みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●日本人のメンタリティの特性
ポルソナーレがなぜ『谷川うさ子王国物語』を研究・開発し、「日めくり式のプリント形式のテキスト」の通信講座を製作したのか?について少しお話します。
ひとつの理由は、日本人は、精神分裂病を抱えていることです。
この精神分裂病とは、E・クレペリンやE・ブロイラーらが定義した「精神分裂病」のことです。おおくの日本人は、精神分裂病といえば「向精神薬」を服用している状態のことを思い浮べます。ポルソナーレは、このような薬物療法の対象に限定した病理者だけを精神分裂病とは考えません。
E・ミンコフスキー(1885~1972)は『生きられる時間』(みすず書房、1972年刊)の中で精神分裂病には、「豊かな自閉」と「貧しい自閉」との二通りがある、とのべています。
「豊かな自閉」とは、活発な妄想を抱えて、これとの交流をくる日もくる日もおこなっている分裂病者のことです。たとえば「自分は今、とても豊かな生活空間の中にいて、広々とした部屋、豪華な家具にかこまれて幸せに暮らしている」というような妄想をイメージしている人です。しかし、その人の現実はどうか?といえば、部屋の中はホコリとゴミで一杯で、何日も入浴していない、何日も洗濯していない下着を着けているので異様な匂いにつつまれている、しかし、当の本人はそのことに全くの無自覚である、といったふうです。
●日本人は「貧しい自閉」の分裂病
一方「貧しい自閉」とはどういうものか?といえば、表象している妄想のイメージは、自分を熱狂させず、ヘーゲルのいう「喰いつくエサ」ほどの喜びも感じさせないというものです。そこで「彼」ないし「彼女」は、現実の中に、冷えびえとした妄想に彩り鮮やかなものを与えようと追い求めます。「次々と恋人を変える彼ないし、彼女」「結婚式のみに憧れて結婚したけれども、幼い会話しか交流しないので、生活のあまりのつまらなさのために離婚した彼、彼女」といったことがあてはまるでしょう。
ミンコフスキーは、E・ブロイラー(スイス。オイゲン・ブロイラー)の愛弟子です。ポーランド系の精神医学者です。ブロイラーの学説をフランスに紹介しました。ベルグソンの影響を受けて、フッサールと同時代にあって独自の病理学の「空間意識」を考察しました。
日本人は、ミンコフスキーふうにいうと「貧しい自閉」の分裂病を抱えています。
この「貧しい自閉」は、妄想のイメージそのものが快感のドーパミンをもたらさないので、現実との不適合と不適応の狭間(はざま)で、諦めない間だけの「生活」をおこないます。
仕事をしたり、ネットで遊んだり、ケータイのディスプレーの中に、「砂漠の中で一杯の水を求める」(ヘーゲル)ように美化の妄想の素材を追い求めています。
日本人の「貧しい自閉」という分裂病は「美化の妄想」の中に完全に安住することもできず、かといって「現実」と知的に葛藤して、生命の充実した精神を「言葉」で実現するという「自己形成」(ヘーゲル)を果すこともできず、宙吊りになったまま「一生を終える」というものです。
●日本人の「観念の世界」とはこういうものです
それは、具体的にいうと「人の話をちゃんと聴けない」(相手の言葉に刺激されたイメージが瞬間的に思い浮ぶだけ)、もしくは、「人が話すと、共時的に自分もしゃべり、やがて、相手が聞いていようがいまいがいっこうにかまわずに尊大にしゃべりつづけ、相手を見下すというバッド・イメージを膨張させつづける」といったことのいずれかです。
このような「会話」では、何が起こっているのでしょうか?
人間の脳には、「大脳新皮質」というものがあります。薄い1ミリくらいの膜のような脳です。この大脳新皮質は、「前頭葉」「頭頂葉」「側頭葉」「後頭葉」の四つの野(や)に分かれています。全て、言葉とか言語にかかわる中枢神経群です。
今、「脳科学」というものがはびこっています。この脳自体が何らかの知性とか、精神とかを生み出すという説明の仕方をするのが「脳科学」です。
こういう物性物理(生物学的な次元での理解)は、根本的に間違っています。
なぜかというと、「脳」は、「前頭葉」(大脳新皮質の)に「イメージを表象させる」というように働いているからです。
この「イメージ」の世界が「観念の世界」です。したがって、脳について語るときは、この「イメージのつくられ方」が語られなければなりません。それは「言語学」の仕事です。そして、もっと根本的には「哲学」の仕事なのです。「言語学」も「哲学」も介在させずに「脳」について語るのは「脳の一部分」「固定的な結論、もしくは限定した目的」(ヘーゲル)でしかありません。こういう倒錯したことをのべて日本人にも影響を与えているのが「ノーム・チョムスキー」の「脳は文法を生成する」(生成文法理論)です。
●日本人の言葉の能力の一例
日本人の「観念の世界」をつくっているのは、日本語(和語)です。具体的にはどういうものでしょうか。
国語学者・大野晋は、『古典文法質問箱』(角川ソフィア文庫)の中で、こう書いています。
- 問い…口語には「行ける」「飲める」などの可能動詞がありますが、文語にはないのでしょうか?
- 答え…日本語では、文語の時代には可能動詞はできていなかった。
その代わり、「る」とか「らる」を付けて表していた。「る」「らる」は、文語では四つの役割がある。「自発」「可能」「受身」「尊敬」の四つだ。
なぜ、一つで四つの機能を果すのかというと「る」「らる」は、もともとは「自然にそうなる」という意味だ。
江戸時代になってから、動詞の活用の形が全体として変わった。例えば「書く」は、「か・き・く・く・け・け」の四段活用だった。ここに未然形に「る」の付いた「かか+る」が「かけ+る」になってきた。
上方語よりも江戸語で先に出来た。だから、平安時代の文法を中心にした文語にはない。
こういう「文法」が、口語を中心とする現在の日本語(和語)の中でも用いられていることはよくお分りでしょう。
すると、日本人は、「ものごとは、自然にそうなるものだ」という観念の世界をつくっていることに気づくでしょう。
すると、アメリカはともかくとして、ヨーロッパ(欧州)の「対人間の理解」「対・現実へのアプローチ」というものの「観念の世界」と日本人のそれとは大きな隔たりがあることにも気づくでしょう。
もともと、現実のものごとの「分かり方」という知性の働かせ方は、近代以降は、「ドイツの哲学」を源流にしています。日本人は、明治のころ、「漢字・漢語」を使って、それを学びました。
たとえば「露西亜」(ロシア)「英吉利」(イギリス)、「亜米利加」(アメリカ)、「風琴」(オルガン)、「球菜」(キャベツ)「赤茄子」(トマト)といったふうです。
●「谷川うさ子王国物語」のご案内
日本人は、「なぜトマトというのか?」、「なぜキャベツというのか?」といったようなそのものの「意味」から言葉を理解して、その「意味のイメージ」を「前頭葉」に思い浮べるということはしません。ただトマトを食べ、キャベツを食べることにのみ関心を向けるだけです。そしてトマトが無い、キャベツも無い、という現実が目の前に迫ってくると、「うつ」に陥って行動を止める、ということをおこなっています。
こういう日本人の状況を打開するために開発されたのが『谷川うさ子王国物語』です。
関心のある方は、ぜひ、お申し込みください。
●お申し込みは
TEL・東京03(3496)6645 |