日本人の精神分裂病の典型は「統合失調症」という記号概念 |
本ゼミでは、脳の働き方のメカニズムをテーマにして、「精神分裂病」をとりあげています。なぜ、「精神分裂病」なのか?といいますと、この病理は「言葉にたいしての不適合」を原因にして生成されるからです。日本人は、脳の言語野のブローカー言語野の「Y経路」(頭頂葉と前頭葉の野に分布する3分の2のゾーンのことです)で、「書き言葉」を学習して長期記憶していません。このことは、エインズワースらが「乳・幼児」の実験をとおして実証した『愛着』のシステムによっても、明らかです。
日本人の「母子関係」には、言語のおおもとの記憶の対象の「イメージスキーマ」の「カテゴリー」(名詞、名詞句、名詞節の原像)と「ベクトル」(名詞を主体とする行動の仕方とその変化)を教える『同期』と『同調』が欠落していることは、すでにお話しています。
遠山啓の「水道方式」をとおして「推移律」ということもお話しています。「推移律」とは、「AイコールB、BイコールC。するとAとCはイコールである」という定義です。
Aは「物」、Bは「タイル」、Cは「数字」という三者関係です。
「タイル」とは2センチ四方の「チョコレートタイル」のことです。幼児には本物のチョコレートを用います。小学生になると厚紙で作った「タイル」を用いて「数」(かず)の指導をおこないます。「タイル」は「半抽象物、半具体物」です。
「物」は具体物です。「数字」は「抽象の観念」です。
「タイルの1(いち)」と「具体物の1(ひとつ、一個、いち)」が同じならば、「数字」の「いち」と「タイル」の「いち・ひとつ」とは同じである、と「同じ」を表象させるのが推移律です。
この推移律の考え方は、人間の「物、事物」と「言葉」の全ての対象に適用できます。
子どもは、どのようにして言葉を憶えるか?それは、母親と父親による「共同注意」と「共同指示」によります。ここで「子ども」とは、自分の力で「動く時期」と「動けない時期」の二つのエポックに分かれます。「動ける」ようになると「動けない時期」の「同調」と「同期」が土台になって認知と認識の内容を変化させます。この変化を「二・五次元」の認知から「三次元」の認知への変化といいます。ここで「三次元」の認知と認識は、「カテゴリー」(名詞、名詞句、名詞節のことです)と「ベクトル」(動詞、助動詞、形容詞、形容動詞のことです)を長期記憶します。 |
日本人の分裂病の共通の根拠 |
しかし、この長期記憶には、「母親」と「父親」による「同調」と「同期」が不可欠です。
日本人の「精神分裂病」を正しく理解するには、ブローカー言語野の『Y経路』(頭頂葉と前頭葉の野に分布している空間認知と認識の言語野です)で、「カテゴリー」と「ベクトル」の「イメージスキーマ」は長期記憶される、という「推移律」による理解が不可欠です。「カテゴリー」と「ベクトル」が『水道方式』の『タイル』に相当します。
ところが、日本人は、心や精神の悩みの「対人不安」や「対人緊張」がモデルとして象徴するようにこの「推移律」を実践レベルで理解することができません。
「推移律」という概念は憶えることができます。「あ、知ってます。AイコールB、BイコールC、ならばAイコールCのことでしょ」というようにです。「では、子どもへの数(かず)の教育の方法としていうと、どのようなことが推移律でしょうか?」と問うと、「あ、知ってます」というようにスムースに説明の言葉が出て来ないのが実情です。「対人不安」「対人緊張」は、日本人が「X経路」(側頭葉のウェルニッケ言語野の触覚の認知で記憶すること)で、言葉(言語)を記憶していることに由来しています。 |
日本人の「X経路」中心の生活パターン |
「一人練習」ということをお伝えしています。家の中の非社会性の世界での「単独のトレーニング」のことです。家の外の世界は、社会性の世界です。「舞台の本番」と同じ意味です。
「家の中」の「一人練習」でおこなったこと、おこなわなかったことの二つが「舞台の本番」の中で、態度、行動、姿勢、言葉となって「表象」するし、「表現」されます。
これが「一人練習」の定義です。
日本人は、「X経路」中心の言語活動を、「Y経路」中心の「一人練習」に相当程度に自覚して切り替えなければ、つねに、無意識の観念の運動という法則が働いて「X経路による言語の記憶」が表象しつづけます。
このことは「精神分裂病」にも及んでいます。「精神分裂病」という病理概念と、「精神分裂病」そのものの発生の原因の両方に及んでいます。 |
日本人だけが「統合失調症」と記号表現した |
日本人は、「精神分裂病」を「統合失調症」という名称に言い換えています。まず、このことの意味からご一緒に考えてみます。
江口重彦(東京武蔵野病院・精神医学)は、『こころの科学』(日本評論社・刊。2002年9月。105号)の中で、「患者は語り、医師は名づける」というテーマで「統合失調症」への名称変更問題について次のように書いています。
①厚生労働省は、2002年7月
