人間の「観念」が「共同幻想」になるという理解の意義とはこういうものです |
前回の本ゼミでは、「人間の観念」とは、あたかも「車のナビゲータ」とか「道路交通の地図」や、「船、飛行機の運航地図」のような「イメージ」のことだと解析してお話しました。
この、「人間の観念」は原則として二通りの成り立ち方をします。一つは、「話し言葉」によって成り立つ「観念の世界」です。もう一つは「書き言葉」によって成り立つ「観念の世界」です。
ここで、「観念の世界」というように「世界」といういいかたをするのは、「道路交通の地図」や「船、飛行機の運航地図」は、そのまま「現実の空間」に同一性(ヘーゲルの言葉)として対応しているからです。空間性の広がりや時間的な距離の道のり(行動したときの経過をあらわす所要時間)を内容にしている、という理由によります。
「人間の観念」とは、それじたいは「イメージという現象」のことです。しかし、この「人間の観念」の特異性は、いちどイメージとして表象されるようになると、原則として消えてなくなるということはない、というところにあります。人間が現実に向かい合う時に、その向かい合うという必要性に応じて、「車のナビゲータ」のように「前頭葉」というディスプかかってきた電話に出ると、声を聞いた相手が見知っている人なら、その人の顔や表情が瞬時に思い浮ぶでしょう。そのように、必要に応じて表象(ひょうしょう)するのが「観念」というものの実相です。この「観念」は、もともと人間がつくり出したものです。
ひとりの人間の「観念」は、べつの人間の「観念」と同じになりえます。「3人以上の人間」と同じになったときの「観念」のことを「共同幻想」といういい方をします。なぜ、「共同幻想」といういい方をするのでしょうか。
それは、「変えることができる」という理解が生まれるからです。
もし、「共同幻想」といういいかたをしないし、したことがない、またそのような知的な発想ももてないとすれば、現実は、DNAで宿命的に定められた不変のもののように認識されるほかはなくなります。「年だから」「男だから」「女だから」という言葉のとおりに、固定化された「運命」のように受け身で従い、受け容れ、従属するしかないでしょう。
「医者が言ったから」「収入が少ないから」「薬は治すものだと『みんな』が言うから」などのように、飼われているペットのような「生き方」になるでしょう。
このあたりの意義について、吉本隆明氏は、『共同幻想論』(角川ソフィア文庫、改訂新版)で次のようにのべています。 |
現実の認識の方法が「共同幻想」 |
① まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家はどんな国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされる場合でも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージでかんがえられていない。(注・マルクスの共同幻想の説明のこと)。
② いつでも、国家は、社会の上に聳(そび)えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。
③ こういうことがもっとはやくわかっていたら、国家のあいだに起こる争いは、別な眼でみられたろうにとかんがえられたのである。
こういう西欧とアジアにおける国家のイメージの差異を、誰かは把握していたのだろうか。そして、そのうえで、じぶんの思考や行動を律していたのだろうか。
いまでもわたしには尽きない謎のような気がしている。 |
アジア型の「共同幻想」 |
④ 国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や土俗信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。 |
経済活動のシステムも「共同幻想」 |
⑤ 人間が、共同の仕組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。
⑥ もうひとつ、西欧の国家概念でわたしを驚かせたことがある。
それは、国家が眼に見えない幻想というそのことである。わたしたちの通念では、国家は眼にみえる政府機関を中心において、ピラミッドのように国土を限ったり、国境を接したりして眼の前にあるものである。けれど政府機関を中心とする政治制度のさまざまな具体的な形、それを動かしている官吏(かんり)(注・国家公務員のこと)は、ただ国家の機能的な形態であり、国家の本質ではない。もとをただせば国家は、一定の集団をつくっていた人間の観念が、しだいに析離(アイソレーション)していった共同体であり、眼にみえる政府機関や、建物や政府機関の人間や法律の条文などではない。こういうことがわかったとき、眼から鱗(うろこ)が落ちるような気がしたのである。 |
