前回の本ゼミでは、「日本人の脳の働き方」の特性のひとつとして、「認識のバイアス」というものがあります、ということをお話しました。
今回も、この「認識のバイアス」ということからご一緒に考えてみましょう。
国語学者・大野晋は、『日本語の年輪』(新潮文庫)で、今の日本人が使っている日本語は、もともとはどういう意味だったのか?について書いています。
具体的には、次のような日本語です。
◎「やける」(妬く・焼く)
① ものごとの始末がうまくつかない時に「手をやいた」という。
この意味のことを英語では「指をやいた」と表現する。「胸がやける」を英語では「心臓がやける」と表現する。
「やく」「やける」という言葉は、「いらいらする」「妬ましく思う」「焦る」など感情が高まる、昂じるときに使う言葉である。英語でもフランス語でも「やく」という言葉は「思いを焦がす」という意味に使われる。
それは「物を焼く火の広がっていく様子」が、人間の嫉妬、焦り、妬み、疑いなどの時に共通する「じりじりと迫ってくる感情」をメタファーとして思い浮べさせるからだと思う。
② 出版社の人の話。
「人間、万事、色と欲といいますが、この世は全て嫉妬心というべきです。学者先生の態度を長年見ているとそう思います。あいつが助教授になった、あんな奴が学位を取ったと折ごとにこぼしています。
誰かが本を書くと急いで印税を計算する、新聞雑誌の編集者には賎(いや)しい愛想を言い、同じ研究に従う人の悪口は必ず言いますね。」
なにも学者だけではない。昔から競争心ばかり強い人間、ものごとを正しく認識する力の無い人間、諦めてリスクをとることができない人間の集まるこの世で、人は、さまざまの不愉快とともに暮らしてきた。
③ 「やける」という言葉を心理の表現に使ったのは非常に古い。『万葉集』にその例がある。
わが情(こころ)焼くもわれなり
はしきやし君に恋ふるも
わが情(こころ)から
「自分の胸を焼くのも自分である。あなたへの恋に苦しんでいるのも私の心によることなのだ」という意味だ。
自分の思いに相手が応じてくれない時に、自らを嘲(あざけ)った歌だ。
冬ごもり春の大野を焼く人は
焼き足らねかもわが心やく
恋人が野を焼く仕事をしている。恋しいあなたに逢えずに胸を焦がしている。あなたは野原だけでは焼き足りないのか。私の心まで焼きます、と甘えて訴えている。
④ 「やく」という言葉は、平安朝の「宮廷」の男女の歌のやりとりにはほとんど使われていない。平安朝の「宮廷」で使われたのは「こがれる」(焦がれる)である。「こがる」とは「こげる」(焦げる)と同じ源から起こった言葉だ。表に立たず、人にも知らせず、胸にいぶっている恋心を表現した。
⑤ 「胸の思いがやける」という感情じたいは平安時代もあった。そういう感覚には別に変わりはなかった。
それを「やく」と言えば、炎を立てて燃え盛る意味を前面に出すことになる。
「平安宮廷」の男女はこういう表現を避けた。
優雅を重んじた歌のやりとりは、破滅の予感を避けた。破滅を遠ざけて「こがれる」というひそやかな言葉が使われた。
⑥ だが、「やく」という言葉は、平安時代の後の時代には復活する。女性の破滅が現実のものとなったからだ。
恋人を遠くからあれこれと思うという距離のある意味の「やく」から、実際に気を遣い、心を配る方向に進んでいく。「世話をやく」、「世話をやかせる」という動詞に変わった。
動詞に変わった「やく」は、他人の間のことを羨(うらや)み、妬み、嫉妬することにも使うようになる。ここから「やけになる」(自棄・やけとも読む。思うようにものごとが運ばなくて前後の見境もなく発作的に乱暴になること)というように破滅そのものをあらわすようになった。 |