グローバル・リセッションを日本人はどうとらえているか? |
平成21年1月20日に、アメリカでは「オバマ大統領」が新大統領に就任しました。新聞の報道によりますと、オバマ新政権が向き合う課題は、「21世紀の資本主義と国際秩序の再設計にかかわる問題である」といわれています。「自国の経済危機」と「対テロ戦」のことです。
「金融システムの信用収縮の要因となっている金融機関の不良資産の抜本処理」、「3月末には自動車大手の再建計画の承認期限が来る」など、アメリカ国内の景気対策が根本の課題です。
アメリカの国債は、「外国人の保有率」が50%を超えているといわれています。一方、日本、中国、ヨーロッパの各国にとっては、ドルの資産化にたいして自国の通貨による資産価値を上げなければならないことが不況対策になります。自国の内需拡大と投資がうまくいかなかったことが、ドルによるバブル化の原因であるからです。
日本人のおおくは、「アメリカ経済が立ち直るまでじっと座して待つ」という思考の仕方が多いようです。この日本の思考パターンは、「非正規社員の解雇問題」に象徴される雇用問題が拡大されることはあっても、縮小に向かうことはないというのが、今の「グローバル・リセッション」(世界規模の景気後退)が突きつけている問題になります。
日経新聞の編集委員、西篠郁夫は、平成21年1月20日付の「一日均衡」欄でこう書いています。
- 製造業派遣や雇い止めが社会問題に浮上している。
「企業は、蓄えた内部留保をはき出し、雇用を維持せよ」との発言がある。
日本共産党の志位和夫委員長は「自動車産業は2万人近い人員削減をすすめている。内部留保の0.2%を取り崩すだけで雇用は維持できる」と訴える。
- 労働組合の連合は同様の主張をしている。政府の河村建夫官房長官も、「企業は、こういうことに備えて内部留保を持っている」と発言した。
- だが、ここには、大きな誤解があるのではないか。
内部留保は、過去の利益など累計した数字であって、その多くは、生産設備などに再投資されている。自動車業界の内部留保は29兆円といっても、それだけのキャッシュが「埋蔵金」のように積み上がっているわけではない。
- 金融収縮のなかで、相当な大企業といえども日々の資金繰りに苦労しているのが実態だ。
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グローバル・リセッションは、長期的な問題とは、考えない日本人の思考パターン |
■ここにあるのは、企業にとって働く人とは、企業の「内」か「外」にある人間であるという位置づけ方による「労働者観」です。
企業にとっても、政府にとっても、労働組合にとってもこの「労働者観」は共通しています。
しかし、アメリカ、ヨーロッパの「労働者観」は、日本人のそれとは大きく異なります。
「ドイツでは、労働者は経営の中枢に位置づけられる」「フランスでは合併では労働者の合意が必要である」「イギリスも、法制上、労働者の地位は高い」「アメリカも個人株主中心の社会であるために、株主とは、人間であり、消費者であり労働者であるという考え方で、欧州と軌を一にする」
(日経、『大機小機』欄。平成21年1月21日)。 |
国語学者・大野晋の「日本語」についての発言 |
このような日本人の「労働観」ならびに「労働者観」は、日本人の「言語観」ひいては「脳の働き方がつくり出す言葉の能力」に根拠があります。
- 民主主義の考えは、我も汝も金持ちも貧乏人も、選挙においては「一票だ」というものだ。相手と自分とを「意思をもつ主体」としてとらえる社会体制のことだ。
- 日本人は、ここに考えを及ぼすことができない。人間関係を「上と下」(漢語よりの輸入)、「遠いか、近いか。親しいか、疎遠か」を第一にしてとらえて仲良しクラブの一人として生活することを大事にするのが、日本社会である。
- 日本語社会では、相手が「うちの存在」か「そとの存在か」という意識がこまかく働いている。
人々は非常に敏感にそれに対応している。また、相手を「自分にたいして上の存在と扱うか、下と見るか」ということも重要になっている。その認識を言葉のつかい方の上に具体化する仕方が日本語の「敬語の体系」である。その人間関係のとらえ方をはっきり言葉で言いあらわして反応したり、適応しないと、即座に、「あの人は常識がない。ものを知らない人だ」と仲間外れにされる。
