「分裂病」の本質と定義 |
今回から「分裂病」についてご一緒に考えます。なぜ「分裂病」をとり上げるのか?といいますと、「分裂病」は、その時代、その社会、その国の最も高い知性の言葉が曖昧であったり、曖昧にしか憶えていないことを根拠にして発生する病理だからです。人間は、社会性の世界から孤立しては生きられない、ということは、どんな心や精神の病理にもあてはまる原則です。人間の心や精神の病理は、「うつ病」と「分裂病」の二つです。「分裂病」は、「言葉」の病気です。「うつ病」は、「秩序」の病気です。
「秩序」は「言葉」によってつくられて合意されます。また、「言葉」は、「カテゴリー」という概念が示すように、抽象性の水準と高さをもっています。この「抽象性」の水準と高さを決めるのが「言葉のもつ秩序」です。「うつ病」と「分裂病」は、メタルの表と裏のように、相互性をもって一体になっています。
日本人にとって今、最も高度な知性の言葉は、「マトリックス」という概念と「パラダイム」という概念の二つです。日本人は、この二つの「言葉」からはるか遠くに遠ざかり、つねに「分裂病」を抱えこんで生きてきています。「分裂病」には無数の病理症状があります。
その病理症状のために、社会性場面と、非社会性の場面の両方で「自閉」して「逃避のための妄想」が鮮度とリアリティをなくした時に「行動」が止まり、ここで「うつ病」が優勢となって「自殺する」ということが起こります。 |
日本人の「不適合」と「離人症」 |
日本人にとって「マトリックス」とは、何のことでしょうか。対人関係の「距離」のことです。
鈴木孝夫は、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)の中で、日本人が英会話を習う動機は、「外国語がしゃべれたらどんなにいいか」「外国語のよくできる人が羨(うらや)ましい」など度の過ぎた強い憧れにもとづく、と指摘しています。その結果、「いつまでも英語なら英語習得から抜け出せない」「何年たっても会話というものが出来ない」と書いています。
これは「人間関係のマトリックス」が観念の中で正しい言葉で完成されていなくて、「自閉」していると定義されます。そして「英会話」の勉強中は、「自閉」している「現実」にたいして「離人症」が発生します。それは、ちょうど、「電車」の中で多くの人々が「ケータイ」を取り出して、顔に近づけて小さなディスプレーをいつまでもじっと注視しつづける、ということから生じる「離人症」と共通しています。なぜ、「離人症が発生している」と断定できるのでしょうか。駅のエスカレーターやコンコースでは、「通行」の阻害を招いていることに気づいていないからです。電車の中では、近辺の周囲の人に「この人のケータイに身体が接触するのではないか」と気を遣わせます。すると、脳の働き方をこれらの事実にもとづいて想像すると、「A9神経」を中心に、大脳辺縁系の中でドーパミンが分泌していることが推察されます。もし、「A10神経」から「前頭葉」にドーパミンが分泌しているのではないか?と思う人がいれば、「歩きながら」ということはありえないと理解すべきです。「行動しながら分泌するドーパミン」は、「A9神経」による「大脳辺縁系の中の中枢神経」が分泌すると決まっています。スポーツ、音楽、絵画、性、食べること・飲むこと、そして「美化の妄想」「白日夢」「痴呆症をともなう妄想世界の安住」が該当します。 |
日本人の「自閉」のメカニズム |
日本人にとっての「パラダイム」とは何でしょうか。
「人権」「主体意思」「自由」「人間的な意志」であるでしょう。『共同幻想論』を書いた吉本隆明の言葉を援用すると「自立」ということです。日本人は、「自立」を「自活」とか「独立」とかいう言葉と取り違えています。大野晋(国語学者)は、『日本語の教室』(岩波新書)の中で、次のように書いています。
日本語(和語・やまとことば)の「文法」の助詞「へ」と「に」の意味と使い方について。
用例・1
「東京へ行く」
「東京に行く」
用例・2
「家に帰りて」
「韓国(からくに)へ渡る」
「比良の港に漕(こ)ぎて行かむ」
「寄する波、辺に来寄らば」
意味
?「に」は、結果として確かな位置に止まって、動かないこと。帰着点を示す。
