日本人のひとりひとりの真の脅威は、精神分裂病です |
本ゼミでは、日本語の文法のしくみについてレクチュアしています。
日本語の文法は、日本の遠い昔の弥生時代につくられました。このことを国語学者・大野晋が事実実証の方法で明らかにしました。
なぜ、日本語の文法を俎上(そじょう・注=まないたのこと。批評のためにとりあげることの意)に乗せるのかというと、「日本語の文法」が日本人の精神分裂病の原因になっているからです。
すでにお話しているとおり、精神分裂病とは「連想」という主観的なイメージの中に求めて安住するという病理のことです。
「ジキルとハイド氏」のように、突然、人格が一変して人間性が変わるといった病理症状をいうのではありません。また、「自分は、誰かの意思によって操られている」といったように、主体意識をなくしてしまうという病理症状を初めからあらわす、というものでもありません。日本人の「日本型の分裂病」は、本ゼミの『初級コース』でお話したとおり、「大正時代」に激発しました。「一つのことをいつもいつも気にしつづける」とか「想いを寄せた人のことを、思いつづける」、「ニガテに感じる人に、具体的な理由がないのに不安なイメージを向けつづける」「不特定の人に見られて監視されているという恐怖」などが、日本型の分裂病です。 |
日本型の分裂病も「弛緩」をつくり出す |
なぜ「精神分裂病」というのか?というと、これらのいくつかの症状は、「弛緩・しかん」という「ゆるみ」「たるみ」をつくるイメージの中に意識が向けられつづけているために、現実に目を向けると身体の五官覚(目、耳、口(声帯)、手(指)、全身の皮ふ、呼吸器系など)の知覚神経が緊張するというのが由来です。
人と話す、仕事にとりくむ、仕事のことを説明する、知的なことを学ぶ、というときにも身体の「五官覚」が働きます。これは、日本語という言葉で考えて「行動」にあらわします。この「考えるための日本語」が「自分の行動」と「行動の対象」についての正しい意味のイメージを喚起しないと「五官覚」の知覚神経に「緊張」が生じます。両手の手のひらをつよくこすりつづけるとマサツの熱が生じます。緊張とは、このマサツ熱と同じようなものです。
いつでもマサツ熱を感じると苦痛に思います。そこで「連想」という「イメージ」の世界を思い浮べて、マサツ熱の苦痛感を遮断して安心や安らぎを得るということをおこないます。「連想」とは身体の五官覚の知覚神経に「弛緩」(ゆるみ、たるみ)をもたらします。
このように、緊張が弛緩(しかん)に移行することが「分裂病」です。
E・ブロイラー(精神医学者・近代精神医学の父と呼ばれています)は、「正常な緊張」が「弛緩」に移行することをさして「精神分裂病」と定義しました。 |
日本型の分裂病は三期に分けて進行する |
日本型の分裂病は、「第一期」「第二期」「第三期」というように、三つの期(エポックといいます)をたどって進行します。このエポックの観察は村上仁(ひとし)という精神医学者がおこないました。
第一期は、「離人症」(「仕事をしているときに全く別のことを思い浮べる」など)、「強迫観念」(「特定の人と話すのが恐い。声が小さくなったり、逆に大声を出して、話すことを避ける」など)、「パラノイアの言葉、行動をあらわす」(「仕事の出来ない人を上から見下す」など)、「躁うつ病のヒステリー症状」(「強迫観念の症状の代わりに行動が止まる。学校を辞める、仕事を辞める、知的活動を止める」など)、が精神分裂病のおもな内容です。
第二期の精神分裂病のおもな症状の例は次のようなものです。
「作為症状」(「人と話すと顔や眼がひきつる。過度に緊張すると声、手、身体の全身が震える」、など)
「作為性の思考」(「バーナム効果」「肯定性バイアス」「確認バイアス」「認知バイアス」「自己暗示・クエシズム」「負のバイオ・フィードバック療法」「プラシーボ効果」「多元的無知」「ライデン・フロスト効果」などで思考して行動する)
「作為性の行動」(「自律神経の症状」など)
「作為性の幻聴」(「人が自分に向けた批判、ウワサの言葉が思い浮んで消えない」など)
「影響感情」(「自分の本当の姿を人に知られるのが怖い」など)
「憑依妄想」(「家の中ではイバり、外では卑屈になる」など)
第三期の精神分裂病のおもな症状とは、次のとおりです。
「能動性の消失」「人格統一性の消失」(感情面…「受け容れることの拒否(治療、教育、対話など)にともなって衝動行為が常同症となってあらわれる」など)