日本人の「共同幻想」 |
⑦ どうしてわたしたちは国家という概念に、同朋とか血のつながりのある親和感とか、おなじ顔立ちや皮膚(ひふ)の色や言葉をしゃべる何となく身内であるものの全体を含ませてしまうのだろうか。最小限、国家を相手に損害補償の訴訟を起こしたといったばあいの国家をさえ、思い浮べようとしないのだろうか。それでいて、他方では政府がどういう党派に変わるとか、どういう政策に変わるとか、どういう政策に転換したということに、いっこう関心をしめさずに放任したままで平気なのはなぜなのか。こういう疑問にも、どこか納得のいく解答をみつけたいとおもった。これもまたこの本の主題のかげに、いつも離れないわたしのモチーフであった。 |
アジア型の「共同幻想」に適応すると病気になる |
⑧ 人間のさまざまな考えや、考えにもとづく振舞いや、その成果のうちで、どうしても個人に宿る心の動かし方からは理解できないことが、たくさん存在している。あるばあいには奇怪きわまりない行動や思考になってあらわれ、またあるときはとても正常な考えや心の動きからは、理解を絶することが起こっている。しかもそれは、わたしたちを渦中に巻き込んでゆくものの大きな部分を占めている。それはただ、人間の共同の幻想が生み出したものと解するよりほか術(すべ)がないようにおもわれる。
わたしはそのことに固執した。
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共同幻想は「ブローカー言語野」で生成される |
■ここでのべられている「共同幻想」とは、「人間の観念」のありかたのことであることは、すでによくお分りのとおりです。
人間の「観念」とは、初めは、目や耳、手や足、体の皮ふの五官覚から受け取った知覚の記憶が、「右脳」のブローカー言語野・3分の1のゾーンに思い浮ぶ「イメージ」のことです。
「観念」は、自律神経の恒常性(ホメオスタシス)の機能で「イメージ」が固定的に思い浮ぶ、という性質と意識の現象のことをいいます。人間の「行動」が「思い浮べさせる」という機能の契機をつくります。
そして、「行動」はしていないけれども、「行動の必要」を感じるときも「思い浮ぶ」という意識の表象が起こります。
また、「欲求」や「感情」という「行動の必要の根拠」を感じるときも「観念」が思い浮ぶということは、「行動の間接性」によって「観念」が思い浮ぶということを意味しています。それは、ちょうど、「嬉しい笑顔の表情」をつくってみると、気持ちの世界も「嬉しい状態になる」ということと同じです。「嬉しい笑顔の表情」とは、「右脳・ブローカー言語野」に「嬉しい笑顔の表情のイメージ」を思い浮べるということです。このイメージを表象(ひょうしょう)させるために「左脳・ブローカー言語野」に「嬉しい」という言葉を表現させると同じ効果が生じます。この「左脳・ブローカー言語野」で、「行動」のための言葉の「意味」を特別に「規制」や「ルール」「システム」として「3人以上の人間」の間で合意したときのひとりの人間の「観念」が「幻想」であり、「3人の人間の観念」を集合としてとらえるときが「共同幻想」です。 |
これまでに、無藤隆の『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』(講談社現代新書)からご紹介してきた「乳児」の「行動」とその「能力」の生成の観察や実験から、要点をまとめると次のとおりになります。 |
現実が強制するのではなくて、自分の観念がつくる「共同幻想」が自らをシバる |
吉本隆明氏が『共同幻想論』の「序」でのべていることは、一体、何が語られているのでしょうか。
「幻想」とは、ひとりの人間の「観念」(世界)のことで、しかも「行動」を規制する「言葉の意味」を「規制の言葉」と記憶したとき、人間は、現実の行動を、制約や規制のとおりにしか行動しません。
すると、このときの人間は、ほんとうは自分の「観念」の中に「規制」や「制約」の言葉の「意味」を記憶させてそのような対象との関わり方のイメージを思い浮べているにもかかわらず、「自分以外の2人以上の人間」が制約を加えているかのように錯覚するということがいわれています。
そして、その言葉の「意味」に与えられている「行動の制約」や「行動の規制」が日常の生活に近ければ近いほど、人間は、行動の自由を失って、あたかも「ひとりで踊るパントマイム」(無言劇)のように奇怪な言葉や行動をあらわす、とのべられています。「共同幻想」ということを正しく分かると、まず、自分の行動は、じつは自分の「観念」にもとづくものであって、現実の誰かが「強制したものではない」ということが分かって規制や制約から「自由になれるのである」ということが説明されているのです。また、「自分の行動の自由さ」を広げようと思えば、自分の「観念」の中の言葉の「意味」を明確にして、自分の意思でその言葉の「意味」のとおりの「行動」をおこなうことで、規制や制約から自由になれるのである、ということが語られています。 |
