日本人と欧米人の脳の働き方の違いについて |
言語社会学者の鈴木孝夫は、『日本語と外国語』(岩波新書)の中で、日本人と欧米人のものごとの認識の仕方の違いについて、次のように書いています。
① 知り合いの泉邦寿(くにとし)教授から聞いた話だ。日本からフランスのパリに派遣されて駐在していた商社社員の息子さんが、ある日突然、登校拒否を始めた。調べてみると、不登校の原因は、太陽の色にあった。
息子さんは小学生だった。学校で、何かのときに太陽の絵を描いた。この息子さんだけが太陽を赤い色で塗った。するとフランス人の友だちにひどくからかわれた。ショックを受けて不登校になった。
② 私の知り合いの女性から聞いた話だ。夫といっしょにイギリスに滞在した。子どもが現地で絵本を買った。その子どもが「お母さん、この本おかしいよ」と叫んで飛んできた。見ると、なんでもない町の風景だ。だが、太陽が真黄色に描いてある。子どもは言った。
「昼間にお月さまが出ているなんて変だよ」。
太陽が赤色の日本では、月は黄色である。ところが、太陽が黄色の文化では、月は白色が普通だ。このことを知らなかった日本の子どもは、絵本の太陽を月と思い、納得できなかったのである。
③ 日本の大手食品会社がアラブの国に缶詰(かんづめ)を輸出した。しかし売れ行きが悪い。そこで現地で競合する他社の製品を買っていた現地の人にさりげなく尋ねてみた。「どうして、自社製品を買わないのか?」と。「太陽の絵が描いてあるからさ」、が答えだった。
日本では、太陽、朝日、日の丸は好んで商品名に使われる。しかし、一年中、砂漠の中で灼熱の太陽に苦しめられて生活をするという文化をもつ人々にとっては、太陽は、日本人が考えるような恵みを与えてくれる生命の源ではない。
まかりまちがえば、死を意味する呪わしき存在なのだ。アラブの人々にとって太陽は、食品のブランドとしては最も不愉快なマイナスのイメージだ。アラブの人々にとっては、月が希望であり、美であり、救いなのだという。万物を干上がらせる太陽が沈むと、砂漠は涼しくなる。人々は生気を取り戻す。ふと空を見上げるとそこには、月が冷たく、美しく輝いている。 |
虹の色はいくつか? |
④ 日本人にとって「虹の色」といえば以前から「七色」と決まっている。このことは、どんな小さな国語辞典にも書いてある。
日本文化では、「虹」は七色と決まっていて、「赤」(せき)、「橙」(とう)、「黄」(おう)、「緑」(りょく)、「青」(せい)、「藍」(らん)、「紫(菫)」(し、きん)の七色と思っている。
⑤ アメリカの構造言語学者のH・A・グリースンによれば、「バサ語を話す人は、虹色は二色、ショナ語を話す人は虹の色は三色だ」という。英語では六色だと、英英辞典に書いてある。
フランスでは虹の色は六色だった。
ドイツでは、五色と答える。
⑥ では、本当の虹の色は何色か。
近代光学の祖ともいえるイギリスのニュートンは実験室で初めてプリズムを使って太陽光を分解した。
プリズムで分光された多彩な光の帯は七だと特定した。
このニュートンによる解明以降、科学、教育にかんする分野では虹の色は七とされるが、民衆レベルでは六が主流だ。
⑦ では、日本の近隣の諸国ではどうか。韓国、中国、ベトナム、タイ、マレーシアなどでは、虹の色は一様に「七色」のものとされている。
日本で10年くらい前に郵政省が六色の虹の色の切手を発行したときは、「一色足りない」という抗議が殺到したという。
だが、今は、昨年「ふみの日」に出た記念切手では、虹の色は五色になっている。しかし、もう誰も反撥しなくなっているという。 |
欧米人はY経路、日本人はX経路で認知している |
■ここまで、鈴木孝夫ののべる日本語と外国語の違いの要点をご紹介しました。鈴木孝夫は、同じ物を認識する場合でも、日本語と外国語(特に欧米語)とでは、このように「認識の差異がある」ということを論点にしています。
しかし、これは、鈴木孝夫の理解と違って、日本人と欧米人、ひいてはアジア人と欧米人の「ものごとの認知と認識の仕方」の差異によるものなのです。脳の働き方でいうと「Y経路中心」か、それとも「X経路中心」かの差異がつくる「言語」の生成のされ方の問題です。