これらの症状がなぜ「精神分裂病」であるのかというと、いずれも「日本語」で関わりをもつので、その日本語で正当な関係を成り立たせることができないことが共通の原因になっているからです。第一期の「特定の人と話すのが恐い」を例にあげると、ここでは、その「特定ではない人」との会話は「安心だ」という対比のイメージがあるのです。「特定ではない人との会話の仕方」のとおりに、「特定の人」とも会話していることが分かります。
このときに使っている会話の日本語が「特定の人」にたいしては不適合を生じさせています。 |
分裂病は、その人の日本語がつくる |
精神分裂病は、第一期の「強迫観念」に「電話が怖い。何を言われるか分からない」という症状例に見るように、自分の恐怖や緊張は自分自身の「言語の能力」がつくり出すものであることに気がつかないことに構造的な特質があります。「避ければいい」「逃げ出せばいい」「関わりを止めればいい」と無意識に考えられていることがその証拠です。
現実の場面や現実の相手が変わってもスムースに、うまくいくのは「専門」とか「訓練」という概念が象徴する条件や前提がある場合です。
「逃げ出したい」「止めたい」と思い、そこで関係を回避すると、次の新しい場面や状況ではスムースに望ましい関係性が成り立つのでしょうか。成り立たないので、日本には今も「永久雇用制度」のシステムが遺制のように保存されています。
アメリカでは、転職をくりかえすほど有能なスキルやキャリアが修得されるといわれています。これは、日本語と英語の「文法」の差によるものです。英語は、「一人称」「二人称」「三人称」というものが数千年にわたって固定的に文法の柱をつくっています。(言語社会学者・鈴木孝夫による説明です)。英語の「人称」とは、「話し手」に対して「聞き手」という「意思」と「意思」の関係が明確に確立している、という構造をあらわしています。 |
日本語で話すことの欠陥 |
ここで、日本語と英語との違いがあらわれます。日本語は、相手という「意思」、「自分という意思」を認めていません。日本語で「相手という意思」と「自分という意思」が成立するのは「契約書」だけだと国語学者・大野晋は説明しています。日本語では、人物を特定し、その人物の意思を「言葉」で確認するというようには成り立っていません。
「意思」とは、専門知識、経験というキャリア、仕事の実績、と言い換えても同じです。
日本人にとって、新しく「状況を変える」というときに錯覚されやすいのはこの点です。新しい状況には、新しい人間関係が存在します。この新しい人間関係と適応するという日本語の文法の能力が必要になるのです。仕事の専門性とかキャリアよりも「新しい人間関係」のもつ「内なる輪」という対人意識に適応することが優先します。もし、ここで「自分にはこういう資格がある」「自分にはこういうキャリアがある」という自負心で自分を支えているとすると、その自負心(注・自分の才能や仕事の能力を誇りに思うことの意)は、「外(そと)の人間扱い」をされ、ヨソ者として疎外される対象になります。自分は、自負の位置という「対人の内意識」の輪の中に孤独に入りつづけて孤立を意識します。
一般的には、このような日本型の対人意識の「内なる輪」に適応するための「日本語の文法」の能力が身についていないことが原因で不適応に陥っています。この場合は、社会性の能力としての「日本語の文法」が正しく習得されていないことが原因です。
生育歴の中にその根拠があります。 |
生育歴の母子関係、父子関係がその人の日本語の欠陥をつくる |
『愛着』(あいちゃく)という「母子関係の中のシステム」が不安定である、というのがその内容です。
エインズワースの『ストレンジ・シチュエーション』という『愛着』の安定度の測定実験によれば、「母親」と「父親」の「うつ」の度合によって、乳・幼児の時期から人間関係の「不適応」が形成されると報告されています。「母親との不適応」は、日本語の「文法」のメカニズムの「尊大表現」をもって「新しい状況」におもむくでしょう。
ここでは、「内なる敵意」と「内なる悪意」が不適応の原因をつくります。「父親との不適応」は、日本語の「文法」のメカニズムの「恐怖」を抱えて「新しい状況」に臨むでしょう。すると「恐怖」や「畏怖」による禁制意識が「黙契」を連想して「作為性の妄想」が、仕事、組織、知性にたいして「不適応」をひきおこすでしょう。事実誤認をする、放置する、虚偽を話す、などが不適応の内容になるでしょう。