?「へ」は、遠い所に向かって移動する動作と方向性を示す。
ここにあるのは、日本語の文法のメカニズムです。遠いか、近いかの位置や空間性の場所を「区別する」という対人意識が原型になっています。「人間」を主体性を表象する「意思」をもつ存在とは見なしていないというメカニズムが「文法の助詞」となって秩序づけられています。「意思をもつ主体」どうしが社会秩序の「言葉」を合意して、その合意した言葉のとおりに行動する、というのが「自立」ということです。
現代の日本人は、日本語(和語・やまとことば)の「文法」のもつ「秩序性」を習慣的に暗記して「意味」を「曖昧」に理解しています。これが「分裂病」の始まりであり、起源です。
「分裂病」ということを考えてきたのは精神医学です。
精神医学は、「分裂病」のあらわす病理症状を次のようにとらえてきました。 |
分裂病の定義 |
?精神分裂病を、初めて学的に知的対象としたのは、「E・クレペリン」である。
クレペリンは、それまでの不可解な人格崩壊の病理現象を「早発性痴呆」と定義した。
E・クレペリンは、この「早発性痴呆」というテーマで観察した病理像によって「近代精神医学の祖」と呼ばれている。
?精神分裂病という呼び方を与えたのは「E・ブロイラー」である。(1911年。スイスの精神医学者)。
E・ブロイラーは、「精神分裂病」の特性を「自閉」であると概念化した。
?第二次大戦後の1950年代に入って、分裂病者の「内的世界」を正確に理解していこうとする学的トレンドが起こった。
「L・ビンスワンガー」(ドイツ)らによる精神分裂病者の分析が中心となる。 |
人間は、分裂病で自分の危機を表象する |
?60年以降、精神分裂病へのアプローチの仕方は、L・ビンスワンガーの影響を受けて変化した。
「なぜ発病するか?…発病状況論」
「個人のどういうことが精神分裂病をつくるのか?…精神力動論」
「地域医療として精神分裂病をどう支援するか?…社会精神医学」などである。
精神分裂病の核心に迫るアプローチを切りひらいたのは「比較精神医学」である。
「分裂病は、時代や社会の文化によってその病態と症状が規定される」というものだ。
?分裂病の考察は、「妄想主題」に移った。分裂病者が思い浮べている「内的生活の比較的、あるいは絶対優位をともなうところの現実離脱」(E・ブロイラー)という「病的世界」とはどういうものか?に学的な関心が向けられた。
これは、「L・ビンスワンガー」「C・クーレンカンプ」「M・ボス」「J・ツット」らによる「妄想とは、分裂病という疾患に付随する単なる一症状ではなく、社会と時代の中で危機的状況におかれた人間の、一つの意味のある生き方としてとらえられるべきだ」という知見から導き出された。 |
言葉を曖昧に憶えることが原因 |
?分裂病の妄想主題の定義に画期的な道標を打ち建てたのは、ドイツの「M・ミュラー」である。M・ミュラーは、ドイツの「第三帝国の国家社会主義」が、「ヒトラーに関する妄想」と「ユダヤ人迫害の妄想」を出現させることのデータを示した。
「国や社会の本質的に不合理で、しかも曖昧な概念が思考に親和性をもつ場合に分裂病の妄想を出現させる」(M・ミュラー)。
「フォン・バイヤー」は、「M・ミュラー」の考察をさらに実証的に拡大した。
「ある分裂病の女性患者は、ナチスからの迫害が終わった後も、迫害妄想を継続した。アイヒマン訴訟の間、事務所の職員を秘密のナチスかもしれないと恐れた分裂病者、自分が教師として働いていた学校の校長をゲシュタポの当局者と見なした分裂病者」の症例をあげて、「追想」の中で生きつづける「永続的な実存不安」を示した。これは、ある個人が、その時代と社会の中で最も高い水準にある知性の言葉を曖昧にしたままでいる場合、「自己解釈」の意味づけを加えると「妄想主題」を表象しつづけるという定義を示すものだ。 |
分裂病の妄想は、時代と社会の反映 |
?「分裂病の妄想主題は、時代と社会に規定される」ということと、「社会の中で最も高い知性の言葉が曖昧であったり、個人が曖昧に自己解釈している場合は、分裂病の妄想主題は、追想の中で永続的な実存不安を継続しつづける」という二つの定義は、時代と社会の中の「妄想の変貌」をとらえた。
