「和歌山毒カレー事件」 |
平成21年4月22日付の日経の報道によれば、「和歌山毒物カレー無差別大量殺傷事件」の被告に「死刑判決」が確定しました。4月20日、最高裁が、被告の上告を棄却して、一審と二審の判決の「死刑」が確定したというものです。
この事件は、1998年7月の夏祭りの会場で起きました。カレー鍋に「ヒ素」が混入され、このカレーを食べた4人が死亡し、63人が中毒症状を起こした、という内容です。
この事件の特異さは、被告(47歳・女性)が「一審では黙秘、二審では否認、最高裁への上告では無罪を主張」していることです。これは、「犯罪の直接の証拠が無い」ことにもとづいています。報道によると、起訴した検察側は「千点を超える書類などの証拠と百人を超える証人の証言などの間接事実を積み上げた状況証拠が有罪を立証した」ということです。弁護側は「被告には動機が無かった」と主張しています。最高裁・那須弘平裁判長は、5人の裁判官全員一致の判決として「犯行動機が解明されていないことは、被告が犯人であるという認定を左右するものではない」と「動機不在」を退けています。
最高裁が支持した検察側の「状況証拠」は、「カレー鍋に入っていたヒ素と被告の自宅から検出されたヒ素は同じである」「被告の毛髪に高濃度のヒ素が付いていた」「夏祭りの会場で、被告が鍋を
体臭恐怖症(自己臭パラノイア)…3名開ける姿が住民から目撃されている」「被告は、長年、保険金詐欺にからむ殺人未遂などの犯行をおこなっていて、犯罪性向が根深い」「犯行後、被告は親類に、亜ヒ酸のことを口止めした」、などです。 |
「動機なき事件」の考え方 |
この、約11年前の「和歌山毒入りカレー事件」をご紹介している理由は、日本人には「病理」にしろ「犯罪」にせよ、「動機」を解明する知的能力はあるのか?を問題にするためです。これは、検察、弁護士、裁判官(平成21年5月よりの裁判員も)の全てに問われるテーマです。「犯罪」ないし「病的な行動」を起こした当事者にはまっ先に問われています。
ものごとには、どんなことにも原因があります。犯罪や病的な行動にも、原因があります。この場合の原因は「動機」といいます。
「和歌山毒入りカレー事件」の動機とは、どういうものだったのでしょうか。人間は、言葉によって行動するということから考えることができます。
国語学者・大野晋の書いた「日本語の起源」の研究と考察によれば、日本語は、日本人の行動の仕方を規定しています。それは、人間関係を距離によって理解するという構造によって規定しています。このことは、すでにご説明しているのでよくお分りのとおりです。
もういちどご一緒に確かめてみます。
- 日本語は、和語(やまとことば)と漢字・漢語との二つで二重になっている。和語(やまとことば)は、「遊ぶ」「美しい」のような「訓読み」と「ひらがな」のことだ。「漢字・漢語」は、「鮮明」とか「明確」「明白」「明瞭」などのような「音読み」のことだ。
- 日本語は、和語(やまとことば)が「文法」を形成している。
「文法」とは、「助詞」を中心に「語」の組立て方のことだ。また、この「文法」が「人称代名詞」「尊敬語」「謙譲語」などを生み出してきた。
- 日本語の「文法」の特性は、助詞の使い方によくあらわれている。助詞の「が」と「の」が特徴的である。現代では、助詞の「が」と「の」はどんな名詞の下にでも付く。しかし古代の助詞の「が」と「の」は使い方がひどく限定されていた。助詞「が」は、自分自身または、自分に近しい人間の下に付けられた。
助詞「の」は、「自分のいる位置・空間の外(ソト)の人間」の下に付いた。内(ウチ)と「外」(ソト)とを区別する意識が日本語の文法のベースになっている。
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日本人は、行動のための言葉を長期記憶していない |
■日本語の「文法」によってあらわされる日本人の「行動の仕方」は、「外(ソト)の人間」にたいして関わりをもつ「行動のための言葉が無い」ということが説明されています。