『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(無藤隆、講談社現代新書)の中に、次のような記述があることをすでにご紹介しています。もういちど要旨をご一緒に確かめてみましょう。 |
カテゴリーを記憶する |
① 満一歳から一歳半にかけての子どもは、「イメージ思考」をおこなうようになる。「イメージ思考」とは外界(がいかい)の知覚に関連した「カテゴリー」を形成したイメージ思考をおこなうことだ。
② アメリカ・カリフォルニア大学サンディエゴ校のマンドラーとミネソタ大学のバウアーは、14ヵ月から20ヵ月の子どもを対象として「カテゴリー操作」の実験をおこなっている。「カテゴリー」とは、「台所用品」と「浴室用品」という二種類を与えて、子どもが区別するか、どうか?を確かめるものだ。
③ この実験の結果、子どもは、「台所用品」「浴室用品」の二つのカテゴリーを区別して、分類することが明らかになった。
④ 乳児は、さらに「上位、下位という関係のカテゴリー」も把握していることが分かった。
- 上位のカテゴリー…乗り物
- 下位のカテゴリー…自動車、トラック
- 上位のカテゴリー…動物
- 下位のカテゴリー…犬、猫
⑤ 乳児の「カテゴリー分類」というイメージ思考は、次のようなものである。
- 歩く動物(上位概念)…犬、猫、馬(下位概念)
⑥乳児の「イメージ思考」の生まれ方
- 子どもは、0歳8ヵ月ぐらいから記憶力が相当に発達する。
さまざまなことを、見たり、聞いたり触って、確実に24時間程度は覚えていられるようになる。
- 短期記憶(初めて行動するときの記憶)と長期記憶(体験したことの対象が記憶されて、つねに表象が可能となる。行動のためのエピソード記憶になる)、がおこなわれるようになる。
- 「イメージ思考」とは、ものごとにたいしての知覚の記憶のことだ。知覚とは、目、耳、手、皮ふ、臭い、などの五官覚のことだ。知覚は、まず「認知」として記憶される。
この「認知による知覚の記憶」がイメージとして表象される(右脳の記憶が、右脳系の前頭葉に思い浮びつづける)。
- イメージ思考として表象される仕方は、外界(がいかい)の対象の形が単純化されて思い浮ぶというものだ。
このようなイメージを「イメージスキーマ」(マンドラーによる定義)という。
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ベクトルがメタファーを生成する |
⑦ 「イメージスキーマ」の内容とは、次のようなものだ。
- アメリカの認知言語学者のレイコフは、「イメージスキーマ」を「比喩」(メタファー)に相当するものだととらえている。
◎例
道筋…「たどっていく」、「目的までの歩き方、進み方」「つながり」など。
上と下…「力がある、力がない」、「嬉しい、悲しい」、「命じる人、命じられる人」など。
力…「動ける、動く」、「動く、動かない」「動かすもの、動けないもの」など。
部分と全体…「仲間、部分のもの」、「つながっている、つながりがない」など。
結びつき…「同じもの、別のもの」、「同じ、違う」、「安心、不安」など。
◎瀬戸賢一による「メタファー」の解析(『メタファー思考』講談社現代新書より)。
ものが「ある」…ある(在る)とはそこに存在するように見立てるメタファーである。空間性のメタファーだ。
「机の上にペンがある」「地図の上に山がある」「恵比寿は、渋谷の隣にある」「今日、事件があった」「嬉しい気持ちが胸の中にある」など、「ある」は「こと」(事)というように「物のように固定する」というメタファーだ。
上・下…ものがあるというとき、どっちの方向に?という見立て方をする。人間の身体の知覚と感覚器官が基準になる。
「背後…後ろの方向」「右隣…正しい(right)」「目の上…気分がハイになる」「目の下…気分が落ち込む」。
動く…「世の中の動き」など運動のメタファーである。「車が動く」の物理的な動きと区別されるメタファーである。「心が動く」がメタファーである。「動きの始まりと終わりまで。始点と終点」、「私たちは、どこから来て、どこへ行くのか?」など『から』(起点)、『へ』(終点)のメタファーをあらわす。転じて「原因、結果」のメタファーになる。
