みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●哲学とは?
ポルソナーレは、人間の「観念の世界」とは、どういうものか?を哲学の言葉と、論理的に実証できる事実についての説明を用いて明らかにしました。
哲学とは「ヘーゲル哲学」のことです。
実証できる事実とは、新生児、胎児、乳児、乳・幼児の「認知」や「認識」として観察されたデータです。
●「観念」とは?
日本人の「観念の世界」の実証は、国語学者・大野晋や、『言語にとって美とはなにか』を書いている吉本隆明の説明などによって明らかにしました。
「観念の世界」とは何のことでしょうか?ポルソナーレふうに分かりやすくいうと、誰もが恒常的に思い浮べている「イメージの世界」のことです。
「イメージ」とは、擬似視覚の像のことです。前頭葉に「想起」されて「表象」(ひょうしょう)されつづける消えることのない「擬似視覚の像」の世界が「観念の世界」です。
「人間の観念の世界」の「世界」とは、「世界各国」というときの「世界」と同じ意味です。「世」とは、ものごとが生まれ、そして消えていくということが起こる場所、ということです。「界」とは、区切りとか、境の線を引く、という意味です。
「観念の世界」というときは、「観念」という「生きているもの」がつくり出されたり、消えたり、そして死んでいくということが起こる「場所」ということになるでしょう。
●「観念」のつくられ方
じゃあ「観念」というものはどういうもののことでしょうか。
ひとくちにいうと恒常的に消えずに、ずっと思い浮べつづける「イメージ」のことです。
アメリカの認知発達心理学者の「レイコフ」は「イメージスキーマ」といいました。「イメージスキーマ」とは、新生児や乳児の頭の中で起こっている思考のおおもとの「知的作用」のことです。
「レイコフ」は、「イメージスキーマ」の内容を「カテゴリー」と「ベクトル」のイメージで形づくられている、と観察しています。「カテゴリー」とは、「動くもの」「動かないもの」といった対象の区別のことです。「ベクトル」とはものの動きと動き方のことです。
「じぶんで動くのか」「他の力で動かされるのか」、またその動き方とはどういうものか?という「動きのパターン」のことです。
乳児や乳・幼児は、言葉を学習する以前には、このような「イメージスキーマ」をいつも思い浮べていて、このイメージの内容を元にして手足を動かす、と観察しています。
「観念」というのは、このような「イメージスキーマ」を成り立たせて、一生死ぬまで成り立たせつづける「イメージ」の「世界」のことをいうのです。
●「観念」についてのナットクのしかた
この「観念の世界」がある、ということをどのように納得できるのでしょうか。それはごく簡単です。少しだけ「自分」のことを内省的にふりかえってみるだけで確かめられます。
「内省」とは、自分の経験とか感じたこととか、気持ちでとらえたことを「思考してみる」ということです。「思考」とは「言葉にしてみる」「こういうことがたしかにあった、と判断してみる」「あの時、あの状況で、あんなことがあったから、こういうことを思い浮べた」、というように知的にとらえることをいいます。
日本人は、こういうふうに「自分自身」について考えをめぐらせることを「内観」といっています。
この「内省」にとらえられる「観念の世界」とは、「夢を見る」「道路を歩いているときも、何もしていない時も、いつだって何かしらのことのイメージが、ひとりでに勝手に思い浮んでくる」ということが、誰にも共通します。
いつもいつもひとりでに、「自分に起こる」ということを「恒常性」といいます。「恒常性」とは、心臓がひとりでに動きつづける、肺がひとりでに働いて呼吸をする、というときの「ひとりでに」ということです。
「ひとりでに」には根拠があります。「自律神経」の働きによるのです。自律神経は、交感神経と副交感神経の二つがセットになっています。自律神経は、生理的身体にも「脳」にもはりめぐされています。
血管などは交感神経が優位に働きますが、胃腸は副交感神経が優位に働いています。同じように、つまりその器官や部位ごとに働き方が違うように、「脳」の自律神経は、独自の働き方をします。それは「記憶する」ということと、「記憶を再現する」ことの二つに働くのです。この結果、人間の頭には「恒常的にイメージが思い浮びつづける」という固有のメカニズムがつくられているのです。