23日、新病名「統合失調症」を公的文書などにも使用できる病名と認めた。
②「日精協」つまり「日本精神病院協会」は、「日本精神科病院」に名称を変えた。同時に、「日本精神病院」は、「精神科病院」に呼称を変えた。
③2002年。日本で「世界精神医学会」が開催された。
精神保健福祉関係者が集まった。日本は、ここで「精神分裂病」という名称を「統合失調症」という新しい名称にすることを宣言した。 |
好き・嫌いで全てが決まった |
④「精神分裂病」が「統合失調症」へと名称変更がなされたのは、次のようないきさつによる。
⑤「全国精神障害者家族会連合」(全家連)・中井和代のリポート。
- 精神分裂病という日本語は原語より「どぎつい」。
- 「状態」を示しているのに、「一つの病気」を思わせる「病」を使うのはおかしい。
この主旨によって名称変更を「日本精神神経医学会」に意見として申し立てた。この申し立ては10年間つづけられた。
- 平成13年10月7日付けの朝日新聞に「日本精神神経学会」と連名で「新名称」を募集した。ここで、三つの「名称」を提示した。
- スキゾフレニア
(不支持の回答の理由…「覚えにくい」「言いにくい」「すでに差別語になっている」)。
- クレペリン・ブロイラー症候群
(不支持の回答の理由…ニワトリのイメージになる。また、人格検査をされるようだ)。
- 統合失調症
(不支持の理由…「全てがダメで、個人を否定したイメージになる」)
- 統合失調症…支持した人は、1,010人中の42・6%だった。
この回答の結果、「統合失調症」という名称に変えることに決まった。
⑥「統合失調症」への変更は、ノーマライゼーションの観点から、当事者を失意に追い込まないということが配慮されている。
だが、私はこの名称変更に懐疑的である。有効回答の「2,368」のうち「1,010票」の多数を占めたという理由が疑問なのだ。この名称は「冠名の診断名」でもなく「症状の診断名」でもなく「責任病巣診断名」でもない。
⑦私が強調したいことは、差別や偏見を含む精神分裂病にまつわる歴史や現実は、名称が生み出したものではないということだ。それは、かつては、「不治の病い」の宣告だった。
患者は、精神病院で人生を送ることになった。そういう歴史の事実にもとづく。
病名がつくった「物語的な真理」ではない。「歴史の事実による真理」なのだ。 |
日本人の「病理」の理解の仕方は曖昧である |
⑧帝京大学名誉教授・風祭元(かざまつりはじめ・精神医学)は、「病名の命名とその変遷(へんせん)」についてこうのべる。
- 「病気とは何か?」と問われても、正確な定義はできない。最近の精神医学の教科書は「正常と異常」について、こう書く。
1.平均概念としての異常
2.価値概念としての異常
3.病気としての異常
の三点だ。「3.病気としての異常」は、同じ言葉の反復でよく分からない。
- 医師が病気を診察して診断名をつけるときには、さまざまなレベルの病名が混在している。
1.病気の原因による診断
2.病理の形態学的変化にもとづく診断
3.症状とか、機能の障害を示す診断
この三つが「同一の患者」に付けられる。
- 「日本精神神経学会」の「精神分裂病の新呼称に関する委員会」は、病気の「命名」について次のような原則をあげている。
1.原因(例…一酸化中毒)
2.中心の症状と所見(例…白血病)
3.疾患のメカニズム(例…自己免疫疾患)
4.侵される機能・臓器(例…感情障害)
5.人名、地名(例…ハンセン病、ロッキー熱)
6.記号(例…O‐157)
7.病名が患者家族に不利益をもたらさない
などだ。だが、「3.自己免疫疾患」は、「疾患群」の呼び方で、病名とは思われない。
⑨1970年代以降の「文化精神医学」や「医療人類学」は「病気」についてどうとらえてきたか。
「疾患」と「病い」とを分けて考えることをすすめている。
- 「医療専門職」が「医学モデル」にしたがって、病気を外側から再構成するものが「疾患」である。
- 「患う者」やその近縁者が「多様な苦悩の経験」を「内側」から語るものが「病い」である。
- 前者は「科学・論理的モード」をもとにした「生物医学的な記述」(バイオメディカル)だ。個別を超えて、抽象的なカテゴリーに収斂(しゅうれん)していく。
- 後者は、「物語モード」だ。ストーリーを重要視する。
特定の事例の「個別の経験」の描写にいたる。
|
精神病理学の解体は「DSM‐Ⅲ」から始まった |
⑩1980年に「DSM‐Ⅲ」が登場した。「DSM‐Ⅲ」は疾患名や分類カテゴリーを劇的に変化させた。
⑪「精神分裂病」が「統合失調症」へと、名称変更がおこなわれた。私は、この名称変更にたいして懐疑的である。
理由は、以下のとおりである。
- 1.「日本精神神経医学会」が「家族会」から依頼されて一般市民にアンケートを求めて新名称が決められた。
有効回答が「2,368」のうち「1,010票」の多数を占めたという理由で、病名を変更してもいいのか?
