言葉と行動の仕方は不可分一体の関係にあることを理解しましょう |
鈴木孝夫(言語社会学者)は、『新潮45』(2009・1月号)の中で、日本語と英語の「人称代名詞」の違いについて書いています。「人称代名詞」とは、よくご存知のように「一人称」「二人称」「三人称」のことです。英語でいうとI(一人称)you(二人称)he, she, it(三人称)が該当します。
日本人は、この「人称代名詞」の日本語を「私」(一人称)、「あなた」(二人称)、「彼」「彼女」「それ」「あれ」「どれ」などが「三人称」であると形式的にとらえています。
「だが、はたしてそうか?」というのが鈴木孝夫の問題意識です。鈴木孝夫がのべているところを理解できるかどうか?が、日本人が、今のグローバル・リセッション(世界同時規模の景気後退)の中で生き残れるか、どうかの根源が問われるところです。鈴木孝夫のいうところの要旨をご紹介します。 |
日本語の「人称」のとらえ方について |
① 今の日本で、英語を学校で習ったことのない人は少なくなっている。そこで、「自分を指すのが一人称、相手は二人称、そのどちらでもない人、物は三人称である」と教わり、そのように理解するのが常識だと考えられている。
② 英語では、相手に話しかけるとき、必ずしも「二人称」ではなく「一人称」で話しかける場合はよくある。
③ 「自分と相手以外」は「三人称」とするのが普通だが、しかしよく調べてみると「二人称」もよくある。そして、相手に「三人称」で話しかけることは、これはごく普通におこなわれている。
このことは、「人称」とは「自分が一人称」「相手は二人称」「どちらでもないものが三人称」という簡単なものではない。
具体的な例をあげる。
How are we today?(病院、老人ホームなどで)医師、看護師が親、入院患者に向かってあいさつをするときは、一人称の複数形で話しかける。
How are you?のような二人称はつかわない。
Let's wash our hands.(幼稚園などで、先生が子どもたちに向かって、おやつですよ、みんな手を洗って)というときは一人称の複数形のwe(us)で呼びかける。ここで先生は、子どもたちにだけ手を洗うことを求めている。先生は、子どもと一緒に手を洗わない。
「一人称の複数代名詞」のweの 使い方は、話し手が相手にたいしていろいろと面倒を見るときの保護者の位置にある場合によく用いられる。
普通の大人がweを用いて呼びかけられると「子ども扱いされている」と感じて反撥(はんぱつ)することがある。 |
英語の人称は、「主体」をあらわす |
④ あなたが部屋にいるとしよう。
誰かが、ドアをノックする。あなたは、英語で何と言うだろうか?日本語ならば「どなたですか?」「誰ですか?」と言うだろう。そこで、Who are you?と言うのだろうと考えると間違いだ。
Who is it?というように、相手をitと「三人称」で表現しなければならない。
同じことは、電話がかかってきたとき、「どなたですか?」のつもりでWho are you?と言うと、雰囲気が険悪になる。
「一体、おまえは誰なんだ?」といった詰問になるからだ。
Who is this?と「三人称」で言うのである。
このような事例から見て分かることは「二人称」のyouは、「相手の姿が見えていないとき」「相手が誰だか分らないとき」は使わないのが安全な言葉らしいことが分かる。
そして、「相手が見えていても、その人が誰であるか分からない、軽く戸惑っているとき」は、「二人称」ではなくて、「三人称」で話しかける。ホテルでポーターが客を探している、それらしい人を見つけて話しかけるときはIt's Mr.Smith, isn't it?というように、「三人称」で呼びかける。
⑤ 見てきたような例をとおして分かることとは何か?本来、「二人称」が使われるはずの相手に対して「三人称」が用いられる理由は何か?