- 同じことは、日本語の「人称代名詞」にもあらわされている。日本語の敬語では「なる」「らる」「ある」という言い方を用いる。
(用例……「亡くなる」「おいでになる」「ごらんになる」「いらっしゃる」「入らせらる」「仰せある」など)。
- 「近称」の「こちのひと」「こなた」などは、親愛の表現だ。「遠称」の「あなた」は、初めは、尊敬の対象として相手を指すのにつかわれた。「遠いもの」として扱うことが、尊敬することだった。
- 日本の原始社会の人の心性は「うちは安心な場所」「親愛できる所」「なれなれしくできる」「ときには侮蔑(ぶべつ)もできる」ものとみなされていた。
- 一方、「そとは恐ろしい場所」「恐怖の場所」「妖怪や神がいる場所」だった。
- 「そと」で生じることは「自分に左右できないこと」「自分が立ち入るには危険を冒さなくてはならないこと」だった。
だから、「外の人」「外のこと」には手を加えない、キズをつけないようにそっとしておく、成りゆきのままにまかせる、恐ろしい自然のままのこととして扱う。それが「尊敬」と展開した。
- 日本語の「尊敬語」「ていねい語」は、いきなり相手を「上か下か」で扱う人間関係で始まったのではない。これは、中国から「漢字」が輸入されてからの人間関係の意識である。
- 日本人は、古代人の心性の「自然のこと、遠いことには立ち入らない、手を加えない」とする最高の敬意の表明を「言語形式」に定着させた。それが「自発の助動詞」の「る」「らる」「られる」が、同時に「尊敬の意」をあらわすようになった。だから、「尊敬形」には「なる」を使い、「れる」「られる」「ある」の付いた形があわせて使われている。
(大野晋『日本語練習帳』、岩波新書より)
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日本語の「文法」は、「行動を止めること」をルールにしている |
■ここでは、日本語と、日本語の言いあらわし方、書きあらわし方の形式をつくる「文法」の特徴が説明されています。人間は、言葉の「意味」によって行動します。言葉を生成するのは脳の「ブローカー言語野」です。ブローカー言語野は、「3分の1のゾーン」と「3分の2のゾーン」との二通りに分かれます。
いずれのゾーンでも、「行動のための言葉の意味」があります。
日本人の場合は「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」で「話し言葉」を生成しました。
「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に、中国より「漢字」を輸入して学習して憶えてきたのです。
しかし、日本人は、「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」の「和語」(やまとことば。話し言葉)に漢語を取り込んで「訓読み」という形式を生み出した。「和語」(やまとことば)のもつ言葉の基本型の「意味」の「遠い、近い」は、今も、「文法」の形式として継承されています。これが、日本人の「労働観」「労働者観」のものの考え方と、行動の仕方のベースになっているのです。
このような日本人の古代原始社会の「和語」(やまとことば)がつくった「敬語」「尊敬語」「人称」を今もなお「行動」にあらわしている日本人社会について、吉本隆明氏は、次のように書いています。 |
吉本隆明「共同幻想」に見る日本人の観念のしくみ
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① 国家は共同の幻想である。風俗や宗教、法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。
② 人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり、流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。
