「日本型アスペルガー症候群」の理解の仕方 |
前回の本ゼミでは、茂木俊彦(東京都立大学教授・総長)の書いた『障害児教育を考える』(岩波新書)から、WHO(世界保健機関)が提起したICF(国際生活機能分類—国際障害機能分類)をご紹介しました。
このICF(国際生活機能分類—国際障害機能分類)は、国連会議で、満場一致で採択されています。そして20ヵ国の批准を目ざして、世界の各国は「障害児教育の支援」のための「環境整備」に向けて活動しています。日本も、2007年4月より、「特別支援教育」に移行して、「支援」という概念に包括される「教育」「教え方の開発」「教材の工夫」に取り組んでいます。
ICFについて、茂木俊彦の説明するところの要点を、ここでもういちど整理してまとめると、次のとおりです。 |
「病理」は「障害」と位置づけられた |
- 1960年代の後半から、国連をはじめとする国際的な機関や会議で、「障害者の権利」について包括的に審議されて、合意がすすみ、文書化されて各国に発信されはじめた。
- 1975年。「障害者の権利に関する宣言」が国連総会で決議された。
- 1981年には「国際障害者年」が設定された。1983年から1992年は「国連・障害者の10年」という国際的な共同行動が取り組まれた。
- 2006年12月13日。国連総会は、「障害者権利条約」(障害のある人の権利に関する条約)を採択した。
2007年10月現在、7ヵ国が批准した。(20ヵ国の批准で国際条約として発効され拘束力をもつ)。
- 1994年。日本は、「子どもの権利条約」を批准している。2007年4月。日本は、それまでの「障害児教育」を「特殊教育」としていたものから、「特別支援教育」に移行した。
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「障害」とは「ニーズ」の対象のことである |
■茂木俊彦の説明にもとづくと、ここでまとめたことには、いくつかの解説が必要です。
WHOは、「支援」とか「特別」といった概念をかなりこまかく定義しているからです。
「特別支援」というのは、「障害」を「ニーズである」と位置付けています。お世話しましょうとか、面倒を見ましょう、という意味ではなくて、「支援」というものは「権利」の一つなので、「不利益」や「社会的不利を取り除く」という意味です。取り除くのは、国、ないし社会の義務である、という積極的な意味が「決議されている」ということです。
この「支援」を広く、大きな概念としてまとめる言葉が「環境整備」という概念です。
「環境整備」とは、次のようなものです。
- 道路や建造物のバリアフリー化
- 屋内、屋外の「移動時の手助け」
- 「手話通訳」をはじめとするコミュニケーションの支援
- 教材の作成、教授法の工夫、教育法の開発、など、です
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「ニーズ」とは、「欠如している発達」の理解のことである |
注目される点は、「障害」という概念です。「病気モデル」では、「治す」「治らない」というカテゴリーでとらえられていました。これが「病気モデル」に加えて「社会モデル」でとらえられています。
すると、「障害」は、子どものケースでは「健常児」がモデルになります。「健常児」のもつ身体の「機能」と比べると「活動に制限をもたらすものが障害である」という理解の仕方になります。また「健常児」がおこなうことの可能な「社会的な場面、状況」への「参加の制約をもたらすのが障害である」という理解の仕方が求められています。
茂木俊彦は、具体的な事例をあげています。
① 福島智(さとし)さんは、40歳代の中半の男性だ。9歳の時に失明した。18歳で完全に聴力を失った。「盲ろう者」である。職業は、東京大学先端科学研究センター准教授だ。
② 福島さんが聴力を失ったのは18歳だから「音声言語」は身につけている。相手に話しかけることはできる。しかし他者の言葉を聴き取ることはできない。通訳者なしのコミュニケーションは全く成立しない。