前に進む…身体の前面方向のメタファーである。「まっすぐに進む」、「まっすぐな心」、「曲がって進む」、「曲がった根性」などのメタファーを生む。
道筋…日本語(漢語では「路」(ろ)「径」(けい)も「みち」になる)。「…を通して」「…を通じて」(英語の前置詞のthroughと対応する)が同系のメタファーになる。
速さ…「速さ」は「動き」と不可分一体のメタファーになる。「歩く」「走る」「飛ぶ」などがメタファーをつくる。
出発する…「母親から離れる」が、子どもにとって「旅立つ」のメタファーになる。「腰を上げて出発の起点に立つ」「出だしが大切」、「始め良ければ終わり良し」、「人生の門出」、「旅路に一歩を踏み出す」などのメタファーを生成する
- 「イメージスキーマ」とは、これらの比喩(メタファー・見立てること)によく見てとれるように、主体となる人間と空間的な関係の内容、および、空間の中のものごとの動きを認知して、この認知の記憶を「記号性」として認識した表象であることが分かる。
- 「イメージスキーマ」は、乳児にとって、自分が動くというときの知覚の対象の長期記憶のことだ。乳児が、あるカテゴリーと向かい合う時に、このカテゴリーの中の対象と自分は、一体、どう関わったのか?という「行動の仕方」として表象する。
- その行動の仕方とは、瀬戸賢一が「メタファー思考」として考察しているとおりのものだ。それは、次のように要約されるものだ。「前か、後ろか?」「上か、下か?」「道筋はどうか」「出発する」「速さはどうか?…道筋はハッキリしているので、まっすぐ前に向かって一直線に、安心して進んでもよい」、「母親との共同指示も、共同注意からも離れて出発する。人生の旅立ちに一歩を踏み出す」…などのイメージの表象が「イメージスキーマ」となる。
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人間は、行動のために言葉を表象する |
⑧ 「イメージスキーマ」(イメージ思考)を記憶する「脳」の記憶の仕方とは次のようなものだ。
- 対象は、「生きているもの」、「生きていないもの」というカテゴリーで認知される。
- 「生きているもの」「生きていないもの」のカテゴリーを分けるのは「自発的な動き」である。乳児は、目で見ている対象の動き方に注目している。「動きの始まりは、自分からなのか?それとも、他のものがぶつかって動くのか?」を区別する。(0歳6ヵ月から0歳9ヵ月になるとこの区別がつく)。
- 乳児は、「動くもの」の「ベクトル」に注目する。ベクトルとは、「ある物」がA点から出発して動くということは、その物は、A点という動きの始まりに存在する、ということだ。そして動きが止まったB点にも「その物」は、存在する。このA点からB点までの「道筋」の全てに「その物」は存在していたことになる。この動きの「道筋」を「ベクトル」という。(注・ゲシュタルト認知の「パターン認知」のことです)。
- 乳児は、「ものの動き方」のベクトルを記憶する。そしてその「動き方」を根拠にして「生きているもの」と「生きていないもの」を区別する。
0歳の終わり頃になると、乳児は、「人」および「生きているもの」と「生きていないもの」を明確に区別するようになる。
- 乳児は、ベクトルの記憶にもとづいて、「自ら動く」だけでは「生きているものである」と認知しない。
「動きのベクトル」が「直線的であるもの」は「生きていないもの」だ。「生きているもの」は曲線的であり、動きの方向も多様に変化する。
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人間の言葉を生成する脳のメカニズム |
■無藤隆ののべる「乳・幼児」のものごとを記憶する「記憶の仕方」を再構成して、ご一緒に確かめました。
お分りのとおり、ここで乳児がおこなっている「ものごと」を対象にしての分かり方とその対象と関わるときの行動の仕方は、言語を憶える以前の脳の働き方のことです。脳の働き方の基本型は、「乳児自身」が「自ら動いて関わる」ことです。自分が動いて関わるか、どうか?が記憶を高次化するメカニズムのベースになっています。このことは、人間の記憶とは、つねに、自分の行動の対象にたいして「記憶のソース」を表象させるということを意味しています。