「二人称」のyouは、話し手と相手との間に程度の差はあっても、個人と個人の間に見られる「対立」「拮抗」「敵対」といった心理的な緊張を合意している。このような要素のない「三人称」が用いられる。ドアの外にいる人、電話をかけてきた人に「三人称」を用いるのは、まだ正常な対話のできるI-youの関係に入っていないためである。 |
欧米人は、人間と向かい合っている |
⑥ 「人称」とは何か。西欧諸国では、「主観的、かつ心理的なものだ」と理解されている。
- 話し手が、「自分の周りの人間、事物」を「自分の正規の言語としての相手」と見るか、どうかで成り立つものだ。
- 自分と同等の資格で「言葉を交せるか?どうか?」に、「人称」をつかいわける基準がある。
- 「正規の言語的な関係の相手」とは、自分が話せば、相手も言葉を返してくるという「相互的な関係」を認める、ということだ。
- だから、ふつうは、「人間ではない事物、無生物」は「三人称」を用いる。同じように、対象が人間であっても、「目の前にいない人」とは、言語的な関係にはないから「三人称」となる。
- また、「話し手」が「相手」にたいして「戸惑い」「尊敬」「愛情」などを感じている時は、ここには「対決的な緊張関係が無い」から、「二人称」を避ける。
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日本人の文法は、人間不在をあらわす |
⑦ このように見てみると、日本語では「人称」という範疇(はんちゅう)が存在しない理由がよく分かる。
- 日本人は、話の相手との心理的な葛藤を避けたいと思っている。
- 「二人称」のように使われている「あなた」「おまえ」「そちら」などは、「相手の居る場所」を言っている。相手を間接的に、暗示的に指している。
- しかも、これらの「擬似代名詞」もできるだけ使わないようにと考えている。
「旦那(だんな)」「社長」「奥さん」などや、相手の役職名や職業名を使う。
- このように理解すると、日本語には、西欧の言語に見られるような「二人称代名詞」は存在しない。
- しいて「人称代名詞」という用語を用いるならば、日本語では、「私」「俺」も含めて全て「三人称」だというしかない。
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日本語は「行動が止まる」ための言語表現になる |
■ここで鈴木孝夫は、何をいっていることになるのでしょうか。
「言葉」と「行動」とは同じものであるといわれています。「行動」は「言葉」がつくり出します。
「人称」とは、「行動を起こす主体」のことです。「主体」とは、人間のことです。「主体」とは、「自分の自由な意思で行動をおこす当事者」という意味です。
この「主体」のあらわす行動が、欧米と日本とでは全く違っているというのが、鈴木孝夫の説明です。
どのように違うのでしょうか。
欧米では、目の前にいる人間を「自由な主体」とみなしています。
これにたいして、日本では、「そこには、自由な主体は存在しない」と認識しています。こういう違いがあるとのべています。
言葉による「人称」の表現とは、書き言葉(話し言葉も)によってあらわされる「行動の主体」による「行動の意味のあらわし方」のことです。「行動」とは、必ずしも「手、足を動かすこと」だけをいいません。「見る」「聞く」「皮ふに感じる」「話す」「思考する」ことも含みます。「意味をあらわす」のは自分か、相手か、第三者か、人間以外のものか、などが「主体」という概念が基準になって区別されています。
西欧人は、この「主体」を「自由な意思をもつものか、どうか?」で認識しています。
しかし、日本人は、「主体」を「自由な意思をもたない存在である」と理解しています。
このような理解が、「書き言葉」の表現の形式となり、「文法」という秩序を構築しています。
鈴木孝夫は、日本語による「人称」は、「私」も「おまえ」も「あなた」も、全て「三人称」というべき性質のものであるとのべています。その根拠は、「自分」も含めて、人間関係の間には「人物」なり「人間」なりは存在せず、「場所」か「位置」しか存在しないからだというものです。あるいは、「人物」を間接的に暗示する「社長」や「役職名」や「地位をあらわす名称(奥さん、旦那さんなど)」しか存在しないからであるというものです。
これは、日本人にとっての「人間」とは、自分や他者も含めて、そこにじっといつまでもとどまっている「静止した状態の存在」とみなされていることになります。
ポルソナーレの本ゼミのこれまでの説明に置き換えるとどうなるでしょうか。日本人は、「行動が止まっている状態にある」のが「人間というものだ」と認識しています。