③ 福島さんが他の人と会話する時はどうしているのか。彼と母親が、互いの意思を通じ合わそうとして見つけ出したコミュニケーションの方法がある。「指点字」だ。盲ろう者の左右の人さし指から薬指までの計6本を、点字タイプライターの「六つのキー」に見立てて、盲ろう者の「指の背中」を軽く叩くことで言葉を伝えるというのが「指点字」だ。「指点字」を打つのは、会話の相手、または通訳者である。福島さんは、「音声言語」で応答する。
④ 狭義のコミュニケーションは「指点字」で、一応は成立する。しかし、彼はそれだけでは満足しない。福島さんは、こうのべる。
- 「ろう」の状態とは、たとえばテレビの画面だけ見えてスピーカーの音が聞こえないという状態だ。テレビの画面が全く見えないのが「盲」の人の状態だ。
では、「盲ろう者」の世界はどうか。それは、テレビの画面と音声の機能が両方とも消えてしまい、「心のテレビ」のコンセントが抜けてしまっている状態である。
- 「状況説明」ということがある。
大勢の人の参加する会議もあるし、いわゆる雑談もある。また街中を移行しながら会話することもある。さまざまな状況で、その状況がどうなっているのかを知り、自分の置かれた位置も見定めながら活動するためのコミュニケーションが「状況説明」(状況通訳)である。
- 周りの人が何もしゃべっていないので通訳することがない、というようなことはありえない。そういう時は、まず、誰もしゃべっていないということ自体を伝えるべきである。次に、その他の情報(視覚的情報、聴覚的な情報のいずれでもよい)を、伝えるべきである。「どんな情報も無い」という状態は、およそ考えられない。そこにいる人たちの様子(姿勢、態度、表情、服装)でもよいし、部屋の中にある物の状態や戸外の音、ラジオ、テレビの内容、といくらでも伝えるべき情報は存在するのである。
(『盲ろう者とノーマライゼーション』明石書店、1997年)。
注・ノーマライゼーション…デンマークの「バンク=ミケルセン」が提唱した。スウェーデンの「ベングト・ニリエ」が世界に広めた。
「ノーマル」が語源。障害者を排除、隔離するのではなくて、障害をもつ人と健常者とで均等に、当り前に生活できる社会こそが「ノーマルな社会だ」という考え方である。障害者の「意思を尊重する」ことを前面に出して、障害者のこうむる「不自由」「参加の制約」を緩和する、というものだ。
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「活動」とは心身機能の発達の能力のことである |
■ここで茂木俊彦がのべているのは「人間の心身の発達」ということです。WHOのいう「活動」という概念の内容に当ります。「発達」とは、どういうものでしょうか。
すでにご説明してきている『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(無藤隆・講談社現代新書)から、もういちど要点を確認してみます。
① 胎児の状態でも、子どもはまわりの環境からさまざまな情報を受け取ることができることは今やはっきりしている。現在の産科では、超音波で胎児の様子を妊婦に見せるのがふつうである。
② 胎児は、妊娠の後期には「聴覚器官」が相当に発達している。まわりの音、とりわけ母親の声を聞きとることができる。
③ 胎内においては、胎児はとくに聴覚が早くから機能している。「内耳」の感覚器は、「五ヵ月目」に出来上がっている。脳幹に至る聴覚経路の神経の髄鞘(ずいしょう)化は、「九ヵ月の中半」には完成している。髄鞘(ずいしょう)化が出来ていれば、脳の神経系が活動していると見なされている。
④ 新生児(誕生後、最初の一ヵ月間)はさまざまな能力をもっている。過去30年間の多くの実験で明らかになっている。フランスの認知科学・言語心理学研究所のメレールは、新生児が「言語音にたいする感受性がある」ことを示した。
「新生児は、言語音と、そうではない音を明瞭に区別する」「新生児は、言語に特有の音の響きを敏感にとらえる」「新生児は、自分が胎内にいて、また、生まれてからの数日間に耳にした言語への音声的な学習をおこなっている」、などだ。
⑤ 新生児は、「模倣行動」をおこなう。このことは、アメリカ・ワシントン大学のメルツォフが一連の研究の中で明らかにしている。
