日本語の「文法」の特性を正しく理解しませんか |
前回の本ゼミでは、日本語の「文法家」の文法理解をベースにして、国語学者・大野晋の「日本語の文法」の起源と、思想となる構造についてご説明しました。
大野晋の説明についての判断の基準は、「新生児、乳児、乳・幼児」の脳の働き方に見る「メタ言語」の生成のしくみです。「メタ言語」とは、五官覚の「認知」を記憶して「認識」に変える「人間的な行動のための法則」のことです。なぜ、「メタ言語」というのか?というと、対象言語としての条件の「記号性」の形式がないからです。「認識したこと」(左脳のデジタル脳による左脳系の海馬の働きです)は、右脳系の前頭葉に『イメージ』が思い浮ぶので、この「イメージ」の内容の形象像を「メタ言語」といいます。「イメージスキーマ」とも呼ばれます。こういう「思い浮べ」を「表象・ひょうしょう」といいます。 |
乳・幼児の「メタ言語」が文法の構造 |
「乳・幼児」の「イメージスキーマ」という「メタ言語」は、脳のブローカー言語野の「Y経路」と「X経路」による認知と認識でつくられます。つくられるとは、記憶されるということです。
「Y経路」と「X経路」は、目の視覚の知覚神経のことです。
「知覚する」とは、いいかえると「経験する」ということです。この「視覚による経験」は、ゲシュタルトの認知の法則によれば「二・五次元」の位置でおこなわれます。
これは、「三次元」の認知と認識に変化します。ふつうにいうと、乳児自身の行動の能力が向上するので、「二・五次元」の認知と認識に、さらに新しく「三次元」の認知と認識が加わるということを意味します。この「二・五次元」の認知・認識と、「三次元」の認知・認識の差異が「メタ言語の文法」です
具体例をあげましょう。
◎乳・幼児のメタ言語の文法の例
- 「母親の顔の角度が変わる」…「それでも母親の顔だ」(名詞と形容詞)
- 「母親が遠ざかる。姿が見えなくなる」…「しかし、母親は存在する」(再び、あらわれて姿を見せる)(助詞と助動詞)
- 「お腹がすいて泣くと、母親が近づいて来る、声をかけるので声が聞こえる、ミルクを飲ませてくれるので、飲む」…「母親の顔が見える、母親の顔を見る、母親の声が聞こえる、母親の声を聞く、母親がミルクを飲ませてくれる、ミルクを飲む」(動詞、形容動詞)
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言語の「文法」は「行動」のためにある |
■「認知」とは、何のことでしたでしょうか。目などの五官覚の知覚が関わりをもって、「あるもの」「あること」がそこにあることが分かる、という人間的な意識のことです。ウェルニッケ言語野という触覚の記憶野が表象(ひょうしょう)させます。
「認識」とは、何のことでしょうか。
類似した「あるもの」ないし「あること」が二つある時、この二つを比べて違いと共通性を分かって、差異と違いの特性をもって「これはAである」「これはBである」という特定化による「分かり方」のことです。
メタ言語の次元の文法とは、どういう構造のことをいうのでしょうか。「認知」したものを「認識」することと、過去の認識の記憶と一致するかどうか?を確かめる「記憶のソース・モニタリング」のための認知の仕方の二通りをおこなう働きのことだと定義することができます。
乳・幼児は、成長するにしたがって「二・五次元」の「認知のこと・もの」と「認識のこと・もの」の記憶を増やします。同時に、乳・幼児は、「母親」が教える「話し言葉」を、自分の脳の中に記憶している視覚、聴覚、触覚のそれぞれの対象(イメージスキーマ)による「メタ言語の文法」に「一致」させながら、「三次元の言葉の文法」を学習するのです。
この「三次元の言葉の文法」とは、日本人の乳・幼児なら「日本語」であり、アメリカ人の乳・幼児は「アメリカ英語」のことです。
乳・幼児の「二・五次元」と、そして「三次元」のイメージ・スキーマを表象する「メタ言語」は、全世界の全ての言語に共通する『文法』です。
この乳・幼児の「メタ言語の文法」は、「ブローカー言語野の3分の2のゾーン」の「Y経路」の認知と認識の対象を「客観性」と位置づけます。同じように、「ブローカー言語野の3分の1のゾーン」の「X経路」の認知と認識の対象を、「主観性」と位置づけます。 |