③ 国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない。
(以上『共同幻想論』の「序」より)。
④ 禁制(Tabu)のようなもともと未開の心性に起源をもった概念に、まともな解析をくわえた最初のひとはフロイトであった。フロイトに類推の手がかりをあたえたのは神経症患者の臨床像である。神経症患者がなぜそうするのか理由もわからず、また論理的な系もたぐれないのに、ある事象にたいして心を迂回させて触れたがらないとすれば、この事象はかならずといっていいほど、患者にとって願望の対象でありながら、怖れの対象でもあるという両価性をもっている。怖れの対象でもあるという側面は、心の奥の方にしまいこまれることを見つけだしていったのである。
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解説・日本人社会が神経症か精神症をつくり出す根拠 |
■人間は、「言葉によって行動する」という本質を前提において考える必要があります。この「言葉」とは「言葉の意味」のことです。「意味」とは、「原義」(語の意)のことです。古代の原始社会では、まだ「書き言葉」はつくり出されていません。だから、「話し言葉」が人間の言葉のすべてでした。
この話し言葉にも「意味」はあります。「意味」とは、「行動にむすびつく言葉」のことです。「行動」とは、じぶんひとりで決めるのではなくて、「3人以上の人間」の間で合意される「行動」のことです。人間の脳は、じぶんが知覚したり、体験したことを認知して記憶します。
この「認知」の対象を記号性のパターンとして記憶して「認識」に変えます。
この「認識」が視覚のイメージになったり、聴覚のイメージになったり、触覚のイメージとなって「前頭葉」に思い浮べられます。「前頭葉」は、パソコンのディスプレイのような役割を果しています。
おもに思い浮ぶイメージは視覚のイメージです。いったん思い浮べられたイメージは、原則として一生、死ぬまで思い浮べられつづけます。これは自律神経の恒常性(ホメオスタシス)の働きによって思い浮べられつづけるのです。この思い浮べることを表象(ひょうしょう)といいます。
表象(ひょうしょう)とは、「ラーメン店に行こう」とか「パン屋に行こう」というように、ハッキリと行動の対象が思い浮べられるのではなくて、漠然と、とりとめもなく思い浮べられるイメージのことです。
吉本隆明氏が『共同幻想論』の中の章の「禁制論」でのべている神経症患者の思い浮べるイメージは、「行動」を避けたり、回避するときの対象のことを指しています。話し言葉中心の社会や生活の中では、他者の話す「行動についての規制や許容」の言葉が恒常的に表象(ひょうしょう)されつづけます。この「行動についての規制や許容」の言葉の恒常的な表象をさして「共同の幻想」といいます。
また、「行動についてのイメージ」が思い浮ぶという人間の意識のこころの現象のことを「観念」といいます。
どこの国の原始社会でも、初めは「話し言葉」しか生成されていませんでした。
話し言葉は、話された瞬間から消えてなくなります。また、行動パターンが変わった時は、初めに憶えていた話し言葉は表象(ひょうしょう)されにくいという特質もあります。さらに、月日が経ち、歳月を経るにつれて、話し言葉は、記憶を変形させやすいという特質をもっています。そこで「行動のルールの言葉」のうち「規制」にかんする言葉に強力な規制力をもたせるために「孤立」と「孤独」のイメージをつけ加えました。それが禁制(Tabu)の意味です。
「3人以上の人間」で共同体がつくられるということは、人間は、「ひとりでは生きられない」という「観念の世界」を形成したということを意味しています。食物を手に入れるのに一人では困難であるとか、病気になったときに誰かの助けが要る、などのことではありません。「他者の行動と同じように、自分も行動する」という「行動」がなされないと、たちまち「行動が止まる」という支障や障害が発生するというのが、「観念」というもののもつ構造的な本質です。
