「精神分裂病」ということを正しく理解することの意義 |
これまで二回にわたって「精神分裂病」について、精神医学史の観点からとりあげてご説明してきました。「精神分裂病」は美化の妄想を主体とする人間的な意思の病理です。人間の脳は、「快感原則」を本質として働いているので、「分裂病」という社会病理が生起します。分裂病の「社会病理」としての病的な現象を臨床的に観察して定義したのが「近代精神医学」です。
「精神分裂病」は、英語ではschizophrenia(スキゾフレニア)といいます。
日本語の「精神分裂病」という概念は、ドイツ語からの和訳です。欧米人は「精神が分裂する病気」という意味とそのイメージでは理解していません。
schizoは「進行していく」というのが語義です。ラテン語がもともとの語義になっています
phreniaは「麻痺」という名詞です。『早発性痴呆』という臨床の観察を記述したE・クレペリンは「進行性の麻痺」の意味で「分裂病」を定義しました。
しかし、精神分裂病は多彩な症状をあらわします。
おもな症状は次のようなものです。
1.幻覚
2.躁とうつ
3.妄想
4.けいれん発作
5.神経症状
初めは、これらの症状が「ある種の中毒症状」とよく似ていることから「何かの中毒ではないか」とも考えられました。したがって「原因は、外的要因によるものではないか?」と考えられました。
しかし、冷静な臨床観察がつづけられて次の二つが「症状」の共通性であると認識されます。
1.麻痺(まひ)が進行していく
2.進行の中で「知的障害」をあらわして、「知的障害」にいきつく |
分裂病は、五官覚がマヒして痴呆に至る病い |
日本人は、精神分裂病に相当する病理をドイツ語から和訳して「進行性の麻痺(まひ)」という概念で理解しました。しかし、この進行していく「麻痺・まひ」という病理の実体を客観的に明らかにすることができなかったので「精神分裂病」という概念を用いています。精神という「緊張」が「弛緩・しかん」に移行して「分裂する」という主旨です。そして現在では、「麻痺・まひ」を拡大形容して「生理的身体の神経症」であるかのようなイメージで「統合失調症」という記号概念に変更しています。
そこで、本ゼミでは、「精神分裂病」についての「精神医学史」の原点を採用して、脳の働き方の言語の生成のしくみにもとづいて、「分裂病」のメカニズムの正しい理解の仕方をお話しています。
まず、原点とは、「進行していく麻痺(まひ)」ということです。
E・ブロイラーの門下生であった「C・G・ユング」は『精神分裂病』(1958年)の中で次のように書いています。
- ブルグヘルツリの若い代診医であった私が、当時の私の主任であったオイゲン・ブロイラー教授に学位論文のテーマを依頼したのは1901年のことであった。
彼は、私に、「分裂病における表象の崩壊」を実験的に研究することをすすめた。
- われわれは、分裂病の患者は「感情を強調的にあらわす」という「複合」の存在について知っていた。「複合」とは「主観的な表象」がさまざまな病的なイメージの表象とむすびついて拡大していくということだ。
- この「複合」は、「神経症」でも確認される。「神経症」で表象される「複合」は、だいたい「ヒステリー」に見られる症状と同じである。
- だが、「分裂病」は「言語の領域」が障害されて、特有の「複合」が生じる。その「複合」とは「関係の途絶」「言語の作為性」「その場、その場の言い逃れ…しかも、当意即妙な正当化」「行動の言葉のみを言い、名詞や形容詞などの判断語の脱落」などが生じる。
- 「分裂病」では、神経症にまだ保存されている「性格」がしだいに破壊されていく。そして表象する主観的なイメージは、「太古的な古代原始社会」の中での「環界」(かんかい)にたいする関係の障害(疏通(そつう・ふさいでいるものを切り開いて通る))の障害を描写している
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分裂病の妄想は、好き勝手な「連想」のこと |
■「精神分裂病」という名称を提起したのは「E・ブロイラー」(オイゲン・ブロイラー)です。
「精神分裂病」の前身は「単発性痴呆」です(エミール・クレペリン。精神医学者。ハイデルベルク大学)。それ以前は「疾病・しっぺい。病気のこと」として認められていませんでした。日本でも「精神科に行っている」といえば「まわりの人から差別的な扱いを受けるのではないか?」と不安に感じていた時期がありました。E・クレペリンが「近代精神医学の始祖」と呼ばれているのは、「精神病を医学の対象として自然科学の領域で研究していこう」という学的な知性の道を切り開いたからです。E・クレペリンを中心とする研究グループによって「精神病者」は、他の身体の疾患と同じ資格と権利をもって処遇されることになりました。
