「精神分裂病」とは「神経症」と同義です |
これまで二回にわたって「精神分裂病」の正しい理解の仕方についてお話してきました。みなさまの「精神分裂病」についての思い違いや誤解、曖昧な理解が改善されたのではないかと思っています。
「精神分裂病」とは、「麻痺・マヒ」がどこまでも進行していく病気のことです。これが正しい理解の仕方です。『精神医学史』の中の数多くの「精神医学者」がそのように説明しています。
日本の精神医学者や精神科医は「統合失調症」という言い方をします。しかし、E・クレペリン(エミール・クレペリン。近代精神医学の始祖といわれています)やE・ブロイラー(オイゲン・ブロイラー、スイスの精神医学者。近代精神医学の父といわれています)らの臨床や症状の分析から学んだことは事実です。だから『精神医学史』にもとづく「精神分裂病」の理解の仕方が正しいのです。
その正しい理解は「進行していく麻痺・マヒ」が即ち、「精神分裂病」の実体です。
「進行していく麻痺・マヒ」とは何のことでしょうか?
分かりやすい例をあげます。
みなさまも「正座」をして「脚がシビれた」という経験がおありでしょう。「正座」は、両脚を折ってこの上に体重をかけます。すると、足先にかけて血行のめぐりが悪くなり、知覚神経が正常に働かなくなります。一過性の機能不全です。一過性の神経症のことです。血行のめぐりを回復させると「脚のシビれ」がなくなって普通に歩けるようになります。
同じような一過性の神経症に「腓(こむら)がえり」があります。海水浴などの水の中で起こる症状です。腓(こむら)とは、脚のすねの裏の「ふくらはぎ」のことです。この「ふくらはぎ」の筋肉が突然に「けいれん」を起こすことが「こむらがえり」です。力を抜いた状態で筋肉を動かす時に起こる症状です。
このような「一過性の神経症」に「仮性近視」や「腱鞘炎」(けんしょうえん)などが思い当るでしょう。「肩コリ」「腰痛」「ぎっくり腰」なども一過性の神経症のカテゴリーに入ると考えられます。筋肉とこれをコントロールする知覚神経が過緊張状態になって「血流障害を起こす」ということが「神経症」の症状と共通しています。
「仮性近視」は、「仮性」といわれているとおり「真性の近視」に症状がよく似ているのでこのような呼ばれ方をします。「仮性」とは、「原因が違う」が「性質」や「症状」はよく似ていて近いという意味です。 |
精神分裂病は「見ること」「聞くこと」「書くこと」の緊張をたるませること |
「精神分裂病」も、「仮性近視」や「腓(こむら)がえり」と同じようなメカニズムで起こるのです。これは、「脳の働き方」の「言語の生成のメカニズム」を明らかにして初めて理解されることです。
精神分裂病は、E・ブロイラー(オイゲン・ブロイラー。スイスの精神医学者)が初めてこのように定義して、提唱しました。
E・ブロイラーは「弛緩・しかん」に移行していくことが「精神分裂病」の本質だと定義しました。「弛緩・しかん」とは「もともと緊張しているものがゆるみ、たるむこと」です。「輪ゴム」を想定すると分かりやすいでしょう。「輪ゴム」は、引っぱって緊張させることで初めて役に立ちます。
「ゆるんで、たるみっぱなし」の「輪ゴム」は、人間でいえば「機能不全」です。「ゆるみ、たるみ」を求めて、この「ゆるみ、たるみ」の中に安住することを求めるのが「精神分裂病」である、とE・ブロイラーは世界に向けて発表しました。
世界の多くの精神科医がこの学説を支持しました。
「弛緩・しかん」という「ゆるみ・たるみ」をつくる原因となるものが「連想である」という定義が支持されたのです。 |
「連想」がゆるみ、たるみを生成する |
「連想」とは何でしょうか。一つの「思い」に従って次々に「思うこと」が広がっていく「思考」のことです。もしくは「観念」のことです。「思い」とは、「自分の気持ちがつくる思考のイメージ」のことです。「考え」という場合ならば、「あれか、これかの選択ののちのどれか」という思考のことです。「連想」には、「あれか、これか。それとも、そのことか?」という選択や判断はありません。このことに正しく留意しましょう。また「観念」とは、人間の身体と脳を恒常的(ホメオスタシス)に動かして働かせている自律神経がつくる人間的な意識の表象のことです。目、耳、手、皮ふなどの五官覚の「知覚」の記憶したイメージが、右脳の「前頭葉」に思い浮びます。寝ている時も、歩いている時も、ボンヤリしている時も、人間は、何かのイメージを表象させています。その表象の一つが「夢を見ること」です。