成人のモデルが「口を突き出すこと」「口を開くこと」「舌を突き出すこと」「手の指の運動」の四つを示す。新生児は、これらの四つの動きの全ての模倣が可能であることを示した。
⑥ 「生後五週の子ども」と「生後八週の子ども」の模倣行動の実験がある。金沢大学の池上貴美子によるものだ。
- 子どもに、成人した大人がいくつかの行動を示す。
「口の開け閉め」「舌の出し入れ」などだ。子どもは、統計的に意味のある「模倣」を示した。
- 生後一ヵ月、四ヵ月の子どもは、「人間の目」に注目し、次に、「口と舌」を注視する、「人間の顔」にたいして反応する、ということが明らかにされている。
⑦ 生後一ヵ月から二ヵ月は、人間の「顔」からの情報を得て積極的な学習をおこなっている。「目を開けている」という「高度覚醒期」の状態が30分、80分、131分と長くなるにつれて、生活環境への変化に対応している。
「母親と目が合う」「泣くことで母親との対応関係をつくる」「人の顔を見分ける」「人の声を聞き分ける」などだ。
⑧ 新生児は「生理的微笑」をおこなう。次に、「誘発的微笑」をあらわす。生後二ヵ月になると「自発的に微笑するという社会的微笑」をあらわす。初めの五週間は「人の声にたいして反応する微笑」が中心となり、六週をすぎると「黙ってうなづく人の顔に反応する微笑」へと移行する。 |
右脳系の「認知」が長期記憶されつづけることが「発達」 |
■ここでご紹介している「胎児」「新生児」「乳児」の発達とは、「五官覚」を中心にした「脳」への「認知」と「認識」の長期記憶の進行のことです。
このように観察される子どもの「行動」は、全て、「メタ言語」としての内容であると理解することが重要です。動物一般の「知覚」と、人間の五官覚による知覚の違いは、「メタ言語」であるか、どうかに決定的な違いがあります。
「発達」という観点から「胎児」「新生児」「乳児」の成長をとらえると、「模倣」をはじめとする「見ること」「聞くこと」は、「行動」という概念で定義されます。「行動」には必ず「言葉」が対応しています。胎児や新生児、乳児にはまだ「記号性」によって確立された言語(言葉)の記憶はないので、「メタ言語」の記憶が進行していると理解することが重要です。そして、この「メタ言語」のしくみの理解が「障害」の内容の正確な理解の仕方になるのです。ここのところをまとめると次のとおりです。
- 生理的身体の成長が「暦年齢」に従って進むことが、メタ言語を象徴する「行動」の発達を意味する。(見る、聞く、触る、などの運動の機能の発達と能力のことです)。
- 「暦年齢」の進行にしたがって身体の機能が発達すると、その「機能自体」の発達として「メタ言語」も発達する。
- 「障害」とは、「身体機能」(五官覚のことです)の発達の停滞か、もしくは身体機能の発達に対応している「メタ言語」の発達の停滞のどちらかのことである。(母親が子どもに言葉がけをおこなわなかったので、人見知りをするとか、社会的微笑をあらわせずに無表情の子どもになった、など)。
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遠山啓のとらえる「人間の発達の水準」の理解の仕方 |
このような「発達の停滞」について遠山啓は、『数学入門』(岩波新書)の中で次のように書いています。
① 人間以外の動物は、果して数(かず)を知っているか?という疑問がある。経済学者のアダム・スミスが言ったように、「数(かず)は、人間精神のつくり出したもっとも抽象的な観念である」からだ。
② もっとも、「鳥も数を知っている」と主張する人がいる。たとえば、ホトトギスはウグイスの巣に自分の卵をこっそり入れておいて、ウグイスに卵を暖めさせるが、この時、自分の卵と同じ数のウグイスの卵を除けておくそうである。
③ 鳥がどの程度まで数(かぞ)えられるか?を実験したのは、ドイツの動物学者O・ケーラーである。
- カラスとオウムを広い庭の中に入れておく。小鳥と実験者が互いに見られないようにする。小鳥の動作を自動的に撮影する。
- 小鳥の前に5つの箱を置く。箱のふたには、印(しるし)の点が描いてある。