「主観」とは何か?「客観」とは何か? |
乳・幼児の「メタ言語の文法」に関係づけられる「対象言語」の「客観」と「主観」の内容は、次のとおりです。
◎主観
- 「ものごと」を認知し、認識する働きをになうもの。および人間的意識をもつ主体。
- 人間的な意識と区別される「外界」(がいかい)に対しての「自我」(じが)の観念の内容。
- 「自我」とは、気分・心情・感情という「欲求」を実現する意識主体のことだ。「外界」(がいかい)への投射と反射によって「欲求度」を明確に表象する。
- 一般的には、「自分一個の意見」、「自分だけが思い、思考した結果の判断」のこととされる。
- 「メタ言語」の次元では、対象との関係は「距離が無い」状態。(認知が認識に移行することが、時間性の距離が限りなくゼロになったと定義される。X経路の働きにもとづく)。
- バートランド・ラッセルのいう「自己中心の特殊語」を言いあらわす「認識」の表現である。(「ここ」「そこ」、「あれ」「どこ」等が典型である)。
- 対象言語の文法に置き換えると「主体・対象」(誰が、何が)、「現在の位置」(過去・現在・未来を確定する)、「結果」(どうなるのか?)、「選択・判断」(理由、根拠は何か?)「基準」(ルール、決める合意の内容は何か?)などの表現語句のことだ。
◎客観
- 「主観」をもつ主体(自我を含む)の関係づけ(行動)の対象になる「もの」「こと」。
- 「主観」をになう主体とは無関係に、主体の存在以前と以後にも独立してありつづける「もの」「こと」。
- 一般的には、誰が見ても「そのとおりである」と認識される立場での、「ものごと」への関わり方のことだ。
- 「メタ言語」の次元では、対象との関係は、時間性の距離がある状態。(「認知」が「認識」に移行している状態で、終了していないこと、と定義される。Y経路の働きにもとづく)。
- 「客観」の表現は「主観」をになう「主体」によるものだから、「関係づけの終了」を説明する必要がある。
- 「前提」を明らかにする……「何にたいして関わるのか?」「何と何を、関わりの対象にしているのか?」(カテゴリーの名詞、形容詞、形容動詞のことです)。
- 「比較」を明らかにする……「具体的な、あるいは抽象的な状況(カテゴリー)と、この中の事実は何か?」
- 「経過」を明らかにする……「変化していく状態や様子、そして実質の内容とはどういうものか?」
- 「因果」を説明する……「その『ものごと』を成り立たせるしくみや構造とはどういうものか?」
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日本語の文法の「主観」の実体について |
■「主観」と「客観」ということをメタ言語の「文法」の次元でまとめると、以上のとおりになります。
このように判断の基準を立てて「日本語の文法」を見ると、どうなるでしょうか。国語学者・大野晋による日本語(やまとことば)の「文法」の性格は、次のとおりです。
◎「省略文」ないし「省略表現」を目的にしている。
◎省略表現の例(金田一春彦『日 本語』(下)より)
1.「何もございませんが、どうぞ召し上がってください」(お客に食べ物を出して接待するときの言葉)。
■解説
- (自信をもっておいしいですよと言える召し上がっていただくものは)という「主語」に相当する言葉が省略されている。
- 日本人は、こういう表現を聞いて、「謙譲的な表現」と理解する。したがって、「まずくておいしくないもの」が出されたとは考えない。
2.「こんなに嬉しいことはない」(喜ぶようなことがおとずれてきた、という状況での表現)。
■解説
- 「ない」は否定語句の表現だが、「無い」と否定されているのではない。この「ない」は形容詞的表現と理解する。
- 「このように嬉しいことは、滅多に無い」「ごくわずかに、数えるくらいの嬉しい思いの体験があるが、これはそのうちの一つだ」という「補語」相当の言葉が省略されている。
- 日本人は、こういう省略表現を「言外におく」と言う。
3.「持ってやろうか?」
「いいです」(いいわ)
(二人の人物がいる。一人の人物の持つ荷物を代わりに持とうという申し出の状況での会話)。
■解説
