観の表現」を目的にする「文法」でつくられている、ということを説明しています。
日本語は、弥生時代の遠い昔から使われてきているので、今さら「主観を表現することを目的にしている」と言われても、「それがどうした」という感想をもつ人もおおいでしょう。「主観って、何のこと?」と思っている人もいるかもしれません。そこで、「主観とは、こういうことをいいます」という事例をご紹介します。
カール・セーガンは『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(下巻。新潮文庫)で、「主観」の典型について、こう書いています。要旨をまとめます。
●主観の事例・1
- ある船主が、一隻(せき)の移民船を出そうとしていた。
- その船がもう古びていることも、最初からあまり頑丈(がんじょう)な造りでなかったことも、船主は承知していた。
「いくつもの海を渡り、いくども嵐にあい、修理を重ねてきた船だ。もう航海には耐えないかもしれない」そんな疑念が、船主の頭に浮んだ。
- この疑念は、彼の心に食い込み、気持ちを暗くした。不安がいつも心を離れない。
「たとえ多額の金がかかろうとも、全面的に検査して修理すべきではなかろうか?大勢の人が乗り、しかも、老人も子どもだっている。もしものことがあれば、一家全員がまとめて死ぬ、ということだってありうる。そうなれば、悲しむ人もたくさんいるだろう。」
- しかし、船主は、船出を前にしてこの考えと言葉を、こう考えて、打ち消すことができた。
「この船は、これまで何度も嵐を乗り越えてきた。立派に航海をやりとげてきた。これからだって何とかなる。ちゃんと無事に帰ってくる。」
船主は、まず、このように過去の実績を思い浮べた。
すると、急に元気が出てきた。
- 「この世には、神がいるはずだ。祖国を後にして見知らぬ国に旅立とうとする幸薄い家族の人々を神が守ってくれないはずがない。彼らは何ひとつ悪いことはしていない。彼らこそ、幸せに浴すべき人々なのだ。」
船主の頭からは、造船業者や船造りの作業にかかわった人々の仕事ぶりへの疑念や、大きい波にぶつかるたびにギシギシと音を立ててゆるみ、たるみを広げる船の状態への不安が消えた。かわりに、夕陽を受けて輝く立派な船の姿が思い浮んだ。
- 船主は、「この船は、今度の航海もしっかりと乗り切っていく」と心の底から思いこむことに成功した。晴々とした気持ちになった。
- 船主は、明るい気持ちで船出の日を迎えた。彼は神に祈った。
「祖国を離れる人たちが、どんな苦難が待っているか分からない新しい国で、成功して幸せになってくれますように。」
- だが、この船は、航海中に消息を絶った。どこにも着かなかった。その後、その船に乗りこんだ人々の姿を誰も見ていない。
船主は、保険金を手に入れた。
新しい船を造った。
- この船主のことをどう考えるべきだろうか。確かなのは、多くの移民たちが死んだのは、まさしくこの船主の責任だということだ。もちろん、彼は、「その船は大丈夫だ」と思っていたのだろう。思い込みによって確信を得た。
だからといって、彼の罪が消えるわけではない。なぜならば、彼には、「自分が証拠だと思っていたもの」を信じる権利などなかったからだ。
- 彼は、「自分が証拠だと思っていたもの」を入念に、公正に調べて手に入れたのではない。専門とする人間の証明や証言を根拠にして得たわけではない。気分が良くなったことを唯一の証拠にして、疑念を消し去ったにすぎないのである。
(ウィリアム・K・クリフォード『信仰の倫理』一八七四年)
●主観の事例・2
■マイクル・シャーマーは、『なぜ、人はニセ科学を信じるのか』(1.早川書房)で、「日本人の主観」について、次のように書いています。再構成してご紹介します。
- 一九五○年。日本の「科学者」が発表した。
「幸島(こうじま)という小島がある。科学者らは、この島にいる猿にサツマイモを与えた。
この中の一匹の猿が、サツマイモを洗って食べた。サツマイモを洗って食べるという知恵は、他の猿にも伝わった。その洗って食べるという食べ方が、ほぼ一○○匹の猿の間に広がった時、不思議なことが起こった。一瞬にして、この島の猿だけではなく、何キロも離れている遠くの島の猿もいっせいにサツマイモを洗って食べるようになった。」
- この「一○○匹めの猿」という現象は、本に書かれてミリオンセラーになった。
アメリカでは、この「一○○匹めの猿」に関心をもったジョン・ヘジリン教授は、大統領選挙に立候補した。一九九二年だ。公約は、「戦争がなくなる。犯罪が減少する。都市の荒廃をなくす」というものだ。その方法は、「一○○匹めの猿」と同じもので、「みんなで瞑想(めいそう)する」という方法だった。みんなで瞑想して、その瞑想の数がある臨界量に達すれば、世界的に驚くべき変化を誘発する、とアピールした。
- そこで、この「一○○匹めの猿現象」が検証された。
一九五二年に調査が開始された。まず、20匹の猿の群れが観察された。群れは59匹まで数を増やした。このうち36匹は、自然にサツマイモを洗っていた。この洗うという行動を身につけるのに10年がかかった。それも36匹しか洗わない。全ての猿がサツマイモを洗うわけではない。他の島でも似たような行動が見られたという報告があるが、この調査中の期間のことだ。
「一○○匹め」ではないし、全ての猿がサツマイモを洗うというのでもない。
- この驚くべき説には、何ら拠って立つ証拠がないだけでなく、「解釈」や「観察」の必要のある現象そのものが存在しないものだったのだ。
●日本人の主観の例・3
■「主観」とは、「自分ひとりだけの考え」のことです。しかし、ご紹介している事例のように、「主観」を思考する当人は、「神」だの「何らかの書物」だのを憶えていたり、読んだり、聞いたりした「言葉」で考えるので、必ずしもそれが「主観」だと思っているのではありません。
すると、読んだり、聞いたり、見た言葉や文章が「主観」によるものかどうか?を判断するための言葉の能力が「主観的表現」に傾いているかどうかが問われます。マイクル・シャーマーはこのことを指摘しているのです。
ここで、日本語が問題になるのです。「一○○匹めの猿」を「瞑想」とともに売り出すために日本語を語った人は、「瞑想」そのものが「主観」の極北のものだとは気がついていないことが問題になるでしょう。
日本語が「主観表現」を目的にする文法であることの証拠は、次のようなものです。
事例1・「よろしく」…「よろしくお願いします」「よろしく伝えてください」「○○さんによろしく」「都合により、とりやめます。よろしく」
■解説
「よろしく」は、「宜しく」と書く。
意味は、「適当に」「良いように」という意味だ。
語源は、「自分のいる位置に入ってきて、内なる人間として身を寄せたふるまい、行動をしてほしい」というものだ。
日本人は、この「よろしく」の一言で、いろいろな行動、表現を省略して、曖昧に自然成立させようとする。(判断の基準は大野晋『日本語の文法を考える』岩波新書より。)
●日本語は、主観を慣用句にしている
■日本語には、「よろしく」と同じように「意味不明の主観語」がたくさんあります。「ぼつぼつ」「そろそろ」「どうせ」「せっかく」「せめて」、などなどです。
言葉の内容や意味を具体的に説明しないで、「分かっているはずだ」ということの「分かっている」ということを「主観」とするのが日本語の「文法」です。
このような「主観」を「客観」の表現力に変えるのが『谷川うさ子王国物語』です。
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