その数(かず)は、2,3,4,5,6である。また、箱の前にもいくつかの印(しるし)を描いたふたを置く。そのふたの印(しるし)と同じ数の箱を選び出す練習をあらかじめやらせておく。
- 練習をした後、鳥に、同じ数を選び出す実験をやらせた。鳥は見事に成功した。
しかも、5つの箱の並べ方をさまざまに変えても、また、印(しるし)の描き方を変えても、鳥は失敗しなかった。この実験は、「同時的に点の個数を認めさせる」という実験である。
O・ケーラーは、次に、時間的に順々に数(かぞ)える実験を試みた。小鳥に、たくさんの数(かず)のエサの中から「特定の数」たとえば「5つ」だけをとって食べる、という実験である。
この実験も成功した。
④ この実験をとおして「鳥は数を知っている」と断定するのは少し早すぎる。なぜならば、「数を知っている」と言いうるにはいくつかの条件が必要になるからだ。 |
「一対一の対応」 |
⑤ イギリスの数理哲学者バートランド・ラッセルは「2日の2と、2匹のキジの2とが、同じ2であることに気づくまでには限りない年月が必要だった」と言っている。
⑥ 豊臣秀吉は、ある山の木を数えるのに、一本一本に縄のきれを結びつけさせた。あとでその縄を集めて数えたという。これは「木の集合」を「一対一対応」という手続きで、「縄切れの集合」に移し変えて数えたわけである。
⑦ スイスの心理学者ピアジェは次のような実験をおこなった。
「5歳8ヵ月」の子どもに、「いくつかの花ビンと花」を与えた。「花ビン」の一つ一つに花を一本ずつ入れて立たせる。次に、花を取って束ねる。「花ビンと花は、どちらが多いか?」と尋ねる。子どもは「花ビンが多い」と答える。花は、束ねたので「少なく見えた」からだ。人間の子どもですら、幼い頃には「数が一対一対応で不変である」ことが分からないとしたら、鳥でも犬でもミツバチでもなおさらである。 |
「分割」と数の不変性 |
⑧ 「分割しても、合併してもオハジキの総数は変わらない」ことが分かりはじめるのは「6歳」から「7歳」ごろからだという。「数が分かること」の第三の条件は「数を数(かぞ)える順序を変えても数は変わらない」ということだ。
「7人の家族の人数」を年の順に祖父、祖母、父、母…と数えても「7」であるし、反対に、末子から数えても同じ「7」である。
数は、数える順序をどのように変えても「同じ」である。このことを年齢の幼い子どもは知らないという。
⑨ 数(かず)が「一対一対応」「分割」「順序変更」などにたいして「不変である」ことが確かめられた時「数を知ったことになる」。この時は、「数の言葉」を知る必要はないともいえる。
幼児でも、機械的に100までとか1000まで数えられるからといってそれだけで「数の数え方」をはっきりつかんでいるとはいえないのである。 |
「数」(かず)は「推移律」の能力のこと |
⑩ 一般的に、文明の程度の低い種族ほど「小さい数の数詞」しかもっていないのが普通である。
- 南米ボリビアのチキト族は「1」に当る「エタマ」という数詞しか持っていない。「エタマ」というただ一つの数詞だけで用の足せる生活は、おそろしく簡素なものにちがいない。
- アマゾン河流域のヤンコ族は、「2」を「ポエタラロリンコアロアクア」という長たらしい数詞で呼んでいる。「2」という数をあまり使う機会がないのかもしれない。
- 未開人といっても生活程度が少し向上してくると数詞の数が増えてくる。
「英領ニューギニア」の「ビュギライ族」の例。
1…タランジェサ
2…メタ・キチ
3…ギジメタ
4…トペン
5…マンダ
6…ガベン
7…トランクジンベ
8…ボディ
9…ンガマ
10…ダラ
これは、人間の身体の各部位の名であるという。人間の身体に関連されて数(かず)を憶えることは、人間がおこなってきた方法である。
- ここから「一定の数」だけ「一束にまとめて名称をつける」という方法が考えつかれた。最初にあらわれたのは「二つずつを束にする方法」だ。「2進法」の萌芽である。その原産地は一番遅れた未開の状態にあるオーストラリア大陸である。
オーストラリアのポート・マッケー地方の方言はこうだ。
1…ワルプル
2…ブーレラ
3…ブーレラ・ワルプル