- 「いいです」「いいわ」は、「持ってほしい」と同意しているのではない。否定語句の表現で「持ってくれなくてもよいです」という補語に当る言葉が省略されている。
- 「いいわ」、もしくは「たくさん」の類の表現は外国人泣かせの表現の語句として定評がある。外国人は「たくさん持ってほしい」と理解する。
4.「お乗りはお早く」
「三つ子のたましい百まで」(ことわざ)
■解説
- この文例では、「主語」「補語」に相当する語句、修飾語の類の語句を残して、これらを受ける言葉が省略されている。
日本語は、「動詞」が文の最後に来る(動詞文)。
この日本語の文法の特性により、「省略」しても察しがつく、と考えられている。
- 日本語(和語・やまとことば)は、文の語尾に助動詞や表意語をつけて、「主観」や「内(うち)意識」の関係づけをあらわす。
「…だろう」「…らしい」(助動詞)。
「…ね」「…だよね」「…よ」(表意語)
このような判断の仕方から文の終わりの「動詞」を言うと「断定」の語気がこもる。この「断定」の語気によって尊大表現の位置に立つことを避ける意図で「動詞」が省略される。
5.質問の仕方と返事の仕方のケース。
A・「行きますか?」
B・「行くんですか?」
C・「行きませんか?」
■解説
- A、B、Cのいずれも答え方は(行く時は)「はい、行きます」、(行かない時は)「いいえ、行きません」となる。
- このA、B、Cの質問は、「話し手」が「聞き手」に「行くと思っている」「行かせたいと思っている」と、意図を察する。
この意図が省略されている。話し手の意図を察して「自分の行動」を「はい」「いいえ」のいずれかで表現する。
「行く」場合が「はい」、「行かない」場合は「いいえ」と返事をする。
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日本語の「省略」の構造 |
6.質問の仕方と返事の仕方のケース
D・「行きませんか?」
(返事の仕方…「はい。行きます」(行く時)。「いいえ。行きません」(行かない時)。)
E・「分かりませんか?」
(返事の仕方…「いいえ。分かります」(分かる時)。「はい。分かりません」(分からない時)。)
■解説
- 日本人の日本語(和語、やまとことば)の使い方の典型文である。日本人は、「はい」は言いやすく、「いいえ」は言いにくいことだ、と考える。「内(うち)意識の相手」にたいして、「いいえ」と言うことは「あなたの考えに不賛成である」と伝えることになるからだ。
- 大野晋の解析にもとづくと、「いいえ」という否定表現は、相手を「外(そと)扱い」することに通じると考えるのが日本語の「文法」意識だ。
「話された内容」よりも「相手と自分との人間関係」が主眼におかれる。このことは、「話された言葉の内容」の価値がどうであろうとも、「外(そと)扱いした人間」の言うことは自分にとって疎遠なものと、主観によって価値判断されることにも通じる。
7.感謝のケース
「まことにつまらないものですが」(土産(みやげ)を持って他人を訪問したときの言い方)。
■解説
- 日本人は、「外(そと)なる人間」の気持ちをたえず考慮する。外(そと)扱いした人間には、相手に良い感じをもたせようとする。しかし、相手にたいして「お世辞」を言ってまで自分を「下扱い」することまでは望まない。そこで「感謝」の言葉を言う。相手を「内扱いしていますよ」という表現が「感謝」の言葉だ。(数年前のことを憶えていて「お礼」を言う、など)。
- だが、「自分は、あなたにこれこれこういう良いことをした」と言うと「内(うち)扱い」の中の「愛狎(あいこう)扱い」となる。侮蔑(ぶべつ)に転じる直前の関わり方と察せられると心配するからだ。
- このような「愛狎(あいこう)」に近づく扱い方を避けるために(「恩に着せる」という態度になる)、「まことにつまらないものですが」と言いあらわす。
- 「まことにつまらないものですが」と言うことによって、「私は、あなたから受けている恩を忘れずに憶えています。私は恩知らずな人間ではありません。私は、恩を重んじる人間です」ということを表明している。
