日本が用いている「日本語」には脳の働き方を未分化にさせる特性があります |
前回の本ゼミでは、言語社会学者の鈴木孝夫が独自に調べた「日本語」と日本語以外の言語の比較をご紹介しました。
日本語以外の「言語」は、「話し言葉」で「言葉の意味」をあらわす「ラジオ型言語」であるということでした。日本語は、もちろん「話し言葉」でも話されますが、「言葉の意味」を追い求める「テレビ型言語」である、というものです。
主旨は、一般的に、話している人にとっても、聞いている人にとっても「漢字」そのものを思い浮べて、「漢字」がイメージされるときに、なんとなくこういう意味であるだろうと了解されてコミュニケーションが成り立つということです。 |
鈴木孝夫は、「ラジオ型言語とテレビ型言語」のパートⅡで、日本語が「テレビ型言語」になったいきさつについてこんなふうに説明しています。 |
① よく知られているとおり、日本語では「音節」を「子音」であらわすことができない。
(注・子音(しおん)……発音の際に、呼吸が発声器官のどの部分かに妨げられてできる音のこと)だから、例えば、Kで始まる今、使われている「か行」の「単音節語」は、か(蚊、可)、き(黄、木)、く(九、苦)、け(茸)、こ(子、粉)ぐらいしかない。
② この制限に加えて、日本語では、英語を初めとする多くのヨーロッパ語のように「語頭」つまり言葉の始まりで「子音」を二つ、三つと重ねることも許されていない。
③ そのために、英語で「一音節の
street(ストリート・道)」の ような一気に発音できる語は、日本人が日本語で発音すると「ストリート」と、「五音節」の間延びした言葉になる。
「strength(ストレンクス・力)」といった音の複雑な、それでも「一音節語」である言葉を日本人が言いあらわすと「ストレングスス」と「七音節」の長たらしい語になる。
④ ドイツ語と英語には、いくつの異なった「単音節」の型があるか?を説明の例にあげる。
- ドイツ語には、「母音」(注・ぼいん。声が口を出るまでの間、その音になる呼吸が通路となる舌やくちびるなどで妨げられない時の音。標準的な日本語では、ア・イ・ウ・エ・オの五つのことである)と「子音」(しおん)を組み合わせて「単音節」をつくるのに、なんと23通りものやり方が可能になる。英語には、それが19通りある。
- 異なった音韻(おんいん・一つの言語で、個々の言語音を他の言語音と対比して、同類の言語音として一まとめにできるようなもの。日本語では「デンキ」「デンパ」の「ン」は音声としては異なるが同じ音韻として認められている)の総数が「ドイツ語」では39、英語では45もある。
母音(ぼいん)や「子音」(しおん)にさまざまな違った音韻(おんいん)が入ることによって、驚くべき数の「単音節語」ができる。
- ドイツ語にはいくつの「単音節語」があるのか?は未詳だが、英語の場合は3,000近くもあることが分かっている。
- 日本語の場合はどうか。
日本語の「音節」の種類はたった二つしかない。「母音」(ぼいん)だけか、「子音」(しおん)に「母音」(ぼいん)が一つ付いたものしかない。
だから、「単音節」の語は非常に数が少ないものになる。
「め」(m+e)の場合を例にあげる。漢字で書けば「目、芽、女、雌、布」のような同音のいくつかの言葉になるが、「音声」だけを聞くとどの「め」のことを言っているのかは分からない。
多くの場合、「木の芽」「メス犬」「乙女の和布刈」(めかり)のように合成語や複合語として用いられている。
日本語は、純粋の「単音節語」としては不安定なのだ。
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日本語の話し言葉は「意味」を伝えにくい |
⑤ 日本語は、短くて使いやすい語が少ないということだ。互いの語の混同を避けるために「音節」を二つ、三つと重ねて用いることになる。その結果、「一語」が長くなる。会話になると、長い語は使いにくい。会話は、短くしようとする力が働く。すると日本語では、耳で聞いただけではすぐには分からない「意味不明」の言葉や同音語が増えて、コミュニケーションの伝達効率が下がる。
⑥ 日本語は、宿命として厳しい「音声」上の制約と、同時に、「言葉の意味」論上の貧弱さをもっている。
日本の隣国の中国の人々は、古代から高度の文明を持っていて、「漢字」を作り出した。
日本人は、中国から「漢字」を導入して、多大な恩恵を受けた。「漢字」は、もともとの日本語が「音声情報」として伝える意味の不足を「目で見て確かめる」という機能をつけ加えた。これが、現在の「日本語はテレビ型の言語である」ことの由来になっている。