その第一人者は、「オーストリアのH・レンツ」である。
「社会の中に技術的な革新が進むにつれて、妄想は技術的な内容を増やした。すると、神や悪魔といった宗教的な内容の妄想が減る。妄想の反比例が起こっている」。
「妄想の中から神や悪魔が姿を消すと、代わって、誰かが私を見ている、誰かが私の噂(うわさ)をしている、というように、誰かという無名(アノニマス)が登場してきた」。
「誰か(アノニマス)は、装置、テレビ、電波、テレビ、ラジオ、盗聴器、パソコン、インターネット、電車、乗り物、電話などが、分裂病の妄想主題を形成している」。
?「M・ブーバー」は、分裂病者の妄想は「社会機構」そのものが「人間疎外」という時代病理を示すととらえた。ここから「分裂病者は、往々にして時代と社会のはらむ危機を、誰よりも先に敏感に受感して予見する」という見解が導き出された。
現代人の現代的な危機とは、「仕事への人間の落伍」というものだ。「M・ブーバー」は「近代的人間は、人間と人間どうしの安心の故郷を失い、恋人、友人、知的な結びつきをもつ人間どうしの中での安らぎをなくしている。また、技術革新が創造した巨大な近代文明の被支配者へと転落している。この人間疎外の目を仕事の中の他者へと向けて、悪意を感じ取り、怒りを衝動化している。孤独と無力の深淵をのぞきこみ、自己消滅の軌道をたどっている」という主旨をのべて、分裂病の原因へと迫っている。 |
プラグマティズムが「境界型の分裂病」をつくる |
?時代と社会がプラグマティズムを中心としてさらに技術革新をおしすすめると、分裂病の「妄想主題」は、技術革新の中で「自閉」と「離人症」を反映しはじめる。
それは「境界型分裂病」(borderline schizophrenia)と呼ばれた。
アメリカでは1930年代から問題になった。日本では、1950年から問題になる。
「境界型分裂病」とは、「精神分裂病」と「神経症」との境界のことだ。誤解されているように「正常と異常の境界」のことではない。
「分裂病」は、「離人症」を基本の柱にしている。ここから「社会性の世界」で「自閉」が始まると「自分で自分の気持ちを安心させる」という「自我」(性格)の病理現象が始まる。「E・ブロイラー」や「E・クレペリン」が臨床で見た分裂病者は、「社会性の世界」とは「仕事」「学校の勉強」「社会的な知性」などが「生理的身体の触覚の認知」で完結するものだった。
だから、これらの言葉と行動にたいして不適合を起こし、「自閉」すると、「性格」の不安定を通り越して一気に「人格の崩壊」を招いた。他者のちょっとした言葉を気にして憂うつを引きずり「緊張症」や「情意のマヒ」をつくって「感情的に興奮」したり、「ひたすらガマンして昏迷する」と、「破瓜型の分裂病」といわれる衝動性をともなって突然に「人格を崩壊させる」という分裂病を突出させた。
だが、テレビ、ラジオ、コンピューターのパソコンなどの「マスメディア」の技術革新がすすむと、「生理的身体」の中で「知性」の心的な契機の意味をもつ「目」「耳」「手」「舌」「鼻」「皮ふ」およびこの五官覚に関連する「呼吸器系」「循環器系」のひとつひとつの単独の能力が外延化されて「血流障害」が発生する。「自律神経の過緊張による疾患と症状」である。これは、「離人症」と「仕事およびこの中の人間関係」への「自閉」がつくり出すものだ。すると、「不安」「恐怖」「強迫」「心気症」などの神経症の症状を前景に出す「新しいタイプの分裂病」が時代と社会の中の病理となる。
アメリカの「P・ホッホ」は「偽神経症性の精神分裂病」と呼んだ。「神経症の仮面をかぶった分裂病」という考え方である。日本では「分裂病の仮面をかぶった神経症」という考え方が受けいれられた。 |
日本人の分裂病の薬物療法は、神経症対応である |
?「分裂病の治療」として「向精神薬」が用いられている。これは、「境界型の分裂病」に効を奏していると「精神科医」は考えはじめた。「分裂病」を「神経症の前段階の病理である」ととらえるものだ。
つまり、「向精神薬」とは「精神分裂病」のための薬物療法に見えて、実は「神経症」のための薬物療法である。日本の「分裂病の仮面をかぶった神経症」という精神医学が支えている。
