「分裂病」ということを正しく分かるとメリットがあります |
今回のゼミから、しばらく「日本人の分裂病」についてご一緒に考えてみます。
「分裂病」というと、おおくの人は「幻聴」とか「幻覚」がいつも頭の中にあって、日常の会話や日常生活のことが分からなくなっている人のことだ、という印象をもつかもしれません。
今の日本では、このような「人格を崩壊させる」というところまで病気を抱えている人はいない、向精神薬などの薬物療法で「人格の崩壊」は防げているのではないか、と考えている人がおおいのではないでしょうか。
「早期発見、早期治療」という精神衛生が社会的なコンセンサスになっているので「精神分裂病」ということ自体が「統合失調症」に変えられてしまって無くなっているのではないか、とも思われているのではないかとも考えられます。
そこで、ここであらためて「精神分裂病とは何か?」ということからご一緒に考えてみます。
「精神分裂病」というと、「精神が分裂する病気のことだ」というイメージが思い浮べられがちです。するとみなさまのまわりには「二重人格」とか「三重人格」といったように、「ジキル氏とハイド氏」のような人格変化を起こす病気のことだと思ってしまう人がいるかもしれません。これは「精神分裂病」というものへの「思考のバイアス」(思考の歪み)というものです。
「精神分裂病」は、古代社会の頃から人間の中に起こった心と精神の病気です。
吉本隆明が書いた『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)の中の「禁制論」の中に次のような説明があります。再構成してご紹介します。 |
日本型の「分裂病」のモデル |
?村の娘が山に栗ひろいに行った。だが、娘は、山に行ったまま帰ってこなかった。家の者は、娘が帰ってくるのを待った。だが、いつまでたっても帰ってこない。娘は死んだ、と思わざるをえない。家の者は諦めて葬式を出した。数年がすぎた。ある日、村の猟師が山に入った。どこまでも深い山の奥までわけ入った。すると、どこかとは分からない山の中に、いなくなって死んだと思われている娘がいる。娘は、この辺りで生活しているような風情(ふぜい)だった。驚いて尋ねる。
「どうして、こんな山の中にいるのか?」。すると娘は話した。
「恐ろしい人にさらわれた。その男の家に連れていかれた。逃げよう、帰ろうと思っても、少しも隙(すき)がない。とうとうその男の妻にされてしまった。その男は、身体が巨大で、眼は、夜の狼のように青白く光る。私は、子どもを何人か産んだ。だがどの子もいなくなる。食べられるか、殺されるかした。仲間がいる。
時々、数人が集まって話し合いをしている。食べ物は町から運んでくるようだ。こう言っている間にも、その辺りに帰ってきて、あなたを捕えて危険な目にあわせるかもしれない」。
猟師は、おそろしくなって、飛ぶように村に逃げ帰った。
(『遠野物語』より)。 |
説明の無い言葉が分裂病をつくる |
?吉本隆明の説明。
1.このエピソードは、日本人の共同体の中の「禁制」のエピソードである。
2.禁制とは、法律のように文章で書かれた行動の禁止のことではなくて、人の口から人の口へと伝えられる物語ふうの禁止の伝承のことだ。
3.こういう伝承の禁止のエピソード話は、村なら村の全体の成員にたいして「なになにをしてはいけない」という「禁止」をあらわしている。
4.なぜ、このような禁制のエピソードが親から子、子からその子どもへと語り継がれるのか?といえば、「禁制の対象を恐れる」という意識がひとりひとりの人間の中に、丸暗記されているからだ。丸暗記というのは、この「言葉」の「意味」はこういうものだという説明のない憶え方のことだ。こういう丸暗記は人間の行動を止める。
5.エピソードが、「こうらしいよ」「こうなんだって」「みんなが言っているよ」という話し方で伝えられる時、「恐さ」は客観性をおびる。本当は主観的なおしゃべりにしかすぎないのに、「あなたのことを、みんなが言っているよ」と客観性をもたせて話されると、なんとなく「行動してはいけないこと」のように意識される。こういう巧妙な合意のさせられ方のことを「黙契(もっけい)」という。