「3」を「ブーレラ・ワルプル」(2+1)というのだから「2」が「一束」になっていることが分かる。「束にして数える」という数え方が数学の歴史の始まりである。
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推移律の理解のスタートは「3歳児」 |
■遠山啓は、数(かず)の「認知」と「認識」の能力は、「暦年齢」でいう身体機能と知覚の機能の「発達」に見合っている、ということを説明しています。
「教える」という「教育」が無ければ、「バートランド・ラッセル」のいうように、「一対一対応」という数(かず)の本質すらにも気がつかないということです。ポルソナーレの「幼児教育の現場の経験」では、「3歳児」から「一対一対応」による「数」(かず)の教育が可能です。このことは、「3歳児」は「ルール」「きまり」「約束」という社会性の能力を習得する「発達」の位置にあるということです。もし、「一対一対応」という「推移律」(因果律)を教えなければ「2」を「ポエタラロリンコアロアクア」としか言えない、つまり「おそろしく簡単な生活の水準」にとどまって、未開の心性を抱えて生きていくことになるでしょう。これが現代の「心身の障害」のモデルです。 |
障害とは「発達」の欠落のこと |
WHO(世界保健機関)のいう「ICF」(国際生活機能分類—国際障害機能分類)の中の「障害」とは、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動症)から始まって子どもの「高機能自閉症」(アスペルガー症候群)までの「知能」に問題はないはずなのに「障害」があるという事実をさしています。
「学校」「職場」「ふだんの人間関係」(恋人関係、結婚関係、親子関係、友人関係、公共の場面での見知らぬ人との関係)の中の「話し言葉」、「書き言葉」にたいして「行動が止まる」「活動が止まる」という「行動停止」が「障害」です。
これは、「発達が止まっている」という「障害」です。その原因は、子どもの成長は成り行きにまかせる、人まかせにする、教えるということに恐怖して放置する、ということのいずれかによる「発達の停滞」か「発達の停止」にあります。
茂木俊彦は『障害児教育を考える』(岩波新書)の中で「ADHD」の子どもの教育の現場の「行動」と「活動」について次のように紹介しています。
① 直行は軽いADHD(注意欠陥多動性障害)の疑いがある子どもだった。
小学5年生の男の子だ。
体育館でブランコを友だちと取り合う。乗れないとなると自分の胸の名札をひきちぎって体育館を飛び出していく。彼の服は、安全ピンのひっかかりでいつも虫食いのような穴がある。
② ある日。ブランコ取りに敗れて今にも名札をひきちぎって外に飛び出そうとしていた。
「どうするの?名札をちぎるの?」と声をかける。
ハッと我にかえった彼は、うーんとうつむいて手に力を入れてがまんしている。
突然、シャツを脱ぎ床に叩きつける。(ちぎると叱られる。だがくやしい。くやしいのはガマンできない…)。彼なりの選択だった。苦肉の選択だ。
③ 彼は、物作りに熱中していた。
空箱、トイレットペーパーの芯を使って飛行機を作っている。
だが、なかなかうまくいかない。しだいにガマンの限度に近づいていく様子だ。彼はポツリとつぶやく。
「まっ、いいか」。
ああ、彼は今、「物作り」と「自分」との間に「折り合い」をつけているんだ、と胸が熱くなる。
④ すぐにキレる直行。そんな彼だから「思い通りにならない」時でも「折り合い」をつけられる子になってほしい。それは、私の彼への人格形成という発達の道を歩いてほしいという心の願いです。
(「愛知県ろう学校の教師、竹沢清さん」の手記より)。 |
メタ言語の原型は、視覚で記憶された「形象像」というイメージスキーマ |
■「発達」とは何のことでしょうか。
瀬戸賢一の『メタファー思考』(講談社現代新書)によれば、「メタ言語」の認知と、これを「メタファー」として長期記憶することです。 |
行動のメタ言語とメタファー |
…立つ(「安心する」「安定する」)
…進む(「生きている」「楽しい」)
…戻る(「安全を手に入れる」「休む」)
…止まる(「欲しいものを手に入れる」「自分を取り戻す」)
…休む(「エネルギーを入れる」「しっかり考える」「避ける」) |