もちろん、「外(ソト)の人間」にたいして近づいていくとか、関わりをとりきめるといった「動詞」や「関係の概念」は存在します。問題は、「外(ソト)の人間」と関わりをもち、近づいていき、なんらかの関係性を成立させるということと、その行動のための言葉を学習して長期記憶として憶えているかどうかとは無関係であるということです。人間の記憶は「長期記憶」と「短期記憶」の二通りがあります。「短期記憶」とは、「ほとんど行動しない」「自覚的に行動する意思はない」といった対象についての記憶のことです。「長期記憶」とは、「継続的に関わりをもつ意思によってとらえられている対象」についての記憶のことです。
日本人の使う日本語の「文法」は、「自分の位置、空間」からは遠くに離れている人間を「恐怖の対象」と認知させます。
「ソトで生じることは、自分に左右できないことだ」「自分が立ち入るには危険を冒(おか)さなくてはならないことだ」「手を加えないようにしなければならないことだ」ということが日本人にとっての無意識に認識している内容です。 |
将来のこと、人生の未来のことも考える言葉がない |
このことは、「自分の位置より遠くにあるもの…自分の人生の将来のこと、人間、経済社会、仕事の内容、勉強など」を対象として認識し、これらの対象に近づいていく行動のための言葉を長期記憶として「記憶していない」ということを意味します。
「和歌山毒入りカレー事件」は、「動機が無い」(弁護士)、「動機は不明」(二審の判決)というものでした。「科学鑑定や状況証拠から被告がカレー事件の犯人であることに合理的な疑いをさしはさむ余地はない」(最高裁判決)ということを前提とするならば、「動機」は何であったのでしょうか。それは「他者を恐怖の対象とする」ことを「身近な人間を親愛の対象として、時には、侮蔑にまで発展させてもよい」と変換させるメトニミー(metonymy・換喩)にあったのです。 |
ミュンヒハウゼン症候群 |
「ヒ素を使う犯罪」は、病理の歴史を見ると「ミュンヒハウゼン症候群」としてよく知られています。おもに女性がひきおこしている犯罪の方法です。一般的に、女性は体力的な力が男性よりも劣るので、攻撃的な体力を必要としない犯罪の方法として「ヒ素」が用いられていると解説されています。「ミュンヒハウゼン症候群」とは、「お金が欲しい」「恨みを晴らす」といった直接的な動機を根拠にしていません。「自分に注目してほしい」「自分の存在価値を認めてほしい」といったふうな「評価を求めること」が動機になっています。今の日本の経済社会のグローバル・リセッションのように、多くの誰もが窮乏の不安を抱えている状況では起きにくい病理です。「自分だけが不当に低く評価されている」というように感じられる格差や階層的な落差の大きい経済社会の状況で発生する傾向があります。「和歌山毒入りカレー事件」の起きた1998年(約11年前)の当時の日本の経済社会は「バブル経済の崩壊後のデフレ不況」が長引いている状況にありました。「資産格差」と「アメリカ発のマネーゲーム」によって「知的な能力」を「価値」とする二極化と解体に拍車がかかっている状況にありました。「和歌山毒入りカレー事件」にかぎらず「一気に自分の存在価値を回復させたい」という動機による「保険金目当ての事件」がひんぱんに起こっていました。「和歌山毒入りカレー事件」は「保険金の略取」といった直接的な利害は介在していません。すると「動機」は、当人の「快感のイメージ」にあります。「ミュンヒハウゼン症候群」は、病人や子ども、老人や社会的に無力とされている人間を殺害に至らしめる病理です。「身近な空間にいる人間を、時には侮蔑の対象にしてもよい」という関係づけのモチーフに取り込む時は、「バッド・イメージがもたらす中隔核の分泌するドーパミン」が期待できます。このような「動機」をつくるのが日本人の「X経路中心」の脳の働き方です。おそらく、このような病理学の観点からこの事件の被告女性の日常生活と、家族の人間関係の聞き取り調査をおこなえば「時には侮蔑の対象にしてもよい」という距離の無い対人関係の「行動パターン」が集められたと思われます。