「統合失調症」は、「冠名の診断」でもなく「症状の診断名」でもなく、まして「責任病巣の診断名」でもないことはすでにのべた。
- 昨今の銀行の合併や統合で生じるいろいろの問題は「統合失調症」と呼ばれる。するとこれまでの「分裂病」を「システム障害」と呼び変えても何の問題もない。実質的な意味をもたないからだ。
「診断の告知」の場面を想定してみる。
「統合失調症です。以前は分裂病と呼ばれていました」となるだろう。
症状やその内容の克服をテーマにするとき、主要な説明の部分の核心には何の変化ももたらさない。
⑫このような曖昧な表現が今日の精神医療の大きな流れになっている。
「DSM‐Ⅲ」以降のことだ。
こうした「ラベルの変更」は何をもたらしているか。「隔離」「強制治療」「精神分裂病の慢性化」、「精神病者の犯罪といったネガティヴな側面の強調、報道」という側面のみの視点がつくりつづけられている。精神医療そのもののリアルな現実に目が向けられることがなくなっている。 |
日本人は「アメリカの精神医療」を理想化している |
⑬一方では「アメリカ型の医療」が理想化されている。「アメリカ型の医療」とは「医療的にコントロールできる急性期の治療」のことだ。「急性期の治療」だけが「精神医療」だとされている。「急性期」とは「初発の激しい精神病の症状」のことだ。幻覚や妄想をともなう興奮状態のことをいう。アメリカでは、このような「初発の症状」でも約一週間の入院治療しか認められていない。
⑭アメリカでの精神科臨床の現場では、「急性期中心」の「医療化」が進行している。これは、精神病患者の「慢性化」の軽視だ。
これを「アルゴリズム化した機械的な治療」という。(注・アルゴリズムとは、目標を数値設定してプログラム化をおこない、その目標の解決のための効率と速度を実現すること、がおおまかな定義です)。
⑮アメリカの精神医療にかんする本や報道を見聞きすると、「精神医療の貧困化」が広がっているとしか思えない。
機能不全を起こしているのだ。病院から出された精神病理者は、数万人の単位で「ホームレス」と「拘置所の生活」をいききしている。
「医療抜きの劣悪な環境」に置かれている。
アメリカの精神医療は、「精神障害者」と「薬物中毒」と「軽犯罪者」の間を循環していると報道されている。
⑯また、「社会復帰」の施設の中心的役割を果すはずのニューヨーク市の「アダルトホーム」の惨状も報道されている。これは、今、「精神医療」そのものが解体していることを示すものだ。
そのアメリカは、「精神医療の教科書」「診断マニュアル」「主要雑誌」のほとんどを独占して世界各地に輸出している。
精神医療の覇権を握ったアメリカでは、われわれの考える「精神医療」はほとんど機能していないように見えるのだ。
上辺で流通する「DSM‐Ⅲ」のような理論と言語が、現実とは大きく異なっている。 |
精神医療は解体して、「福祉」にすり替った |
⑰日本の精神医療の方がアメリカよりもましだ、ということはない。日本の精神医療は、私立病院の経済原則のみが何よりも優先されていて、病院の環境の改善にはことごとく抵抗してきている。
日本の「精神医療」は、アメリカのそれを理想化して「医療」ではなくて「福祉の問題だ」と言い換えられている。それが、世界に比類のない「長期在院日数」「精神科病床数の削減」など劣悪な病院の環境をつくり出している。
「統合失調症」への名称変更は、このような「精神医療のリアルな現状」への無関心を許容するものだ。あるいは「治療」とその「環境」の改善を再現なく先送りするものだ。 |
日本の精神科医の「不適合」 |
■長い内容をご紹介しました。
江口重幸がのべている要点を整理するとこんなふうになります。
- 「統合失調症」という名称の変更は、「全国精神障害者家族会連合会」(家族会)による「病名の悪さが、患者や家族を、病気以上に苦しめている」「病気自体で死ぬのではなくて、病名のために死ぬことがある」という抗議から始まった。精神分裂病という名称は、「告知」の際に、医師も「言いにくい」という意識をもっている。