⑦ 現代の日本語は、「音声」で表現される「音」のあらわす言葉は「言葉の半分」でしかない。残りの「半分」は、「漢字」という文字であらわす「映像」なのだ。
⑧ 日本語で書きあらわされる語は、「単音節語」が少ないことの必然として、「個別具体的な意味の内容」をもたず、「包括的、抽象的」な「語」が多い。
フランスの言語学者「シャルル・バイイ」は「語彙」(ごい)の「意味」の比較の仕方を説明している。
- ドイツ語の「人が位置を移動させる」を意味として含む言葉…「gehen(ゲーエン)」(人が足を使って移動する)
「reiten(ライテン)」(移動手段は馬)、「fahren(ファーレン)」(乗り物によって人が移動する)などの動詞は、その「移動の手段」を意味としてもっている。
- フランス語の「人が位置を移動させる」をあらわす動詞……「aller」(人が位置を移動させる)。
どういう方法で「移動するのか」は「aller a cheval」(馬で)、「aller en voiture」(乗り物で)、のように説明を別に加える。
「aller」それ自体は、具体的で細かいことは何も言っていないから「抽象的である」。
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日本語の「音訓の二重性」のもつジレンマ |
⑨ 日本語の場合も、シャルル・バイイのいう意味で「抽象的」である。
- 「行く」(抽象的)。「歩いてゆく」「走ってゆく」「自転車で行く」(具体的)。
- 「なく」(抽象的)。「犬が悲しそうにヒュンヒュンなく」(具体的)。
- 英語の「なく」の表現。
「犬がなく」…「bark(バーク)」「howl(ハウル)」
「whine(ホワイン)」「yap(ヤップ)」(小犬がうるさくなく)
「馬がなく」…「neigh(ネイ)」「whinny(フウィニ)」
「牛がなく」…「moo(ムー)」「low(ロウ)」
「ろばがなく」…「bray(ブレイ)」
「羊がなく」…「bleat(ブリート)」「baa(バー)」
「猫がなく」…「meow(ミアウ)」「mew(ミュー)」
「豚がなく」…「oink(オインク)」「squeal(スクウィール)」
「ネズミがなく」…「squeak(スクウィーク)」
「カエルがなく」…「croak(クローク)」
などのように、動物の種類によって動詞が決まっている。「何が声を出しているか」を説明する必要がないから、短くて簡潔な表現ができる。「個別的な性質をもつ」と定義される。
- 形容詞の場合にも同様の違いを見ることができる。
日本語の「かたい」……「外から力を加えても形が変わらない」という漠然とした意味の内容をもつ。石、ガラス、鉄、コンクリートから、御飯、かきもち、豆、するめなども「かたい」で形容される。また「決心」「守り」「頭」も「かたい」で形容される。
英語の「かたい」…「close(クロウス)」「fast(ファスト)」「firm(ファーム)」「hard(ハード)」「stiff(スティッフ)」「stark(スターク)」「fight(ファイト)」「thick(スィック)」
「tough(タフ)」などは、それぞれ性質の違う「かたさ」をあらわす「個別具体的な内容」をもつ形容詞である。
日本語の「大きい」「小さい」
英語の「大きい」「小さい」…
「big(ビッグ)」「great(グレイト)」「gross(グロウス)」「huge(ヒュージ)」「large(ラージ)」「loud(ラウド)」「grow(グロウ)」(それぞれ「大きい」の意味が異なる)、
「small(スモール)」
「little(リトル)」
「minute(ミニュート)」
「fine(ファイン)」「petty(ペティ)」(それぞれ、「小さい」の意味が異なる)
日本語は、英語の動詞や形容詞と比べてみればよく分かるとおり、もともとの「和語」に「漢字」が加わって「音訓二重の語」となっているために、込み入った正確なことを言おうとすれば「意味」と「音声」の両面できつい制約をもっていることが分かる。
いきおい、「長たらしくて、しかも不十分な表現」になる。 |
鈴木孝夫の「日本語論」の意味するものについて |
■言語社会学者・鈴木孝夫の説明している「日本語」の特性について、要旨となるところをご紹介しました。ポイントをまとめると次のようになります。
- 日本語は、もともと「和語」といわれるものであった。
- もともとの日本語の「和語」は、「話し言葉」が中心であった。
- いつの頃か、隣国の中国から「漢字」が導入された。
この「漢字」は、「話し言葉」と「書き言葉」の両方をつくっていた。
- 日本人は、「漢字」を導入して、「書き言葉」の次元での言葉の「意味」を表現するようになった。