それは「親愛な対象である」とする「安心関係」の極地で起こります。人間の安心とは、「行動すること」のプロセスの中で得られます。脳が、行動の言葉を生成して、言葉になると、次のようになります。
「行動すること」…「進む」「戻る」「休む」(進行することのメタファー)、「走る」「飛ぶ」「はうように進む」(行動の手段のメタファー)、「上る」「下る」「回る」「曲がる」「通過する」「渡る」「迷う」(行動の進路のメタファー)、「のりこえる」「突破する」「通り抜ける」「くぐり抜ける」「距離をおく」「避ける」(行動の障害のメタファー)、「会う」「別れる」「追い越す」「案内する」「続く」「リードする」「並ぶ」「追い越す」「追う」「遅れる」「妨害する」(自分の行動がいくつかの行動と複合するときのメタファー)、など。 |
社会に参加するための行動の言葉が記憶されていない |
これらの言葉は、人間が行動するときの言葉です。しかも、「遠くの対象」に向かって行動するというときの言葉です。大野晋(国語学者)の説明する日本語(和語・やまとことば)には、このような「行動のための言葉」はありません。このような「行動の言葉」は「漢字・漢語」によって輸入されました。だから、「漢字・漢語」を中心に勉強した明治以前の日本人(支配者階級・武家階級)は、「行動のための言葉」は「長期記憶」として保持されていました。しかし、明治以降、とくに「第二次大戦以降」の日本人は、「社会に独力で参加して自立する」という社会教育はおこなわれなかったので、日本語の文法のもつ「遠い所にいる人間」と「近い所にいる人間」を区別するという「行動パターン」が主流になりました。「自分が行動することによって、社会の中で正当な安心を享受する」ための「行動のための言葉」は、単に、「短期記憶」の対象になったのです。
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X経路への取り込みが動機である |
「和歌山毒入りカレー事件」は、「距離の無い人間関係」の中で「安心を享受する」という「X経路中心」の「行動」に動機がありました。人間は「社会性の世界から孤立すると生きられない」という本質のもとに生きています。この「社会性の世界からの孤立」とは、必ずしも仕事をするとか、学校に行くなどの「社会参加」だけを意味しません。「社会に参加して、そこからどのように安心を手に入れるのか?」という「行動のための言葉」を「長期記憶」として保持しているか、どうか?が「孤立」の分岐点になります。
「和歌山毒入りカレー事件」は「ミュンヒハウゼン症候群」が病理を構成しています。すると、「社会の中で手に入れたい安心」とは、自ら行動して他者に価値ある喜びを与えるというものでなければなりません。そのための「行動の言葉」が「長期記憶」されていなかったのです。
それは「身近な人間」との正当な会話も無かったことを意味しています。会話があれば人間の妄想は、全く消えて無くなることはないにしても、語り合う人間の言葉がたとえ自分と同じ病理のイメージに支配されているものであったにせよ、そこには「知的な対象にする」という動機はあるからです。
「がんばってきたのに悔しい。無実を確信している」
テレビが「死刑判決」を伝えると、二度小さくうなずく。
「私の手の届かないところに行ってしまった」(被告の夫(63歳)の話)。
距離の無い関係の発言とはこういうものです。これは、「動機」に相当する「行動のための言葉」が無いことにもとづく発言の典型です。平成21年5月より「裁判員制度」がスタートします。「遠い対象には手を加えない」という「行動のための言葉」が長期記憶されていない日本人は、被告人が「私は無罪である。国家が私を殺す」と発言して「自らの行動のプロセス」をことごとく忘れてしまうこととぴったり一致して、妄想をはじめとして、今のX経路のもたらす安心と、X経路のもたらしえない不安のイメージしか表象(ひょうしょう)しないのです。5月よりスタートする「裁判員」は、「和歌山毒入りカレー事件」の被告を無罪にするだろうということが予測されるということです。