6.「黙契」は、「伝染病」にかかったもののように、いつでも個人の観念にしのびこんで、いつの間にか、村なら村の共同体のルールのように形をととのえる。「山の中に、一人で行ってはいけないよ」といったふうなルールは、「山の中」だけのことのように見えて、じつは、「習俗」といって、ふだんの生活の中の行動の仕方もルール化されてしまうものだ。
このように共同化されるルールのために、「黙契」が大きな役割りを果している共同体のことを「アジア型の共同幻想」という。
7.「共同幻想」とは、「共同の幻想」ということだ。「共同」とは、高度になれば「社会」という言葉と同じ意味になる。広くいえば「共同体」は「社会」と同義である。
「社会」というときは、他の共同体と区別される「制度」を中心に考えて理解するときの言葉である。「共同幻想」というときは、構成員の全員に共通する行動秩序を見ているのではない。
個人の意識の中に、どういう社会意識があるのか?を見るときに「共同幻想」という言い方をする。 |
知性との「不適合」が分裂病をつくる |
8.『遠野物語』が説明する「個人の共同幻想」は、「自分の意思」というものが存在しない、だから自分の自立した考えがないので何も行動できない「共同の不適合」のエピソードだ。
9.「幻想」とは何か?というと、人間は、1日24時間、寝ているときも、いつも「何か」をイメージしている事実から説明されるものだ。人は、ボンヤリとイスに座っている時も、道路を歩いているときにでも「何か」を頭の中に思い浮べている。
この「イメージ」が「幻想」の実体だ。「幻想」という時は、もう少し条件が加わる。
同じイメージでも「夢」とか「白日夢」とか「空想」とかと区別するためだ。「幻想」というのは、「入浴する」という時に「家の中」「今、自分のいる位置からの移動の空間」「浴室」といったように、行動のための方向や行動の順序が、空間的なイメージとして思い浮ぶことをいう。いわば、「行動地図」といったものだ。個人の自分が行動したときに見たり、触った知覚の記憶が「行動地図」を記憶している。
「どこどこへ行く」「どこどこに行き着く」というように空間性として思い浮ぶ対象がイメージされると、次に、どういう順路で歩いていくか?からどれくらいの所要時間か?という内容のある「行動パターン」が思い浮ぶ。このように「行動のために秩序が思い浮ぶこと」をさして「幻想」という。「共同幻想」という時は、この「行動地図」が共同体のどの人にも共通に表象(ひょうしょう)するというときの概念である。 |
分裂病は「不適合」が恐れと安心をつくる病理 |
■吉本隆明は、「禁制」は伝染病のように伝染してくる、そして、「黙契」を記憶した人は、すでに伝染病にかかっている、と説明しています。この伝染病とは、「みんなが、あなたのことを嫌だと言っているよ」とか「ネットで、あなたのことがうわさされているよ」といった言葉に不安を感じることと同じ意識のことです。
ここで、「では、行動を止めよう」と思って、「行動に制限を加える」ことが「黙契との合意」です。「私が、何か悪いことをしたのではないか?」「私のどこかに変なところがあったのではないか?」と考えることが「分裂病」なのです。
「分裂病」とは、その時代、その社会の中でもっとも重要だと認められている言葉と「不適合」になることをさしているのです。『遠野物語』が伝承されている時代と社会は、農業や漁業、林業といったものが経済の中心でした。だから、一人一人の人間は、くりかえされる生活の仕方の中の「秩序」は、自分の身体とほとんど同化していました。問題は、一人の力ではどうにもできない「道路づくり」「水の運用」(灌漑・かんがい)「村の構成員の管理」などです。税制や生活の保護といったことです。ここには「共同としての秩序」があります。この「共同としての秩序」は永続性をもつ言葉(書き言葉)で決定づけられています。『遠野物語』のエピソードは、この「共同としての秩序」という社会規範にたいしての「不適合」が語られています。
『遠野物語』の「分裂病」は、「社会規範への不適合」が「禁制」とか「黙契」という「行動停止の仕方」になっている、と説明されています。
「分裂病」とは、何のことでしょうか?