「共同幻想」は二種類ある |
吉本隆明氏は、「西欧的な思考」ということをのべています。「国家は、共同の幻想である」ととらえたのは「西欧的思考」である、ということです。同じ人間なのに、「アジア的な思考」は、「国家」という「共同幻想」を「同胞」とか「血のつながりのある親和感」といったものでつつみこんで、あたかも自分の「生理的身体」の地つづきか、血縁の延長につながっているもののようにとらえる、とのべています。「共同幻想」が二種類ある、ということです。
これは、「観念」の中に「規制」を加える言葉の意味は二通りある、ということです。
「行動」とむすびつくのが「言葉の意味」です。すると、「行動」が二通りある、ということになることは、みなさまにはすでによくお分りのとおりです。
ひとつは、「行動の対象が遠く離れた位置にある」という場合の行動です。「これから行動する」ので、まだ、その対象とは何らの関わりも発生していません。これは、「言葉の意味」を学習して、いずれ行動するときに備える、という「行動」になるでしょう。これが「西欧型の思考パターン」です。この「西欧型の思考パターン」による「共同幻想」は、じぶんの観念の中に表象される「共同幻想」は、どういう言葉の「意味」がどのように「規制されているのか」(自分を含めて3人以上の人間の間で、言葉の意味を行動の規制の対象にして合意した)ということをよく分かっています。つねに、自由自在に「変えられる」し、「変えることが可能である」と理解されています。 |
日本は、「第三次産業」を空洞化させてきた |
これは、今、起こっている「世界同時不況」にあてはめて考えてみるとよく分かります。
平成20年「10月」に起こったアメリカ発の「金融システムのバブル崩壊」とその後の「金融システムの収縮」のもたらす「世界同時景気後退」は、アメリカの「第二次産業」が空洞化したことが背景にあります。1980年のことです。「第二次産業」から「第三次産業」にシフトするときに中心になったのが「金融改革」でした。「金融商品」の市場をおもにヨーロッパに広げてグローバリゼーションというマーケット(市場)を創出しました。日本を含む中国などの「アジア」へは、「金融派生商品」ではなく、「株式」や「円」といった直接投資の形で市場がつくられています。「金融バブル」とは、「レバレッジ」といって、借りた資本の5倍とか10倍の「資本投下」をおこなったことをいいます。実体経済の「引き当て」や「リスク計算」を無視したので、「住宅ローンの支払い」が止まったり、金利が上がって保証金を支払わなければならなくなったときに「資金ショート」の連鎖が起こりました。
これは、「金融」という言葉の「意味」の「信用」とか「価値」という言葉を「3人以上の人間」で合意した「共同幻想」がつくられたことを意味しています。
日本もまた、「第二次産業」の空洞化が起こっていることはよくご存知のとおりです。日本は、「金融のイノベーション」を起こすほどの知的実力はなかったので、「第三次産業」は、介護などの「擬似医療」の分野だけに、擬似市場がつくられるにとどまっています。「スウェーデン」の企業のように「相手の立場に立って考える」「相手の話を前提にしてものを考えて、ここで物なり、サーヴィスをつくる」ということはできなかったのが日本です。
「アメリカを主導」とする「第三次産業」の中で収入を得てきました。「スウェーデン型」の「言葉の能力」を確立して「第三次産業」の市場を創ることが、アメリカはもちろん、日本にも求められています。
「言葉の能力」とは、「遠くに離れている他者について考える」という「言葉の能力」のことです。
日本人には、これができていないということを、吉本隆明氏は、もうひとつの「共同幻想」の存在を指摘してのべています。
それは、「行動は終った」という「行動」にむすびつく「共同幻想」のことです。「水を飲んだ」「食事を摂った」「性をした」などのように、「行動」が完結して、「自分の身体」の中に「対象」が摂り込まれている「共同幻想」です。 |
日本人は「書き言葉」を知らない |
それはどのような「共同幻想」なのでしょうか。いいかえれば、どのような「言葉の意味」が「規制」の対象になるのでしょうか。
「行動は完了している」ということが「3人以上の人間」の間で合意されている「共同の言葉の意味」であることはよくお分りのとおりです。この「言葉の意味」は、「書き言葉」ではありません。
あくまでも「話し言葉」だけでつくられる言葉の「意味」です。
