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ポスト 『ベルサイユのばら』(池田理代子)の女性、
ポスト 『俳優・高倉健』の男性の《否定面》
の対策と方法は「抽象名詞文」(Aというものは、Bということである。なぜならば…)の文例をつくることです!
「私は、仕事の中でとても緊張します。 私は、このまま健康な体で生きていけるのでしょうか?」(28歳女性) 「スマホを見て生きている現実にバリヤーを張り、 一人で自分のカラに閉じこもっている方が安全、それしかない。」(17歳男性) |
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ポルソナーレのカウンセリング・ゼミは、吉本隆明の『心的現象論序説』(角川文庫)をテクストにしています。
日本人の心的異常を説明するためです。心的異常が心的病いになる、行動が行き詰まる、などの対策をレクチュアしています!!
《ポルソナーレのマスターカウンセリングのプレビュー》 平成26年11月23日に、NHK・TV『アーカイブス』で、池田理代子の『ベルサイユのばら』の特集番組が放映されていました。 『ベルサイユのばら』は40年前に発売されて、以来、多くの読者の熱い支持を受けて愛好されているということでした。この40年の歳月を経て、再びマンガの単行本が再発行されたところ、人気が沸騰してたちまち出版社の在庫が払底したという取材が放映されていました。 何人かの著名な女優の読者がいかに熱く愛好したかというときめきの思いを話していました。 注目されるのは、母親の世代の女性らが『ベルサイユのばら』に熱中し、その子どもの娘らも手に取って惹き込まれて、おもしろいと思い、胸を高鳴らせて感動したという女性らがテレビの画面で話していたことです。 『ベルサイユのばら』はどう作られたのか?について作者の池田理代子は、マンガの中の主要登場人物にこう語らせます。 「自由であるべきは、心の中のみにあらず!! 人間は、その指先一本、髪の毛一本にいたるまで、すべて神の下に平等であり、自由であるべきなのだ」(オスカル)。 このオスカルの言葉は、作者池田理代子の代弁です。 当時の池田理代子は、大学紛争の中で女性の身であっても親から学費、生活費の仕送りを受けることを拒否して、マンガを描いて経済的に自立する道を選んで、その経済的自立を果した位置に立っています。その自負がオスカルのせりふの「自由だ、平等だ」であったのです。 一方、主人公のヒロイン、マリー・アントワネットはどう自立するのか?というと、読者の女性らの現実に重ねるとこんなふうです。 巨大な歴史の嵐の中にその運命を投ぜられた悲劇の王妃マリー・アントワネット!! 1755年・11月2日。 マリー・アントワネット・ジョセファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュは、フランスとならぶヨーロッパの強国オーストリアに、女帝マリア・テレジアの第9子として生まれた。 シェーンブルン宮殿の奥深く、大オーストリア皇女として、マリー・アントワネットは、この上もなく美しく、気高く優美に、そして、おおらかに育っていく。 「13歳にもなろうというのに、母国語のドイツ語はおろかフランス語の文法も、つづりもなにもかもなっちゃいないなんて!! 未来のフランス王妃になろうという人が!」(マリア・テレジアが、マリー・アントワネットの家庭教師による作文を見ての感想)。 (『ベルサイユのばら』(1)、集英社文庫より) 池田理代子は、マリー・アントワネットを、日本人の女性の思春期に至る成長過程に重ねていることは確かです。 日本の女性も、小学校3年生までは学校が大好きで、お友だちがいっぱいできて、ひたすらいい作文を書いたでしょう。しかし、マリー・アントワネットのように、13歳の思春期の立ち上がりの頃は、「自我」の形成の段階にあるので、自分で自分の気持ちを安心させる女の能力を身につけなければならず、日本語だ、英語だと法則を学習する余裕がなくなります。同様に、マリー・アントワネットは、母国語のドイツ語、嫁ぎ先の国のフランスのフランス語の習得の場に立たされました。池田理代子は、この当時のマリー・アントワネットを学業不振児であるかのように説明しています。 しかし、この年齢のころの女性は、どこの国の女性も熱心に勉強すると、血液の中の生化学物質のせいで、わけもなく不快になります。 誰もが一人でに湧き上がる不安定感に思い悩んだはずです。 思春期の頃のマリー・アントワネットは「授業をサボり、はしゃいで遊んだ」と描かれています。これを文字どおり、マリー・アントワネットが母国語のドイツ語、フランス語の文法も習得をおろそかにしたと解釈するのは早計です。 日本人の女性は、家庭学習をサボり、手を抜いたということの反映として描かれています。日本の女性の思春期の頃のメタファーです。 マリー・アントワネットは、フランスの王宮に嫁いだが、ただの浪費家になったと描かれています。日本で、「雅子さまは新型うつ病」という本が出ましたが、これは、「雅子さま」のもともとの語学などの知的実力と、皇室の宗教的儀式や役割とギャップが生じたための不適合の症状です。 マリー・アントワネットも、「雅子さま」と同じ意味の「新型うつ病ふうの不適合」に陥ったと思われます。 作者の池田理代子は、この「新型うつ病ふうの病理現象」を捉えて、日本の女性ふうの「ごく普通の女の子」のイメージを重ねたといえます。 