精神分裂病の病理の特性は、「E・クレペリン」の指摘するとおり「早発性痴呆」という「痴呆症」にあります。これは、精神分裂病が、「連想」という快美感のイメージの中に意識を向けて「自閉」するために、現実の「もの」「こと」に離人症という関係妄想をつくるためです。「見ているのに見ていない、聞いているのに聞いていない」という関係妄想が離人症です。「入浴をしない」「食事をしない」「そうじをしない」「与えられた課題に取り組まない」というのが関係妄想としての離人症です。離人症は、現実の中に進行して、現実を侵犯します。
「本を読んでいるのに、意味、主旨が把握できない」「文章を書いているときに、意味とモチーフが不明のまま書く」「自分の関心事だけを一方的に話す(バーバリズム)」「会話や行動に、同期と同調が無く、受け身のままで沈黙する」などが侵犯現象です。 |
分裂病は、痴呆に向かって直進する |
このような「自閉」と「離人症」は、五官覚(目、耳、手、声(発声の声帯)、指、足腰、皮ふ)の知覚神経の細胞に血流障害をもたらします。自律神経の交感神経が過緊張となって、細胞の死滅をもたらす、というメカニズムです。この過緊張が大脳新皮質にも及び、脳細胞の廃用萎縮を促進するのです。これが「E・クレペリン」のいう「早発性痴呆」の内容です。
「廃用萎縮」とは、使わない細胞は消滅する、ということです。約2週間で機能不全が始まります。
専門の仕事やスポーツの人は、毎日、反復練習をします。さらに、毎日、専門の水準を上げることを反復練習にくみこみます。このような反復練習を2週間怠ると元の水準にまで戻すのに2週間の数倍の日数を要します。
専門の仕事を自覚的に維持している人間は、「寝ている時」も思考を継続しています。
人間の脳は、「表象」(ひょうしょう)という恒常性による観念の活動をおこなうのでこういうことが可能になるのです。このことは、プロの人間は、仮にケガをするとか、病気で行動を止めても「自覚的な精神の了解能力の活動は止めない」ということを意味しています。これによって「廃用萎縮」を防いでいます。
現在の日本は、2008年の秋の「リーマン・ブラザーズの破綻」以降、「バブル性の生産の収縮」「バブル性の観念の収縮」が起こり、「収縮した水準」のままで移行しています。
この日本の状況は、「実体」しか残っていないということを意味しています。
「実体」とは何のことでしょうか。
経済概念でいえば「有用性の価値」であり、「使用性の価値」であり、「交換性の価値」のことです。
心身の病理学の概念でいえば、「安心」や「安定」のことです。「孤立しない」ということです。
いずれも、「人間は、社会性の世界から孤立しては生きてはいけない」という法則性を共通の基盤にしています。 |
日本人は「客観の現実」から孤立している |
日本人にとって「実体」となる「社会性の世界」とは、何のことでしょうか。
それは、「客観的に認識されて、関係づけられる対象」のことです。「実体性をもたない」とは、日本人にとって「主観性による認識と関係づけの対象」を意味します。
日本人にとっての「主観」とは、次のようなものです。 |
金田一春彦は『日本語』(上)で、日本語の特性を次のとおりに説明します。 |
①日本語の語彙(ごい)は、大きく見て「和語」と「漢語」「洋語」およびそれらの「混成語」の四つに分けられる。
②和語(やまとことば)とは、生粋の日本語のことだ。外国と、言語の上での交渉の行われる前から日本語の中にあったものだ。および、それの変形、組み合わせ、あるいはそれに見合って新造した単語である。
あめ(雨)、かぜ(風)、やま(山)、かわ(川)、ひと(人)、いのち(命)、ゆく(行く)、くる(来る)、ある、ない、などだ。
③一般の日本人は、漢語を「和語」(やまとことば)を同様に、固有の日本語と思いこんでいる傾向がある。
和語と漢語の違いは、接頭語の『お』と『ご』を付けると分かる。
和語(やまとことば)は『お』を付ける……「お望み」「お出かけ」「おかわり」「おかげ」など。
漢語は『ご』をつける……「ご希望」「ご旅行」「ご存知」「ご高恩」など。
漢語は、中国文化にたいする日本人の尊崇の気持ちから、和語よりも一段高いものと見られてきた。
- 「今日」(こんにち)は、「きょう」よりも格が上とみなされた。
- 「昨日」は「きのう」よりも格が上とみなされた。