現代の社会でいうと、「薬物の抗うつ薬、向精神薬などを服用しつづけると、社会復帰が困難になる」とか「引きこもり、不登校が長引くと、自立した社会復帰が不能になりやすい」などが証明します。
同じように、「非正規社員」のままで「正社員の行動の言葉」を記憶することがないと、「観念の世界」は、「行動が止まる」という支障や障害を表象します。それが、吉本隆明氏がフロイトの説明に見た神経症の患者の病理です。
現代の日本では、「書き言葉の意味」を学習していない、故に憶えてもいない、という「行動の仕方」が多いので、つねに、近代資本主義の経済社会の中で「行動が止まる」という「神経症」や「精神症」が発生しています。神経症とは、生理的身体に痛みや血流障害の疾患が生じることです。
精神症とは、「怖れ」の対象を「憧れ」の対象にスリ替えて執着することをいいます。「うつ破りの躁的な行動」や「尊敬の代わりに美化の妄想に変える」という幻聴や幻覚の表象のことです。 |
「共同幻想」の中に「禁制」が生じる |
⑤ 遠野のある娘が、ある日雲がくれした。
数年後、同じ村の人間が山の奥でその娘にぱったりと会った。どうしてこんなところにいるのか?と尋ねる。じつは、と娘は話す。ムリにある男に連れてこられた。嫌だと言ったが、その男は力づくで性関係をもった。男はおそろしいことを平気でやる。しかたがないので私はここでずっと暮らすが、このことは、誰にも言わないでほしい。
(柳田国男の『遠野物語』の再構成)。
⑥ ある事象が、人物であっても事物であっても禁制の対象になるには、その対象を措定する意識が、その人間の観念の中にできていなければならない。対象は、「怖れ」でも「崇拝」でもいいが、禁制の対象となるためには、観念の中では過大か、過少に歪めて表象される。
⑦ 人間は、ここで禁制に合意させられている。この合意は「黙契」と呼ばれる。
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解説・日本人の言葉が「禁制」を産出した |
■吉本隆明氏が『共同幻想論』の中の「禁制論」の章でのべているところを再構成してご紹介しました。古代の日本人は、「3人以上の人間」の集合の共同体を「遠いか、近いか」の二つで区別してとらえていたと、大野晋はのべています。それが「和語」(やまとことば)の「文法」の形になっていると説明します。遠くのものは、人であれ、自然であれ、「怖いもの」で「近づかないようにしていた」という了解のされ方です。その「遠くの人」を怖れの対象ではなくす方法について吉本隆明氏はこう書いています。 |
日本の共同幻想は、生理的身体への同化、一体化を迫ってくる |
⑧ 禁制の対象を観念にもつとき、かれの身体が是正を迫る。このときの他者は、性的な対象としての異性である。
■ここでいわれている性的な対象になる、とは、自分の生理的身体に取り込み、吸収し、同化させ、一体になるということの意味です。性的な対象になる、とは、食べ物を摂る、水を飲む、性的な関係をとりきめる、ということと同じように、「自己と同一化」させて、遠くの対象との距離を無くす、ということがのべられています。これを今の日本人にあてはめてみると、言葉を丸暗記するとか、仕事の中で号令や命令のみでしか行動できないという行動パターンが該当します。
家庭内暴力や職場、学校での「いじめ」もまた、同じメカニズムで起こっています。「話し言葉」だけで行動していて、「言葉の意味」を知らないという場合の『意味』を禁制の対象にしています。自分の行動を可能にするための「黙契的な合意づけ」が暴力です。
「うつ病の人」や「分裂病の人」が、「秋葉原無差別事件」や「名古屋バスジャック事件」そして「埼玉県川口市の父親刺殺事件」にみるように異性を襲ったり、性の関係を求めて行動するのも、同じ「身体への取り込み行動」です。「日本の古代の原始社会」の「話し言葉」のとおりに、「人間関係」を「遠い人」か「近い人」かでとらえるときの「言葉の意味」が行動にとっての「黙契との合意」です。 |
日本人は、生き残るために何をしなければならないか |
では、「グローバル・リセッション」が迫ってくる中で、日本人が国家金融資本主義の「経済社会」の中で、再構築のテーマにしなければならないこととは何でしょうか。