これは「不治の病い」「長い病院生活を送る人生」「以前は、遺伝だと考える人もいた」などの「歴史的事実」にもとづくものだ。しかし、「家族会」も「日本精神神経学会」も「精神分裂病」という名称が全ての問題とまでいわなくても、重要な問題であることには違いないと考えるに至っている。
この「統合失調症」と同じように「精神分裂病」の名称を変えたのは日本だけである。
- ふつう、どんな「病気」でも、「これはこういう病気である」という診断をおこない、病気の名称を伝える場合は、「病気の原因」「病理の示す症状のパターンや変化の仕方」「症状とともに起こる支障や障害をとらえる」という三つの事実にもとづいている。病気は「治療する対象」であるから、診断名をつけるというのは、問題の所在を明らかにするという目的と意図をもつ。
しかし、「統合失調症」という名称は、「銀行の合併」にともなう業務上の障害が「統合失調症」と言われたように、何の病気の実体を示すものではない。
|
「DSM‐Ⅲ」は、分裂病を「19世紀のレベル」に退化させた |
- 「統合失調症」への名称の変更は、もともとはといえば、アメリカの精神医療を理想化することに由来している。
その始まりは、1980年に登場した『DSM‐Ⅲ』による。『DSM‐Ⅲ』は、精神分裂病を「基本的には、生物学的な疾患で、脳の病気である」ととらえる。「特定の薬剤が有効で、副作用を考慮しながら服薬を継続することが、狭義の精神医療の全てである」とする。バイオメディカルな疾患としてとらえるのが精神分裂病である、とするものだ。現在、精神分裂病を告知することを推進する小冊子にはこのような考え方が書かれている。
だが、もし精神分裂病が「生物学的な疾患」ならば、それをめぐる科学的で正確な知識の普及が不可欠である。
- 精神にかんする病気は、文化や社会の要素が大きな役割を果しているという観点は、まだなお検証されなければならないと思える。そもそも、「精神分裂病」を「脳の病気だ」とするのは19世紀的な発想を出ていないものだ。「本態がよく分からない」というものを、脳の生物学的な単純な病因論に還元していいのか?という疑問は、誰もがもつものであるだろう。
- 精神分裂病の経過や症状、その支障は個人によってさまざまである。すると、「個人の症候群」といったレベルまでたどらないと具体的な治療にはならない。個人の「生活史」や「家族歴」がよく見えるようになると、「定型的な分裂病像」から離れた「非定型的な病理像」が見えてくる。多くの精神療法家が「文化精神医学」に近づいていくのは、個人のローカルな個別性に触れて、「物語的な部分」を重要視するからだ。ここに治療的な契機がある。
|
日本人の「精神分裂病」の理解の仕方と現実 |
- 風祭元(かざまつりはじめ・帝京大学名誉教授)によれば、日本でも用いられている「病名」の大部分は「欧米病名」の翻訳名である。明治時代に大量に輸入された。
「精神分裂病」は、「神戸文哉・かんべふみや」が、モーズレイの『精神病学書』を意訳したものだ。明治7年だ。英語の「失神または健忘」「痴呆」などと訳した。
ドイツ語の「進行麻痺」はそのまま訳された。
しかし、「進行する麻痺・マヒ」といっても、経過中に、じつにさまざまな症状が出現する。精神病のあらゆる症状が出現する。
「躁」「うつ」「幻覚」「幻聴」「妄想」「緊張症」「けいれん発作(パニック症状)」などだ。ここでいくつかの病型や特殊型の病理モデルをつくり出した。
最終的には「知能障害」にまでいきつくことははっきりしても、「予後」が不良で、「進行性」であることに注目されて「精神分裂病」という規定にゆきついた。
- 現在の「精神分裂病」は、アメリカの精神医療の『DSM‐Ⅲ』が、アメリカによる輸出によって全世界にいき渡っている。しかし、そのアメリカの精神医療は、「医療ではなくて、福祉の問題である」と転嫁されて、精神医療そのものが解体されている。おこなわれているのは、「急性期の興奮状態」への治療のみで、「慢性化」は軽視され、放置されているからだ。