鈴木孝夫は、日本語の「文法」は、「行動が止まっている状態」を話したり、書いたりする形式が構築されているとのべているのです。 |
このような日本語の「文法」の特性について、大野晋は次のように書いています。
『日本語練習帳』
(岩波新書より、リライト・再構成) |
日本語の「人称」の本質は「位置」を表現すること |
①ヨーロッパ語の「人称代名詞」と日本語の「人称代名詞」とを比べてみる。
- 英語には「一人称」がI, 「二人称」がyou, 「三人称」がhe,she, it, theyの7つしかない。
- しかし、日本語には実に多くの「人称代名詞」がある。この違いは何なのか。
- 日本語にも英語に似た「人称代名詞」(ふつう、人称代名詞とはいわないが)の使い方をもつ表現法がある。それは、「土地の売買」「賃貸アパートの賃借」に使われる契約書の形式だ。「山田三郎を甲(こう)とし、株式会社ポルソナーレを乙(おつ)として、両者の間に次のとおり契約する」といった書式に見られる表現だ。
ここでは、「行為の主体」が「甲」「乙」と表現されている。これと同じ「主体意識」が欧米語の「人称代名詞」の体制である。
- ヨーロッパ語の「人称代名詞」は全て「甲乙体制」である。それはスラヴ語、ゲルマン語、ラテン語の全てに共通する。これが、ヨーロッパ社会の根本の条件になっている。日本人は、このことに気づかず、気づいても忘れてしまっている。
② 日本語の「人称代名詞」には、体系がある。「近称」を「こちの人」「こなた」と言う。「遠称」は「あなた」と言う。
- 日本人は、「近称」を「親愛の表現」として用いる。「遠称」は「尊敬の対象」として用いる。
- 日本の原始社会の人々は、「うち」(家の中)は、安心な場所、親愛できる、なれなれしくできる、だから時には侮蔑(ぶべつ)してもよい、という心性でとらえていた。「そと」(家の外)は、「恐ろしい場所」「恐怖の場所」「恐ろしい魔界の住人がいる所」という認知の仕方をしていた。
- 「家の外」(そと)で生じることは「自分の力で左右できないこと」「自分が立ち入るには危険をともなうものだ」、だから「外の人、そとの事は手を加えない、そっとしておくにかぎる」「成り行きのままに扱う」と認識された。これが「日本語」(大和(やまと)言葉)の尊敬語のルーツになっている。
《例》
「亡くなる」
「おいでになる」
「ごらんになる」
「おっしゃる」など。
ここでは「なる」「ある」(仰せあるなどが用例)が尊敬語である。
「自然に推移していくままの結果の状態」のことだ。「人間の作為によらず、自発的に自然にそこに出現する」という意味だ。
この「自然な推移」が「尊敬」の意味になっている。
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日本語の「人称」は、人間関係の説明を目的にしている |
③ 日本語で「人称代名詞」といわれているものは、次のようなものだ。
一人称…「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」「うち」「おいら」など。
二人称…「あなた」「君」「おまえ」「てめえ」「きさま」など。
三人称…「彼」「彼女」「あいつ」「奴」「あちら」「こいつ」「御仁」など。
- これらの「人称」は、「相手」あるいは「話題の中の人物、ものごと」が自分とどんな位置関係にあるとしての扱い方にもとづいている。その位置関係の「気配り」を言葉づかいであらわす仕方のことだ。
- 日本語(大和(やまと)言葉)では、「話し手のいる所」を「こ」であらわす。「相手と自分が共に見ている、共に知っている所」(場所、物も)を「そ」であらわす。「遠くの所、物を指すとき」は、「あ」または「か」であらわす。「分からない所、物」を指すときは「ど」であらわす。
これらの語の下に「方向」「場所」をあらわす「接尾語」の「こ」とか「ち」をつけて言いあらわす。こういう体系になっている。
- 「話し手」の位置から近い、中くらいの遠さ、遠い、分からない(不定)という「距離」と「位置」の関係をあらわす。
三人称……「話し手」が「自分の領域内にある存在」(こいつ、こやつ、と「こ系」であらわす)。「すでに話題に出てきて話し手も聞き手も共に知っている人物」(そいつ、そやつ、そっち、その、それなど「そ形」であらわす)。「話し手から遠い人物」(あれ、あいつ、かれ、かのじょ、など「あ系」「か系」であらわす)。
二人称……自分の「前にある存在」を扱う表現である。
「こちの人」(自分のいる方の人)が距離の近さをあらわす最も古い言い方である。妻が夫を呼ぶ言い方で言いあらわされている。
「お前」は「大前」のことだ。神様の前のことだ。平安時代から江戸時代の前期までは相手を崇(あが)めた言い方だった。昭和、安永の頃(1700年代)に同輩に使われた。江戸末期には「親しい呼び方」から「相手を低く扱う気配」が加わる。