人と会話したり、本を読む、ノートに何かを書く、という時のイメージを『表現』といいます。
『表現』と『表象(ひょうしょう)』とは、構造的に全く別のものです。
「連想」がなぜ「弛緩・しかん」をつくるのでしょうか。
「弛緩・しかん」とは、「緊張がゆるみ、たるむこと」です。本来、あるべき状態としての緊張が「ゆるみ」、「たるむ」ことであると理解しましょう。
人間の脳の働き方の「恒常性」は、自律神経の「A6神経」がつかさどっています。A6神経はノルアドレナリンという猛毒のホルモンを伝達物質にしていることはすでにご存知のとおりです。「A6神経」は、脳の中では「副交感神経」が動かします。一方、生理的身体では、「交感神経」に連動して血液を送って「目」「手」「耳」「皮ふ」の器官を働かせます。このメカニズムをしっかり理解しておきましょう。
「連想」とは、「弛緩・しかん」をつくり出す「イメージ」のことです。
「弛緩・しかん」のための「思い」にもとづく感性や感情のイメージのことだということを確認しましょう。 |
日本人は「面従腹背」が分裂病をつくる |
「弛緩・しかん」をつくることを合目的にしたイメージとは、仕事をしたり、勉強したり、あるいは一人練習として訓練している「緊張」を回避するイメージです。娯楽、趣味、性のイメージが典型です。思い浮べさえすれば「右脳の前頭葉」に「A9神経」が「ドーパミン」(脳内の快感物質)を分泌させるイメージです。
「分裂病」とは、「あるべき緊張を弛緩・しかんさせる目的でつくるイメージづくり」のことだ、というのが定義です。この定義を念頭において「仕事」なり、「学校の勉強」「一人練習の知的な訓練」のシチュエーション(状況)を考えてみましょう。今、げんに、まさにこれらのことと向かい合っている行動ないし、行為の局面です。
目で見ている、手で文字を書いている、レクチュアの説明を耳で聞いている、という局面です。
ここで「趣味」「娯楽」「性」のどれでもいいのですが、このどれかのことのイメージが表象しているとしましょう。すると、身体の「目」「耳」「手・指」そして「背・首・腰・脚」も、関わりの対象と関係づけられています。しかし、「右脳の前頭葉」には「娯楽」か「趣味」か「性」のいずれかの『イメージ』が思い浮んでいます。「面従腹背」という状態です。顔は相手に向いていてうなずいたり、肯定的に反応していても、心の中では「さっぱり分からないよ」とか「こんなことをやって一体何の役に立つのか」などの無意識の否定や拒絶のイメージがあってこれをじっと抑え込んでいる、という心理です。
このような「面従腹背」が現実と適応しているときは「目」、「耳」、「手」の知覚神経は正常域で機能するでしょう。
「自分は安全だ」と思えます。
しかし、「学校の宿題を提出する」「仕事のレポートを書く」「報告文を書く」「社外の人に、仕事の組織の責任をになって発言する」などという局面では「娯楽」「趣味」「性」のイメージを表象させていた時間の量の分だけ支障や障害が発生します。これを周囲の人がいっせいに注目します。ここで「自分の右脳の前頭葉には、仕事や学校の勉強の内容に関する言葉の意味のイメージが思い浮ばない」という現実の葛藤が生じます。この葛藤は、そのまま、「目」や「耳」「手」「指」などの知覚神経の過緊張を意味します。
これが「神経症」のモデルです。
このような「過緊張」が急激に迫って来ない場合は「圧力」という負荷になるでしょう。これは、過緊張が慢性的に継続している状態です。この状態が「アレルギー症状の生起」です。 |
神経症が弛緩(しかん)をつくるメカニズム |
「神経症」にしろ「アレルギー症状」にせよ、これがなぜ「五官覚の知覚神経」の緊張を「弛緩・しかん」させることになるのでしょうか。
わかりやすい例を考えてみましょう。