- 「恩」(おん)とは、受けた人間がありがたく思うべき行為のことだ。事例は次のとおりになる。恩恵(おんけい。他人の恵)、恩寵(おんちょう。主君、神の恵み。かわいがっていつくしむ)、恩恵(おんけい。とくべつの恵み、情け)、恩人(自分がかくべつに世話になった人)、恩賞(手柄を立てたので、主君が賞を与えること)、恩赦(おんしゃ。裁判で決まった刑を、特別な恩典で刑を許したり、軽くする)など。「恩」は、社会的な意義や価値をもつものが与えられることを意味する。
「つまらないものですが」、という言葉で省略されているのは、「私は、社会的に有意義なことを与える立場にはありません」という語句であるということになる。
8.陳謝(ちんしゃ)のケース
「すみません」
「ごめんください」
■解説
- 「陳」(ちん)とは、列をつくること、並べること、の意だ。
ここから「述べる」「説明する」のメタファーとなった。
「陳謝」(ちんしゃ)とは、「訳を言って謝ること」だ。
- 「すみません」は、陳謝の表現だ。「ごめんください」(訪問のときの言葉)も陳謝の言葉だ。
「先日は失礼致しました」も陳謝になる。
「私がここに、このように居るのでなければ、あなたにいらざる負担を与えることがなかったと思われる」という語句が省略されている。
「ごめんください」(ご免下さい)「お邪魔しました」(帰る時のあいさつ)の陳謝の表現では何が省略されているのか?「自分は、ふつつかな人間なので気づかずに行動しているが、だからもしかしてあなたに何か不都合なことをしているのではないか。あなたは、そういう不都合をいちいちとがめ立てするような狭量な人物ではないが、もし、何か不都合なことがあったらお許し願いたい」という主旨の語句が「省略」されている。
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日本人の「内意識」は「表意語句」を生成した |
9.表意語句のケース
尾崎紅葉『金色夜叉』の中の会話による例。
母「まあ、お聞きよ。それはね」
娘「おっかさん、いいわー私、いいの」
母「よかないよ」
娘「よかなくってもいいわ」
母「あれ、まあ。何だね」
■解説
- 「よ」「ね」「わ」「ね」などが「表意語句」だ。「主観的な語」である。
- A・ロイドは『英訳・金色夜叉』でこう英訳している。
"My dear child, listen to me, I think."
"I don't want to listen to you…
"I don't care for any-thing."
"What foolishness is this!There is nothing to weep about.
I will talk it all over with your father when I go home…"
ここでは、主観的な意味の単語は一つも用いられていない。
- 日本語の文章はセンテンスの終わりに表意語句をつけて「いい」「わるい」の感情をカモフラージュする。
- 表意語句とは「喜多史郎(ふみお)」の命名だ。
英語のI say, I think, I see,I mean, I tell you, I am afraid, I am sure, you see,you think, you knowに当るものだと言っている。しかし、英語のこれらの語句は、日本語の「ね」「よ」「な」「わ」などに比べて使うことがはるかに少ない。
- 英語のこれらの語句は、全て、Iとかyou, say, seeなどの客観的な意味の語から転来している。
日本語の「ね」「な」などの語源はどういうものか。
国語学者・大野晋の説明によれば次のとおりである。
(『日本語の文法を考える』岩波新書より)
①「作為」「自然」の成り立ちの助動詞…「す」「さす」「しむ」「る」「らる」
②「尊敬」の助動詞…「きこゆ」「奉る」「給ふ」「侍り(はべり)」
③「確定」「不確定」「否定」の助動詞…「ぬ」「たり」「り」「ざり」「めり」「べかり」「つ」「らし」「まし」「まじ」「べし」「まほし」「ず」「けり」
④「推量」「記憶」の助動詞…「む」「らむ」「けむ」「じ」「き」「けり」
⑤相手への働きかけの助動詞…「な」「よ」「や」「か」「かは」「かし」「ぞ」「ぞよ」「ぞかし」「を
■解説
- 動詞は、文の末尾に並んで「話し手」の判断の表現を完成させる。