E・クレペリンがなぜ、「精神分裂病」を「単位疾患説」(独自の病理体系をもって成立するという認識)を打ち立てたのか?といえば、「ニッスル」という「脳病理組織学者」らの研究があったからです。「進行性の麻痺(まひ)」は、脳内にある種の病変をもっているということが研究されました。E・クレペリンは、「精神分裂病」(早発性痴呆)を「内分泌の異常」にもとづくのではないか?という「単位疾患のモデル」を想定していました。このことは『早発性痴呆』(1896年)にくわしく書かれています。E・クレペリンが分類した「躁うつ」「パラノイア」「パラフレニー」「神経症」などは、クレペリン以降の精神医学の研究のベースになっています。
C・G・ユングの師であった「E・ブロイラー」は、クレペリンの『早発性痴呆』を整理し、分類して「精神分裂病(進行性麻痺)」という概念を提起しました。E・ブロイラーは、「早発性痴呆」をこまかく分析して「一次症状」と「二次症状」があることをつきとめます。
◎一次症状(基礎症状)
1.連想弛緩
2.自閉
3.感情の荒廃
◎二次症状(副症状)
1.幻覚
2.緊張病症状(神経症のこと)
3.妄想
4.錯乱
E・ブロイラーは、エミール・クレペリンが「脳を中心とした身体疾患」をモデルにしていたことにたいして、「連想によってつくられる弛緩(しかん)」が「分裂病」の実体であることを明らかにしました。これによって「オイゲン・ブロイラー」は「近代精神医学の父」と呼ばれています。
E・ブロイラーの「精神医学」による「精神分裂病」の分類を見ると、「自閉」(離人症)、「感情の荒廃」(躁うつやヒステリー症、パラノイア、強迫観念など)を中心とするのが「分裂病」です。
「連想」による「弛緩・しかん」が「緊張病症状」(自律神経を中心とする神経症のことです)、「妄想」(恐怖、不安、美化のイメージのことです)、「錯乱」(自傷行為、他傷行為、いじめ、登校拒否、ストーカー、依存症の行動、などです)を生起する、とのべられています。
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人間の妄想は「原始感情」が記憶する不適合をあらわす |
ご紹介したC・G・ユングの論文の抄訳は1958年に書かれたものです。E・ブロイラーの指導によって「分裂病の心因論」を徹底しています。「連想」がつくるさまざまな「弛緩・しかん」(たるみ、ゆるみのことです)はどのような「イメージ」(無意識の表象)をつくり出すのか?を追究しています。C・G・ユングは、臨床の中で共通の「イメージの表象」があることをつきとめます。
それは「古代原始社会の共同幻想との不適合」というものです。C・G・ユングは、「分裂病」が進行していくタイプの人間にこの共通性を見出しました。
ここでC・G・ユングが明らかにした「太古の古代原始社会の共同幻想との不適合」という連想されるイメージとは、日本人の場合は「強迫観念」(特定の不安感が思い浮んで固執しつづけること)と「対人恐怖、対人不安、対人緊張」(他者の言葉や思考の中身に分からなさの不安を感じてこれを行動パターンにあらわすこと)等があてはまります。国語学者・大野晋の実証にもとづけば、日本語(和語・やまとことば)の文法(助詞、助動詞、動詞、形容詞など)に不適合であることが原因で表象されます。
「正しく理解していない」「適当に、恣意的に解釈して話し言葉で用いる」「経験則にもとづいて(根拠にして)、仕事の中で文章化する」などが、C・G・ユングのいう「日本型の古代原始社会の共同幻想との不適合」の「連想イメージ」を表象します。
欧米人の場合は、どういう「古代原始社会の共同幻想との不適合」になるのでしょうか。
社会言語学者の鈴木孝夫の説明を参考にすることができます。
ヨーロッパ語(ドイツ語、フランス語、英語など)は、もともとラテン語などの原型語の上に、いくつもの言語が重ねられてつくられているということです。一つ一つの「名詞」は、「文章を読む」「他の文章を読んで適用の状況(カテゴリー)を理解する」「一つ一つの名詞のカテゴリーの水準を測定しながら書いて表現する」という知的作業をとおしてここで初めて習得されるものです。