あなたが「道路で転んだ」としましょう。「転んだ」ことの原因は「自分の不注意で転んだ」場合と、「他者がぶつかって転んだ」という二通りがあります。「自分の不注意で転んだ」という場合はすぐに「痛み」を忘れるでしょう。しかし、「原因」が「他者」にある場合は、その「他者」への「思い」がさまざまな感情を生起します。その生起がいろいろの感情の言葉を表象させて、「痛み」を「苦痛」のイメージに転化して持続させるでしょう。
「神経症」にしろ「アレルギー性の症状」にせよ、「過緊張の局面」の「痛み」を「苦痛というイメージ」に転化させるのです。
では、この転化した「苦痛のイメージ」はなぜ「目」「耳」「手」「指」の知覚神経の緊張をゆるめ、たるませるのでしょうか。「痛み」について「苦痛だ」と了解すれば関わりの行為ないし、行動が止まります。この「行動停止」が「弛緩・しかん」です。
ふつう、このような「行動停止」は「うつ病」といいます。したがって、「うつ病」もまた、このようなメカニズムによって「分裂病」のカテゴリーに入るのです。「うつ病」も「分裂病」の「一つの症状」であると理解されるのです。『精神医学史』は「うつ病」も「躁病」も「進行性の麻痺・マヒ」という「分裂病」の『症状』と分類しています。
しかし、「行動は止まらない」という場合もあります。
「仕事には行けている」「学校に行けている」「恋愛関係は継続している」「結婚生活は形式的に保たれている」といったケースです。ここで人は、「転んだときの痛み」に相当する目、耳、手、指などの五官覚の過緊張を「妄想」か、妄想の『触媒』になる「娯楽」「趣味」「受け身の生活態度」で「弛緩・しかん」という「ゆるみ、たるみ」を生起させます。
「電話が鳴っているのに無視して、出ない。放置する」、「メールが来ているのに、読んで放置する」「人が話しかけているが、自分には関わりはないと思いこみ、気がつかない」などが「弛緩・しかん」という「たるみ」「ゆるみ」であることはよくお分りでしょう。目、耳、口、手、そして足腰の知覚神経は正常な緊張状態に至っていないからです。 |
「弛緩・しかん」は「うつ」と地続き |
このような「弛緩・しかん」とは一体、何を意味するのか?の究極の到達点を説明しているのが、吉本隆明の『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)の中の「他界論」です。「遠野物語」のエピソードをアレンジしてリライト、再構成してご紹介します。
- ある村に「ひいおばあちゃん」がいた。この「ひいおばあちゃん」がある日、死んだ。
- 「ひいおばあちゃん」が死んだので親戚の人たちが集まってお通夜をした。「長かったね」「介護は大変だったでしょ」と、祖母や妻をねぎらった。「ひいおばあちゃん」は、北向きの部屋で長い間、寝たきりだった。
- この家には、「ひいおばあちゃん」の娘がいた。もう中年の域の女性だ。少し気がおかしくなったという理由で離婚されて、生家に戻ってきていた。出戻りだった。生家に戻ってくると、気のおかしさは小康状態だったが、いつも一人で遠くの山々を見つめて、何かを話したり、くすくすと笑ったりしていた。
- そのお通夜の夜のことだ。
親戚の人たちは、お酒も飲んで座敷に寝ていた。祖母と妻は、起きている。「いろり」の両側に座ってパチパチとはぜる炭火を見ていた。
- すると、裏口でかすかな衣ずれの音がする。かさ、かさかさという音だ。深夜なので、小さな音もよく響いて聞こえる。祖母が凍りついた顔をする。妻が祖母の目の方向を見ると、死んだはずの「ひいおばあちゃん」が足音もなく歩いてくる。衣ずれの音だけが近づいてくる。
「あ、おばあちゃん?」と妻が声をかける。「ひいおばあちゃん」は上目づかいにじっと妻の顔をのぞきこむ。
- 「ひいおばあちゃん」は、衣物のすそを引きずって近づいてきた。いろりの側を通る。衣物のすそが「炭取りの箱」に触れた。
「炭取りの箱」は、生き物のようにくるくると回りはじめた。
「ひいおばあちゃん」は、祖母と妻の顔を横目づかいにじっと見ながら通りすぎる。親戚の人たちが寝ている座敷に行く。
寝ている人たちの顔に触れるばかりに近づいて、ひとりひとりのぞきこむ。
気の触れた娘が気づく。
「わっ、おばあちゃんが来たっ」と大声で叫んだ。