- 日本人の「日本語」は、もともとの「和語」に「漢字の言葉」を加えるというものであったために、「話し言葉」とは別に、もう一つ「漢字」と「漢字の意味」を学習しなければならないという二重性をもつ言葉(言語)である。
- 日本語は、「音訓の二重性」の言語であるために、「話し言葉」だけでは「言葉の意味」が表現され難く、しかも聞いている人間にも非常に伝わりにくい。それは、「話し言葉」に「音韻数」が、欧米語と比べて非常に少ないことによる制約から生じている。(音韻二音の素(もと)…ドイツ語39、フランス語36、英語45、日本語23)。
- 日本語は、「ある意味」のことを話す時(当然、書く時も)は、「長たらしい表現になる」という傾向になる。
- また、日本語は、「ある意味」のことを話し言葉で表現したり、聞く時は、「書き言葉の意味」をもつ「漢字」を映像のように思い浮べることが求められる。
もし、相手の話す「話し言葉」の中の「漢字」が分からない場合は、「話されている言葉の意味」は全く伝達されないという事態になる。
- 日本人の話す「話し言葉」は、「音訓」の二重性で成り立っている。
(注・「音」とは「音標文字」のこと。言葉の意味に関係なく音声を示す中国ふうの読み方の記号性の文字のこと。また、「訓(くん)読み」とは、訓読(くんどく)のことである。漢字に国語(和語)を当てて読む。春(はる)、来る(くる)などが用例である)。
この「音」「訓」の読み方の語(概念)には、意味を構成する「原義」(注・その言葉によってあらわされる内容のこと。行為すること、表現すること、および、それがおこなわれたり、存在するにふさわしい価値のこと。また、価値とは、どれくらい役に立つか、どれくらい大切か、ということの程度や度合いのことをいう)、がある。もし、この「原義」を知らなければ、日本人の話す「話し言葉」は、相当程度に限定された「意味」しか言いあらわせないことになる。
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日本の国語教育は、脳の働き方にどう影響するか? |
■この「相当程度に限定された意味」を話し言葉として話しているのが、現在の日本人であることを、鈴木孝夫は指摘しています。それは、前回の本ゼミでご説明しています。「日本の言語学者、国語教育の関係者は、漢字を軽視してローマ字だけに統一しようと決めていた」「第二次大戦後、国語教育審議会は、漢字を無くす方針を決議した。当面、当座の用を足すためだけの数の『当用漢字』を決めた」などのことが、「言葉の意味」の学習と記憶を不問にする傾向を現実のものにしています。
このような日本人が用いている日本語の構造的な特性と、日本人の言語観(話し言葉中心の言葉の能力のことです)は、何を意味するのでしょうか。
「脳の働き方」の「言葉の生成のメカニズム」に還元してとらえてみるとよく分かります。
言葉を生成するとは、人類は一体どのように言葉というものを生成してきたのか?という問いかけと同義です。それは、生まれたばかりの「乳児」は、どのように言葉を学習して、記憶し、そして行動にあらわすのか?を解明することで明らかになります。
すでにこれまでの本ゼミで明らかにしたことにもとづきますと「言葉」は、脳の「ブローカー言語野」で生成されます。この「ブローカー言語野」を中心にして、さまざまな「記憶」の中枢神経が系統的に、相互性をもってつながり、むすびついています。
「言葉」の記憶に大きく関与しているのは「海馬」であることはすでによくご存知のとおりです。
「ブローカー言語野」というときは、「左脳」と「右脳」の両方にあるブローカー言語野であることをご了承ください。
「ブローカー言語野」は、「脳」の側頭葉から頭頂葉にかけて分布している言語の中枢神経群です。この側頭葉と頭頂葉はまた、独自の記憶の中枢神経をもって存在しています。頭頂葉は、車のナビゲーターのような距離・角度・方向などの空間性を認知して、認識する中枢神経のゾーンです。したがって、頭頂葉に位置するブローカー言語野は「空間性の角度、方向、距離」にかんする言葉を記憶することになります。(ブローカー言語野・3分の2のゾーンです)。
側頭葉は、「ウェルニッケ言語野」が大きく分布しています。ウェルニッケ言語野は「手で触る」「舌で味わう」「身体の皮ふで知覚する」などの「触覚の認知と認識」を記憶します。このウェルニッケ言語野に隣接してつながっているブローカー言語野は「触覚の知覚」にかんする言葉を記憶します。(ブローカー言語野・3分の1のゾーンです)。 |
言葉の生成の起源は、自立して行動すること |
「乳児」が母親をとおして言葉を学習して憶えることの特質とは何でしょうか?