- 「失念といえば聞きよい物忘れ」といわれている。
④和語(やまとことば)に漢語が取り込まれたために、「意味」が不統一のまま使われるということが起こっている。
- 「着いてみると、彼は先に来ていた」(『先』は、「着いた」以前のことをあらわしている)。
- 「着いてから先のことは、まだ決めていない」(『先』は「着いた」以降のことをあらわしている)。
- 「フトンを敷く」……「サブトンの場合はその上に乗ること」。「敷布団(しきぶとん)の場合は、のべ広げること」。
- 「先日」「先年」の『先』は「少し前の」の意味。
- 「先月」「先週」の『先』は「直前の」の意味。
- 「保証人」は「保証する人」のことだ。「使用人」は「使用される人」のことだ。
- 「ユノミ」は「茶碗」のことだ。「サケノミ」は「さかずき」のことではなく「酒を飲む人」のことだ。
⑤日本語の単語は、形態の面から見ると一定の形をもたず不安定である。日本人はあまり意識していない。
- 「人」…「ひと」と書いても「人」と書いてもそれも誤りではない。
- 上田敏による「カール・ブッセ」の詩を訳した『山のあなた』の例
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ
ああ我ひとと尋(と)めゆきて
涙さしぐみかへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ
「人」は世間一般の「人」をさしている。
「ひと」は自分の「意中の人」、「自分と同じ心の人」をあらわしている。二つの「ヒト」は「別の人」をあらわしている。
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日本人の「内(うち)意識」の構造 |
⑥川島武宣(たけのぶ)は、日本人の社会意識は「一つの家のように扱う」と指摘している。(『日本の社会の家族的構成』による)。中根千枝も同様の指摘をする。
- 「うちの会社では」「うちの社長」「うちの取り引き先」(内意識の表現の例)
- 「お宅では…」「お宅様は」「他人行儀で水くさい」、「他人事のように」「ヨソ者」「ヨソのおじさん」「世間が許さない」(外意識の表現の例)
- 「他聞をはばかる」「他見を許さない」「内談」「内分にすます」「内定した」(内と外の区別の表現の例)
⑦日本人の「社会の中」での対人意識は「自分が上か、下か?」の区別にもとづく。それは「義理意識」として表現される。
- ルース・ベネディクトは「義理」を「日本人の交際」として「世間のために嫌々ながらおこなう義務」と英訳している。(「仕事や会議に出ること」「贈答をおこなうこと」)。
- 日本人は、「物のやりとりに関する言葉」を多くつくっている。
「話し手を中心にした言葉」…「やる」「くれる」「もらう」「あたえる」「ゆずる」「わたす」「よこす」「受けとる」(相手を下の位置と扱う表現)。
「あげる」「さしあげる」「おくる」「くださる」「いただく」「頂戴(ちょうだい)する」「拝受する」(相手を上と扱う表現)。
⑧日本人の「恩」と「恨み」の表現の例
- 新聞の野球の記事の表現例…「連続ヒットを浴びせる」「ホームランを見舞う」「三振を喫する」「デッドボールを食う」(いちいち感謝したり、憤慨したり、恨む表現になっている。事実を客観的にとらえて中立表現にはしないということだ)。
⑨日本人の道徳意識の例
- 「生き物をいじめないいい子」「公園の花を折り取らないよい子」(文部省の『よい子の絵本』より)…「○○をしない」「○○を行動しない」など「消極的な子どもがよい子」とする。
- 日本人の好む道徳表現の言葉の例…「さようなら」「また、いつか折があったらお会いしましょう」「たしなむ」(注・何かあった時に役立てること)、「ゆかしい」(奥床しい・自分は何もしないで他者が評価するにまかせる意)。
- 日本人が最も好きな言葉の例…「男らしい」(注・「男らしい」とは「潔(いさぎよ)い」と同義である。「諦める」ということだ。他国の「男らしさ」は決断する、行動する、危険に立ち向かう、独力で困難を切り開く、という意味をもつ。日本の場合は、「諦める」「死ぬ」「何もしない」「損害をじっと待つ」「自分の不幸を解決することなく受け容れる」という意味になる)。
「女々しい」(注・「女らしい」ではない)…ドイツではねばりづよく、諦め悪くどこまでも続けることを高く評価する。日本は、ドイツのこの評価をとらず「諦めが悪い」ことを「女々しい」と形容表現する。「どうせ」「もういい」「めんどくさい」「やる気がしない」などが「女々しい」の形容詞になる。