- 親戚の中に「知音」という男がいた。「二七日」の夜に、「ひいおばあちゃん」のお悔みを言い、回向(えこう)して帰ろうとした。
すると、家の門口の近くにある大きい石に腰を下ろしている老女がいる。知音は立ち止まる。老女は、ゆっくりふり返る。
その老女は、死んだはずの「ひいおばあちゃん」だった。
「おや、もうお帰りかい?ゆっくりしていけばいいのに」。「ひいおばあちゃん」は知音に語りかける。その声は、知音の頭の中に、その後しばらくくりかえし響きわたった。
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日本人が弛緩(しかん)をつくる根拠は「不適合」 |
■吉本隆明の説明
- 「人の死」というものは「共同幻想」である。この「共同幻想」は「他界」として語られる。この「遠野物語」のエピソードは、「他界」という「共同幻想」は、一体、どのように人々の頭の中に表象されるのか?についての説話である。
- エピソードの中には、「死んだ人間」が亡霊となって出てくる。なぜ亡霊になって出てくるのかといえば、日頃の人間関係の「不適合」が生きている人間の中に「禁制」や「黙契」の言葉として残っているからだ。亡霊は、生前、家族の中の一人一人や親戚の一人一人と、「言葉」の上の不適合があったことを示すものだ。その「不適合」とは、「辛く当る」「無視する」などだ。
あるいは、食事だけを与えて「遠くにいる存在のように扱う」ことだ。あるいはまた、「おはようと呼びかけているのに、返事をしない」「自分から優しく声をかけることをしない」といったことでもあるだろう。
- 「祖母」あるいは「曾祖母(ひいおばあちゃん)」というのは、「血縁関係の権威」のことだ。日本語(和語・やまとことば)の文法の思想にもとづけば「助詞」の『の』や『が』『へ』で示される対象だ。
しかし、日本人は「家の中」という「血縁のつくる非社会性」の中で「曾祖母」(そうそぼ)や「祖母」と関わると、日本語(和語・やまとことば)の文法の助詞の『は』や『を』『に』で表示させて「距離の無い関係」として扱う。ここで「痴呆状態」にある人間は、「身体は家族の一員だが、心や精神は遠くに存在する対象だ」という関わり方をする。
日本語の文法の『助詞』は、つねに「主観」をあらわすからだ。たとえば欧米語は、「行為をおこなうのは誰か?」が確定しなければ「動詞」も「助詞」も形が明確に定まらない。「客観性」を表現するメカニズムの体系を確立している。
しかし、日本語(和語・やまとことば)の助詞は、「話し手」(語り手)が、ものごとをどう見て、どう関わったか?を表現する。だから、多くの日本語は、欧米語のいう「主語」が省略される。
この『主語』を省略する文法のメカニズムは「みんながあなたのことを嫌っているよ」「みんなが、あなたを変な人だとウワサしているって、知ってた?」といった「人間関係の距離の無さ」を表象する。このメカニズムが「家の中」の人間への「侮蔑・ぶべつ」の言葉と行動を生成する。
- 家の中の異常な言動者を「遠い存在」として扱うということは、それ自体「心的な孤立」を意味する。「孤立」とは共に「生きられない」ことと同義だ。
「遠野物語」で人が死に、死んだ人間が亡霊になって出て来るというのは、生前の「利害」が生きている人間に表象されるという共同幻想を意味している。「共同幻想」とは、「敬意をもって親切にしてはいけない」といった「侮蔑」の「禁制」や「黙契」のことだ。いわば「日本語」との不適合のことだ。
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日本人の「他界」のメカニズム |
?人が死ぬときは『死の四つの行程』をたどる。
第一の行程…「死ぬこと」を拒否する。「あがき」「もがき」の段階。
第二の行程…苦痛が消える。「死ぬこと」を受け容れる。「うつ」の病理の「諦め」の段階。(注・社会的な意義をもつ行動が止まること)。
第三の行程…前・臨死体験。生きてきた人生が走馬灯のように見える。ここで人生の中で最も愛した人と出会い、語らい、感謝の交流が心的に体験される。
第四の行程…臨死体験。自己の死にゆく行程を第三者の目で見るように見る。
第五の行程…意識の消滅。停電で灯りが消えるように暗黒になる。