「てまえ」(手前)は、「自分の領域の空間」のことだ。
初めは「自分のこと」を言いあらわした。
「自分の力が及ぶ範囲」だから「対等の相手」「目下扱い」の言い方になった。「てめえ」となると「相手を見下したののしり語」に近い。
一人称……「こちら」「こっち」「こちとら」など、自分自身を言いあらわす。
「わたし」「わたくし」は、漢字の「我」から派生したものと思われる。ということは、相手と自分の関係を「上下」で扱うことは中国の家父長制度からの輸入だ。「公私」の「私」に相当する個人の存在を言いあらわすのは、「漢語の輸入」以来より、と考えられる。
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日本語の「文法」は古代原始社会の対人意識をあらわしている |
④ 日本語の「人称代名詞」は、
?和語系の「ここ」「そこ」「あそこ」という話し手からの距離でとらえられている。
?漢語系の「上下関係の区別」「人の性質を尊敬か、卑下する言い方」
の二つのカテゴリーで成り立っていることが分かる。
同じように敬語も「距離意識」の上に、「人間関係の上下関係」をあらわす言い方が乗っている。
日本人は、「相手」を「うち」(家の中)に属する存在か、「そと」(家の外)に属する存在か、の区別とともに、さらに「上か下か」の対人意識を加えた言葉の表現法を文法の基礎としている。
■日本語の国語学者、大野晋(学習院大学名誉教授)がのべているのは、日本人の「行動の仕方」が「言葉の言いあらわし方」の特異性となってこれが「文法」化されているということです。古代の日本の原始社会の人間関係の意識が、今もなお厳然と残っていると理解しましょう。この「古代の日本の原始社会」とは「和語」(やまとことば)という「話し言葉」が生成された時代と社会のことです。
このように、古代の社会の言葉を今もなお継承して残しているという国は、日本に限らず、世界のいたるところにあると思われます。しかし、古代の原始社会の言葉を行動の仕方とした「きまり」を「文法」ととらえると、日本語のように、「対話する主体」や「対話の関係の主体」が不明確になるという弊害と障害が生じます。 |
ちなみに「リッカ・パッカラ」(フィンランド・ヘルシンキの小学校教諭)は『フィンランドの教育力』(学研新書)の中でこんなふうにのべています。 |
フィンランドは人材育成に投資している |
① フィンランドは、ノルウェーのような天然資源もなく、林業以外これといった産業もない小さい国だ。自給率を誇ることもできず、多くを輸入に頼っている。
そういう国では、人に投資しないと未来はない。「ヘイノネン教育大臣」は、「経済不況の中での限られた予算を投資するなら、いちばん有効なのは子どもたちへの教育だ」と訴えて改革をすすめてきた。
② フィンランドは、母語を大切にする国民だ。家庭での読み聞かせが定着している。図書館でよく本を借りるし、新聞の購読率も高い。
③ まわりの世界で何が起こっているか知りたいし、知っておく必要があるからだ。ヨーロッパで最初に女性の参政権を認めたのはフィンランドだった。
④ フィンランド人としてのアイデンティティを持ちつづけるには、まず母語をきちんと学ばなければならないという意識がつよい。そのためには母語教育をきちんとサポートする必要があると考え、これを実践してきたという歴史的経緯がある。
⑤ フィンランドの公用語は「フィンランド語」と「スウェーデン語」だ。
フィンランド語は、ほかの北欧の言語とはあまりに違うので、隣国とコミュニケーションをするには、自らが外国語を学ばなければならない。
フィンランドで、普通に暮らしていくには、少なくとも3つの言語の習得が必要だ。フィンランド語とスウェーデン語、そして英語。この3つの言語は、現在のフィンランドでは、最低限必要なものになっている。 |
金田一春彦による「助詞」の用法の説明 |
■では、日本人にとっての日本語の教育はどうなっているのか。この点を問いかけて最も分かりやすいのは、日本語の「文法」の中の「助詞」についての説明です。
金田一春彦(国語学専攻。『新明解古語辞典』三省堂・編者)は、『日本語』(上下巻。岩波新書)の中で、次のようにのべています。
① 一つ一つの名詞は、動詞や形容詞、他の名詞に対して、「どういう関係をもってつづいていくか?」。その違いを「格の変化」という。
② 日本語では、名詞の次に「が」「を」「に」「の」という「後置詞」「格助詞」をつけてあらわす。
③ 「日本語」の「格」はいくつあるのか?「三上章」の『日本語の構文』によれば次のようになる。
「が」…主格。動作・作用をするもの、属性をもっているものをあらわす。