日本人の心の病いは、「行動していくこと」(Y経路の対象に向かって)のための「行動の言葉」を学習していない、学習しても「短期記憶」として憶えるのですぐに忘れる、つまり「長期記憶」として保持されていない、ということに原因と根拠があることをお話しています。
「ハーバード流交渉術」は、そのような日本人を想定しての「交渉の仕方」が構築されなければならない、ということです。
「ハーバード流交渉術」(フィッシャー& ユーリー)の中には、次のように書かれています。
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病理者との交渉戦術 |
●交渉における四つの基本的要素
- 人…人と問題とを分離せよ
- 利害…立場ではなく、利害に焦点を合わせよ
- 選択肢…行動について決定する前に、多くの可能性を考え出せ
- 基準…結果はあくまでも、客観的基準によるべきことを強調せよ
◎交渉の対象
- 問題の原因は、各当事者がとらえた現実である。
- 人間は、自分が見たいものだけを見る。
- 自分の先入観に合致する事実だけを選び出しそこに焦点を当てる。
- 自分の先入観の誤りを示唆する事実は無視する。または、違った意味に取り違える。
- 交渉の当事者は、自分の考えの長所だけを見て、相手の考えの短所を見る。
- 人は、他人の行動を考えるとき自分の恐れを反映させて危惧の念からこれからのことを推測する。
このような交渉戦術がとらえる日本人の病理の典型は「強迫観念」です。「強迫観念」は、「X経路」だけで言葉を「長期記憶」した結果、「Y経路」の「遠くの位置」に存在する対象の言葉を「短期記憶」として憶えてつねに健忘している、ということから生じる病理です。すると当然、「Y経路の遠くの空間と、この中にある対象」に至るまでの「行動のための言葉」も「短期記憶」としてしか憶えられません。しかし、それでも「社会現実との関わり」は「X経路」の丸暗記による憶え方で憶えた言葉で進行します。この仮象としての行動の中に「強迫観念」が生じます。 |
日本人の「強迫観念」のメカニズム |
『現代のエスプリ』(№127号、昭和53年2月1日発行)の中で正木正(まさきただし)は、日本人の間で明治、大正、昭和とつづいている「強迫観念」について、次のように書いています。
- 強迫観念とは、「ある不快な思い」がたえず心の中にあって、忘れようとか、抑えようとしても消えず、いたずらに精力を集中し消耗して不安と苦悩の中で一日を過すというものだ。
また、ある恐怖心が心の中に思い浮ぶ。それは、一定の場所、一定の状況、あるいは特定の対象にたいして異常な恐れを感じるというものだ。その恐れの対象を避けて近づかないという態度も「強迫観念」だ。
さらに、その一定の場所、ある対象にかかわる行動をとることで身体に異常な知覚を感じる。その「予期される恐怖」がいつも心に思い浮ぶので心が悩む、というのも「強迫観念」である。このような「予期的な恐怖のイメージ」を避けるために、特異な、特殊な行動をくりかえして行い、このことがなお「恐怖の念」をいっそう強くする、というのも「強迫観念」である。
- 日本人は、このような「強迫観念」を誰もが、大なり小なりもっている。だから、このような経験をもったからといってそのまま「強迫観念」という病理の保持者ではない。
しかし、これらの経験にたいしてそれが不合理であるという心の葛藤が生じれば、それは「強迫観念の心的現象」が根づいていることになる。
- 「強迫観念」の特徴は、その人は、内面の生活において苦しみながらも、しかし、「社会生活」の場面では、正常な姿を見せる、というものだ。その「社会生活」という環境への「不適応」として生じるのが「強迫観念」の特徴である。
- 「強迫観念」は、しばしば神経系統の変態的な異常ととらえられやすい。だが、このような、神経性の衰弱とか、生理的な興奮を起こす異質に実体を求めるのは誤りである。「強迫観念」とは、全人格が、社会的な環境との「交渉」で展開していくという「全意識過程」の中で起こるものだ。