乳・幼児の段階では、行動の対象は、家の中と母親との関係に限られています。
しかし、家の中といえども生活の空間の場として見ると、乳・幼児にとっては広大な空間になります。まだ独力では動けない状態では、未知の空間の広がりとしてとらえられているかもしれません。
「ハイハイ」をして動けるようになると、空間の「カテゴリー性の認知と認識」が完成するまでは、「行動の対象」ではありえません。
ここに「認知」と「認識」の二つの記憶の発達のメカニズムがあります。そのメカニズムの基本型とは、次のようなものです。 |
脳の働き方のメカニズムと記憶の基本型 |
- 視覚の対象として認知する。
(Y経路によるゲシュタルト認知により、カテゴリーとベクトルを認知する。ブローカー言語野の3分の2のゾーンで認知する)。
- 視覚で認知した対象のカテゴリーとベクトルは、この段階では、短期記憶として認識される。認識は、ブローカー言語野3分の2のゾーンのX経路による。(注・X経路による支配はブローカー言語野の3分の1のゾーンですが、認知を認識に変えるのは、自律神経の副交感神経のX経路(A6神経)です。ゲシュタルト認知によりカテゴリーと、ベクトルを認知するのは、Y経路すなわち、自律神経の交感神経(A10神経)です)。
- 「行動」とは、広い意味で「見ること」「触ること」「聞くこと」「話すこと」も含む。狭い意味の「行動」は、手や足を動かして移動したり、ものごとに作用させることに限定される。
このいずれかの「行動」によって現実の対象との関わりが反復されるときに、この反復に正比例して対象の認知の記憶は抽象化する。すなわち、いちいち対象を目で見るということがなくても、カテゴリーやベクトルが「パターン化」した「記号」として表象する。
(右脳・ブローカー言語野の3分の2のゾーンの記憶が、右脳系の前頭葉にイメージを思い浮べさせる。ちょうど、夢を見ているときにさまざまな形象像が視覚的に思い浮べられるように、像として思い浮ぶ)。
この段階では、その対象に向かってただちに行動するか、どうかとはむすびつかない。行動していいか、よくないか?などを判断する。その判断は「行動のルール」にもとづく。不安、安心、制止、許可などが判断の内容になる。
(「ほうちょうで遊んではいけないが、おもちゃの自動車では遊んでよい」、「子ども部屋で遊んでいいが、風呂場では遊んではいけない」など)。
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欧米人が「虹は5色」と認識する理由 |
■ここでは、人間の脳の働き方がつくる「記憶」とは、「行動すること」に根拠をおいて、行動の対象についてのイメージが思い浮ぶということをお話しています。
やがて、今すぐ「行動の必要はないけれども、イメージが思い浮ぶ」という水準に記憶が高次化します。この高次化は三つの段階に分けられます。一つは、乳・幼児の段階です。ここでは、カテゴリーやベクトルの記憶は、「直接行動の対象」の「イメージスキーマ」です。
やがて、「話し言葉」による「音声」が、カテゴリーとベクトルに「記号性」の記憶を加えます。これが二つめの段階です。次の段階で、話し言葉で記号化されたカテゴリーとベクトルが、「書き言葉」によって「記号化」されます。
ここで鈴木孝夫の『日本語と外国語』の中の「虹の色」や「リンゴの色」「太陽の色」に話を戻しましょう。
すでにお分りのとおり、欧米人は、「カテゴリー」としての認知や認識をそのまま「話し言葉」の記号性の中に押し上げています。概念化しています。乳・幼児がカテゴリーによってものごとを「弁別」して、行動の仕方をメタファー化(言葉の意味)した概念を、「行動の対象」ととらえているという意味が「オレンジ色の猫」や「リンゴの色は緑色」であったのです。
では、日本人は、自分がこれから行動の対象とするであろう「遠くにあるもの」をどのようなカテゴリーとして認知して、さらに認識しているのでしょうか。
大野晋は『日本語の起源』(岩波新書)の中で、次のように説明しています。 |