「行動が止まる」とここには「不安」とか「恐怖」のイメージが思い浮ぶので過度に緊張します。無呼吸症状態になって、「心臓が止まるのではないか?」という無意識の死の不安が持続します。人間は、誰でも「死ぬこと」が不安です。
嬉しい人はいません。餓死や転落や病気などの延長に「死」はイメージされます。
「行動が止まる、そして過度に緊張する」というのは、こういう究極の不安を思い浮べさせるのです。頭の中に思い浮んだ「イメージ」のせいで「不安」になったとき、人は、どうするでしょうか?「グチを言う」「寝る」「ヤケ食いをする」「酒を飲む」「八つ当たりをする」といったことでしょう。 |
分裂病の「分裂」とは「緊張」が「弛緩」に変わること |
または、「占い」のような言葉を聞いて、「行動や態度を改める」でしょう。『遠野物語』に出てくる人々は、「占い」のような言葉を聞いて、「恐怖のイメージ」を強化しました。不安を恐怖へと進行させたのです。そして「自分の行動に強力なシバり」を加え安心を得るという方法を、誰もがとりました。しかし自分で自分の行動をシバるので、この「シバりの意識」はいつも「恐怖のイメージ」を伴っています。行動の規制は「恐怖のイメージ」が動機(モチベーション)になっているからです。この「恐怖のイメージ」は、「行動にシバりが加えられている間」は、「自分は安全だ」という「安心のイメージ」を表象させます。ちょうど、ランニングをした後で「ひと休み」すると、安らぎと楽観の満足感が得られることと同じような「自分は楽しいという安心感」がイメージされるでしょう。「緊張がゆるみ、全身が弛緩(しかん)する」のです。人間は、昔から「癒す」という言葉を日常のものとしています。「傷を癒す」「病気の熱を癒す」「苦痛を癒す」などのように用います。「癒す」ことと「治る」ことを同義とみなしていました。治るか、治らないかは、成り行きの結果です。ものごとには原因がある、この原因が結果につながる、という合理性が全く理解されない時代と社会では、「苦痛感さえ消えれば安心の極みである」とその場限りの「場当り」の「安心感」を喜んでいました。
思い浮ぶイメージで身体が「弛緩(しかん)」すると「自分は癒された」と思い、「安心の極みにいる」と思いこむことが「分裂病」の実体です。
このように、「分裂病」とは「ジキル氏とハイド氏」のような「人間としての人格の分裂」のことではありません。当然の社会性のある知的な緊張を、「癒し」にも似た快感や安心のイメージを思い浮べることで、自分の全身を「弛緩させること」が、分裂病の本質です。
『遠野物語』の時代と社会では、共同体の成員の全員が「税制」や「共同財産や資産」の言葉にたいして「不適合」の状態にありました。
誰も「書き言葉」を学習していなかったからです。日本語は、「和語・やまとことば」と「漢字・漢語」の二つで二重になっていました。「和語・やまとことば」は「自然」と「恋愛」のことだけを書きあらわす「曖昧語」です。この「曖昧語」としての日本語を覚えていた人は多かったのです。
しかし、「漢字・漢語」は「意味」が多義にわたるので、日々、一定の時間を割り当てて学習しなければなりません。
「人間の価値は、学問でも学歴でも、知識でもない。その人の人間性だ」といったことをいつかどこかで耳にしたことがおありでしょう。「エライ坊さんだってがんになって死期が迫ってくると錯乱する人だっているしね」、といった脈絡のエピソードです。こういう人間観は、『遠野物語』の共通認識でした。だから、「自然に同化して死ぬこと」と「恋愛に殉じて死ぬこと」が美的な価値とされたのです。すると、共同体という社会の中では、「禁制」と「黙契」がつねに伝染病のように背後から忍び寄って来て「行動停止」を強制しつづけます。その結果、『遠野物語』の共同体の人々は、全員が「分裂病」を抱えていたということになるのです。 |
分裂病は、「人格崩壊」か、さもなくば「死に至る」病気 |
