■大野晋がここでのべていることは、言語は、どこの国の言語でも、その言語を使って生活し、人間関係をつくり、一生を終えるという人間の行為や営みを内包するものとしてある、ということです。言語は、ポルソナーレが解明して明らかにしたように、「乳・幼児の心身の生長と発達」に見るとおり、脳の働き方がつくる「行動の仕方」として習得されます。
「言語」の大元は、前頭葉に思い浮べられる形象性のイメージです。リンゴならリンゴという具体的な実物と一義性をもってむすびつく、という性質の形象像が「言語」の大元です。
この形象像が小さい形としてイメージされる時は「近づいていく」という行動が表現されます。
大きい形としてイメージされる時は、行動は終了する、と表現されます。このように、「どのように行動するか」という行動を誰にも共通する行動の仕方として記号化した順序を秩序として表現したものが言語の「文法」です。
「日本語とはどういう言語なのか?」と問いかけて、そこに思い浮べられる時の「日本語」を対象言語といいます。
言語は、手に取って触るとか目で見て確かめるというようには存在していません。
そういう存在の仕方をするものを「物理的な実在」といいます。
言語は、「話し言葉」と「書き言葉」との二通りとしてあります。「書き言葉」は基本的に紙に書かれるので、手で触っても確かめられるように思われます。
しかし、紙に書かれた文字なり文章は、「絵画で描かれたもの」が実物のものではないと同じように、言語の実体ではありません。
言語の実体は、人間の脳の中に表象される形象性をもつイメージにあります。この形象性をもつイメージの思い浮べ(喚起)がどういう順序性をもったときに、その言語を使う人間の行動が可能になるのか?ととらえることを「対象言語」といいます。
「言語」の本質は、広義の意味の「行動」をあらわすことにあります。これが言語についての本質を示す定義です。
すると、「日本語とはどういう性質の言語か?」と問いかける時の「言語」は、広義の意味では「関わる」という「行動」を伴うので、「言語である」ことには違いはありませんが、「対象言語」のように「生活」「人間関係」「人間的な営み」の次元の行動をあらわすものではありません。狭義の行動からは遠く隔たっています。この狭義の行動にはまだ至らない、あるいは狭義の行動からは遠くに離れているということを指して「メタ言語」といいます。
乳・幼児の脳に表象される記憶のイメージも「メタ言語」です。
このような手順を明らかにしてその上で「日本語とは?」を問いかけてみると、「人間の行動パターン」とはどういうものか?が浮上します。その「人間の行動パターンの秩序」や「3人以上の人間」で合意されている「行動の規範」とは何か?を明らかにするのが「文法」です。
大野晋は、厳密にいうと、こういう主旨のことを述べているのです。 |