なぜかというと、「書き言葉」は原義としての「意味」が「行動」にむすびつくので、「これからおこなう未来形の行動」が合意されることになります。しかし、「話し言葉」は、話された瞬間に「言葉」が消えてなくなるので、つねに、現在進行形の「行動」を対象にするしかありません。「現在進行形」の言葉で規制するしかありません。
「ひとりだけ勝手に動くな」「ひとりだけ、みんなから外れた行動はするな」「自分たちのことを、他のグループの人間に話すな」などのように、現在の「行動」を制限したり、強制するというのが「話し言葉」の特性です。「行動」は、つねに「対象」が何であれ、その「対象」と同化して一体化することが唯一の「意味」になります。「同化して一体化しない行動」は「してはいけない行動」として規制されるのです。「アジア型の共同幻想」とは、こういうものです。
日本は、近代社会の国家です。
そして、西欧型の経済社会が成り立っています。しかし、日本人がこの「近代社会の国家」や「西欧型の資本主義社会」に「行動」として参加するとどうなるでしょうか。
仕事の言葉の「意味」を憶えていないので、「話し言葉」で指示する人がいなくなると「収入」を得る方法が分からなくなります。
この問題について、「社会言語学者・鈴木孝夫」は、次のように書いています。 |
「日本語万華鏡」より「ラジオ型言語とテレビ型言語」
(『新潮45』2008・11月号よりリライト・再構成) |
日本人は「文字軽視」の教育制度 |
① 現在、世界では約六千種もの多 様な言語が用いられている。この驚くべき数のさまざまな人間の言語は全て、「ラジオ型の言語」として一括して考えることができるものだ。
② だが、日本人の話す「日本語」だけは、世界でも唯一の例外で、「ラジオ型」ではなくて「テレビ型の言語」と考えるべきだ。
③ 言語が「ラジオ型」ということは、ラジオのように「音声」(音)だけで伝達が可能だということだ。「ラジオ型」の言語の場合は、「文字」がなくても互いの人間どうしの伝達には支障はない。世界の多くの言語は、「近現代」に至るまで「文字表記」をもたなかった。今でも「文字」をもたない「言語」はたくさんある。
④ また、「音声言語」だけで「社会生活」を送っている人が数多く存在する「言語」も少なくない。そのような人は、一般的に「文盲者」「機能的文盲者」と呼ばれている。
⑤ このことから、文字は、言語(音声による言語)の影か写真のようなもので、「言語の実体」とは無関係な、たんなる「記憶補助」の道具でしかないという「言語理論や言語思想」が生まれた。日本にもこの「文字軽視」の考えが入りこんで、日本の「文教政策」の中で主流になった。
「近い将来、漢字を廃止しよう。しかし、今は、当座の用を満たすためにという限定された目的の当用漢字を設定しよう」と考えられた。この考えが導入されて、現在に至っている。
⑥ 日本では、「文字表記の問題」は、「社会教育をふくめた教育問題だ」という形式を装ってはいるが、「文字」というものを正面から立ち向かって考えて、言語の本質にかかわる重要なテーマとして考える「学者」「研究者」はほとんどいなくなった。しかし、私は、「文字は、言語の実体とは全く無関係なものだ」と考えている日本の学者にたいして無性に腹が立ってならなかった。 |
日本人の「文字軽視」の実体 |
⑦ 「同音語」というものがある。「科学」と「化学」のようなものだ。意味が似ている。しかも同じような話題や文脈の中で用いられるので、ときには混同される。たとえば、「はいすい」というときには「排水」「廃水」「配水」のように、それぞれ関連しているのに、全く「別の言葉である」という言葉がある。日本人は、この紛(まぎ)らわしい「同音語」に慣れている。だが、このような「同音語」の現象は、世界の中でも類例のない極めて特殊なものなのだ。フランスの言語学者「H・J・ジェリソン」は、「同音語というものは、日本語以外では、互いの意味が全く無関係のときだけその存在が許される」と指摘した。「耳で聞いて、混同される恐れのある場合は、必ず、どちらか一方の語が姿を消す」という法則がある、というものだ。これは『同音衝突回避の原理』として広く知られている。
⑧ 世界の「言語」は、一般的にいって「ラジオ型」である。伝達される情報(言葉の意味)が「音声」の中にだけ含まれている。
「音声は同じだが、意味は違う」といっても、両者を区別する手がかりはどこにもない。英語の
bat(こうもり)とbat(バット、棍棒)などのように、全く異なる「意味の文脈」で用いられる以外に、「同音語」は成り立たないものなのだ。
⑨ だが、日本人は、「水星」(すいせい)「彗星」(すいせい)のように、ちょっと話を聞いただけではどちらの星が話題になっているのか分からない「同音語」を日常的に用いている。「科学」と「化学」を区別するときに、「化け学の化学です」という説明を加える。これは、日本人にとって言葉とは、「目で見る映像」のように、頭の中にいくつもの「漢字」を思い浮べて「クイズのように正解を当てる」というようにして相手の話を理解している。