『共同幻想論』の中には、「憑人論」というテーマで、『遠野物語』の描写する分裂病のエピソードがいくつか紹介されています。
- ある男が、山の中でキノコ取りの仕事をしていた。ある日の夜、遠い所で女の叫び声がする。胸がざわつくので家に帰った。すると、自分の妹が、その息子に殺されていた。叫び声を聞いた同じ時刻の殺害だった。
- ある男が町へ行って、自分の村へ帰る途中のことだった。二人のちょっと様子がおかしい娘に会った。「どこから来たの?どこへ行くの?」と尋ねた。娘は、「山口さんの家から来ました。これから山田さんの家へまいります」と答えた。淋しげな二人の娘はさっと歩き去った。
「これは、山口さんの家にとんでもなく恐ろしいことが起こるな」と思った。いそいで山口さんの家に行ってみる。すると、山口さんの家では、毒キノコを食べて、主従二十数人が死んだ。一人だけ助かった娘は、老いて、子どももなくして、死んだ」。
■このパターンのエピソードがいくつか紹介されています。誰かが死んだ、どこどこの家が火事になった、ある男は発狂したが「山神」から特別な能力を与えられた、などというものです。
つまり、「分裂病」は、いつの時代でも「性格の崩壊」(様子のおかしい娘を見つける、話す。幻聴を聞く、など)、「うつ病に陥って死ぬ」(家族に殺害された、家族の死に直面した、など)、「人格の崩壊」(発狂した、孤独のまま自閉して一生をおくる、など)を招く病気であったのです。
この『遠野物語』の分裂病の要因の「不適合のパターン」は、日本人の脳の働き方の「X経路」で「言葉を憶える」という仕方で、現在の日本人にも継承されています。 |
日本人の現在もつづいている「不適合」の脳の働き方 |
国語学者の大野晋は『日本語の教室』(岩波新書)の中で次のように書いています。
A・雨が降った
B・ああ、驚いた
- Aの「た」は、過去のことの説明文だ。
Bの「た」は、今の驚きの感情の気持ちのことだ。
- 欧米語では、過去、現在、未来の時制を明確にし、「時間」を客観的な長さをもつものととらえた。
- 日本人にとって「時制」は、「主観的なもの」だ。だから、「気づき」「気持ちの持続」の場合も、過去を意味する「た」を用いる。
- すると、日本人は、「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どうした」「どうする」という説明の仕方を、すでに自分の「主観」の中にあるものだから、わざわざ言葉で言いあらわさなくてもいい、と考える。
■ここにある大野晋の説明は、「X経路で言葉を憶える」ことの特性がのべられています。
「水を飲んだ」「食事を摂った」「疲れるくらい勉強したので、もう終わった」「性は、何度かした。だから、したくない」「性をしたが、まだ、欲求を感じるので、行動は終わっていない」という「行動の停止の仕方」が「X経路で憶える言葉」の特性です。
「行動が止まる」ことと「不適合」とは同義です。現代の日本人の「不適合」イコール「行動停止」、すなわち「分裂病」は、どのように発生して持続させられているのか?を、鈴木孝夫は、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)の中でこう書いています。 |
日本人の分裂病のつくられ方「英語の勉強」 |
?日本人は英語ができないことに関連して引き合いに出されるのがトーフル(TOEFL)の国際比較である。日本人は、218の参加国の中で、最後から数えて13番目だ。アジア26カ国に限って比較しても、日本より得点の低い国は「タイ」と「モンゴル」だけだ。
?よく日本人は、「日本語は難しいので欧米人が学ぶのは大変だ」と言う。これと全く同じことが「日本人が英語を学ぶときにもいえる」ということに気づいている人はあまりいない。普通の日本人が、日本にいながらにして英語に習熟することは、一般に考えられているよりももっとはるかに難しいことなのだ。