ここでは、ひんぱんな「電気ショック療法」が復活している。
慢性化した患者は「福祉」(社会復帰)からも外されて「ホームレス」と「拘置所生活」の間を循環している。
日本では、「世界に比類のない長期在院日数」「精神科病床数の削減」という劣悪な精神医療のリアルな現状が、医療の解体を示すものといえる。
|
分裂病とは、「連想」がつくる「弛緩」(たるみ、ゆるみ)のことである |
■精神分裂病が「統合失調症」という名称に変わるにあたってのいきさつとその問題点をごらんいただきました。
問題の出発点にあるのは、「分裂病がなぜ生成されるのか?」という分析や解明が、アメリカをはじめとしてヨーロッパのどこでもおこなわれなかったことが背景にあります。
江口重幸にしても、「分裂病の生態とはこういうものだ。だから、統合失調症という名称は、問題の改善や解決にとって不利益をもたらす」とは発言しえていません。それは、「精神分裂病」は、もともとは「E・クレペリン」によって臨床観察された「早発性痴呆」という心的な現象が土台になっていることが理解されなかったからです。さらに「E・ブロイラー」によって「連想弛緩」が症状の中心になっている、と明らかにされたことを考察の対象にすることができなかったことが、精神医療の全世界に共通する背景です。
江口重幸がのべているように、名称を変えたからといって「病理」が消滅するわけではありません。このことは、「家族会」の「中井和代」も認めています。「人が、差別的な目で見ることが無くなればよい」と考えることで、本当に「安心立命の境地」に立てるのでしょうか?そうではないということに気づかないのが「分裂病イコール連想による弛緩」の本質です。
「人が悪く思っているだろう」と考えるのは、「連想」です。
「連想」とは、「あれこれと思うこと」のイメージの表象のことです。
「あれこれと考える」という場合ならば、事実を前において、「AでなければB。BでなければCである」と、選択的に判断することをいいます。これは「連想」ではなく「想像」といいます。「思う」というのは、どこまでも「その人の感情」という「気持ち」から表象されるものです。すると、「人と話せない」「人と話すと緊張する」という現実が「自分」にあるとすれば、「自分が分裂病であることを、すでに誰もが知っているのではないか?」という「連想」が表象されるでしょう。このような因果律にもとづく考察をおこなわなかったことが「統合失調症」という「不適応」をつくり出しているのです。 |
分裂病は、「言語」との不適合が原因であり、根拠である |
「精神分裂病」について最も核心に迫った考察をおこなったのはドイツの「H・ミュラー」です。H・ミュラーは、「その時代、その社会の最も価値ある言語を曖昧に憶えたり、あるいは、国や社会が曖昧にしか提供しない場合に、その言語と不適合が生じる。これが分裂病の原因である」と定義しました。
このことは、「人間の行動には、言葉が必要である」「人間の心身の安全には、言語が必要である」という本質を正しく理解することでよく得心されるものです。
「言葉」(話し言葉)と「言語」(書き言葉。表現的な言葉)と不適合であると、必ず、人間の「目、耳、手(指)」の五官覚の知覚神経が過度に緊張して血流障害が生じます。血管が収縮するので血流が流れにくくなります。これが「進行していく麻痺・マヒ」の実体です。自律神経の交感神経がつくり出します。日本人の場合、「連想」に相当するのが、日本語(和語、やまとことば)の価値体系の枠組みの「内(ウチ)か、外(ソト)かを区別する文法」です。「遠いものは恐い。成り行きにまかせる。近づかない。遠いものを分かるとは、自分の内(ウチ)に取り込むことだ」という価値意識です。「遠いもの」(精神分裂病の対象になるもの)の取り込みに失敗して「成り行きにまかせる」と、「福祉」の中に追いやっています。分裂病を日々、生成するままにまかせているという現実を「統合失調症」への名称変更は、象徴しています。 |