鈴木孝夫は、「ここで日本人は漢字のみのイメージを思い浮べるだけで、その概念の意味までも分かったつもりになる」と書いています。日本人の場合は、これが「不適合」のメカニズムです。
欧米人の「分裂病」の生起の仕方は、「その時代、その社会の中で最も水準の高い知性の言葉」と不適合であることが原因と理由になります。それは一体、どういうものでしょうか。 |
欧米人の分裂病の原因の不適合 |
鈴木孝夫の説明では「人権差別」「階層差別」を解体する概念です。
あるいは、今回のゼミ(『ゼミ・イメージ切り替え法』)のテクストの中の一文(『初期ノート』吉本隆明)で指摘されている「神権と王権の不可分一体のむすびつき」などをあらわす概念であるでしょう。
鈴木孝夫は『日本人はなぜ日本を愛せないのか』(新潮選書)の中でこう書いています。
- フランス人は、人に吠える犬とか、通行人に吠える犬は、隣人や通行人が警察に通報して、すぐに殺してもらう。イギリスでも事情は同じだ。イギリスやフランスでは、人間の言うことをきく犬だけが生き残っている。
- 「フェミニズム」という言葉を、日本人は「女性に優しい男」と勝手に理解している。これは、社会的な権利(「遺書の相続」「不動産の取り引き」など)を主張した女性の運動のことだ。
「女性の社会的な人間としての権利を認めろ」と主張するマイナスのイメージをもつ言葉が「フェミニズム」だ。
アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスなど「アングロ・サクソンの国」では、家の家計は「夫」が管理している。「妻」は、「夫」がいくらの収入があるかは知らされない。
「妻」は、月々、夫から必要なお金をもらう。
日本では、大半が「家計は主婦主導型」だ。大学の教授どうしの家族ぐるみの集まりの中でこの話をした。すると教授の妻たちはいっせいに立ち上がって、自分の夫に指を突き出して言った。
You should do it!!(あなたもそうすべきだ。)
後日、教授の一人に「お前がよけいなことを言うから、しばらく言い争いがつづいたよ」と言われた。
- ロシア語では「ドイツ人」を「ニューメツ」と言う。「口がきけない、言葉が出てこない人間」という意味だ。
ロシア人は、ドイツ人がロシア語を話せないことをさして「彼らは口がきけない」(一人前の人間ではない)と呼んでいる。
ちなみに「ウラジオストック」という地域の名称は、「東(日本)を征服せよ」という命令形がその意味だ。
帝政ロシア時代につけられた名称が今も用いられている。
新潟市は「ウラジオストック」と交流が深い。姉妹都市にもなっている。どうして市場が先頭に立って「名称を変えるべきだ」と抗議しないのか不思議でならない。
- 欧米人の人種差別のパターンは、次のようなものだ。
1.他人種(民族)締め出し型
2.民住地隔離型
3.「上下の階層」棲み分け型
4.他民族(人種)抹殺型
の、四つである。
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日本人は、日常的に不適合を抱えている |
では、日本人の「太古の原始社会の共同幻想との不適合」(C・G・ユング)はどのように生起するものでしょうか。
具体的な「不適合」の事例を、大野晋の『日本語の教室』(岩波新書)からご紹介します。
- 「学問」を何と言うか。英語ではsocio-logy(社会学), psycho-logy(心理学), eco-logy(生態学、環境学)とlogyという言葉をつかう。
- logosという言葉の直系だ。
E・クラインの『英語語源辞典』で求めるとlogosはlogという「語根」から発展したものとある。
- logの最初の意味は「取って集める」「つまみ出す、選ぶ」ことだ。「語を選ぶこと」から「読む」「唱える」ということが語根の意味だ。
- ここから「言う」「語る」「話す」へと発展する。「ロゴス」は、さらに「言葉」「会話」「論述」「計算」「思考」「理性」などの意味へと展開した。
- logという語源はcol-lect(集める), se-lect(選ぶ), e-lect(人を選考する), lec-ture(講義), lex-icon(辞書)などにつながり、用いられている。
- ロゴスの意味は、「手に取って集めること」「選び出すこと」「言葉を選ぶこと」「言葉を筋立てて論述すること、論理を理性で用いて学問とする」と展開していく。
- この「ロゴス」にたいして日本語ではどうなるか?