日本語の起源 |
① 江戸時代になって、日本の国学者は「日本とは何か?」を知ろうとして「儒仏以前の日本を明らかにしたい」と考えた。漢字が日本に入ってくる以前の日本のことだ。
中国を経た仏教、および中国で育った儒教によって文明化される以前の日本の姿を明確にしたいと考えた。本居宣長もその一人である。
② 本居宣長は、古事記を精読した。和語によって再表現することにつとめた。本居宣長の考えた「和語」とは、「純粋の日本語」である。土着の言語である。その土着の言語によって語られた古事記によれば「日本とは、天地創造の神々、イザナギ、イザナミ以来、その一系の天皇家が平和のうちに統治する稲穂の満ちた国」である。宣長は、ここに「非中国としての日本のアイデンティティがある」と考えた。
③ 中国の最も古い歴史を書いた『史記』によれば、中国では、国の初めから人々は殺し合い、権力を手中に治めるために権謀術数をこらしている。
日本は、そういう国ではないのだというのが宣長の到達した主張だった。
④ しかし、考古学の発達によって明らかになったことがある。
日本に稲作が存在したのは古くとも紀元前七○○年、さらに古くても紀元前一○○○年以上にさかのぼることは、全体としては無いことだ。その時期以前には、「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国」は、日本の地には存在しなかったのである。考古学は国学者の日本観を打ち砕いた。 |
南インドからやってきた |
⑤ 日本からこれらのもの(注・コメ、アハ、ハタケ、タンボ、アゼ、クロ、モチ、ヌカ、ハカ、カネ、タカラ、ハタ、オルなどの単語と物のこと)が南インドに伝えられていったと考えることができるだろうか。
それは不可能である。G・ラオ教授によれば、南インドでは紀元前一○○○年からさかのぼって紀元前一二○○年には稲作・鉄器使用が始まっている。一般化していた。それは、日本の縄文晩期をさかのぼること何百年という時期である。
⑥ 南インドのタミル語と共にあった文明が、日本でいう縄文時代の終末期に日本に入って来た。安定的な、美味な、滋養に富む食糧の生産の技術、強力な武器と工具を作る金属の使用に象徴される文明。それらを受け容れた日本人は、ついでその文明の基盤であった当時のタミル語を聞き入れ、使用しはじめ、その「五七五七七」という歌の形式まで取り入れたのではないか。
⑦ では、どのようにしてこれらの文明の伝播、波及がおこなわれたのか。それは舟による交通である。海上交通は、想像以上に遠距離を航行していた。証拠はある。弥生中期の土器片に片舷18本のオールで漕いだ舟の絵が描かれている。エジプトのハトシェプスト女王の墓にも似たような舟が描かれている。それは15人漕ぎで、21・5メートルある。また、クフ王のピラミッドの前から実際に掘り出された舟は、長さ45メートル、紀元前二十六世紀のものであると証明された。弥生時代の土器に描かれた舟の絵は数多くある。古代の交通路は海路が中心であったというのが定説になっている。 |
日本語の文法の起源 |
⑧ 歴史時代に入るころの日本人の世界把握の一つの特徴は、彼らが「アメ(アマが古形)」という観念をもっていたことだ。「アメクニ」「アメツチ」として使われた。
- 「アメ」とは天上にあって、神々の住む所とされた。
- 「アメ」は「タカマノハラ」(高天原)とも呼ばれた。
- 日本人は、世界を「アメ」「ナカ」「ネ」の三層として理解していた。アメ(天)、ナ(地)、チ(地下)の三層である。
⑨ 「アメ」(天)に住むものは「カミ」であった。
- 神は「上」(カミ)にいる存在である。
- カミは「守」(カミ)である。(地方の長官など。一連の続きの始めの方)。
- カミは「雷」である。
- カミは、虎とか蛇、狐とかをさした。正体不明のものを「鬼か、かみか、狐か木魂か」(源氏物語)といっている。
- おそるべき猛威をもつもので超人的威力を発揮する存在であるとされる。
- カミは、山、坂、海、道を領有していて支配している。通行する人間に、時には、禁止の命令を出すおそろしい存在である。人間はそれを畏怖した。古代の人は、山の峠にくると安穏を祈った。