これは、分裂病の本質の「時代と社会の最も高い知性の言葉を曖昧に憶える」という不適合と、この不適合がつくる「自閉」「離人症」をそのまま残す、という精神医学そのものの「分裂病の生成」をものがたる。「不適合」と「自閉」を薬物で遮断することで「進行をくいとめている」「精神衛生を普及させている」というコンセンサスを導き出している。 |
「ユニット化」する日本人の分裂病 |
?だが、この中で日本では「倉持弘」が「日本人の精神構造」に注目して、日本人が伝統的に執着する「恋愛・結婚・性」の中に「分裂病」の本質の「自閉」と「離人症」の生成のメカニズムを観察している。
倉持弘は、日本人のパーソナリティは三つのカテゴリーをもつとのべる。
- 生活の態度、行動が日本の伝統や習慣に規定されている人々、
- 「自立」を自らのテーマにして知的な根拠をもとに生活態度を決めて、結果的に社会と時代の知性の言葉と適応し、適合する人々、
- 自分の内的な意思は分からないとするカテゴリー。周囲の人はどう思うか?周囲の人はどういう態度をとるか?に自分の行動を従属させる人々、
の三つのカテゴリーに分類した。
倉持弘は、三つめのカテゴリーの人々の、「人格崩壊」をともなう分裂病と「境界の分裂病」に高度の関連性があることをつきとめた。
倉持弘は、臨床としての現象を見るかぎり「境界型の分裂病」や「妄想を系統立てて発展させる分裂病」や「E・クレペリン」が臨床的にとらえた「早発性痴呆」を病理形態とする分裂病は減少している、とのべる。倉持弘は、その理由を「時代と社会の変化」に規定されているとみる。
産業の高度化と、第三次産業の拡大にともなって「適合」すべき「社会の知性」がユニット式に限定されてルーティーン化したために「号令」と「命令」の範囲で行動すると、「自閉」が擬似化する。「仕事」の「手段」が仕事の目的になると社会性の世界では「性格の崩壊」にとどまり、「人格崩壊」は「定年」や「高齢化」の域に先送りされるというものだ。しかし「仕事の世界」で「性格の崩壊」が進むので、恋愛、結婚、子育て、友人関係の中の「性格の崩壊」は拡大して、神経症の症状をユニット的に深化させる。倉持弘の『恋愛や結婚の中の嫉妬妄想』を見ると、食生活全般は維持されているが、しかし「入浴はしない」「セックスレスだけがつづく」「見捨てられの不安をドーパミン分泌のテーマにする性の依存症だけが拡大する」、といったふうである。
つまり、日本人の現代の「分裂病」は、「家の中」で「性格の崩壊」が進むにつれて、ユニット化された神経症の症状が「進行」していき「離人症」という分裂病の本質を持続させる、というものだ。 |
分裂病の本質と正しい理解の仕方 |
?「精神分裂病」とは何か。
一般的には、人格の二重化や三重化、あるいはもともとの「性格」のその人らしい人物像が消えて「別人格になることだ」と恣意的にとらえられている。
だが、「精神分裂病」は、もともとは「E・クレペリン」の臨床による「早発性痴呆」という概念からスタートした。
「E・ブロイラー」(オイゲン・ブロイラー。スイスの精神医学者)は、独自にクレペリンの「早発性痴呆」を分類し、整理した。
そして「精神分裂病」という概念を定義した。
E・ブロイラーは、分裂病の症状を「基礎症状」と「副症状」とに区別した。
分裂病の基礎症状…「自閉」「連想による弛緩(しかん)」「感情の荒廃」「まわりの人々の気持ちの関連づけの消失」「攻撃的な態度と拒否の両価性」
副次的症状…「幻覚」「妄想」「錯乱」「緊張病の症状」
分裂病の定義…「連想して心身を弛緩(しかん)させること」つまり、人間は、精神活動においては行動にともなう言語による意識化をおこなうが、この際の緊張を恒常的に「弛緩させること」をさして、緊張が「弛緩」に分裂するので「分裂病」というのである。
解剖学者の三木成夫は、「人間は、精神活動にともなって必ず、無呼吸状態になる。心拍の低下がともなう」とのべている。
この「心拍の低下」を回避して「連想によるイメージ」の中に逃避し、そして「心身を弛緩させる」というのが「分裂病」の定義と由来である。
E・ブロイラーの門下には「E・ミンコフスキー」「C・G・ユング」「L・ビンスワンガー」らがいる。