日本語では「学問すること」を「学ぶ」という。「マネぶ」ともいう。「真似をすること」だ。日本では、古来、「真似をすること」が「勉強の本質」とされてきた。ここに「文明をつくり出してきた集団」と「文明を輸入することがつねに第一義であるとする集団」との「行動」と「言語」のあり方がはっきりと見える。
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日本語のもたらす不適合 |
- 「言葉」は、正直に「人間の行動」そして「その人間の認識」「その人間が見ている事実」を反映するものだ。
しかるに、「和語・やまとことば」には「ロゴス」に相当する言葉が無い。これは、日本人は、ものごとを科学的にとらえる歴史がなく、今も特定の分野をのぞいてほとんど発達しなかったことに対応する「言語的事実」なのだ。
- 日本は、「ロゴス的志向」「ロゴス的行動」に欠けて何千年と来ている。現在もそれは変わっていない。この二つを忘れてはならない。
- 日本人が「ものごと」を客観的に表現できない証拠の一つに「形容詞」がある。
その「形容詞」は二種類ある。
「ク活用」(広く、高く、狭く、など)と「シク活用」(美しい、恨めしい、懐かしい、楽しい、など)だ。
「ク活用」はものごとを客観的に把握する。しかし、この「ク活用の形容詞」の数は異常に少ない。「ものごとの状態」を定型的にとらえるという認識の仕方が弥生時代から今に至るまで、全く変化していない。『岩波国語辞典』を20年間かけて作っていく中で、私はこのことに気がついた。
しかし、「シク活用」(おもに情意をあらわす)の言葉はたくさんある。「和語」(やまとことば)の「形容詞」の少なさに気づいたのは紫式部だ。そこで『源氏物語』を書くときに人間の心理や状態をこまかく意識して表現した。
そして次のような「造語」をおこなった。
1.「うるはし」「ものうるはし」「うるはしげなり」「うるはしさ」
2.「このまし」「ものこのまし」「このましげなり」「このましさ」
3.「わびし」「ものわびし」「わびしげなり」「わびしさ」
4.「かなし」「ものがなし」「かなしげなり」「かなしさ」
この類は「情意」をあらわすものだが、「うるはし」のように客観的事態を表現するものがある。このパターンが30組ほどある。
紫式部は、心情だけでなく客観的な世界をできるだけくわしく「和語」で描写したいと工夫した。
- 日本人が「情意」をあらわす「形容詞」の「シク活用」を展開してきたことは、それはそれなりに意義がある。人間どうし、また自然や万物にたいして「優しい心づかい」を相互に交流させ合って生きることは、世界に誇れる「日本の文化」といえるものだ。
松尾芭蕉の俳句は、その典型であるだろう。
あけぼのやしら魚白きこと一寸
海くれて鴨の声ほのかに白し
石山の石より白く秋の風
「白し」は、世界の一瞬を感受して「永遠の相に至る造形」をおこなっている。日本人は「一瞬の景」という「自然の底にとどく感性」を受けとり、表出することをよしとする。しかし、それは、どこまでも「一瞬の視線」による造形だ。
現実の世界を一つの組織体として総合的に見渡すという認識の仕方ではない。ものごとの全体やものごとの水準、奥行き、現在、過去、未来を系統立てて見る「ロゴス的思考」ではない。
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日本人の「客観性」の欠如 |
- 日本人は、「事実」と「事実関係」を徹底的に重んじる精神や、「真実」に誠意をもって対する精神をもって「現実」に向き合う習慣が欠如している。
- ものごとをこまかく見る、というと「小さい重箱のすみをつつくこと」、ただ「部分だけを細かく見ることだ、細かいところにこだわることだ」と思っている日本人は多い。
大学生に「世界観とは?」と問いかけると「世界感」と書くことが多い。こういう実例と何度も出会った。彼らは「世界観」とはなじまない。