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「先のとがったものが恐怖」という強迫観念 |
◎事例・1
強迫観念「先のとがったものが怖い」(男性・東大生)
- 初めの恐怖の対象は、自分の爪(つめ)であった。いつごろ起こったのかははっきりしない。小学生の高学年のときは、すでに自分の爪(つめ)が怖かった。
- 学校の教室の中では、自分の爪(つめ)を隠した。見えないようにするためだ。手を体の脇におく、背中に手を回す、イスの背もたれと背に手をはさんで押さえつけるということをおこなっていた。しかし、手の爪(つめ)を目で見ていなくても、想像の中に爪(つめ)が出てくる。それが恐ろしかった。
- 恐怖に感じるところは目である。爪(つめ)が目に近づいてくる、目に突き刺さってくる、という恐怖心が離れない。夜、寝ている時は、両手を背中に回して両手を組んで寝ていた。
しかし、いつの間にか両手は離れている。このときは、爪(つめ)が目に近づいていないことを確かめる。
- 「先鋭物」(先がとがっているもの)への恐怖は、「角への恐怖」へと広がった。ガラス、金属を見ると、その「破片」を想像する。
とくに、自分の書くエンピツ、紙の角、薄い物が恐怖の対象になった。
- 恐怖の対象の広がりは、恐怖に感じる身体の部位へと広がってなお拡大した。机に向かって座していると手のひじ、脚のひざが机やイスに触れる。すると、ひじやひざが触れている物が恐怖の対象になった。毎日、苦痛を感じない日はなく、はなはだしく精神の集中を妨げた。
- このような症状は、たえず欠かさずにあるというものではない。数日から1ヵ月くらい症状がひどく起こる、そして良好な日が数日つづく。
この良好な日は平静でいられる。一日中、恐怖心を感じなくてすむときもある。しかし、症状のはなはだしい時は、苦痛も限りなく、心の落ちつく暇もない。こんな時は、恐怖が強化、増大していく。歯ブラシの柄、茶わんのふち、スプーン、ハシの先端、電柱など、目につくもの全てが恐怖の対象になる。電車の吊り革の環、窓ガラス、電車の窓から見える針葉の樹木、教室の机、部屋の端、ドアの金具、本の角、などだ。授業中の講義もうわのそらになる。恐怖に精神が集中するのだ。
- 恐れながらも、恐怖の対象を探す。なぜ、人間は物事に角をつけたがるのか。このように考えて夢の中に自分のユートピアを想い浮べる。鉄球の丸く閉ざされた世界だ。全て外界と遮断された、もはや先のとがった先端は入って来ない。ほっと安心すると、目の前に自分の手があり、爪(つめ)がある。「もう逃れられない」と絶望すると、鉄球は壊れて眼中に飛び込もうとしてくる。私は、命令されたように恐怖の対象を捜し求めてさすらっている。
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「強迫観念」事例・1の解説
社会の場所、空間との不適応がある |
ここに紹介されている強迫観念は、おもに、「学校」と「教室の中」「授業中」にあらわれていることに気づくでしょう。「社会参加」と「社会参加そのもの」の「行動」に支障が生じています。本人が語る強迫観念は、その参加している社会(学校、教室、授業など)の中の具体的な対象です。先のとがったものという対象が拡大されて、クローズ・アップされた「視覚のイメージ」について語られています。自分の手の爪(つめ)も含めて、先のとがったものが事故をもたらしたとか、実害を及ぼしたという事実は説明されていません。「行動することを障害させるものだ」という「解釈的な意味づけ」が確信的に説明されています。これは、何が語られていることになるのか?というと、「教室」「授業」「学校」という行動の対象の内容(名称)の言葉が無い、イメージとして表象(ひょうしょう)されない、ということが言われているのです。もちろん、この当事者は、自分が今、どこに居て、何のためにその場所にいるのか、何をしにここに来ているのか、は「分かっている」のです。