?今の日本人は、英語という難しい外国語ができなければ「教育が受けられない」「一人前の暮らしもできない」などの差し迫った必要が感じられないことが「日本人は英語ができない」と言われていることの大きな原因である。
?だが、現在の日本は、「輸出」を中心に、世界規模の「通商網」を広げている。あらゆる種類の複雑きわまる国際対応を迫られている。しかし「日本語」は「国際通性」が無きに等しい。すると、諸外国との交渉や交流の主要な部分を「国際語の資格をもつ英語」に頼らざるをえないのが現状だ。
?日本人の大半には、国内的には、「必要性」「緊急性」がほとんど感じられないのが「英語」だ。真剣な習得意欲が湧きにくい。しかし、日本そのものには国際的な局面で、それこそ国益をかけて「英語」を上手に、うまく使うというきわめて高い能力が「当事者」に求められている。非常に両立させることの難しい「言語的な立場」に、日本人は立たされている。
「日本人は、もっと英語ができなくては困る」という主張は、この面を指している限りにおいては正論である。
?アメリカ、イギリス、ロシアといった国々では、「特殊な立場の人」「職業上の理由のある人」は別として、一般の人は、外国語ができないのが普通だ。誤解を恐れずにいうと、「特別でもない人」が「母国語以外の言語」を「日常的に使える」ということは、多くの場合「その人」が「経済的」「民族的」などの理由で「弱者の立場」にあることを意味する。かくべつ、嬉しく、楽しく、喜びを感じて「いくつもの言語」を使っているわけではない。それどころか、多くの国では、外国語というものは嫌なもの、警戒すべき恐ろしいもの、そして排斥すべきものといった「外国語不信感」がむしろ強い。
?世界が変わり、日本も変わった「国際化時代」に、これまでのように依然として多い日本人のように、ただ漠然と外国語に憧れて、「英語ができることは良いことだ」「そうだ自分も英語の一つくらいはできなくては…」と思いつづけることが、果たして日本と日本人にとって本当に意味のあることなのか?は、今、あらためて真剣に考えてみる必要のある大問題なのである。
?日本人は、長い間、ある人が外国語(その時々の先進国の言語)ができるということは「その人が社会的にエリートだということと同義」であり、まわりの人から羨望のまなざしで見られるのが常だった。
そして、「外国語ができる」ということが、まるでその人の「人物」までも優れているという笑うべき錯覚すら生むようになっている。このような片寄った外国語にたいする見方を払拭(ふっしょく)しない限り、日本人は、「国際化時代」において適切な「言語的対応」を外国にたいしてとることが難しいと思っている。
?日本人には「外国語」にたいする受けとめ方、見方に特異性がある。
「きわめて強い憧れの気持ち」が際立った特徴だ。これは、日本が、国内でも国外でも、「異言語」との間で「食うか、食われるか」の対立競争という緊張状態を全くといえるほど経験せずにすんだことに由来している。いざ外国語が必要となった場合、社会の上層部の人間だけが外国語を学んだ。進んだ外国の「文明」を日本国内に取り入れることができた。この場合も、自分たち日本人に役に立つものだけを選んで、自分たちに都合のいいように利用することが許されるという恵まれた国際環境があった。これが有史以来、「高度成長期」までつづいた。
これが、日本人の「外国語」への過度の憧れや過度の美化といった肯定的態度を一般の人々が今もなお持ちつづけている背景である。これは、日本の文明は、「自己改革・自己改良型…部品交換型文明…着せ替え人形型文明意識」といえるものだ。 |
日本人の現代の分裂病は、「ユニット不適合」と「ユニット神経症」 |
■鈴木孝夫(外国語教育専門、言語社会学者)がここでのべていることは、日本人は、外国語(その時々の時代の先進国の言語)にたいして「美化」「憧れ」だけを自らの必要性としているということです。このことは、「英語」を学習すると、そのまま「自分を消極的に植民地化、被支配者意識化することになる」と指摘しています。鈴木孝夫が考察していることは「分裂病」の本質に置き換えて理解することができます。