?死んだ人間が亡霊になって出てくるというのは、『死の四つの行程』の「第三の行程」の欠如という利害の不整合と「日本語への不適応」があったということだ。生きている人間はこの「孤立」を象徴する。それが亡霊だ。
ここで「他界」とは、「日本語との不適合」という意味の共同幻想のことだ。
「他界」という共同幻想は、まず、家族、妻、夫、などの血縁関係(対の関係性のこと)の不適合を表象するものとして浮上する。
血縁関係との不適応をつくる「不適合」である場合「他界」は、家の裏口、裏庭にせり出してくる。
「親戚」「恋人」「学校、仕事」などの中の人間との不適応をつくる「不適合」である場合は、家の表口、玄関、門の近くに「他界」は深遠の暗い口を広げてくる
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「家の外の人」との不適合がつくる「他界」の生成のしくみ |
『遠野物語』(「一一一」「二六八」の「他界」のエピソード)
- 今はおおいかくされているかもしれないが、どこの村にも必ず「デンデラ野」があった。この「デンデラ野」は歌になって、その所在が示されている。子どもたちが、誰から教わったというのでもないのにいつの間にか歌うのだ。
「♪デンデラレンの出らレンから、デンデラ流のデンデラから出て来てデンデラレン、出て来てデンデン♪」
といったものだ。
村に死人があると、どこからともなくこの「デンデラ野」の歌が聞こえてくる。予兆があるといわれている。
- デンデラ野は、男が死ぬか、女が死ぬかを予兆する。真夜中にもし、遠くから馬を引いて「デンデラレンの出られられん」という歌声が聞こえてくれば男が死ぬ。馬の首につけている鈴の音がちりーんと聞こえてくることもある。
女が死ぬときは、その女がふだんの生活の中で歌っていた歌声が聞こえてくる。それは野に咲いている草花の中から聞こえてきたり、すすり泣きが混じっていたり、時には、ひとり言で誰かとおしゃべりをしている楽しそうな声が聞こえてくる。
- こうして、夕方から夜がふけていく時刻にデンデラ野を誰が通るときは、「神を祭ることを仕事」にしている家の人は、「あ、こんどは、山田作太郎が死ぬんだな」と語る。
すると、間もなく「山田作太郎さんが亡くなりました」という知らせが来るといわれている。
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日本型の分裂病「人格崩壊」が生成する「他界」 |
■吉本隆明の説明
- 「デンデラ野」というのは「蓮台野(れんだい野。仏像の台座が蓮台)」と同じで、「老人が追放される異空間」のことだ。しかし、だからといって「老人」が全て捨てられたことのエピソードが語られているのではない。人は、年をとると、目、耳、口、手、指などの「五官覚の知覚神経」が麻痺(マヒ)して機能しなくなる。
ヘーゲルは、このような「老人を捨てる」という共同幻想をさして「子どもを産み、育てる」という共同の意思(ルール、きまりを合意して行動にあらわす主体のこと)との不適合が根拠にあると考えた。
だが、本当はそうではなくて、「五官覚の知覚神経が麻痺・マヒ」して、現実にたいして「自閉」と「離人症」が生起することをとらえて「他界」へと追いやるのだ。これは、いわば「人格崩壊」の現象と同じものだ。「主観」の表象の中だけに生きている。周囲の人間との意思疎通が出来なくなる。つまり、日本語(和語・やまとことば)の文法の「距離のないどんな助詞(『は』『に』『を』など)」とも「不適合」をあらわす。
『主語』を省略した説明や会話とも「不適合」になる。
これは「決定的な孤立」ともいうべきもので「うつ病」の典型というべきものだ。
「遠野物語」のエピソードの人々は、このような「人格崩壊」にある人を「死んだもの」と見なした。そういう扱いをした、というのが「デンデラ野」という「他界」(共同幻想)の共同表象だ。
- この「デンデラ野」という「他界」は、家の裏とか表玄関には存在しない。村の共同の地域にある。
このことは、「不適合」は、家の中だけではなくて、家の外の社会性の世界でも起こることを示している。恋愛、友人、仕事、学校の教育の場などの中で生起する「不適合」のことだ。その場、その空間の行動は「適応」している。しかし「日本語との不適合」はある。