それは、乳児がじぶんひとりで「行動する」ということです。すると、乳児の言葉の学習と憶え方は「じぶんひとりで行動する」ことを第一義の「動機」にしていることが分かります。
これを人類の言葉の生成の起源にまで引き延ばして考えると、人類は、まず、「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で言葉をつくり出したと理解することができます。「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」(ウェルニッケ言語野と相互性をもっています)は、「行動が終わったこと」を認知して、認識します。行動の完了形の言葉を記憶します。
「言葉とその意味」(原義)は、「これから行動すること」と「すでに行動が終わったこと」のどちらが多いでしょうか?これは、当り前のように「これから行動することの言葉とその意味」の方が多いに決まっています。「行動が終わったこと」を言いあらわす言葉は、「自分ひとりだけの体験の量」に限られるからです。「これから行動する言葉とその意味」は、「自分以外の他者の体験」の全部が該当します。
全ての「行動」は、「言葉の意味」によってあらわされます。
日本人が「言葉の意味(原義)」を学習していない、故に憶えてもいない、というのは、量の確率からいうと「他者の行動の言葉と原義」を学習していない、そして憶えていない、という理解の仕方が成立するのです。
これは「距離の無い言葉」や「距離が、自分の手の届く範囲の近さ」に限られた言葉とその意味(原義)を多く学習している、そして記憶のソース・モニタリングの「ソース」にしているという脳の働き方をおこなっていることになるでしょう。 |
『週刊・東洋経済』(2009・1月10日号)で、大前研一は、日本人のこのような「脳の働き方」を指して、次のようにのべています。 |
大前研一の日本の若者批判 |
- 世の中は弱肉強食の世界だ。今の日本の若者にはその意識がない。
- 内定を取り消され、国になんとかしてくれと大騒ぎする若者は甘えている。
会社を選んだ責任は自分本人にある。
- 答えをすぐに得られると思っている若者が多いのも問題だ。受験の参考書、マクドナルドのアルバイトなど全部マニュアル化されて答えが書いてある。ゲームも攻略本から先に売れている。
社会に出たら、答えが用意されているわけではない。
- 若者は、「いい大学を出て、いい企業に入れば、エスカレーター式に生活が豊かになる」と思い込んでいる。それが幻想というのだ。だから、いったん正社員になれば知的能力のスキルアップの努力をしない。
- 日本は、いい人材、いい企業は日本を見捨て海外に出ていく。日本は空洞化し、スペインやポルトガルのような400年の長期空洞化の道を歩み始めるだろう。
- ドイツでは、複数の有名企業が「世界に通用する人間しか採用しない」と宣言して、実際、幹部をドイツ以外からも集めている。ドイツ人は、必死で英語を勉強してTOEFLの平均点が急上昇した。
- 北欧では、幼稚園から英語教育を徹底して、今やネイティブ並みだ。
- 日本から一歩外に出れば、中国、韓国、インドは言うに及ばず、ハングリーでアンビシャスな若者が山といる。これが「世界標準」だ。
- だが、日本では若者の「温室飼育」を加速している。
■大前研一は、「日本人の若者も能力はある」という例に「五嶋龍」(20歳のバイオリニスト)、「浅田真央」(18歳のフィギュアスケート選手)らをあげています。
しかし、本質的な問題は「言葉の能力」です。日本人が、ドイツ人や北欧人のように「英語」を習得するとき、まず「動機」(モチベーション)から立て直さなければならないことは、鈴木孝夫の「日本人の日本語」と「欧米人のドイツ語、フランス語、英語」との学習の仕方や記憶の仕方の構造的な差異が大きく異なることが説明します。
欧米人は、ブローカー言語野の3分の2のゾーンの「Y経路」で「話し言葉」と「書き言葉」を学習しています。これにたいして、日本人は、ブローカー言語野の3分の1のゾーンの「X経路」で「話し言葉」と「書き言葉」を学習して、暗記によって記憶しています。Y経路の前者は、「これから行動すること」を動機としているのにたいして、X経路の後者は、「自分の行動はすでに終わっている」(生(なま)の欲求や感情が内発して起こったときに、瞬間的に、Y経路のゾーンに不安や恐怖とともにこれからの行動の言葉が思い浮ぶ)ことを動機にしています。
