『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明・勁草書房)が昭和40年に刊行されました。この書物で書かれている核心となるところは、次の個所です。要旨をご紹介します。
① 原初の人間は、食糧を手に入れたり、手に入れることを協同でおこなう中で、身体の器官や生理的な機能を発達させた。
② だが、人間は、もうひとつ人間的な意識も発達させた。それは「自己表出性」の発達というものだ。
この「自己表出性」の発達は、「自己」を「対象化」するという能力の発達である。
③ それは、どのように発達したのか?というと、「自己表出性」という人間的な意識は、現実的な対象にたいして反射が無いのに、「自発的な有節音声」を発するようになる、というものだ。この有節音声の発声は「対象の像」を指示するという言語の「概念としての形式」を完成させるものだ。なぜかというと、この「概念としての像」は、現実的な対象との一義的な関係をもたなくなったからだ。
■ここでいわれていることは、人間には「観念」というものが生成されたということです。人は、「あなたの顔はどれですか?」と問われると、自分の顔を指でさし示すことができるでしょう。
これと同じように「あなたの観念は、どれですか?」と問われたときに指でさし示すように「これです」と説明できるものとして具体的に特定化してみせた、というのが、ここでいわれていることです。このように、「言葉」「言語」の領域で、人間の「観念」の生成とその存在性を明確に定義してみせたのは、知見の範囲では『言語にとって美とはなにか』が初めてのものです。
「自己表出性」とは、人間の五官覚の「聴覚」「視覚」「触覚」の知覚による経験と、そして、その記憶が「右脳系の前頭葉」に「イメージ」として表象されることをいいます。人間は、「記憶」ということをおこないます。「記憶」とは何でしょうか。たとえば、シャツやズボン、ハンカチに「アイロン」をかけたときに、布に、形状が残るというのが「記憶」です。
普通の家庭で使う「アイロン」は、一日もたつと「形状」が薄くなります。これが「短期記憶」です。
すでに布地に特殊加工が施してあって、「アイロン」で押したような「形状」がいつまでも消えない、というのが「長期記憶」です。「自己表出性」とは、この「長期記憶としてのイメージ」が恒常的に思い浮びつづけるということをいうのです。これは自律神経の働きが可能にします。A10神経が恒常的に表象させつづけます。このように「恒常的に思い浮ぶイメージ」が「自己」になるのです。
「自己」の「自」は、「他者」と「自分」とを区別するというときの「自分」のことです。「己」とは、「おのれー!!そこを動くな!!」「おのれらは、自らのやっている所業の意味が分かっているのか!!」と使われるように、「生の感情」や「生の欲求」をダイレクトに、行動に現(あらわ)したというときの「内的な自分」のことです。「自己を対象的にする」ということは、「内的な自分」とイコールであるのが「長期記憶のイメージである」ということになります。この「イメージ」は、なぜ、「内的な自分」なのでしょうか。たとえば、「あなたの心臓はどこにありますか?」と問われたとしましょう。心臓を出して見せて、「ほら、これです」というようには説明できません。自分の胸に手を当てて、「ここでトクトクと脈打っているものが心臓です」と説明するでしょう。
「トクトクと脈打って実感できるもの」というように、感覚的な知覚を指して、これが「自分」の「心臓だ」と説明します。「長期的に表象されているイメージ」も感覚的な知覚を指して特定されます。具体的にいうと、「失恋したから悲しいのよ」とグチを言うときには、失恋して悲哀に沈んでいる自己像のイメージのことを語るでしょう。このときは、胸が痛いとか、涙が出そうだとか、孤立の脱力感で体に力が入らない、水を飲みたいときに似た「のどのかわき」を和らげたいという欲求が実感されるでしょう。この身体に知覚される実感が「自己」です。このような自分のイメージが消えないかぎり「じっと心の目で見つづける」ので「自己を対象化する」というのです。
このイメージは、右脳系の前頭葉に表象されます。この段階では「メタ言語」のイメージです。「有節音声」が発せられて、そのイメージが「カテゴリー」として特定化されると「概念としての像」として確定します。これは、お分りのとおり、「有節音声」の「a,i,u,o」の4つの母音(ぼいん)のどれかで確定されたというのが「原日本語」の成立の仕方です。
欧米語の場合は、「p,b,t,d」のような「子音」で、「Y経路」のパターン認知の対象を認識します。これによって、いくつもの「概念の像」が無数に確定されました。日本語(和語)は「a,i,u,o」の4つのX経路の母音が中心になって「概念の像」が確定されました。この日本語と欧米語の「概念の像」の量の差と違いは、「認識する」という知的能力の差と違いを意味しています。
この「認識する」という知的能力の学習や教育、そして日々の訓練をおこなってこなかった、ということを野口悠紀雄は語っていることになるのです。 |