しかし、この「分かっている」ことは、「先のとがっているもの」を恐怖の対象として思い浮べたり、とにかくもっとたくさん見つけようと意識を向けることによって、消滅しています。消滅というのは、はっきり記憶しているものが「消しゴム」で消し去るように無くなる、というのではありません。現実に自分の身体は、教室なり、学校なり、授業の場面に立っているのにその「対象の名称」および、その「名称」の意味するものの中身に関する「言葉」が記憶されていない、全く思い浮ばないことに気づいた、という主旨の表現が「消滅」です。これはどういうことなのでしょうか。
言葉は、全て「メタファー」として成り立つし、記憶されるものだということが理解されなければなりません。「教室の中のイスに座る」という行動をとりあげます。「座る」という言葉は、具体的にはイスに腰をおろす、という動作です。しかし「メタファー」としてとらえると「落ちつく」「人の話を聞く」「与えられたものを受け取る」「休息する」「ものごとを目の前に置いて相対する」という「意味」を「右脳・前頭葉」に表象させます。
このような「行動の対象」となるもののメタファーが「長期に記憶されていない」という時、物理的にはその空間の中に居ても、心的な関係づけは成立しないので「恐怖の対象」になるでしょう。この事例のケースは、恐怖の対象は「人間」ではなくて「社会的な知性の対象およびその空間性の領域」です。事例の男性は、この空間の中に「立つ」ということのメタファーの「じぶんという人間をしっかりさせる」「自分の力で生きる」「ひとりで生きる安全の力を手に入れる」「自分の考え、意思でここに居る」といった「対象を正しく分かっている自己」というものを「長期記憶」していません。突然に拉致(らち)されてどこか遠くの国の学校に連れて来られたかのような恐怖の意識しか感じないというのが「長期記憶」の欠如の意味です。すると、事例の男性には、学校、教室、授業などの空間に行くための「行動の言葉」も長期記憶として記憶されていないことが分かるでしょう。 |
行動のための言葉のメタファーの例 |
「学校に向かって歩いていく」という言葉は、「進む」という「言葉のメタファー」を長期に記憶させるはずです。
「進む」のメタファー…「前向きに考える」「止まらずに前進する」「水が流れるように自分は腐敗しない」「生きていく目的がある」「目標を分かっている」「成長しつづけている」「価値のあるものを手に入れて充実している」、「衰えずに、活力をみなぎらせて豊かさを累積する」、など。
このような「行動すること」のための「意味」を表象するメタファーの概念が、短期記憶としてしか憶えられていないことが「恐怖の行動のイメージ」をつねに表象させています。なぜ「先のとがったものか?」というと「ものごと」は「空間性」(カテゴリー)と「動くもの、動かないものという対象の内容(ベクトル)」という二つを、まず視覚の対象にするからです。
事例の男性は、学校に行っても教室の中にいても、講義を聞いていても、自分が目で見る対象を視覚で知覚してはいても、メタファーの材料となる言葉にしては記憶していなかったのです。
だから、目で見るものは全て恐怖に感じます。恐怖を象徴させるものが「先のとがったもの」であったのです。
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「強迫観念」を解消する交渉戦術のモデル |
■このような「強迫観念」と交渉するとは、どういうことがテーマになるのでしょうか。「学校」「教室」「授業」に恐怖感を抱かずに、楽しく、安心して関わることを手に入れてもらうことが目的になるでしょう。
次のような交渉の仕方でおこなってみましょう。
◎強迫観念をもちつづけることのデメリット(マイナス面)と、その理由
- X経路を中心に勉強して憶えるので、憶えたことを応用できない→理由=X経路による暗記は、表面、形、好き嫌いの感覚しか思い出せない。憶えたことを使わないとすぐに忘れる。