「世界観」の「観」とは、「左右を見比べてよく見ることだ」がもともとの意味だ。「世界感」と書くのは、日本人は「感じること」に意識が傾いていることを示す。
「ものごと」を鮮明に、系統立てて、立体的に見比べて認識するという行為を得意としていないことだ。「ロゴス的思考」「ロゴス的方法」の欠乏を意味している。
- 日本人は、「日本語の問題」というとすぐ「美しい日本語」という。
「美しい日本語が読みたい」「美しい日本語を話したい」「美しい日本語を書きたい」などだ。
もちろん「美しい日本語」も大事だ。
しかし現在の日本にとってもっと重要なのは、このような「情意」や「感受」に傾いた日本語の使い方ではない。
「正確な日本語」「的確な日本語」「文意が明瞭に分かる日本語」を日本人一般がもっと心掛けるべきだ。
それは「事実」を第一に重んじることだ。「真実」にたいして誠意をもつ行動をつらぬくことだ。
それが、現実の「文明」を把握する力になる。「文明」を消化して新しく創り出す力にもなる。
- 「漢文訓読体」という文章は「文明」(注・仕事、学業、教育、社会的な人間関係のこと)と向き合おうとする「意志」によって維持されてきた。
これが「敗戦後」の「言語政策」によって壊されていき、今、人間の「理」と「情」という両輪の一方が国民として脆弱(ぜいじゃく)になり崩れてきたと私は見ている。
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日本人の「曖昧性」という分裂病の現実の実体 |
- 日本人の将来を考えるには、「現在の教育をどう進めるか」にかかっている。「ゆとり教育」ということで土曜日を休みにした。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカと比べて、日本ほど「母国語」と「外国語」を含めて「言語教育の時間」の少ない国はない。日本は、外国のおよそ半分近い時間しか与えていない。
「ゆとり教育」として「教える内容を易しくすること」を考え出した。一例に「円周率は3・14」と教えずに、小数点を省いて「3」でいいとした。これは円の直径と円周の比が「1対3」と扱うことだ。
ここで「正六角形」を書けばその外周は「正六角形の一つの頂点から中心を通って向かいの頂点までを結んだ直径の三倍」になる。
すると「円」と「正六角形」が「ある意味で同じなのだ」ということをあらわしている。
こういうことを教育の中でやってもいいのか?最近になってようやく、あまりの反対の強さに折れて、文部科学省は、「3・14でもいい」と言い出した。何たる無定見か。
「権力の乱用」とはこのことではないか。
- 日本人の「言葉」による「事実」の認識とはどういうものか?についてのお話をしたい。こんな話を聞いた。
「女子中学生が妊娠する」というケースが少なくないということだ。その中学生らは「私は産みたい」と言う。
「今、子どもを産んでも育てるのは無理だ」という周りの忠告に、最初は従っても、すぐまた、妊娠する。
今度は、頑強に抵抗する。
親たちが苦労して、結婚させる。
だが、二、三年たつと離婚する。このような中学生は何を考えているか?ある新聞社がインタビューした。すると一つの共通したことがある。「自分が相手をどのように好きだったからこうなった」「自分は、どのように生きたいのだ」「自分は、これからどのようにしていくつもりだ」(ことがらの成り立ち、進行している事実、自分の将来についてのこと)などについて何も言葉にできない、ということだ。記者が質問すると、「うん」と「ううん」という返事しかない。それ以上の言葉がない。
「自分の行動の意味が何なのか」を自分の言葉ではっきりととらえられない。自分の意思、自分の判断、現実の把握の「言葉」が無い。明確に言葉で「認識できていない」から「話し言葉」でもはっきり表現ができない。
こうした女子中学生に類似したことは、大人の側の反映とはいえないか。