「相手に向かって押しつけるのか」「相手に同意を求めるのか」「疑問に思うこととして相手に問いかけるのか」の『助詞』が配置される。
現代語の『助動詞』はこのような関係づけの目的とともに、順序立てて配置されるものだ。
- 日本語の代名詞は「こ・そ・あ・ど」の体系をもっている。
「こ」系…「ここ」「これ」「こなた」「こち」
「そ」系…「そこ」「それ」「そなた」「そち」
「か」系…「かしこ」「かれ」「かなた」(あなた)「あち」
「あ」系…「あそこ」「あれ」「あなた」「あっち」
「いづ」系…「いづこ」「いづれ」「いづかた」「いづち」
「ど」系…「どこ」「どれ」「どなた」「どっち」
- この「こ・そ・あ・ど」の体系は「感動詞」にも生きている。
日本語の文法は、「自分の居所」を中心にする「指示代名詞」の組織がある。自分の周囲に輪をつくり、輪の内にあるものを「こ」系で示す。そして「親しいもの」と扱う。輪の外にあるものは「か」系、「あ」系で指示する。
そして「疎いもの」と扱う。
「そ」系は、「我」と「汝」とがすでに知っているものを指す。
「こら」とは「自分の領域が犯されたときに相手の注意を喚起する」のが本来の意味だ。
方言によっては「自分の妻」を呼ぶ時にも使うが、これは「自分の領域の存在、内の存在」と見なすところから生じた用法だ。
「そら」とは、「相手も知っているもの」を指して促す用法だ。「あら」とは、自分の身の外にあるものとして「忘れたもの」「意外なことを感じた」という場合に使う。
「どら」とは、未知のものを覗きこんだという場合に使う用法だ。
- 日本語の代名詞の特徴をあらわす好例とは次のようなものだ。
「ぼく、今日、何時に帰る」(妻が夫に向かっての問いかけの言葉)。
ここでは、「ぼく」という一人称が二人称に用いられている。日本語は、会話の言葉が「内なる人間」との間とだけしか使われてこなかったことを意味する。「内なる人間」は、「意思をもつ利害の相反する存在」とはとらえない。そこで「相手」はもちろん、「相手が自分を呼ぶ呼称」もそのまま「自分の居る場所のもの」と扱って「相手の呼びかけ方」とする。
- 日本の社会では、「内なる人間」の間で言葉を交わし、「外なる人間」は「ヨソ者」として排除する、という人間関係がつくられている。だから、「外なる人間」と人間関係を結ぶ、という思考と関係づけの仕方が修練されることはない。
日本語の表現には、誰にも「事実」だけが分かるような客観的な表現が乏しく、「主観」のみで伝えて、しかも「伝わる」という表現の仕方が「文法化」されている。
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日本語の「客観表現」との不適合の証明 |
■日本語(和語・やまとことば)の文法は、「主観表現」を目的にして成立していることがよくお分りいただけたことと思います。
日本人は日本語の「文法」によって、話し言葉を成り立たせて、この話し言葉の上に「漢字・漢語」を重ねて、かぶせて使ってきました。この日本語の表現の二重性は、今の現在も同じです。
すると、日本語の「主観表現」は、まず「話し言葉」の局面でいちじるしくあらわされます。
その具体例を確かめます。
『ハーバード流交渉術』(フィッシャー・ユーリー、ハーバード大学交渉研究所・三笠書房)に、次のような交渉の局面での「質問」の事例が紹介されています。 |
対人関係の不適応 |
交渉の質問・ケース・1
「あなたがしてくださったことには感謝しています」
分析
- ここでは、交渉相手を個人的に支持している。これは、「人間」と「問題」とを分離するためだ。「問題」と「個人」とのつながりを分離するための重要な発言だ。
- 「我々(あるいは私)は、あなた個人を攻撃するのではありません。あなたは度量の大きい人だと思っています」とのべている。「相手の立場」に身をおいている。これは、交渉相手が自己嫌悪に陥ることを防いでいる。さらに、感謝をのべることで、その人が今後ともこの評価に値することを伝えている。
- ここで期待できる合意は、「交渉相手」による、「我々」(私)の評価を大切に思うこと、および、自分の悪評を買わないようにする「協調的態度」である。
■日本人の日本語の「文法」をこの交渉の仕方に対応させるとどうなるのか?また、改善とは何か?