「ミンコフスキー」(ポーランドの精神医学者)はブロイラーの「愛弟子」であることはフランスでよく知られている。ブロイラーの学説をフランスに紹介したからだ。フランスの精神医学は、ミンコフスキーが主導した。
「ミンコフスキー」は、「自閉」が分裂病の最も中枢的な症状である、ととらえた。ミンコフスキーは「ベルグソン」の哲学をふまえて「分裂病」を「現実との生きる接触の喪失」と定義した。「生きられる時間の崩壊」という理解の仕方である。フランス哲学は、フッサールの「時間と空間意識の現象学」に代表される。「時間」というものは、意味を中心に構成したものが「空間性である」とするものだ。
だが、ミンコフスキーは、時間と空間を別のものと区別した。
「自閉」の結果、分裂病者は「暗い空間を生きている」ととらえた。「時間」は、「連想弛緩」のイメージの中に入りこんで生ある時間を喪失し、その結果、「暗い空間」に支配されている、というものだ。
このミンコフスキーの『精神分裂病』を訳したのが「村上仁」である。単なる「分裂病の臨床的疾患」にとどめず、「特殊な病的人間」という人間学的な把握に向かわせたのが「ミンコフスキー」とする。村上仁は、「分裂病の妄想」を「自閉的な行動」と理解した。ここから、想像活動(絵画、文学など)は「豊かな自閉」であるとする。「分裂病の妄想」は「内容の空虚な、乾燥している貧しい自閉である」とする。ミンコフスキーのこのような「分裂病の人間学的研究」は、ドイツの現象学的精神病理学者「W・ブランケンブル」に受けつがれている。 |
日本人は、号令、命令で「ユニット適合」して症状をユニット拡大している |
?「分裂病は軽症化している」という見方がある。だが、「分裂病」は、時代と社会の最も水準の高い知性の言葉が「曖昧」であるか、もしくは、ある個人が「曖昧」に理解して記憶していることが出発点にある。すると、現代社会は、技術革新にともなって、「仕事」「学校」「個人レベルの学習」はユニット的な「自閉」にとどめて「離人症」をいつまでもゆるやかに保つという状況になっている。
「性格の崩壊」だけが症状をつくる。「人間関係のコミュニケーションの能力」が自閉化して「アスペルガー症候群」といわれたりもする。
LD(学習障害)のように「知能は高いので支援すれば、離人症の深化を防げて、通常の健常児と同じ生きられる時間を生きられる」というように「性格の崩壊」の域にとどめるので、「分裂病の軽症化」といわれている。ここでは、「人格の崩壊」という社会性の世界での症状が先送りされているだけだ。
このことをとらえて、分裂病の「個人のレベルでの症状の変遷(へんせん)」という概念を打ち出したのが「村上仁」である。
村上仁は、「分裂病の症状の変遷」を「第一期」、「第二期」「第三期」に分類する。「第一期は性格の崩壊」、「第二期は人格の崩壊への症状の移行」、「第三期は、人格の崩壊」というとらえ方だ。 |
日本人の分裂病の起源と継承 |
■ここまで、「分裂病」という病理の病理学的なアウトラインの要点をご紹介しました。
参考文献は『妄想の臨床—精神分裂病の妄想』(宮本忠雄、関忠盛、臨床精神医学、1974年)などによります。また『現代のエスプリ』(№150、昭和55年)によります。倉持弘の『嫉妬妄想』は、ポルソナーレのカウンセリング・ゼミでもケーススタディとしてご紹介しています。
このように「精神分裂病」の学的なアウトラインをご紹介した目的はこうです。日本人にとっての「分裂病」は、明治以来、現代に至るまで継承されてきているものであることを、日本人の心と精神の病理を考えるうえでの前提として確認するためです。日本人の分裂病は、何にたいして「自閉」しているのか?何にたいして「不適合」なのか?を正しく分かるための「人間学的な研究」の前提でもあります。
吉本隆明の『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)の中の「巫女論」(みころん)は、今もなお、現代の日本人の対人意識の中枢を形成しています。すると、日本の「近代資本主義の経済のメカニズム」と、ここに「主体的に参加する人間の社会意識」にたいして「不適合」を生成していることがよくお分りでしょう。 |
『共同幻想論・巫女論』
(再構成) |