では、日本人が、大前研一のいうように、「ハングリーで、アンビシャス」な動機を確立するにはどうしたらいいのでしょうか? |
無藤隆は、『赤ん坊から見た世界・言語以前の光景』の中で「乳児」が「言葉の意味」を脳の働き方として記憶する仕方を次のように説明しています。 |
乳児も独力で動く |
① 乳児期の後半・「1歳8ヵ月」ごろには、記憶および、表象する能力の発達によって「大脳皮質」が成熟する。まず、短期記憶の能力が伸びて、これに支えられて、物や人を記憶する長期記憶が伸びていく。
② 生後6ヵ月までの乳児は、まだ「ハイハイ以前」(自分ではって動けない)の乳児である。手を伸ばして届く範囲までが、乳児にとっての空間世界である。(視覚の発達が弱く、十分に焦点を合わせることができない。目の前の数十センチの世界での物の移動、物の見え隠れをめぐっての認知と認識がおこなわれている)。
③ 生後6ヵ月から8ヵ月ごろに、乳児は「四つんばい」で移動ができるようになる。ここから「大脳」の発達は飛躍的に変化する。
④ 乳児の移動が可能になる、とは、「乳児」にとって遠くに見えている物を、自分が触ったり、取ったり、なめたりできるということである。 |
動くと世界は「三次元」であることが分かる |
⑤ カリフォルニア大学バークレイ校のキャンポスとそのグループによれば、移動が可能になった乳児は、「三次元の奥行き」を知覚するようになる。「ハイハイしている面」がテーブルのような面であれば、落下することを恐れて、ドキドキと不安を示すようになる。
⑥ 乳児が、自分で動けるようになると、「空間認識」が成立する。
「物は隠れていても存在する」という認識をもとに、「自分で探し出す」という空間認識である。
⑦ 移動できるようになった乳児は、「見知らぬ人」に敏感になる。母親の表情に「安心できる人」「恐れる人」などの意味を敏感に感じ取る。母親の表情が楽しそうであれば、乳児もほほえむ。これにともなって、移動した乳児は、遠くの位置から「母親」の表情を見たり、声を聞きとって、これを自らの「行動」の統制に使う。
⑧ アメリカのウェルナーとカプランによれば、この時期の「母親」と「乳児」は、対象にたいして「指さし」をおこなう。
「指さし」とは、母親、乳児の双方が対象に向かって指をさし示し、「その方向」を「じっと見つめる」ということだ。これを「共同注意」という。
この「共同注意」は「遠くの位置から見て認識したものを共同に認識し合う」という意味で「共同化された対象世界」という。 |
「共同指示」によって「観念」がつくられ、言葉が生成された |
⑨ 乳児の「言葉の発声」は「共同注意」の成立ののち「共同世界」が構築されることにともなっている。「指さし」がコミュニケーションの手段の成立となり、この「指さし」の代わりに「発声」が生じる。これが「発声」(話し言葉)の起源である。
乳児は、母親が「共同注意」の対象についてのその名称を発語すると、そのものの名称(名前)を覚える。乳児は、母親の言葉を音声的に模倣して、発声する。母親は、乳児が見ていないもの(共同注意ではない対象)について見たり、そのものの名称を発声することがある。このときは、「乳児」がその対象に「注意」を向ける。このときの、乳児が積極的に起こす「共同注意」を「共同指示」という。乳児が、ものの名称を爆発的に憶えるのは、「共同指示」の成立による。ほぼ「1歳半ば」頃である。 |
行動が言葉の意味を必要とする |
⑩ 「満1歳」から「1歳半」にかけて乳児の発語があらわれる。これは、「空間性の世界とこの中の対象」を「カテゴリー」と「ベクトル」の二つで知覚して、認知し、認識していることが基礎になっている。この「カテゴリー」と「ベクトル」についての認知と認識のことを「イメージ的な思考」という。この「イメージ思考」をマンドラー(アメリカ、カリフォルニア大学)とバウアー(ミネソタ大学)は「イメージスキーマ」と呼んでいる。「イメージ思考」は「0歳8ヵ月」から始まる。
⑪「カテゴリー」という「イメージスキーマ」のモデル。
- 台所用品というカテゴリーと浴室用品というカテゴリーが分かる。
- 動物というカテゴリーの中の「犬」「猫」を分かる。