- 「ハーバード流交渉術」は、ハード型の交渉(圧力をかけて脅して譲歩させる交渉)でも「ソフト型交渉」(相手との友好的な関係を優先して、要求を受け容れる交渉)でもありません。相手と自分の、それぞれの利益を、双方で協力して実現する、という交渉戦術です。
- ここでは、「相手がしてくれたことに感謝する」ということが発言されます。しかし日本語の文法は、「過去の記憶」を事実として明確に記憶する、という因果を「遠くのもの」ととらえます。思い出したとしても、「それは、成り行きで、自然推移としての結果のことだ」と意識するでしょう。
「する」「なる」という助動詞のうち、「なる」(「…となる」「…になる」)を安定感のあるものと認識するので「作為性の表現」の「…をする」「…がなされる」という助動詞による理解を遠ざけます。不安定な表現とみなすからです。
大野晋は、日本人は、ものごとの成り立ちや結果を、努力して実現するものではなくて、自然推移の結果として実現する、と「文法」のメカニズムから解析しています。すると、「交渉の質問のケース」のような「あなたのしてくださったことには感謝しています」という「発言」は、「感謝に値(あたい)するものではなく、秋になってリンゴの実が実るように、当然のことだ」と認識するでしょう。「人のものは自分のもので、自分のものはもちろん自分のものだ」という交渉態度です。
- すると、「ハーバード大学交渉研究所」がいうような「人間と問題との分離」は成立しません。交渉相手もまた、「人間と問題とは不可分一体のものだ」と認知します。
交渉相手は、つねに「交渉の言葉」をハード型の交渉の個人攻撃か、ソフト型の交渉の「友好関係かさもなければ屈服して従属するか」の選択を強いられている、と感じます。
ここでは、Y経路の「客観表現」の「前提」となる「交渉テーマの問題」や「何のために交渉しているのか?の問題解決の内容」にとりくむ「因果」という対象意識が跡形もなく消失します。
「どのように交渉という話し方のための条件を認知して、認識するか?」という日本語の「文法」の表現の仕方が習得されなければなりません。
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日本人が「ハーバード流交渉術」をマスターできない不適合の理由 |
交渉の質問・ケース・2
「私の事実確認が正しいかどうか、二、三質問してもいいですか?」
分析
- 交渉にあたっては(つまり話し合いにおいては)、事実をそのまま言いわたすと脅威感を与えることがある。そこでできるだけ質問形式にすることがのぞましい。
- 質問とは、自分の持っている情報を一つ、一つ質問の形にして提示するということだ。質問の形式にするとは、交渉相手がその情報に耳をかたむけ、判断し、同意するなり、訂正することが可能になるということだ。
- もっともよい質問の仕方は、質問の内容が客観的な場所から出たものとして示すことだ。「ここに書かれているものによれば」「新聞のニュースによれば」「いただいた文書に表現されていることで、○○ページの○○段目に書かれている言葉によれば」という提示の仕方である。
このように、基本的事実について考えるという同意は、「原則立脚型の問題解決の土台づくり」へ、双方が参加することを意味する。
■日本人の日本語の「文法」をこの交渉の仕方に対応させるとどうなるのか?また改善策とは何か?
- 日本語の文法の最大の特色は、金田一春彦が例文で示したのをごらんいただいたように、「主語」に相当する事実を「省略する」ということです。日本語は「動詞文」です。「…をした」「…をする」という自分の行動、相手の行為だけが語られるということを特色にします。「主語に相当する語句」とは、日本語の場合、必ずしも「主語」を意味しませんが、しかしそこには「比較された事実」や「事実の経過」があることはまちがいありません。
- 日本語の話し言葉で「主語相当の語句」や「お乗りはお早く」のような「動詞」の「省略」は、X経路のメタ言語の「どうなる?」「どのようにする」(Y経路のメタ言語の『条件』)を不問にします。
すると、相手と自分の双方に共通する体験という事実は「主観」の曖昧な「記憶」の確かめ合いとなります。「文書」で確認する場合は、これがもっと深刻になるでしょう。
書かれている文章の全体は?という「前提」や「要旨」や「要点」は?といった「文脈の経過」はすでに「省略」の対象になっているので、「どのように質問するか?」というY経路の「カテゴリー」の認知も離人症状態の眼でしか見れないということが生じるでしょう。
- 改善点は、X経路による焦点の合わせ方を正常なものにする、ということです。話し合うべき対象は何か?話すという「意味主体」は誰と誰で、何について、どういう目的で、どういうプロセスのシミュレーションをたどって到達できるのか?を書き言葉であらわすことが求められています。
■ハーバード流交渉術は、相手の意思との合意を目ざす交渉(話し合い)です。日本語の「文法」は、この「相手の意思」(自分の意思も)を前提にしていません。「内か外か?」で区別して内なる人間とだけ会話するというものだからです。ここを「条件」にして、具体的な事実と、同時に抽象的な事実の語句を同意したり、合意していくということが、日常的な会話でも非常に重要です。 |