これが「テレビ型」と名付ける理由だ。
⑩ 「失語症」を研究している「笹沼澄子」の話。
「アメリカ人の失語症の人は、紙に書かれたアルファベットの言葉を見ても、やはり言葉を認識できない」。
「日本人の失語症の人は、紙に書かれた漢字を目で見ると、話された言葉が、何を指しているのかを分かる」。
このことから、日本人は、「音声イコール言葉の意味の伝達」として言語を憶えているのではなくて、「漢字」という形象的(記号としての表記)な事実を「映像」のように思い浮べていることが分かる。
⑪ 今の日本語(漢字語についていうと)に、なぜ、「同音の漢字の同音語」がたくさんあるのかというと、もともと「日本語の音韻の組織」が、「古代中国語」に比べて非常に簡単であったということが考えられる。
「漢字」(中国の)は、元来は別々の「音」(すなわち「意味」)をもっていた。これが、日本に入ってくると、ぜんぶが「同じ発音」になった。学習用の小さな「漢和辞典」を見ると、例えば「コウ」の「読み」のコーナーには「抗、光、皇、鋼、港、降、高、功、鉱、紅、黄、工、甲、幸、項、広」と何十という漢字が並んでいる。
だから「興行」「工業」「興業」あるいは、「紅葉」「黄葉」「広葉」というように「音声」だけでは意味が区別できない「同音語」が生まれる。しかも、「意味」までもよく似てしまっていて、同じ意味に取り違えることが生じる。 |
日本人の「言葉遊び」を好む理由 |
■社会言語学者の鈴木孝夫は、ここで何をいっていることになるのでしょうか。
鈴木孝夫は、日本人は、「言葉の意味」を憶えていなくて、「言葉」すなわち「概念」を「在庫」のストックのように積み上げることを「学習としている」、そして「言葉の意味」を日々、折々の中で「分かっていくこと」を人生の目的にしている、とのべていることになるのです。たとえば「水遊びのある施設のある遊園地」を「遊園池」と言い換えてみせることや、「お城の見学」の料金を「入場料」ではなくて、「入城料」にして「言葉の意味の発見」を「喜びとしている」と書いています。一時期のテレビ番組の流行で、「クイズ」の答えを間違えると「名答」にかけて「ご迷答です」と喜んでみせるのは、「言葉の意味」を分かることが日本人にとって最大の「知的関心事である」とのべていることになるのです。
このことは、日本人の「観念の世界」とは、「言葉の意味」が空白になっていることをよくものがたるものです。
失語症研究の「第一人者」とされる「笹沼澄子」の説明が紹介されています。「アメリカ人の失語症」は、「言葉の意味のイメージ」が「右脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に思い浮ばないので、「左脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に想起されるべき「書き言葉」を目で見ても、「何と書いてあるのか」が分からないと指摘しています。しかし、日本人の「失語症」は、違っています。「話し言葉」の「音声」が耳に入っても「記憶できない」(書き言葉の漢字が思い浮ばない)、しかし、「紙に書かれている漢字とその文を目で見ると、読むことはできる」というものです。「言葉の意味」とは、辞典に書かれている短い説明文のことです。「原義」といいます。日本人も、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で、この「言葉の意味(原義)」を学習して憶えることは充分に可能です。明治になってから「日本人」が、欧米から近代的な経済システムを輸入し、学習して、日本の経済社会に導入したことがよい例です。これは、現在の日本の「経済社会」の成り立ち方を見てもよく分かります。日本の「経済社会」は、経済法則の「意味」を合意しました。「共同幻想」として日本人のおおくの人びとの「ブローカー・3分の2のゾーン」で成り立っていることは、すでによくご存知のとおりです。 |
日本人は「ブローカー・3分の2のゾーン」に「禁制」を乗せている |
日本人は、この「近代経済社会」の中に行動によって参加しているのです。「仕事の中の言葉」を憶えることと、「憶えた言葉の意味も学習して憶えること」とは全く別のことである、ととらえているのが日本人の「言語学」や「言語思想」になっています。その証明の一つが、鈴木孝夫のいう「同音語」が無数に存在するという事実です。これは、日本人の脳の「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」で憶えられていることによります。
ここを指して鈴木孝夫は、日本人の用いる日本語は「テレビ型言語」といっています。