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日本人の「弛緩」という痴呆の実体 |
■大野晋のとらえた「日本人の日本語(和語・やまとことばと、漢字・漢語)」との二つの不適合の実体をややくわしくご紹介します。
日本人は、学校、仕事(職場)、日常の生活の中で「適応している」ように見えます。しかし、その「適応」は、「日本語の文法」や「漢字の訓読み」との「不適合」を抱えている「適応」です。日本語の「文法」との不適応は、日本語の「文法」のもつ日本人の「対人意識」をそのまま自分の「行動の仕方」にしてしまうことを意味します。すると、仕事にせよ、学校の勉強にしろ、生理的身体だけは「行動」を成立させます。指示、号令、命令の言葉に従って、これを「記号」として認知して「行動」を成立させるのです。
このような「行動」は、反復、もしくは「皮相的な関わり」といいます。精神分裂病の領域では「常同症化」といいます。
常同症とは、「自閉」と「離人症」をいちどに融合させた身体現象のことです。
なぜ、こういうことが起こるのでしょうか?言葉には、『意味』があるということはよくお分りのとおりです。『意味』とは、「シチュエーション」といって、「状況」の中で適合する「ものごと」や「行動」の成立の『イメージ』が『意味』です。漢字なら漢字の「意味」を調べても「正しく表現できない」ということはよくお分りでしょう。また「シチュエーション」(状況)には、『赤ん坊から見た世界』(無藤隆)や『メタファー』(瀬戸賢一)がのべる「名詞」の示す「カテゴリーの水準」があります。この「カテゴリーの水準」に適合する「ものごと、行動の成立のイメージ」が『言葉の意味』です。多くの日本人は「仕事」というごく狭い空間に適応することが「全社会との適合である」という肯定性バイアスを抱えています。すると、仕事にしろ、職場にせよ、恋愛や結婚の中の全ての「行動」が「常同症化」します。
これはいいかえると「どういう意味か?」という問いにたいして「曖昧である」ということです。「なになにをした」「何々はこうだ」「何々はこういうものだ」とは言葉に出来ても、「事実」と「事実関係」の説明の言葉はありません。これが「曖昧である」という内容です。この「曖昧」は、ドイツの「H・ミュラー」によれば「その時代、社会の最も高い知性の言葉との不適合」であるのです。これは、人間の生理的身体の知覚神経(筋肉も)を過度に緊張させます。
正座すると、脚がシビれる(麻痺)するという経験がおありでしょう。久しぶりにランニングをすると筋肉疲労が起こります。これも一種の「知覚神経の麻痺」です。「本を読むこと」「文章を書くこと」「人の話を聞くこと」「人に順序立てて説明すること」などの「目」「耳」「指」「全身の筋肉」も、高度に訓練しつづけなければたちまち「麻痺」するのです。「仕事」や「学校の授業」に参加することは「行動の適応」です。したがって「日本語(和語・やまとことばと漢字・漢語)」にたいして「不適合」を生起させるのです。
日本人は、この局面で「自己の安心」のために「A9神経からのドーパミンの分泌」を必ず志向するのです。「神経症」か「強迫観念」が生起した『体験』をもっているからです。『触媒』(ケータイ、テレビ、ゲーム、ネット、マンガ、恋愛依存)をもって「神経症」か「強迫観念」の代わりの「A9神経よりのドーパミン分泌」をおこなっている人も「C・G・ユング」のいう「古代原始社会の共同幻想との不適合」を招き寄せていることには違いありません。それは、次のような「不適合」です。吉本隆明の『共同幻想論』に「他界論」が書かれています。リライト、再構成してご紹介します。 |
分裂病の「第三期」の「人格崩壊」が「他界」に突入する |
- ある村の「ひいおばあさん」が死んだ。親族の人が集まって、お通夜をした。おすしを食べて、お酒も飲んだ。みんな、その夜は、広い部屋で寝た。
- この「ひいおばあちゃん」には娘がいた。ちょっと言動におかしなところがあったので、離縁されて戻って来ていた。