このような人間が「人格崩壊」を招来する。この「人格崩壊」は「遠野物語」で「捨てられる老人」と同じように「うつ」(孤立)と同義である。
- 「デンデラ野」は、捨てられた老人らに表象する共同幻想ではない。
生きて生活している人間に、共通に表象する。「右脳の前頭葉」に思い浮ぶのだ。扁桃核や中隔核(大脳辺縁系)に「A6神経」がノルアドレナリンを分泌して「想起」させる。
どういうエピソード記憶が想起させるのか。
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日本人が使う「尊大語」のパターン |
国語学者・大野晋の説明にしたがえば、日本語を「尊大語」で話したり、書くという状況がそのエピソード記憶に当る。
◎尊大語(自分を相手に対して、高い位置にあるものとして扱うこと)
a.田中さんにお教えした→田中に教えた
b.田中さんにお聞きした→「田中に聞いた」「田中に尋ねた」
c.誰の字か調べましたか→誰の字か調べたか
d.誰の字かお調べになりましたか→誰の字かお調べになったか
このような「尊大語」は、子育てでは「子どもの成長や『発達』」の認識の欠落となり、WHOの「障害者の『発達』への支援」の適合の欠落となる。
このような「社会性の世界」の中での孤立が「デンデラ野」という「他界」の共同幻想を表象させる。 |
日本語の「文法」の構造の「自己中心」のしくみと対策 |
■分裂病は、ドイツの「H・ミュラー」のいうように「その時代と社会の中で最も高い知性の概念との不適合」が根拠と理由になってつくられます。具体例と対策を、鈴木孝夫の『ことばと文化』(岩波新書)からご紹介します。
- ごく簡単な例として英語のbreakという動詞を考えてみる。
Who broke the window?
(窓ガラスを割ったのは誰ですか?)
He broke his leg.
(彼は足を折った)
という例文からbreakは「割る」とか「折る」という意味なんだなと中学生が思いこむ。
そこで、
「昨日、大きなスイカを包丁で二つに割って、それから八つに切った」
というようなことを
I broke a big water melon two with a nife and…
と正しく書いたつもりになる。
先生は「breakではなくてcutを使いなさい」と直される。
「でも先生、breakは割るじゃないですか?」と言ったとすれば「それは、時と場合によるので、馬鹿の一つ覚えみたいなことはダメだよ」と言われる。
- こんどは「脚を折った」から応用して「折り紙」「折り目」にbreakを使うと、これも間違いでfoldと言え、と教えられる。
- 次に「電気を切る機械はブレーカーといい、家のヒューズ・ボックスの中にある」ということを理科の時間に習って、「breakは切る」とも使えるのだなと思い、英語の時間に「クギに服をひっかけて切ってしまった」というつもりでI break my coat…と言いかけると先生は「tearと言え」と言う。
「先生、英語はめちゃくちゃですね。理屈も何もありゃしない」と先生に言えば「言葉は、数学と違って理屈だけではダメです。状況も考えて、注意深く、適切な言い方を考えなければ」というようなことを言う。
- どうしてこういうことになるのかというと、言葉の意味や使い方には構造があるからだ。それが、言語によって異なっているという認識が教える側に欠けているからだ。
- 構造と無関係に「ある特定の場合」だけに適応する「項目」対「項目」の対照に終始しているのが「外国語教授法」(ここではこう訳すとよい式)であり、その典型がじつは「辞典」だ。
- breakの項ならば、「こわす」「おる」「やぶる」「きる」という方式で対応する適当な日本語の動詞がつづく。これは、対応が可能な場合の説明だ。同時に、「対応しない場合」も示す必要がある。「不適応の一般化」が起こる。
- 日本語も英語も、その言葉を含む言語の中で「他の言葉」とくに、それと「近縁類似のことば」と密接な「相互対立関係」に立っている。そこでこの関係を構造的に(つまり推移律によって)把握しなければならない。