- 日本人の「美意識」の表現の例…「花咲き花はうつろひて」、「はかない」「きれいさっぱりと」「いさぎよい」「野となり山となれ、もうどうでもよい」「かわいい」(小さくミニチュアなものを可愛いと感じる)。
日本人は、「亡びるもの」に美を感じる。月が欠ける、花が散る、行く春、行く川の水、秋が来て散る花、雪が消える、などは移っていく時、消失するものを自分に重ねて、「美」と感じる。死ぬこと、消えること、無くなることを「美しい」と思うのが日本人の「主観意識」の典型だ。「別れること」(言い訳も話し合いもしないで)、「過ぎ去ってゆくもの」には、特別の「美しさ」を感じてこれを表現する。
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日本人の「主観意識」の構造 |
⑩日本人の「主観意識」の例
- 日本人は、現実のものごとをとらえるとき「メタファー」(意味を中心にとらえて別の概念に言い換えること。「経済の血液」(お金、資本のこと)が好例)としてはとらえない。つまり、現実のものごとを客観的(抽象的)にとらえるのではなく、具象(具体的)にとらえる。
- 日本人は「数字」(抽象の典型)を嫌い、避ける…「ホテルの部屋は七○一号、七○二号と呼ばれる」が、日本式の旅館は「萩(はぎ)の間」「あやめの間」と「間」と表現する。
- うなぎ屋では「最上級品は松。次が竹。そして梅」とつづく。
- 野球の選手は「背番号」であらわすが、相撲(すもう)では番号では呼ばない。「一番、○○部屋、○○出身」と呼ぶことは起こらない。
- 日本人は、主観の中に空想をもちこんで「主観」を表現する…「サルノコシカケ」(キノコの一種。猿が腰をかけてもの思いをしているとイメージして命名した)。「キツネノタイマツ」(有毒そうなキノコ。狐は、このキノコを灯りのたいまつに持ち歩いて人を驚かす、と想像して名付けた)。
- 日本人は、ものごとを努力して成し遂げることを評価しない。努力はよくないことだと思っている。
自然の成り行きのままに、自然な自発性として成立することを好む……「両手に花」「花を持たせる」「返り咲き」「一花を咲かせる」「花嫁」「花婿(むこ)」「花相撲」「花文字」、「水を向ける」「水に流す」「水くさい」「水商売」「勝負は水もの」。
⑪日本人の学的な概念の「主観表現」の例
- 「長方形の面積は、タテ×ヨコ」「三角形の面積は、底辺×高さ÷2」のケース。
(「タテ」「ヨコ」「高さ」は、立体面にたいしての概念だ。日本人は、自分の左右の眼を結んだ線に対して平行な方向を「横」と言い、それに直角にまじわる方向を「縦(たて)」と呼んでいる)。
■日本人の使う日本語(やまとことば)は、「ものごと」を内(うち)と「外」とに分けて区別することから成り立っている、と解析して説明しているのは大野晋(国語学者)です。ここから「内(うち)なる人間と見なした人としか会話をしない」「外(そと)なる人間と見なした人間とは会話をせず、遠ざける」という文法の基準がある、と説明しています。
(『日本語の文法を考える』岩波新書)。
すると日本語の『文法』の特徴はこうなります。
- 内なる人間との会話の仕方……「互いに分かっているだろう、分かるはずだ」と思われる言葉、語句は省略する。「分かっていないこと」と判断するのは「行動すること」「行動したこと」「行動するかもしれない」という「行動のこと」だけになる。
◎解説
このことは、一般的に、日本人にとっての現実とは「客観的な対象ではない」ということを意味します。
このことを確かめて、主観のもつ不都合と対策をご一緒に考えます。 |
エクササイズ・「客観表現の日本語学習モデル |
『ハーバード流交渉術』(ユーリー&フィッシャー、三笠書房)に、次のような交渉のモデルケースが紹介されています。
■エクササイズ・「ハーバード流交渉術」の話し方のモデル
質問の仕方・1
「私が間違っていたら教えてください」
▼分析
- ここでは、話し合うための事実が持ち出されている。
しかし、その事実をストレートに言い出せば、聞き手は、その事実を否定するかもしれない。また、交渉者の持ち出した事実も理解や認識が違っているかもしれない。そこでこのような問いかけ方になる。