① ある村人が遠野の町で、見知らぬ旅人に出会った。旅人は、あの家にはどんな病人がいるとか、この家にはこんなことがあるとか、いろいろのことを言う。ことごとく村人がかねてから知っていることと符号する。どうしてそう当るのか?と問うと、それはおれが小さな白い狐(きつね)をもっているからだと答えた。村人は、その狐(きつね)を買い取ってよく当る八卦置き(はっけおき)になって金持ちになった。
② 村のなんとかという男が二人で山に入って炭焼きをやっていた。そこへパートナーの男の女が炭焼き小屋へきた。夜、パートナーの相方の男は、この女に手を出した。すると女は、毛だらけだった。そこで相方の男は、その女をナタで切り殺した。パートナーの男は怒ったが、しばらくすると女は、狐(きつね)に変わった。
③ 「柳田国男」の話。
山に走りこんだという里の女の話がある。この話に出てくる女は、たいてい産後の発狂であった。古来、日本の女性は神社に従属している。大神の使命を受けて神の子どもを産んだという物語になっている。
すなわち「巫女」は、若宮の御母なるがゆえに、ことに霊あるものとして崇敬された。婦人の神経生理に変調があるとすれば、それは、いろいろの民族に一貫した宗教発生の一因子、と考えることができる。
④ 吉本隆明の説明
- 「いずな使い」(狐遣い)が能力を発揮するには、村民の側に二つの条件がいる。「狐は霊性のある動物だ」という伝承があること、「村民の願望の利害は、自分たちの力ではどうにもできない」(彼岸にある)と信じられていることの二つだ。
- 「いずな使い」は、村落の共同幻想に同化集中するための必須の条件である。
- 炭焼きの男たちは、女は狐の化身であることを信じている。女は、対幻想の象徴であるとともに、共同幻想の象徴でもある。
- 狐が化けた女は、「性」、「男女の性」を基盤とする対幻想の共同性を象徴している。
- 狐、蛇、その他の動物、神は、共同体の「共同幻想の象徴」である。
- 家の地上的利害は、村落の利害とむすびついたり、矛盾したり、対立している。
|
日本人の「X経路」中心の言葉の憶え方が性格と人格を崩壊させる |
■ここでのべられているのは、日本人の観念には、自分の利害を自分の力で実現するための「共同幻想」は長期記憶されていない、ということです。
大野晋のいうように、「遠い位置にある人間」「遠い所の空間の中の人間」が、「遠い所」から日本人の観念を支配しているという支配の仕方のメカニズムが説明されています。それは、日本語の「和語・やまとことば」の『文法』の「の」や「へ」などによってあらわされる支配の仕方です。日本人は、「助詞」の「の」や「へ」がいったいどういう意味をもつものか?恣意的に「曖昧」に考えることによって、この「巫女論」で描写されているような「村落の共同体」と「不適合」をつくりました。それは、今の日本人の「共同幻想は、遠い位置の空間にいる人間がつくるものだ」という「共同幻想の長期記憶の仕方」として継承されています。
「共同幻想」は、人間にとって不可欠な観念です。それは、「行動地図」のようなものであるからです。言葉の意味を憶え、その意味の示す「社会秩序」を行動の言葉とするところでは、狐やヘビ、その他の神は登場しません。
日本人は、「心をいれかえる」といいます。良いイメージで語られています。
「心をいれかえる」ということは、「憑く」「憑かれる」というように、「遠い所に位置する人間の意思」を受け容れて、適応していく、という日本人に独特の思考のパターンです。これは、現代では「仕事の言葉を暗記する」「言葉の意味を問われると、分からないと答える」、そして「分からないこと、知らないことを不自然なこととは考えない」というのが「分裂病」の本質の「社会の知性との不適合」になります。
この「不適合」の生む「離人症」を放置して、「妄想の中のドーパミン分泌」をさまざまな娯楽、メディア、バーチャルの中の「A9神経によるドーパミンの分泌」で維持しているのが現在の日本人であるのです。
仕事がない、人間関係で行き詰まる、など「性格の崩壊」が行動停止に直面すると、非社会性の中で一気に「人格崩壊」を噴出させるか、社会性の世界で「性格を崩壊」させると、年間3万人の自殺者の中に加わるかのいずれかの軌道をたどっています。 |