- ある外国語の単語の使用法が自国語の特定のどれかのことばと「ある場合に一致する」からといって、自国語のその単語の「他の使い方」まで、これがあてはまると思ってはならない、ということだ。
- 日本語の「のむ」(飲む、呑む、喫むなど)…行為の対象は「水」「酒」「茶」「コーヒー」などの液体。
日本語では「薬」「タバコ」も「のむ」という。(液体、固体、気体のどれも「のむ」)。
英語の「のむ」…drink(水、茶、コーヒー、酒)(液体に限るが、水薬はtakeという。
つまり「人の体を維持することに役立つ液体を体内に取り入れるときはdrinkを用いる」。
日本語は「何ものかを口を通して噛まずに体内に取り入れること」が「のむ」だ。(「ごはんを噛まずにのみなさい」など)。
- breakは「何かしらの外力を、急に加えることで物体が二つ以上の部分に分れること」…「木の枝を折る」「ガラスをこわす」「電流を切る」など。
cut…するどい刃物などの道具で生じる分割にのみ使うという構造をもつ。
fold…「紙を折る」(二つに分かれない)
bend…針金を「くの字」に折る、膝を折る(二つに分かれることを意図しない)
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言語の表現は、状況に見合う「名詞」と「動詞」の表現力が不適合を防ぐ |
■ここでは、名詞にしろ動詞にせよ、状況や主体の関わりの目的、意図によって「言葉」をそれじたいが変化する(構造をもつ)ということがのべられています。日本人は、日本語の文法の助詞(『は』『が』『に』『へ』『を』)がものごとの見方を左右します。大野晋は、当事者が「そのものをどう見たか?」をあらわす、とのべています。
これは、「仕事」「学校の勉強」などの限られた範囲で「文章」を書くと「他界」をつくる禁制と黙契の共同幻想を招く『主語』を省略する「自分と近い位置関係にある」対象をいつの間にか前提にするということです。
これが、分裂病の「第三期の人格崩壊イコールうつ病」(行動停止)の原因です。
対策としては、つねに「推移律」をふくむ文章の訓練が必要です。次の学習モデルのとおりに日々、トレーニングをおこない「分裂病への移行」を防ぎましょう。 |
分裂病の「適合不全」を防ぐ知性の学習モデル |
(注 A=B、B=C、故にA=Cという推移律(因果律)の学習モデルです)
■エクササイズ
◎事例・I
A・一文惜しみの百知らず
(行動の仕方とその言葉に相当する。メタファーである。以下同じ)。
B・意味
わずかの出費を惜しんだがために、のちに大きな損失を招くこと。また、目先の楽しみにとらわれて、自分の将来を見通せない愚かさをいうたとえ。「一文を惜しんだことが、じつは、それが百文の損を招くことに全く気づいていない」の意が由来。
C・設問
分裂病の原因の「不適合」は日々、客観的な文章を書きつけることが、日本にとって唯一の有効対策です。
「一文惜しみの百知らず」の用例として適切なものはどれでしょうか?
用例
- 収入が激減したことを理由に、子どもがそれまで通っていた学習塾を辞めさせること。
- 収入が大幅に減ったから、憂うつさをまぎらわせるために娯楽、趣味の時間を増やすこと。
- 収入が減っていくかもしれないので、論理学や体系学の学習を増やすこと。
(正解…1,2です)
◎事例・II
A・濡れぬ先こそ露をも厭え(ぬれぬ先こそつゆをもいとえ)
B・意味
小さな過(あやま)ちを恐れていた者が、いったんつまづくと、大きなトラブルを平気で引き起こす、という意。
濡(ぬ)れないうちは、草の露にも注意するが、いったん濡れると平気になっていくら濡れてもかまわない、という無感覚さをのべている。
C・設問
用例として適切なものはどれでしょうか?
用例
- 「毒を食らわば皿まで」と、学校をたてつづけに一ヵ月も休んだ。
- テレビゲームにはまっている人をバカにしていたが、自分もやってみると、止められなくなった。
- 毎日、家で必ず勉強の時間をとっていたが、辛くなって止めてしまった。
(正解…1,2です)
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