この「テレビ型言語」として「言葉」を憶えることが「アジア型の共同幻想」です。吉本隆明氏が「どうしてわたしたちは、国家という概念に、同胞とか血のつながりのある親和感とか、おなじ顔立ちや、皮膚の色や言葉をしゃべる、なんとなく身内であるものの全体を含ませてしまうのだろうか」と書いている「観念の世界」のことです。この「観念の世界」は、「話し言葉」だけで“構築”されています。
「青写真」のように、現実と「二者関係」の相互性で成り立っている「共同幻想」です。「二者関係」とは、「Y経路」のとらえる距離のある空間性は無くて、「X経路」で自己と同化して一体になる「対象」との関係のことをいいます。「幻想」とは、「言葉の意味」が「行動の規制になった」ときの「言葉の意味のイメージ」が自律神経のメカニズムで恒常的に表象されることをいいます。これが「幻想」ということの定義です。では、「アジア型の共同幻想」は、何をもって「幻想」を観念の世界に生成するのでしょうか。それは、鈴木孝夫が日本人の「同音類語による遊び」で指摘しているように、「意味を教えられた時に、右脳・前頭葉にドーパミンが分泌する」という脳の働き方のメカニズムによって、「行動を規制する発言」(話し言葉)を「幻想」として確立したのです。「北の方角にまくらを向けて寝てはいけない」「食べ物を渡すときに、ハシからハシへと渡してはいけない。必ず、いったんお皿に乗せて渡すように」「お湯に水を入れて薄めるときは、必ず、お湯に水を入れること。水にお湯を入れてはいけない」などというように、「行動」を規制する「話し言葉」を耳で聞いたとき、その「規制」に従った「行動」が可能になります。
これは「気持ちの安心」をもたらし、ドーパミンを分泌させます。逆に、この「共同幻想」から外れた人間は、「やってはいけない行動」をおこなうので、孤立と不安のイメージを表象させるでしょう。誰もがまちがいなく、「線状体」から不安のイメージを表象させます。吉本隆明氏が『共同幻想論』の中に「憑人論(ひょうじんろん)」という章を設けて「『遠野物語』の語り手は、何を伝えるべきか、何を伝えるべきでないかを共同的な禁制として無意識のうちにも知っていた」と書いているところが該当します。不安と孤立のイメージを具体的に描写してみせて「なになにをしてはいけない」と「行動」を規制したときに、「右脳・ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に「共同幻想」が確立します。「憑人」(ひょうじん)の「憑」とは「憑依」(ひょうい)のことで、日本人は、「キツネとか死霊」がのりうつることだと考えてきました。お分りのように、「アジア型の共同幻想」とは、「話し言葉」だけで成り立つ「共同幻想」のことです。この「話し言葉」にも「意味」はあります。しかし、その「話し言葉の意味」は、「話し言葉を語る集団の中の誰か」が「このように行動せよ」と話して伝える言葉のことです。ひとりの人間の「行動」だけに襲いかかってきて、「行動」をシバりつけます。これは、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」に「共同幻想」を「ナビゲータ」とか「道路交通地図」、「船や飛行機の運航図」のように表象させて、恒常的に思い浮べさせるのです。 |
多くの日本人は、「話し言葉」だけで生きている |
みなさまは意外に思われるかもしれませんが、日本人は、明治以降、「話し言葉」だけで社会生活をおくってきているのです。ごく一部のひとびとだけが、「話し言葉」から離れて、「書き言葉」の『意味』を学習して憶えました。これが、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」の「近代的な法や経済社会の共同幻想」になっています。当然、「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」で「話し言葉」だけで生活しているおおくの人々に向かって「なになにをせよ」「なになにをしてはいけない」と「話し言葉」で伝えます。これは「日本は、近代的な資本主義社会」でありながらも、「西欧型の共同幻想」を「アジア型の共同幻想」の上に乗せているという構造になるのです。
この次元でいうと日本人にとっては、「書き言葉」ははるか遠くにあって、まだ、「見たことも聞いたこともないもの」なのです。したがって、「書き言葉」の本質の「三者関係」を明らかにした遠山啓(ひらく)の『水道方式』の「タイル」(「数詞」イコール「タイル」イコール「実物」の三者をむすびつける推移律)を習得できたとき、日本人は、「世界同時不況」の「共同幻想」と「合意する」「いや、合意しない」という関係をとりきめて、自由な主体になることができるといえます。吉本隆明氏が「自立」といっていたことの真の意味は、この「自由な主体」のことです。 |