- この夜。祖母と母親は「いろり」の近くにじっと座って起きていた。
ふと、裏口に何かの音がする。
しんとしている深夜だったのでかすかな音も耳に届いた。
かさ、ささっという音がする。衣物のこすれる音だ。ふりかえって見ると、死んだはずの「ひいおばあちゃん」が歩いてくる。
「おばあちゃん?」と声をかける。
「ひいおばあちゃん」はこちらへ音もなくすっと歩いてくる。炭取りの箱に衣物のすそが触った。炭取りの箱は、くるくると回る。
「ひいおばあちゃん」は、母親の顔を下目づかいにじっと見た。
- 「ひいおばあちゃん」は、くるっとふり返って、寝ている親族の方へと歩いていく。誰も気がつかない。「ひいおばあちゃん」は一人一人の顔をのぞきこむ。
少し気の触れた出戻りの娘が気づく。
「おばあちゃんが来たー!!」とけたたましく叫んだ。
■吉本隆明の説明
1.ここでは、死んだ人間にたいして、生きている人間の執着が語られている。しかし、死んだ人間は、再び、生き返らない。
「死んだ」という事実と執着とが「死んだ人についての話」をつくった。
2.「死んだ人」は、「裏口」とか「家の外のどこか」に行ったのだという「死んだ人間の共同幻想」が語られている。全ての人間に共通して表象されているということだ。
3.「死んだ人」が「亡霊」となって登場するのは、生きている間の人間関係としての「不適合」があったことが理由だ。
「無視した」とか「かげ口を言われた」とか「話しかけられたのに、作為的にごまかした」とか「約束したのに放置した」などの関係上の矛盾のことだ。
つまり、言葉による合意とその行動が欠落しているところでは、人は、そのまま孤立と生きられないという「死」を招くという共通の認知が、「他界」という「共同幻想」を生起する。
4.ここでの「共同幻想」とは何か。
まず、男と女の「対の関係」を土台にして表象される「対幻想」を意味している。人が死ぬときは『死の四つの行程』をたどる。
第一の行程の「死の拒否のあがき、もがき」、第二の行程「死ぬことの許容。生きることの諦め(うつの状態)」、第三の行程「前・臨死体験。苦痛が消える。走馬灯のように人生の中で最も愛した人との出会い、語らい、感謝が交流される」、第四行程「後・臨死体験。自己の死を第三者の眼で見つめる」、というものだ。
死者が亡霊になって姿をあらわすというのは、この「第三の行程」の欠落という「不適合」があることが原因だ。出会い、語らい、感謝の交流を得心する倫理的な経験が欠如している。
5.この「第三の行程」の不適合は、端的に家の中での人間関係として生じる。強迫観念というものだ。次に、血縁関係の生成の破綻が生じさせる。「ちょっと気の触れた出戻りの娘」が象徴する。
6.この強迫観念は、「人が自分のことを悪く言っている」「自分は、人とすぐに疎遠となって不適応を起こす」という心的体験をもつ人の場合には、「誰々が死んだ」という語が、次は自分の番だというモチーフとなって表象される。そうでなければ「死ねば?」という悪口になって「他界」を引き寄せるか、もしくは「他者がすでに死の四つの行程に位置づけられていること」(人格崩壊の分裂病の症状を見せていること)に「自閉」しているかのいずれかによって、「他界」という共同幻想はその人の家の裏か、さもなければ表玄関のすぐ近くまでせり出してくるものだ。 |
日本人は「他界」を抱えて文明から生かされている |
■この「他界論」は決して宗教の話ではありません。「日本語」との適合がないところでは、つねに「原始社会の古代の共同幻想」のままに、「死の怯え」か「うつの回避」のために、「神経症」かもしくは「人格崩壊」をつくるという「分裂病」の「弛緩・しかん」をつくる「連想」(妄想)のリアリティのある内容が語られているのです。今の日本人と日本の現実社会は、このような「弛緩」をつくる「麻痺」を引き起している状況にあることを理解しましょう。
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