日本人の用いている「日本語」は、大野晋(国語学者)の学説にもとづくと、「和語・やまとことば」と「漢字・漢語」の二つで二重になっています。このことは、これまでなんどかくりかえして説明してきました。日本人が「英語」なら「英語」を習得して「外国の文明を取り入れた」のは、「漢字・漢語」の「言葉の意味」を理解している人間にとってだけ可能だったのです。しかし、それは、鈴木孝夫も指摘しているように、「物」(商品、機械)、「実用的に役に立つ知識」(医療、政治・法律制度、教育制度)に限られていました。
社会の中の「行動のために必要なルール、約束、きまり」といった「社会性の知性」の中枢の「秩序意識」のための「学的な知性」とは「不適合」のままでした。
大野晋は、「日本人の対人意識の基本構造」は、「自分の位置」を中心にして「遠いか、近いか」を「区別することだ」と説明します。日本人は「遠い位置」にあるものにたいして、どういう態度や行動の仕方をあらわしてきているでしょうか。
- 恐れて、近づかない。
- 成り行きにまかせて放置する。
- 尊敬する。時々、「ごちそうする」。
- 出かけて行って、「自分の居る位置の空間の中の存在」にする。(右脳・ウェルニッケ言語野の触覚の認知の対象にして、自分の生理的身体に同化させる)。
大野晋のこの説明の主旨のことは、日本語の「和語・やまとことば」によっておこなわれます。『文法』の助詞の「が」「は」「を」がその機能を果します。ちょうど、専門書を山のように買い込んで机の上に山積みするとか、本棚に並べると、「読んでしまったような気持ちになる」ことと同じ「認知バイアス」が記憶されます。
明治の当初から高度成長期まで、日本人は、書物を読むための「外国語」を身につけて「役に立つもの」を取り入れました。これを「部分的な社会適合」といいます。しかし、「会話によって、対等な相互交流をおこなう」という「人間的な意思」と合意する「社会性の世界」とは「不適合」のままだったのです。それは、日本語の「和語・やまとことば」のもつ「行動は完結した」「もう充分だ」「もうこれだけでいい」という「X経路」の言語の記憶の仕方がつくり出す「不適合」です。鈴木孝夫のいう日本人の一般の人々の外国語(先進国の言語)への「度の過ぎた憧れ」は、明治以降、先進国から「部品交換…着せ替え人形型の文明化」の先頭に立った人々の「外国語習得の仕方」の中の「不適合」をそのまま自らの「不適合」の仕方として継承したものです。 |
「自閉」の本質 |
「不適合」は、分裂病の最も核心となる病理です。
不適合は「自閉」と同義です。「自閉」とは、人間関係の中で交渉しないで無関心の態度をとることをいいます。英語の学習でいうと「外国人と話す」と「ドキドキする」「緊張する」「上がる」ので友好状態を保つための会話ができない、というのが「自閉」です。
幼児の場合の「自閉」は「自分の殻(から)に閉じこもって、言葉の交流をおこなわないこと」をいいます。
これを大人の「英会話の学習」にあてはめると「相手の話すことの意味のイメージを思い浮べることができない」「相手の話すことを前提のテーブルに乗せて、意味のある内容をキャッチボールのようにやり取りすることができない」というのが「自閉」です。
この「不適合」のもたらす「自閉」は、『遠野物語』のエピソードに見るように、「恐怖症」のイメージを一日中つくるわけではありません。その場だけの限定した「離人症」を生成するにとどまります。「ドキドキする」「上がる」といった「神経症」の中に包みこまれた「恐怖症」です。この神経症が「憧れ」とか「羨ましい」といった「美化の妄想」をつくります。『遠野物語』では、このような「神経症の包みこむ恐怖症」はなく、一気に発狂する(人格崩壊)か、「子どもに殺された」「毒キノコを食べて死んだ」というように「うつ病」を象徴する「突然の死」へと向かっています。