そのモデルケースは『フィンランドの教育力・なぜPISAで学力世界一になったのか』(リッカ・パッカラ、学研新書)であるでしょう。
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『フィンランドの教育力・なぜPISAが学力世界一になったのか』
(リッカ・パッカラ、学研新書より、リライト・再構成) |
日本人は「読解力」が弱い |
① 2001年の暮れ。日本の教育関係者の間に激震が走った。
OECD(経済協力開発機構)が32ヵ国の15歳児にたいして、初めて実施した「国際的な学習到達度調査」(PISA・2000)における日本の結果は、「数学リテラシー」は1位、「科学リテラシー」は2位、「読解力」は8位だった。
「リテラシー」とは、情報を読んで意味を分かり、自分で考える能力のことだ。
ここで総合的に1位になったのがフィンランドだった。
② 調査は、3年に1回おこなわれる。
日本は、しだいに順位が低下していく。「読解力」は、8位、
14位、15位と低下していく。「数学リテラシー」は1位、6位、10位と低下していく。「科学リテラシー」は2位、6位へと順位が下がった。
しかし、フィンランドは、連続して上位を保ち、好成績を保っている。
このPISAの調査では、「読解力」が最も重要視されている。
③ フィンランドの子どもの学力は世界一と認められた。子どもの間の成績のばらつきが少ない。学校間の格差や落ちこぼれも極端に少ない。これが驚異的だと世界の注目をあつめている。(「はじめに」より)。
なお、フィンランドは携帯電話の世界一のシェアをもつ「ノキア」など、IT産業を急成長させている。
以下は、フィンランドのヘルシンキの3つの学校で、教えてきた小学校の教師、リッカ・パッカラの話だ。 |
「人に投資しないと未来はない」 |
④ 1994年。教育改革が始まった。
当時は、不況が深刻化していた。失業者は20%を超えていた。
フィンランドは、天然資源もなく、林業以外、これといった産業もない。自給率も低く、多くを輸入に頼っている。
当時の「オッリペッカ・ヘイネン」(29歳)が教育大臣に就任した。
「人に投資しないと、未来はない」。
「経済不況の中で、限られた予算を投資するなら、いちばん有効なのは子どもたちへの教育だ」。
「企業に投資しても、海外に本拠地を移してしまうこともある」。
「子どもに、教育という名前の投資をすれば、優れた人材が国に残る」。
⑤ フィンランドの教師は、「子どもに何かを与えるには、まず、自分が豊かになる必要がある」と考えている。だから、何らかのトレーニングを年に一度は受けている。
⑥ 「教育は、価値あるものだ」。
「自分のスキルをもっとよりよいものにしたい、と誰もが考えている」。
そのためには「学ぶこと」だ。「学ぶこと」は学生時代に限られたものではない。一生、ついてまわる。フィンランド人にとっては、人生とは「学び」なのかもしれない。誰もが自分の人生をよりよいものにするために学び、何を学びたいかを考える。思い描いた人生を手に入れるために、私たちは「学ぶこと」から始まる。 |
「読み聞かせ」が大切 |
⑦ フィンランドでは、どこの家庭でも、寝る前の「読み聞かせ」をとても大切にしている。私の場合は、祖母はフィンランドの伝統的なストーリー、祖父は新聞の記事や掲載されている漫画を読んでくれた。
高校の頃は、夜寝る前に本を読むのが習慣になっていた。
⑧ フィンランドは、母語をとても大切にする。家庭での読み聞かせが定着している。みんな図書館で本をよく借りる。新聞の購読率がとても高い。家庭で、社会のいろいろな問題についてよく話をする。フィンランドのような小さな国では、まわりの世界で何が起こっているのか知りたいし、知っておく必要があった。
⑨ フィンランド人としてのアイデンティティをもちつづけるには、まず母語をきちんと学ばなければならない。だから母語教育をきちんとサポートしていく必要がある。隣国とコミュニケーションをするためには、外国語を学ぶ必要があった。フィンランドでは、フィンランド語、スウェーデン語、英語の三つの言葉が、最低限必要になっている。