- 「間違っていたら教えてほしいのですが」というのは、ハーバード流交渉術という「原則立脚型の交渉者」にとっては決まり文句である。
「不正確かもしれない」という事実を扱うときは、この質問によって、客観的事実と原則による説得をいつでも受け容れる用意をしておくことが重要だ。
- この質問は、理性的な会話の仕方のモデルでもある。相手を話し合いに参加させるという同意が成立する。双方で、事実を確かめようとする協力者のような関係が成り立つ。
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エクササイズ・日本語の「主観」はこのように改善しましょう |
▲日本語の「主観表現」の改善の仕方
①国語学者・大野晋は、「日本語には、抽象名詞が少ない」とのべています。これは、個々の事実を別々に取り扱わずに一般的な法則を普遍化して取り出すことです。「AはBである」という文型に立てて、「Bである」という普遍的な判断を表現します。「名詞文」とも「形式形容文」ともいいます。
日本語は、個々の事実を「○○となる」「○○した」「○○となるだろう」のような「動詞文」、および「助動詞」で結ぶ文型が多いのです。
事実を抽象的な名詞や形容詞(ク活用の形容詞)でとらえないということで「自分の立っている位置から見たこと」が「事実である」と確信されます。このような見方は、当然、相手もおこなっています。
②日本人の「主観」とは、現実の事実を「性質」や「本質」に注目して認識するのではありません。「情意表現」(情緒ではなく)といわれているように、自分がどう感じたのか、自分の印象はどうであるのか、自分の個人的な安心・不安にどのように影響をもたらしたのか、をモチーフにした表現になるということです。これは、どういう不都合を生むのでしょうか。
「客観性をとらえない」ということは、それ自体が「事実誤認」であることを意味します。
実物としての実体は万人が共通して認めるものであったとしても「価値判断」や「価値評価」の内容にギャップが発生するでしょう。
日本語は、「互いに分かっている」と思う語や語句は「省略する」という話し方を基本とします。これは、話し合いたい事実のことが、いずれか一方に「分かっていることだ」「分かっているはずだ」と思われていると「間違っていますでしょうか?」という問いは、「そうだ、そのとおりだ、全て間違っている。では、それを教えてやらねばなるまい」という主観の引き出しにもつながります。
③「私が間違っていたら教えてください」のモチーフを日本語による話し合いの仕方に置き換えると、どうなるでしょうか?
- 「この事実について私がどのように見たか、見ているか?について少しお話してもいいですか?」…初めから「理由」と「結論」を話し合いの条件として述べる。
- 「この事実について、私がどのように感じているか、どういう思いになるに至ったのか?を少しお話しさせていただいてもいいですか?」…日本語は「相手の知らないことを情報として伝える」ことを文法の特質にしている。事実をまるごとストレートに伝えると、相手の「主観」を不問にしていると思われて態度を硬化させる可能性がある。そこで、相手が最も知らない情報の「私の思いとはこういうものです」と伝える。「因果」「前提」という客観的な説明をのべる。
- 「あなたは、私の利益についても公平に考えていただける方と信じています。そのあなたの公平さに私は、感謝しています。そこで、この事実について、私の感じ方が間違っているかどうかを教えてほしいと思っています」…日本語は「主観」と「主観」の会話になりやすい。そこで、「認知的不協和の法則」(認知は心理学の用語)を用いて、自分のとらえた「事実」を可能なかぎり好意的な観点から観察してもらう、という話し方をする。
■このようにハーバード流交渉術を「客観表現」のモデルに立てて、「日本語の主観表現」を客観性の位置に押し上げることができます。
日本型の分裂病は、主観を無自覚に「主観の文法」のとおりに使うことで会話を破綻させるというように発生します。このような会話を可能にすることで、「書き言葉」も「客観的な表現」にする土台ができ上がります。日本語の「主観」は、現実を「客観的にとらえること」から孤立して「うつ」に陥らせます。行動を止めたり、望ましい関係を喪失して「うつ」に陥らせるのも「主観」による思考や表現です。主観が原因となる離人症と自閉を予防し、また、防止するためにここで示している会話モデルをお役立てください。 |