現代の日本人の「分裂病」は「英語に憧れる」「英語ができる人はエライ人だ、羨ましい」という美化の妄想の「依存症」を「常同症」に変えて「うつ病」を回避しつづけています。 |
鈴木孝夫の教える「英語学習の仕方」 |
鈴木孝夫の「英語習得の望ましい取り組み方」の主張は、次のとおりです。
- 英語は「目的言語」「手段言語」「国際補助語」の三つの性格をもつ。日本人は、「国際補助語」を目的にして、英語の必要を明確にすべきである。
- 英語習得を「受信型」でなく、「発信型」を目的にして教育プログラムを立て直すべきである。
- 英語の内容を、「自分のこと」「自分の国のこと」「自分の国の歴史のこと」だけにしぼって、書いたり、読んだり発語したりすることをおこなうべきである。
- 「自分のこと」「自分の環境のこと」の言葉を日頃から憶えていて、いつでもどこでも話し言葉として出てくるように一貫して、トレーニングしつづけるべきである。
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分裂病を防ぐ英語学習の対策 |
■鈴木孝夫のこの説明は、遠山啓の「数の指導」の「推移律」と全く同じであることに気づくでしょう。このことは現代日本人の「分裂病」の核心をなす「ユニット不適合」の改善に通じます。この鈴木孝夫のすすめる英語習得を実現するのが「坪谷郁子」の展開している『フォニックス』(発音記号という意味)です。
- 子どもに英語を学ばせるときは、「発達段階べつ」に興味をもつ題材と学習法で学ぶべきだ。
- フォニックスの「発音」を憶え(英語を話す人の発声や発音の中身が分かるベースになる)。
- 日常生活の中の物、名称を英語の言葉で憶える。
- 日常生活の中の「きまり文句」の英語の言葉を憶えて、説明できるようにする。
(いらいら、悲しい、嬉しい、楽しい、など)
- 自宅から、自宅の近くの地図を描き、行く、帰る、行き方、帰り方などを、基本文型をつかって言えるようにする。
日本人の日本語の「文法」の「助詞」は「遠い、近い」の「性格づくり」に誘導します。この日本語の言語能力の限界を改善することが不可欠です。そのためには「推移律」の訓練が有効です。次の学習モデルのとおりにトレーニングしてみましょう。
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分裂病を防ぐ知性の学習モデル |
(注 A=B、B=C、故にA=Cという推移律(因果律)の学習モデルです)
■エクササイズ
◎事例・I
A・うかうか三十、きょろきょろ四十(行動の対象とその言葉(メタファー)に相当する。以下同じ)。
B・意味 (遠山啓の水道方式のタイルに相当する。推移律の基準になる。以下同じ)。
これといって価値あることもしないままに、無駄に年をとってしまうこと。
30代をうかうかと過ごし、40代できょろきょろとなすべきことを探して突然、焦ったりあわてる、の意味が由来。
C・設問
●分裂病の予防は、適合力を身につけることです。「うかうか三十、きょろきょろ四十」の用例で適切なものはどれでしょうか。
用例
- 英語の勉強を、恋人づくりを目的にすること
- 英語の勉強を、貿易で使う目的で身につけること
- 英語の勉強を外国人に正しく道を教えるために学ぶこと
(正解…1,3です)
◎事例・II
A・牛を馬に乗り換える。
B・意味
その場その場で、自分に都合のいい有利な方を選ぶこと。
歩みが遅い牛から、足の速い馬に乗り換える、が由来。
C・設問 用例として適切なものはどれでしょうか?最も良いものを選んでください。
- 英語の会話力を身につけるために、一年間、アメリカに留学する。
- 英語の会話力を身につけるために、英語を母語とする人を恋人にする。
- 英語で会話する力を身につけるために、日本語を正しく訓練して、これを英語に直し、発語する。
(正解…3です)
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