この『ベルサイユのばら』がかくも日本のある知的水準の階層に人気なのは、マリー・アントワネットという女性を「知的意欲と知的実力」はもっているのだけれども、生成していく日々、その日その日の現実との関係はどうもしっくりこない、居心地が悪い、据わり心地が悪い、といった違和感をかんじる、という女性像として描写していることにあります。 池田理代子は、『ベルサイユのばら』を、日本の女性の思春期から成人してのちの女盛りの頂点に立つまでの「成長のサクセスストーリー」の心的現象を描いてみせたということになります。 『ベルサイユのばら』(池田理代子)が日本の女性の成長過程の《肯定面》であるとすると、平成26年11月10日、慶應大学病院で悪性リンパ腫のために死亡した「俳優・高倉健」は、日本の男性の「社会的な完成度」の《肯定面》のメタファーです。 『週刊文春』(2014・12月4日号)の「追悼大特集・中村竜太郎、文春取材班)には、次のように書かれています。 「俺は、“鉄道員(ぽっぽや)”の乙松みたいにひっそりと誰にも知られず、逝きたいんだ。だから派手な葬儀はしないでくれよ」(高倉健の話。病院で) 「健さんが本当に心を許した人は、数少なかった。俳優では小林稔侍さん、中井貴一さん、それに毎日のように通っていた理髪店の主人Sさんと、都内で飲食店を経営するJさんです。それ以外の相手には、常に『高倉健』を演じていたと思います」(健さんの友人の話) 「最期は、病院の玄関に並ぶ医療スタッフの涙に見送られての旅立ちだったという。それは、健さん自身が望んだ静粛な別れだった」(文春取材班)。 ■高倉健は、「私生活の自己」と「俳優・高倉健」とに分けて、多くの人には「俳優・高倉健」の姿を見せていて、「俳優・高倉健」のまま死んでいったということが説明されています。 「俳優・高倉健」とは何か?というと、多くの日本人の男性が、「社会的に到達した自己」というものを目指しているとすると、その一つが「これがおれだ」「これ以外のことは何もできない。こういう自分で、何か異存があるか?」という男性の成長のこれ以上はないという終着点ということになるのです。これが「俳優・高倉健」の《肯定面》です。 『ベルサイユのばら』(池代理代子)に自分の女性としての成長過程を重ねて共感した女性の《否定面》と、「俳優・高倉健」を日本の男性の社会参加の能力の到達点とした男性の《否定面》の事例をご紹介します。 |
谷川うさ子さん |
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クマ江さん |
ポスト『ベルサイユのばら』を目指す日本女性の
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クマ江さん |
ポスト『俳優・高倉健』を目指す日本の男性の心的異常のプレビュー
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《ポルソナーレのマスターカウンセリングのプレビュー》 女性と男性の相談の事例を二点ご紹介しました。このような相談の内容は、多くの日本人の心・精神の悩みとして程度の差はあっても誰にも共通して思い当るところのものです。 「2008・秋・リーマンショック」の以降、ここにご紹介したような内面の不安や心配は、吉本隆明の『心的現象論序説』(角川文庫)を介在させなければ、誰にも理解できなくなっています。とくに、悩みの当事者である本人にすらも自覚できなくなっています。 その理由は、日本の国の財政赤字が日本の国の破綻に迫るほどに膨張して巨大なものとなり、財政再建といってもそれは、「フクシマの原発の廃炉」と同じく、果てしなく遠い先にあるもののように思えて、一般的な日本人の思考のらち外にあり、考えても頭がシビレるほどに強力な論理を必要としているからです。 すると、この現実もふくめて、じぶんの脳の働きによる思考とか、言語能力を超えたところに生きていく現実というものがあり、それでも「残り少ない人生の日々」や「次世代の若い世代」のための「共同幻想」というものに学的な知性のテーマを設定するとするならば、吉本隆明の書いた『心的現象論序説』(角川文庫)が唯一のリアリティをもった言葉、言語ということになります。 ポルソナーレの40年といくらかの日本人の「心・精神の悩み」を現場と理論の両方からかかわってきた経験からみて、それは確かなことです。 『心的異常』(吉本隆明)の見地からみると、相談の事例の「女性」は、『ベルサイユのばら』(池田理代子)に対して《否定面》のプレビューです。 「女性の自立」「女性の知性の土台の、客観というものを成り立たせる空間認知」が全く脱落しているというのが《否定面》です。 相談の事例と共通する客観の能力を欠落している女性は、《ベルサイユのばら》の主人公の一人「オスカル」の眺望(Y経路による認知)を手に入れなければならないでしょう。 相談の事例の男性の場合は、『俳優・高倉健』を心的領域の《肯定面》とすると、「俳優・高倉健」が他者の親切によく気づき、その厚意に応えるために気遣いを見せたり、プレゼントをする、という「親切、思いやる、いつくしむ、優しくする」という男性の心情の能力の欠落が《否定面》になるのです。 男性のこの心情の能力は吉本隆明が、糸井重里に語っている「今はお元気が無いですよね。インタヴューはいつでもできます。それよりも、いつでも家に遊びにいらっしゃい」といった政治的な共同幻想を配慮した水準のプレグナンツに到達する性質のものです。 こういう観点から、ポルソナーレは、みなさまの心的異常の克服に尽力してまいりたいと思っています。 |
谷川うさ子さん |
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