- 乗り物というカテゴリーの中の「乗用車」と「トラック」「オートバイ」を分かる。
- このことにより、「上位のカテゴリー」と「下位のカテゴリー」(「全体」「系統」「分類」)が「イメージスキーマ」される。
- 「イメージスキーマ」は、乳児による空間性の世界の対象の知覚による「分析」によって成り立つ。
「外界にあるもの」がシンプルに単純化されて、この中の対象は意味を組み立てる「要素」が表象するものと思われる。
⑫「ベクトル」という「イメージスキーマ」のモデル(アメリカ認知言語学者レイコフによる)。
- ベクトルとは「動き」のことである。力(エネルギー)と方向性をもつ「動き」がベクトルである。
- 「生きているもの」と「生きていないもの」のベクトル
- 「動きの始まり」のベクトル
- ベクトルの因果関係
- 物が「入れ物」に入る、出るというベクトル
- これらの「ベクトル」は「比喩的なイメージ」になる。
- 物が器(うつわ)に入る、出るというベクトルは「論理的な思考のイメージ」になる。これによって抽象的な思考 (言葉の学習と記憶によって概念思考となる)が、できるようになる。
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「カテゴリー」と「ベクトル」が言葉の「意味」になる |
■ここで無藤隆が説明している「0歳8ヵ月」から「1歳半」までの乳児の「イメージスキーマ」(イメージ思考)は、乳児にとっての外界の空間性の世界の認知と認識の表象です。
「カテゴリー」も「ベクトル」も母親との「共同指示」の基礎になっています。「共同指示」は母親の発語を記憶させます。「共同指示」を成り立たせる「共同注意」が「イメージスキーマ」を表象させていることが分かります。
この「イメージスキーマ」は、レイコフらが「イメージ思考」と呼んでいるとおり、「観念」の世界のことです。
乳児の「行動の対象」が「観念」の世界を構築しています。この「観念」の世界は、「行動の対象」によって形成されているので「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」で、自律神経が恒常的に表象させています。
「カテゴリー」も「ベクトル」も「言葉の意味」の「素」(もと)になるものです。なぜならば、「共同注意」「共同指示」といわれているとおり、母親と乳児の間で、認知と認識が一致している、そして了解され合っている、だから「乳児の行動が可能になっている」ことが根拠です。人間は、乳児であろうとも、「言葉の意味」によって自発的に「行動する」からです。 |
日本人は「比喩」を学習して脳の働き方を立て直すべき |
このような「乳児」のブローカー言語野・3分の2のゾーンの「観念」の世界の構築は、日本人にも当てはまります。
しかし、「1歳」から「1歳半」とその後の成長の中で、「ベクトル」のもつ「比喩性」の認知や認識が「共同指示」にともなう「母親の発語」と連続してリンケージしなかったのが日本人のおおくの「乳児期」でした。
擬似「共同指示」として日本人の「乳児」の耳に聞こえてくるのは、「Y経路の対象」ではなくて「X経路」の対象の「乳児自身」の身体に知覚されることと「行動」にかんすることでした。「制止の言葉」と「母親の不安そうな顔の表情」です。
その結果、「ベクトル」の認知をふまえた「言葉の意味」の無い、身体の行動(知覚)と一致する「カテゴリー」の認知と認識だけの「観念の世界」(アジア型の共同幻想)が構築されたのです。
乳児期にブローカー言語野・3分の2のゾーンで「ベクトル」のもつ「比喩性」の記憶をふまえて、「共同指示」としての「話し言葉」と「書き言葉」の「比喩」の言葉を学習することが、大前研一のいうグローバリゼーションの中での「行動力」とそのための「知的能力」を成立させる「観念」の世界を再構築することになる、ということがよくお分りいただけたことと思います。日本人は、この「ブローカー言語野・3分の2のゾーン」の「観念」の構築がないかぎり、欧米人のいう「自由」も「人権」ももつ主体ではありえないのです。「自由」と「人権」のない主体には、「スウェーデン人やドイツ人」のような「英語」の習得は、「ネイティヴ並み」への道のりにはなり難いこともお分りいただけていることと思います。 |