- そのまま「天皇」を意味した。
- 「社」(やしろ)に祭られていて、人間の動きを見ぬく超能力を具えている。
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現在の日本語の文法の基本型 |
■大野晋は、『日本語練習帳』(岩波新書)の中で「日本語の尊敬語」の文法上のメカニズムを説明しています。
- 「亡くなる」「おいでになる」「ごらんになる」「いらっしゃる」「入らせある」などが尊敬語です。
「なる」「らる」「ある」が尊敬語を形成します。
- この「なる」「らる」「ある」は、「自然の推移」の結果としてある状態に至ることだと説明しています。つまり、「自然に成る」「自然に推移してある結果に至ること」が尊敬語の主旨です。
- これは、日本人にとって「自分を中心にして、人間(自然も)を遠いか、近いか?」を区別していたという内容になります。
「近い所にあるもの」…安心できる、親愛できる、なれなれしくできる、時には侮蔑にまで発展する。
「遠い所にあるもの」…外(ソト)のこと。恐ろしい所、恐怖の場所、雷、オオカミ、神がいる所である。
- 外(ソト)で生じることは「自分に左右できないことだ」「自分が立ち入るには危険を冒さなくてはならないことだ」、「外(ソト)のことは、傷をつけないように、手を加えてはいけないことだ」…と認識された。
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日本人のX経路中心の認知と認識の仕方のメカニズム |
■この大野晋の日本語(和語)の文法の説明は、そのまま、日本人の行動の仕方になることはすでにお分りのとおりです。日本人が、ものごとを「分かる」という「分かり方」は、「対象」となるものを、「自分の内(うち)」(自分の家の垣根の内側)に取り込んで、自分の身体の地続きの延長にあるものとして認知したとき、ここではじめて「分かる」「分かった」という認識が成立します。
「対象」となるものは、どのようなものであれ、「カテゴリー」としてとらえられた「ベクトル」の生み出すメタファーの対象にはなりえないことが分かります。
日本人にとって「虹」は、「虫」と同じものでした。「虹」は、虫のような生きもので、それを手に取るようにじっと見ると「七つの色」を放っているというようにとらえられたのです
このことは、日本語による表現は、次のようなことを意味します。
- 「花は桜木人は武士」
の文型のパターンのように、「結論」や「説明の内容」が曖昧になりやすい。話の主旨をハッキリ言いあらわさない(認識できない)ことを「美」と感じやすい。
- 日本語で、ものごとを伝えるときは、「カテゴリー」の上位、下位の概念を説明し、さらに「ものごとの動きの内容」(ベクトル)を、「どのように」「なぜならば」「なぜかというと」「なぜそういえるのかというと」という記述の表現が不可欠になる。
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日本人の行動停止という「うつ」の乗りこえ方 |
■日本語を、脳の働き方からとらえるとどのように役に立つのか?についてお伝えいたします。
まず、日本語の特性は、「Y経路の認知の対象」をカテゴリー(弁別的用法・鈴木孝夫)としてとらえず、この中のベクトルを専門的用法(鈴木孝夫)の言葉にしていないことにあります。中国の漢字が、かろうじて、「Y経路のカテゴリーとベクトル」をとらえています。
日本人は、漢字の「意味」を不問にして、読み書きだけを「言葉の能力」と評価します。
Y経路のカテゴリーとベクトルの典型は「心の病い」です。
日本人にとっては「行動が止まる心の病いのうつ病」です。
今の日本のグローバル・リセッションは、日本人の「うつ」を露出させない「依存」の象徴が無くなったことに本質があります。日本人は、「依存」がなくなるとここで「不満をもつ」か、「諦める」かのいずれかを選択します。行動しないことの「安心」がなくなるからです。
「諦め」の「行動の停止」は美化のイメージをつくってこのイメージに向かってジャンプすることを生みます。このようなリスクを乗り超える行動力をつくり出すでしょう。 |