⑩ フィンランドでは、「子ども中心の教育」がずっとおしすすめられてきている。子どもが、教室の中で退屈したり、ついていけなくてぼんやりするようなことは、ぜったいに避けなければならない。教師にたいする親からの要求も大きい。子どもたちの両親とのコミュニケーションも必然的に増えてくる。 |
算数が全ての教科の基礎 |
⑪ スイスのピアジェは、6歳から10歳の子どもが数学的な思考やスキルを学んで理解するには、実際の体験が不可欠だと言っている。
算数は、ほかの教科を学ぶ基礎であることと、算数を習得するには何年もかかることが分かった。11歳から13歳になって、ようやく、数字と言葉や文章だけで「算数の問題」が理解できるようになることも分かった。
算数は、家族が暮らす家のようなものだ。土台になる基礎がしっかりしていれば、家の組み立ては簡単に出来る。基礎が不安定だと家は欠陥住宅になる。低学年の子どもにとって大切なのは、算数の基礎をきちんと理解しているか、どうかだ。 |
「文法」の理解が語学の基礎 |
⑫ フィンランドでは、3年生になると二つ目の言葉として「英語」の勉強を始める。ほかの言語を学ぶためにも、フィンランド語の「文章構造」をきちんと理解している必要がある。「英語」の勉強は、母語よりも分析的にとりくむ。そのために「動詞とは何か」「形容詞の役割りは何か」など、フィンランド語の「文法」を教える。「英語」を教えるときに、「これは動詞です」「これは形容詞です」と説明をする。もちろん、英語の先生は、最初から「文法」を教えるようなことはしない。まず、歌で簡単な「英語の言葉」を教える。「4年生」からは、「形容詞が動詞にどのような影響を与えるか」などという説明が始まる。フィンランド語で「動詞が何か」を知らなければ「英語」も理解できない。4年生からは「二つ目」の外国語として「スウェーデン語」や「ドイツ語」を始める。基礎学校を卒業するときは、フィンランド語を含めて、四つの言葉を話すようになる。
言葉は、フィンランド人にとってそれほどに大切なものだ。 |
「歴史」の教え方 |
⑬ 私は、「歴史」とは何か?を子どもたちに知ってもらうために、「自分」を基点にして教える。両親、祖父母など身近な家族の「歴史」から始める。子どもたちは、「自分が歴史の一部」とは考えていない。「歴史」とは恐竜の時代、エジプトの時代のことで自分とは関係ないと思っている。だから、自分の歴史を知る、次に遺跡を見学する、住んでいる地域の歴史へと範囲を広げる。
さらに、フィンランドの歴史、そして世界史へと進む。核になるのは「自分」である。 |
子どもの親との関係には「外交能力」がいる |
⑭ フィンランドの教師は、いつも「子どもにたいする親の責任は何」で、「学校の責任は何か」と話している。最近は、「親が子どものために境界線を設定できない」といわれている。
子どもは、「赤ん坊のときにどのように扱われたか」「両親からどのようなことを教えられたか」で、人格のかなりの部分ができ上がる。
だから、子どもには、「お願いします」「ありがとう」「ごめんなさい」の三つのことを教えておいてほしいと思う。教師が親と話すときは、責めてはいけない。それは問題解決を先伸ばしにするだけだ。教師には大いなる外交能力が求められている。
⑮ フィンランドでは、「宿題」は「その日に学んだことの復習」だ。だから、「子どもが出来ない宿題」は出さない。新しいことを覚えるような宿題は出さない。「授業のくり返し」だけだ。親も、こういう宿題ならば「子どもが、学校で何を学んでいるか?」を知ることができる。
親は、子どもと一緒に宿題をやることもなく、手助けもしない。
親には、「宿題に30分以内、せいぜい45分。これ以上かかるようなら私に相談してください」と伝える。
フィンランドでは、夏休みの宿題はない。 |
「いじめ」の取り組み方 |
⑯ 世界中の学校で「いじめ」のない学校など存在しない。社会の中で大人が、社会的な地位を奪い合うのと同じように、子どものいる教室にもそれがある。何人かの子どもがグループになれば、対立して利害も生まれる。心の準備をしておくのは大事だ。「いじめ」を感じて見ないフリをしても問題は大きくなるだけだ。私は、「いじめ」にかんする匿名のアンケートをとる。