「を」…対格。作用を受ける対象のほか、移動する場所、分離の対象をもあらわす。
「に」…位格。場所、時、範囲をあらわすほかに、帰着点、変成の結果、目標をあらわす。さらに、漠然とした動詞への修飾をあらわす。
「の」…連体格。広く名詞につづく言葉をあらわす。
「と」…共格。相手のほかに、変成の結果、談話や思考の内容をあらわす。
「から」…奪格。出発点をあらわす。
「へ」…方向、帰着点をあらわす。
④ 助詞「が」と「は」について。
- 「が」「は」は、主格をあらわす助詞と考えられている。
「私は日本人です」
「雨が降ってきた」
- 「は」は「昼飯はまだ食べていない」という言い方がある。「呼格」にあたるものに「は」をつけることがある。
「は」は、その時の「話題」をあらわす助詞である。
「春は眠くなる」
「これは一雨降るな」
などのように、話の題目をあげる記号だ。「は」のあとには、それに関連したことはどんなことをのべてもいいのだ。
⑤ 助詞「の」について。
- 「の」は、他の格助詞が動詞や形容詞へとつづく語句をつくるのに、「名詞」へとつづいていく語句をつくる。そういう格助詞は「の」しかない。
「妹の結婚」…「妹がする結婚」で「が」に相当する「の」の格である。
「衣料品の販売」…「衣料品を販売すること」で「を」の意味を含んでいる。
- 「の」は用法が広く、意味が曖昧になりやすい。「…による」「…のための」のような言い方が工夫されている。
「人民の人民による人民のための政治」などが工夫されている用法だ。
- 「の」は「名詞の語句」をつくるために連続する傾向がある。
「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」(佐佐木信綱)
「天彰院様の御祐筆の妹の嫁入先のおっかさんの甥の娘」(夏目漱石『我輩は猫である』)
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大野晋による「和語」の「助詞」のメカニズム |
■日本語の「文法」の説明についての要点をご紹介しました。橋本進吉の「古代よりの言葉の発音の意味の変化を調べること」や、時枝誠記の「日本語とは、どんな行為なのか」を明らかにする系統の中で、金田一春彦の説明する「文法」のような考え方が学校教育でも教えられています。
金田一春彦が「格」といっているのは、「言葉の展開をつづけるパターン」といったほどの意味です。
金田一春彦の「日本語」の「助詞」の説明にたいして、「大野晋」は、『日本語練習帳』(岩波新書)の中で次のようにのべています。
① 古代の助詞の使い方をみると、日本の古代人の人間関係のとらえ方がよく見えてくる。
それは、助詞「が」と「の」の使い方だ。
「が」…「我が子」「君が代」(万葉集)のように使い方が限定されてきた。
「自分自身」または「自分に近しい人間」の下に付くのが「が」であった。「が」の使用度数の8割以上を占めている。
「の」…「大君の命(みこと)」、「大宮人の母」のように、「天」「山」「川」「上」「下」「春」「山神」(やまかみ)など広く、広範囲に使われていた。
「が」…自分を中心とする「わが家の住人」にたいして使う。「わが家」は垣根で囲まれている。この垣根の中の人には「が」を使った。
「の」…「わが家の垣根の囲いの外」の人は「そとの人扱い」になる。
地名は「外扱い」だから「の」が付く。もし、地名や動植物に「が」が付けば「家の内部の人と同じ扱いを受けるようになった」ことを意味している。
② 原始日本の社会では、「うち」と「そと」の区別が「助詞」によってあらわされていた。「内扱い」は「が」、「外扱い」は「の」である。
日本語の「助詞」は、このような「遠近」の区別が基準になって、次のように発展してきている。
- 助詞「は」…「話の場を設定する」「話の題目を提示する」。
「問題を出して、その下に答えがくることを予約させる」。
用例…「桜の木には、妖しさがあり、美しさがある」「私の心にある桜の木には、魔力がある」
- 助詞「は」…「対比させる」
用例…「私は猫は嫌い」
「私は」の「は」の答え(結び。結語)は「嫌い」である。「猫は」の「は」は、二つ目の「は」だから「対比」の「は」である。別の何か「うさぎは好きだが」の意が裏にある。
- 助詞「は」…文章の鮮明さを表現する。
用例…「花は桜木」「人は武士」「春はあけぼの。夏は夜」
ここでは「AはB」の形式となっている。「A」と「B」の距離が近い文が鮮明であるといわれている。
- 助詞「は」…「再び、問題にする」(再問題化)
用例…「美しくは見えた」「訪ねてはきた」
ここの「は」は、何かの留保がついたり、条件がついている。「美しくはなかった」「訪ねてはこなかった」のような単純な全面否定ではなくて、部分否定か、留保がついている。