- 意味を憶えることはしないので、他者に説明できない→理由=X経路で憶えることは、憶えたものが使われる場面、状況を抜きにしているので、異なった場面、状況に立たされると「何をしていいか分からない」と発言してしまう。
◎強迫観念を解消することのメリット(プラス面)と、その理由
- いつでも、どこでも、どんな状況でも行動が可能になる→理由=強迫観念は、行動することの言葉(メタファー)を憶えていないことが最大の理由。
「行動することの言葉」とその意味を憶えれば、解消する。(例…「出発点から出発する」「向かうべき方向を見定める」「どういう経路と道順をたどるか」「どういう動き方をするか」「どういう速さで進むか」などのメタファー)。
- 人まかせにしないで、自分の力で取り組めるので、どんな事態になっても自信と意欲を失わない→理由=「行動すること」のメタファーは、具体から抽象の幅がある。より抽象度の高いメタファーは現実の変動を受けない。だから、問題を整理して事態を立て直せる。
- 現実を変えられる→理由=Y経路の対象のメタファーは「動くもの」「動かないもの」の二つで区別される。そのいずれとも対応できるのが「行動の複合のメタファー」である。
例…「乗り越える」「突破する」「通り抜ける」「距離をおく」「避ける」「ぶつかる」「つまずく」「ころぶ」「はまる」「通り抜ける」「引き返す」などがメタファー。これらを憶えて長期記憶にすると、これが行動となり、現実は変わる。 |
交渉の仕方のポイントと コツを教えます |
■すでにお分りのとおり、このハーバード流交渉術の交渉戦術は、デメリット(マイナス面)とその理由を明らかにして、「これ以上はないか?どうか?」を確かめることからスタートします。次に、このデメリット(マイナス面)を克服する目的でメリットとその理由を明らかにして数えあげていきます。デメリットよりもメリットの数が多くなるまで考えることが重要です。ハーバード流交渉術のいう「多くの選択肢」として取りくみましょう。「強迫観念」の克服で重要なことは、「行動のための言葉(メタファー)」を学習することが有益な対策になることをご理解なさってください。
次に、「行動のためのメタファー」の例をご紹介します。
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不安を安心に変える知性の学習モデル |
A=B、B=C、故にA=Cの「推移律」(因果律)の学習モデル
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エクササイズ |
◎事例・Ⅰ
A・千載一遇(せんざいいちぐう)
B・意味
(遠山啓の「水道方式」で開発されている「タイル」に相当します。推移律の基準です)。
めったにない絶好の機会のこと。またとないチャンスのこと。
「千載」(せんざい)は、千年の意味。長い年月。「一遇」(いちぐう)は一度だけ遭う(会う)のこと。千年のうちにたった一回しかないほどの稀(まれ)なこと。
C・設問
用例として適切なものは、どれでしょうか?もっとも良いものを選んでください。
- アメリカ発の金融システムのバブルの崩壊は、本当の価値ある実体経済を回復させる千載一遇のチャンスだ。
- 今のグローバル・リセッションは、日本人の依存と甘えの意識を問い直す千載一遇の機会だ。
- 今の世界同時景気後退は、日本人のアジア型の共同幻想を解体する千載一遇のチャンスと思われる。
(正解…1,2,3です)
◎事例・Ⅱ
A・叩けよさらば開かれん
B・意味
神は、熱心に救いを求める者には、必ず応えて門を開けてくれるが由来。新約聖書・マタイ伝より。
積極的に努力する者に、おのずと道は開けるという意味。
C・設問
用例として適切なものはどれでしょうか?もっとも良いものを選んでください。
- 仕事は、これでよいと満足せずに進歩を目ざすと、良い結果が得られる。
- 質問する力のある人は、新しい発見と出会える。
- ものごとは、やみくもに取りかかるのではなくて、信頼できる人に意見を求めてから取りかかると正しい方向に進める。
(正解…1,2,3です) |