「いじめはありますか?」「いじめられたことは?」「いじめたことは?」「それはどんなことでしたか?」。
私は、学期の初めに、子どもたちにハッキリ宣言する。
「いじめを見つけたら絶対に許しません。必ず解決します」
「いじめ」に打ち勝つためには、「子どもの自負心」を育てることが大切だと思う。自負心とは、
「自分で自分の世話ができる」。
「判断がつかない時は、どこに行けば助けを得られるかを知る」。
「自分の意見をもって伝えられる」。
大きくは、この3か条だ。 |
日本人の「国語の能力」は「主体」の確立が根本のテーマである |
■日本人にとっての母語は「日本語」です。その日本語は、「和語」(やまとことば)を文法のベースにして、「訓読み」のように、漢語の「意味」を取り込んでいます。『遠野物語』に見る「アジア型の共同幻想」のとおりに、「話し言葉の主体は存在しない」とみなす母語になっています。フィンランドの学校教師と生徒の関係のように「相手を主体ある意思の存在」という関係を生成させがたい言語です。「他者の発言」は「空間」「場所」の発言と認識して、「崇(おそ)れ」、「そっと成り行きにまかせる対象」という理解をもたらします。「行動すること」「遠くへ行くこと」を恐れるという「共同幻想」を観念として構築しています。
すると、「日本語」のもつ「X経路」を「Y経路」へとシフトするには、いくつかの文法上の工夫が必要です。
- 助詞の「は」につづく言葉に「名詞」を多く用いない。
「どのように?」を説明する「動詞」の表現をこころみる。
- 助詞の「が」の使用をなるだけ避ける。(名詞の言葉や名詞化した言葉が多くなって、バーナム効果のイメージを生じやすい。)
このような「和語」(やまとことば)の「距離のなさ」と「遠くの空間性を恐れること」を表現する「文法」から自由になるには、次のような学習モデルがトレーニングのために有効です。 |
エクササイズ |
(自立する史上最強の知性の学習モデル。A=B、B=C、故にA=Cの推移律の表現力が身につきます) |
■事例・I |
A・「急がば回れ」(いそがばまわれ。故事・ことわざ。概念。遠山啓の水道方式の「数詞」にあたる)。
B・意味(水道方式の「タイル」に相当する)。
急いでいるときは、危ない道よりも、遠回りでも安全で確実な道を選べということ。転じて、急を要する時こそ、あわてずに確実な方法でていねいにやるのがよい、ということ。
C・設問
「急がば回れ」の用例(タイルの三者関係の現実の物、実物に相当する)として、どれが適切ですか?
- 急(せ)いては事を仕損じるという。何ごとも、事前の準備が大事だ。
- 近道は遠道という。すぐに効果のあるようなハウツーものの本の欠点の一つだ。
- 回るは早道だ。諦めずに、コツコツと地道に努力をつづけると、いい結果を得ることができる。
(正解…1,2,3の全部です) |
■事例・II |
A・「蟻(あり)の思いも天に届く」
B・非力な弱者でも一途(いちず)に努力すれば望みを実現できる、という喩(たと)え。
C・設問
三者関係のA=B、B=C、故にA=Cに当るものはどれですか?
- 小さな蟻でも願って努力すれば思いは天に通じるというのだから、諦めてはいけません。
- 小さな蟻でも、じっと熱く願えば、思いは天に通じるから諦めてはいけません。
- 小さな蟻でも思いは天に通じるというから毎日、願いつづけましょう。
(正解…1です) |
■事例・III |
A・「精神一到何事か成らざらん」
B・精神を集中して取り組めば、どんなに困難なことでもできないことはない、という教え。
C・設問
三者関係のA=B、B=C、故にA=Cに当るものはどれですか?
- 意思のあるところには、道があるということと同じだ。毎日、少しずつつづけると成功する。
- 意志あるところには道があるという。一日を25時間と見立てて努力すれば、状況は変えられる。
- 「一到」とは、一つのことに集中するということだ。参考書でも学習教材でも、一つのものをマスターすることが成功の方法だ。
(正解…2と3です) |