- 助詞「が」…名詞と名詞をくっつける。(「は」は分離して、下の語とむすびつける)。
用例…「世界で会話ができるのはうさ子さんだけだ」
「世界で」を、「が」は、「会話ができるのはうさ子さん」をひとまとめにしてむすびつけている。
用例…「彼がしきりに助けを求めているのをあなたはすてておいた」
「が」は「彼」と「しきりに求めているの」までをひとまとめにしてむすびつけている。
- 助詞「が」…現象文をつくる
用例…「花が咲いていた」「鍵が見つかった」
「が」の下に名詞が来ずに動詞が来て文が終結する。
新しいセンテンスで江戸時代以降に生じた。このパターンを「現象文」という。
- 「は」「が」を、英語でいうような「主語・述語」の形で扱ってもうまくいかない理由は、「は」「が」のパターンがいくつもあることに由来している。
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日本語の文法は「対象」を説明しない行動を生成する |
■助詞の「表現の仕方」について、大野晋がのべる日本語の「文法」の特質の要点をご紹介しました。日本語は、古代原始社会の「日本社会」からえんえんとつづいてきている「和語」(やまとことば)を表現の骨格にしていることが分かります。この「和語」(やまとことば)のX経路の認知と認識の上に「漢語」が乗せられて「訓読み」が加わっています。「漢語」はもともとY経路の認知と認識で成り立っています。しかし、「音訓読み」の二重性のメカニズムは、X経路に変容させていることをよく理解することが必要です。
「和語」(やまとことば)の「行動の基本型」は、対象を「遠い」か「近い」か、「うち」か「そと」かで区別しています。「行動が止まっている」ことをあらわすX経路の表現です。
日本人の行動の仕方は、ここで、「相手」は、自分にとって「上位」か「下位」か、にふるい分けて、「位置関係」と「場の関係」を言葉であらわします。これが「ていねい語」や「敬語」「尊敬語」の由来になって、日本語の「文法」を構築しています。
日本語の文法の特徴は、言語社会学者の鈴木孝夫がいうように、「日本語を話したり、書いたりする意思の主体」が不在になるというところにあります。誰に話しているのか、誰が話しているのか、何について話しているのか?が不分明になるということです。
これは、日本人にとっては、「これから行動をおこなう」「これから行動の対象に関わりをもつために進行していく」という表現にはなりにくいということを意味しています。「行動が止まっている」か「行動が止まった状態でものごとを見る、聞く、触る」という言葉の表現の仕方になります。このことは、日本語だから「未来形の行動の表現はできない」ということではありません。
現在の日本語の「文法」は、「和語」(やまとことば)に乗っているので「話し言葉」でものごとの意味をとらえようとすれば、「ブローカー言語野・3分の1のゾーン」のX経路が働きつづける、ということが危険なところだとお話しています。それは、「敬語」「ていねい語」の使い方を間違えると、ここから一転して「なる」「ある」の表現が、「ものごと」を自然現象のように見なしてしまう「認知」や「認識」の仕方に変化する危険性をはらんでいます。 |
日本人が、「世界同時不況」を自然現象のように理解する根拠 |
グローバル・リセッションを「天災」のようにとらえるとか、「非正規社員の雇用問題」を天災から保護する哀れな存在とみなす思考パターンが、その好例です。「…である」「…になる」という「和語」(やまとことば)中心の文章は簡潔で鮮明かもしれません。
しかし、「ゲシュタルトの認知の法則」や、「ベクトル」「カテゴリー」を元(もと)にした「メタファーの認知」の言葉が示す「ものごとの変化の内容」、そして「人間の意思によって変化させられることのプロセス」の言葉は、記憶されないでしょう。
これが日本人の行動パターンの「ブローカー言語野・X経路」の言葉です。「欧米語」は「ブローカー言語野・Y経路」の言葉で行動します。その欧米語の理解に取り組むとき、つまり、欧米人の思考とコミュニケーションをとるときに「和語」(やまとことば)が水と油のように不整合を生じさせます。「自然現象の自然な移りゆき」のように見てしまうという「行動停止」が生じる可能性があります。
今回の本ゼミは、日本人の書く言葉の日本語が、どのように「言葉の意味」を変形させやすく出来ているか?をお話しました。日本語がよくなくて、欧米語がよいという比較ではありません。このような文法の特質をもつ日本語を用いて、どのように「Y経路」の言葉を創出するか?というテーマの前提であることをご理解ください。 |