●「哲学」について
哲学(てつがく)という学問があります。「ものごとを根本原理から、統一的に把握したり、理解しようとする学問」です。
古代ギリシャでは、学問一般を意味しました。
近代になって、いろいろな科学が起こったので、具体的な現実世界の中のものごとを追究する「学」の基礎になりました。
ざっと、哲学はどういうふうに利用されているかというと、次のとおりです。
日本…「人生って、どう生きればいいのか?」というように、人間関係とか、人間関係から離れた諦めの気持ちのつくり方とか、自然の中のものに「自分」を一体化させて「考えることを止める」というのが日本の哲学。
アメリカ・ヨーロッパ…二つの大戦の以降、経済恐慌や軍事力という現実問題が「パラダイム」をつくったので「プラグマティズム」が共通の哲学になった。
「行動することの目的、結果」だけを思考の対象とする哲学。
アジア…もともとの「形而上学」を中心とする哲学が支配している。「形而上」とは、体験したことの事実とか、論理や推理で知的にとらえることは、「自分とは一切、無関係だ」とする擬似知性のことだ。形而上学では、「神がゆいいつのこの世の真理で、絶対者である」とした。
これが、今では「宗教」とか「オカルト」「超常現象」を思惟(しい)する「観念の世界」をつくり上げてきてる。
今の現代の人間の「観念の世界」とは、おおざっぱにいって、この三つに分類できます。いずれの哲学も、G・W・F・ヘーゲルの「精神現象学」を源流にしています。「形而上学」とはいえない変形した「観念の世界」は、未発達な乳・幼児の「観念の世界」を抱えたまま、「歴史」にとり残された「発展性の無さ」を示しています。
●日本人の「観念の世界」
現在の日本人の「観念の世界」は、変型したアジアの「形而上学」が、アメリカのプラグマティズム哲学を頭に乗せているというものです。
具体的にいうと、「強迫観念」が典型です。
「強迫観念」とは、「ストーヴの火を消したかどうか?」が気になるといったことです。仕事をしていても、人と話していても、頭の中に「赤々と燃えつづけているストーヴの火」のイメージが表象しつづけている、という「観念」のつくられ方のことです。「ストーヴの火」の代わりに、「自分を悪く言う人の顔と声」であっても、「なんど面接に行っても仕事に就けない光景」でも、「収入の途が断たれたので無気力になってしまい、楽になれそうな魅惑の深淵の底をのぞきこんでいる自分の姿」でも同じ性質の強迫観念です。
固定してびくとも動かない「像」(イメージ)をつくるのが日本人の「観念の世界」です。
●日本人の日本語(和語)が強迫観念をつくる
日本人のこのような「観念の世界」は、日本語(和語)がつくり出しています。
◎和語の語源(日本人の言葉の意味のイメージのおおもとになっている思考の原型)の例
- 夢…忌目(いめ)(「ゆめ行くなよ」の禁止が語源)
- 面白い(おもしろい)…林の中を歩いていて突然、目の前が広々として目の前が白く広がること。目の前が明るく白い、が語源。
- 憂うつの「憂(う)し」…倦む(うむ)が語源。思い悩むときは「うー」という声を出す。苦しくて「うー」とうなるときの声が語源。
- あり(在り)…「這(は)ひあり」が「はへり」になり、「はべり」(侍り)と変化した。貴人の前には平伏して敬意を表した、が語源。
- 「いる」「います」…「座る」の「座」(う)が「うあり」となり、「おり」になった。「坐(い)ますかり」が「「坐」(います)+か(処)+あり」になった。
「いるところがある」の意が「あります」と、複合してつくられた。
(大野晋『古典文法質問箱』・角川ソフィア文庫より。)
和語(日本語)は、ヘーゲル哲学からみると、「感覚」をとおした「感性」の言葉そのものです。感覚とは、五官覚、運動感覚、平衡感覚のことです。「感性」とは、ものごとの刺激に応じて感覚や知覚が生じること、ということです。感情、衝動、欲望ともいいます。
これもまた「精神の現象」のあり方ですが、「叙述性の概念」のつくる「精神」とはほど遠く、その故に、ものごとを動かないものとしてしかイメージできません。これが日本人の強迫観念をつくる「観念の世界」の理由になっています。
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