行動の仕方のメタ言語とメタファー |
…歩く(「成長する」「自信がある」)
…走る(「目的に向かう」「目標に向かって進む」)
…はう(「努力する」「ゆっくり進む」)
…ころがる(「急ぐ」「速く動く」)
…飛ぶ(「スピードで進む」「速い」)
…泳ぐ(「困難の中を進む」「安全に進む」) |
人間の発達とは「メタファー」の長期記憶のこと |
■ここに示している図は、瀬戸賢一による「メタファー」の原型の形象像です。「認知の対象のベクトル」です。そして、図の下に示している言葉は「メタファー」です。「メタファー」とは、「ある状況」「ある場面」という「カテゴリー」の中の「行動」と「行動パターン」のことです。
人間は、このような「メタ言語」と「メタファー」(つまり言語以前の「行動」と「行動の仕方」の「認知」と「認識」)が長期記憶されていないと「行動」や「活動」が止まります。この「メタ言語」(瀬戸賢一の示す図)と「メタファー」 |
障害のモデルは、「推移律」の欠落、即ち「発達の脱落」のこと |
LD、ADHD、そして高機能自閉(アスペルガー症候群)の子どもは、このような「行動」と「活動」(つまり社会性の場面に主体的に参加して自分の意思を表象すること)のための「発達」が体験されていないことが原因と根拠にあって「障害」がつくられています。
脳の働き方のソフトウェアのメカニズムに即していうと「ブローカー言語野」の「Y経路の対象」の「カテゴリー」と「ベクトル」の「メタ言語」と「メタファー」が長期記憶されていないという「発達」の欠落が背景にあります。「Y経路の対象」とは遠山啓のいうところにしたがえば「一対一対応」や「数の分割」や「数を数(かぞ)える順序を変えても数(かず)の総数は不変」という「推移律」(因果律)のことです。これは必ずしも「数」(かず)だけのことではなく、「全体はどうなっているか?」「全体を構成する部分の要素は何か?」という「三次元の空間」を分かる「抽象的な観念」のことを意味しています。「バートランド・ラッセル」が「非常に高度な抽象の観念」とのべているのはこのことを指しています。
LD、ADHD、アスペルガー症候群(高機能自閉)の子どもが「推移律」(因果律)という「年齢に見合う発達」(数の一対一対応は3歳児から教育が可能)が欠落しているということは、当然、その親(母親と父親の両方)にも「発達」ということの理解が欠落していることを意味しています。 |
障害という行動停止の根拠 |
「発達」ということを欠落させて「子どもにかかわる」と、その子どもは例外なくLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、「アスペルガー症候群」(高機能自閉)に陥ることは、遠山啓がのべる「未開人の数の認識の水準」に見るとおりです。
問題は、「数」(かず)の学習だけのことではないことはよくお分りのとおりです。
「数」の「2」を「ポエタラロリンコアロアクア」という数称で言いあらわしている「ヤンコ族」は「3」という言葉を聞くと「何のことか?」と「行動停止」に陥るでしょう。
「4」「5」「6」…という言葉がスピードで展開される状況に立つと「多動症」に陥るでしょう。また「10」とか「20」という「単位」「位」(くらい)で抽象的に語られる言葉の中では、全くの自閉に陥り、じっとガマンして立ちすくむしかありません。それが「成人した大人」の「アスペルガー症候群」です。「多動症」の子どもは、精神活動にともなう「無呼吸状態の心拍の低下」の恐怖に耐えきれずに「シャツを脱いで床に叩きつける」ことで「肺の中の息を吐く」のです。「大人」の場合は、子どもと比べると腹筋の力もあるので、「無呼吸状態」をガマンしてひたすら耐えて「多動性」を抑制しているにすぎません。
WHOは、『愛着』の中で「発達」ということを欠落させている人が全世界に広がっていることをとらえて「支援」ということを打ち出しているのです。そして茂木俊彦は、日本人の中の「行動停止」と「活動停止」の障害の子どもがすでに68万人とも72万人ともカウントされていて、なおも拡大していることに日本人の真の危機があることを警告しているといえましょう。 |