みなさん、こんにちは。
全日本カウンセラー協会・ポルソナーレの谷川うさ子です。
●共同幻想ということを分かるとこんなにいいことがあります
前回は、吉本隆明氏が書いた『共同幻想論』をもとに、「共同幻想」ということの内容を解説ふうにお話しました。
この「共同幻想」ということが書かれて発表された当時、なぜ、おおきな衝撃を与えたのか?といえば、日本なら日本の「国家」というものが、あたかも「家」とか「家族」のように考えられていたからです。
「家族」というように「国家」を考えると、日本のひとりひとりは、ちょうど「子ども」のようなイメージでとらえられます。
この「子どもへのなぞらえ方」が、「幼児」とか「乳児」のようなイメージになると、「親の言うことは一方的に聞かなくていけない」というものの考え方が生まれます。すると、「親の言うことは、どんな無理難題も無条件で実行する」という行動が生まれます。吉本隆明氏は、じぶんの戦争体験をとおして、このことに気づきました。
●ヘーゲルと、マルクスの考えた「共同幻想」の主旨
「共同幻想」という言葉を考え出したのはヘーゲルやマルクスです。そのおおもとは、カントなどの「言葉の意味」を追究する学問にありましたが、具体的な現実の「法」とか「国家」とか「経済社会」や「政治社会」などをとらえて、その本質は、「共同幻想」であるという言い方をしたのはヘーゲルやマルクスです。
ヘーゲルとマルクスの際立った違いは何か?といいますと、「共同幻想」ということについて、ヘーゲルは「同一性」といい、マルクスは「疎外」といういいかたをしている点です。「同一性」というのは、「共同幻想」は、ひとりの人間の「観念」の特殊なあり方としてつくられていて、同時に、「3人の人間」の以上の集合としての「観念」でもあるので、それぞれの「3人の人間の行動」は、「共同幻想」と「一致する」という意味です。
「信用」とか「価値」という言葉を実例にあげて考えてみましょう。
「信用」とは、資本主義社会ではたいへん重要な言葉です。「お金に価値があること」や「お金でいろんな商品と等価交換ができること」などを成立させています。
また、「価値」とは、もともとは、「あるものがずっとそこに在りつづけること」という内容が「価値」といわれていました。「あるもの」とは何でもいいのですが、ある日ころころと姿、形、量などが変化して一定に定まらないものは、「価値」がないとみなされます。ここでの「価値」とは、「有用性」とか「使用性」のことです。
●今のこの現代も「共同幻想」が利用されています
このような「言葉」とその「意味」は、ひとりの人間がひとりで決めて、ひとりだけで行動するために決められてはいません。まず、ひとりの人間が、ここでのべているような「意味」をちゃんと分かって、イメージすることが出発点にあります。
「価値といえばこういうものだ」「信用といえば、こういうことだ」と「意味のイメージ」が思い浮ぶことが重要です。
さらに、この「意味のイメージ」を「3人以上の人間」が記憶して同じようにイメージを思い浮べることが必要です。そして、この「3人以上の人間」の間で、「信用」とか「価値」という言葉とその「意味」を、現実の場面の「物」や「行動」に適用して「三者関係」として了解し合うことが必要です。この「三者関係の成立」をふまえた「信用」と「価値」の『意味』のイメージ(表象といいます)のことをさして「共同幻想」といいます。
「共同幻想」とは、かんたんにいうと「意味のイメージ」の「表象」のことです。「表象」とは、見たり、聞いたりしたときに自然に思い浮ぶことをいいます。なぜ、「表象」という言い方をするのか?というと、「表現」ということと区別するためです。「表現」は、言葉を言いあらわして、その言葉のもつ意味を明瞭にさせることを目的にした「行動」のことです。
ヘーゲルは、ひとりの人間の頭に思い浮ぶ意味のイメージが「ルール」や「きまり」として成立するとき、これは「3人の人間の思い浮べる意味のイメージ」と「一致する」ということをさして「同一性」といったのです。ヘーゲルの「共同幻想」のとらえ方は、ひとりの人間と複数の人間の「共同幻想」は全く平等なもので、互いの「自由意思」にもとづくものだ、というものの考え方にもとづいています。
●マルクスは、「疎外」(そがい)という事実に注目しました
しかし、マルクスは、そうは考えませんでした。「疎外」という言葉を「共同幻想」の中に見出しています。
「疎外」とは何のことか?というと、「価値の二義性」ということです。
いったんつくられた「共同幻想」は、ひとたび出来上がると、「ひとりの人間」の頭上におおいかぶさり、その「ひとりの人間」の価値は「第二義的な存在」になる、ということが「疎外」ということの正しい意味です。
吉本隆明氏は、マルクスのこの「疎外」という概念を中心に、「共同幻想」を考察しています。おもに、日本という「国家」の起源の「共同幻想」を描写しました。すると、そこには、独占的に「書き言葉」の能力を手に入れた知識人がいて、「アジア型の共同体」(共同幻想)の上にデスポット(専制君主)の役割りをもって登場して、アジア型の共同幻想(個人の観念のことです)を支配するという二重の「共同幻想」の実体が浮び上がります。
このような日本の「共同幻想」の理解は、脳の働き方でいうと「ブローカー言語野」の「3分の1のゾーン」が「アジア型の共同幻想」の領域だ、ということになります。「西欧型の共同幻想」は、ブローカー言語野の「3分の2」のゾーンで成り立ちます。すると、日本人は、「アジア型の共同幻想」を産生することを今も昔も、ずっとくりかえしていることが分かります。
●アジア型の「共同幻想」は、歴史的に滅亡の危機にぶつかっています
「アジア型の共同性」の特質は、「個人ではできないこと」を「デスポット」の支配者がおこなうことだと、吉本隆明氏は『アジア的なるもの』(弓立社・刊)で話しています。すると、このパターンは、今の日本の「国家金融資本主義」の経済社会になっても全く変わっていないことが分かります。「結婚は、永久就職と同じ」「社会福祉事業はあたりまえ」「親が病気になったら子どもが世話することは、当然」といった対人意識や保護の観念が典型的です。
問題は、吉本隆明氏が『アジア的なるもの』(弓立社・刊)の中でのべている「マヤ文明とか、古代文明が突然、消失したのは、アジア型のデスポット(専制君主)がある日、パッといなくなったことが原因だ」ということにあります。
●「世界同時不況」の共同幻想の生成のされ方とは
「世界同時不況」は、「金融バブル」という「信用」や「価値」が、「期待価値」をつくる「金融工学」とか「認知的不協和の法則の認知心理学」によって技術的に膨張させられたことが背景と原因にあります。
これは、日本人にとっては、いわば現代版「デスポット」になっています。
「バブル崩壊」すなわち「世界同時不況」ともなれば、「アジア型の共同幻想」(観念の中の共同体意識)は、「保護」はもちろん「生活の糧」のための「収入」を手にすることができなくなるという滅亡の局面に立っていることになるのです。
その滅亡の兆候がいくつかの不可解に見える事件です。
「30年前の愛犬チロの敵討ち、擬似年金テロ事件」や、千葉県・東金市「5歳の幼児殺害事件」(容疑者、21歳男性)です。いずれの容疑者の男性も「国家金融資本主義」という「西欧型の共同幻想」に入っていくことができないということを背景にして事件を起こしています。
個別の動機は、脳のブローカー言語野・3分の1のゾーンが生み出した「うつ病」と「分裂病」が表象させています。
これは、今の日本人のほとんどの人に共通する自滅の象徴であるのです。
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